ペドロとダッブとペドロの父親の話。
11,500文字程度です。
性描写一切無しですので、逆にご注意。
father being
その夜訪れた食堂は人でごった返していて、夕食どきに少し遅れた二人はカウンター席に通された。注文を終えたときに聞き慣れたメールの音が耳に届き、ペドロはポケットにつっこんであった携帯を取り出した。
まず差出人を見て、眉をひそめ――それから中身を読んで、眉間のしわを深くする。二度ほど内容を確認した後、画面を閉じた携帯をやり場がなさそうに、カウンターの上に置いた。
隣に座っているダッブはペドロの少し不隠な様子を見るともなく見ていたが、何かあったのかと、あえて聞くようなことはしなかった。
代わりにペドロの方から口を開く。
「親父からのメール」
そう、とダッブは相づちを打った。
ペドロの実家は、二人の住む町から高速鉄道で3時間ほどかかる場所にある。近いと言えば近いし、遠いと言えば遠い。現に一人暮らしを始めてから、年末くらいにしかペドロは帰っていなかった。父親はその町の大学で、講師をしている。
「昨日もメールあって、今度こっちの方にくるんだってさ。仕事で。一緒にメシでも食おうって言ってきたんだけど、オレ、アンタと会う日だったから断ったんだよね。そしたら今、アンタも一緒にどうかって返ってきた」
渋々といった顔のまま、ペドロは今置いたばかりの携帯を再び開いてメールを流し見する。一週間ほど先の日付を聞いて、ダッブはうなずいた。
「僕は構わないよ」
「でも」
その言葉尻に食いついて、ペドロが声を上げる。にぎわう店内を手で示した。
「親父が行くような店って、こーいう気楽な感じじゃなくて、フレンチとかなんかお高い所だよ? スーツ着て堅苦しくて、クラシックなんかがかかって、ベル鳴らしたらボーイとかが来るようなさあ。……親父が、おごってくれるとは言ってるけど……」
と非難がましく言いつのる。
二人がよく訪れるこの店は、そう広くはないし雰囲気も今風ではないが、ペドロのアパートメントの近くにあるし、内装も小綺麗にまとまっていて、何よりメニューが安くて充実していた。若い二人が気軽に訪れる分にはちょうどいい。しかも今夜はちょうど、さっきまでジャズの生演奏が行われていた。
しかし、ダッブにとってはクラシックもジャズも変わらないのかもしれない。どちらにも大した関心がない、という点で。じっとペドロを見て聞き入ってはいたが、その意見に賛同することはなかった。逆に、会食自体には興味を持ったのか、少し目線を上げる。
「あまり、そういういい目に遭ったことはないな」
控えめな好奇心がその目に宿るのを見て、ペドロは、えー、と嫌そうな声を出した。
身寄りがない上に不具の身である彼は、生まれたときからずっと、今に至るまで施設暮らしだ。決して貧乏というわけではないが、望んで贅沢をできるような環境でもなかった。誰かから誘われでもしない限り、高級レストランに足を踏み入れる――もとい、車椅子を乗り入れる――機会はないだろう。
「でもさー、親父と一緒だよ?」
それを知りつつ、なおもペドロが口をとがらせると、真意を見透かすようにダッブは目を細めた。
「僕は、断った方がいいのかい」
声から柔らかさが消える。言葉遊びは好きなくせに遠回しなやりとりは面倒らしく、彼はだいたいいつも、単刀直入に核心を突いてくる。かといって、冷たいわけでもなく、全く無味乾燥な視線を受けながら、ペドロは首をひねった。
「んー……」
内心をいえば、ダッブがここでノーと言ってくれることを期待していたのだ。そうし向けるほどの話術がないことを自覚して、ペドロは口を閉じた。手持ちぶさたに、意味もなく携帯の画面をなでる。
「お父さんが苦手?」
すねるような横顔に、ダッブは珍しく重ねて聞いた。
「そーゆーわけじゃないけど……」
とっさに口先で、ペドロは否定してみせる。
「オレ、結構親父が年取ってから生まれたし、その頃にはもうアニキとかデカくて遊んでもらってたから、あんまりオヤジと何かした覚えとかないんだよね。仕事忙しくて家に帰ってくるのも遅かったし。家族だけど、他人みたいな」
一番の思い出といえば、中学生の頃、友達とふざけ合ってうっかり学校の窓ガラスを割ってしまったとき――数時間にわたって説教を受けたことだ。
「性格も、なんつーか、マジメっていうか、頭堅いっていうか。大人になってからたまに話しても、合わないんだよなー。……あっち頭良くて、オレ頭悪いし」
つまり父親が苦手なのだと、認めるのはプライドが邪魔した。無闇に親が嫌いだとだだをこねるような、思春期の子供でもない。それに育ててもらった覚えこそないが、少なくとも、社会人になるまで養ってもらったという事実を前に、恩や義理を無視して無碍に扱っていい相手だとは思わない。何かのっぴきならない理由があれば別だが。
しかしダッブも、あえて断り文句のダシに我が身を差し出すほど優しくはなかった。
「僕はどちらでも構わない。君が決めなさい」
静かに、突き放す。語尾は少しだけ年上風で、話の内容には全く関係ないと分かっていても、ダッブのそういうところにペドロは弱かった。
一回り、というほどではないが、そこそこ年が離れているペドロのことを、ダッブはいつもちゃんと対等の相手として扱ってくれる。それを素直に嬉しいと思う。しかしときどき、彼も先輩風を吹かすのだ。こちらを年下だと認識しての、ちょっと偉そうな、きっと同い年の友人には使わないだろうな、と思うような言い方が、絶妙にペドロの心の敏感な部分を刺激する。不快なわけではない。暗に未熟さを指摘されて恥ずかしいような、それでいて年下扱いがどこか心地いい、奇妙なむずがゆさを感じて、ペドロは顔を赤くした。
「はーい……」
カウンターに肘をついて、そっぽを向く。ふてくされたように見えるだろうか。見えることを期待して、それこそが子供っぽさの証明だとも気づかず、料理が運ばれてくるまでペドロはダッブに顔を見せないでいた。
***
結局、ペドロは父親の申し出を受けた。
考えてみれば、父親と面と向かって食事をすること自体が初めてだった。昔から子だくさんが自慢の家庭で、父親に限らず家で誰かと二人きりになるようなことは少なかったし、子供世代が次々自立する中、ペドロが専門学校に入って一人暮らしを初めた頃に、入れ替わるように、残っていた姉が結婚相手を実家に住まわせて孫を産んだから、今でも変わらず実家は大家族だ。これだけ相手がいると、自然と年の近い兄弟とばかり話して、わざわざ気むずかしい父親と一対一で話す機会は本当になかった。気安い母親ならともかく。
別に大きな仲違いがあったわけではないのだから、改めて酒でも酌み交わしてみれば、どうということはないかもしれない。どこか気まずい親子関係を見直す、いいチャンスなんじゃないかと、前向きに考えることにしたのだ。
ダッブと一緒なのも、少し心強い。何となく父親とダッブは気が合いそうだなと思った。どちらも本が好きで、そのくせいつも難しい顔をして本を読んでいる。
そう伝えると、どちらでも構わないと言ったからには、本当にそうだったのだろう。茶化すようなことも諭すようなこともせず、ただダッブは自室のカレンダーに丸印をつけさせた。
その日までに、いくつかの仕事があった。
まず、店はこちらが決めることになった。父親は初めて訪れる町で、土地勘がないから当然だろう。しかしこれが大変だった。父親がどんな料理を好きかも知らないし、二人とも高級な店には縁がない。頼まれた以上、安っぽい店を紹介できないという見栄もある。せっかくだからと、本当にフレンチを予約した。職場の上司に評判の、少し郊外にある店だ。幸いメトロの駅からは近いから車椅子でもそう難はない。
ドレスコードのたぐいはないそうで、結局、二人で話してセミフォーマルでということになった。二人ともクローゼットにしまいっぱなしの服をあれこれ広げてみたりした。
何度かメールでやりとりして、待ち合わせはレストランになった。不慣れな父親とどこかで落ち合うことも提案したが、仕事の都合で彼は直接店に来ると言う。
そして当日、ペドロはダッブを施設まで迎えに行った。
ダッブは、黒のそろいのスーツを着ていた。友人の結婚式の時に仕立ててもらった、彼が唯一持っている一張羅だという。ただ中はYシャツの代わりに、ハイネックのゆったりしたシャツを着ている。夏でも冬でも、彼は首元が露出するのを嫌って、こういう服をよく選んだ。選ぶ余地のないカツラとゴーグルは、いつもと同じだ。
遊びの少ないオーソドックスな型のダッブのスーツに比べて、ペドロのスーツは細身で、若者らしいシルエットだった。中は不規則な縦縞模様のシャツだが、ネクタイは着けていない。施設の受付で外出を告げたとき、馴染みの職員からは笑って、ホストっぽいと言われた。自分でもそう思う、とペドロは苦笑いで返した。
初めて入ったレストランの中は、やはりいつも行くような店とは違って、静かで洗練された雰囲気だった。少し居心地が悪い。しかし周りをよく見ると若い客が多く、格好もそう見当を外していないようだった。それに、クラシックもかかっていない。
二人が席についてすぐ、後を追うように父親がやってきた。背筋を伸ばして、つかつかとテーブルまで歩いてくる。仕事の後で、フォーマルなスーツに加えて口ひげまで生やしているから、妙に紳士然として見えた。ペドロの中に昔からある父親像と、何も変わっていない。急に緊張して、ペドロは表情を硬くした。本人にそのつもりはないが、笑えば愛嬌のある顔も、黙ると、元々の目つきが悪いせいで不機嫌に見える。
「すまない、待たせたようだな」
テーブルの横に立つと、腕時計を見ながら父親は二人に声をかけた。
「別に」
ぶっきらぼうにそう答えた後、奇妙な間に気づいて、あわててペドロは立ち上がる。二人を交互に指した。
「ダッブ、これがオレの父親。オヤジ、こっちがオレの彼氏――」
その言葉に、父親は片眉をあげる。
実の息子の一人が同性愛者だという事実を、父親はとっくに知っていたはずだ。家族の誰かがぽろりと漏らしたらしい。まだ家にいた頃に一度だけ、本当かと問われた。そうだと答えて、それ以降は何もない。父親の中にどんな葛藤があったのか、そもそもそんなものがあったのかどうかも知らない。ただ恋人を紹介するのは初めてだった――学生時代の恋人を、父親のいない間に家に連れ込んだことはあったが。実際に目にすると、改めて思うことでもあるのだろうか。
それとも、『彼氏』という言葉に引っかかったのか。ダッブもしばらく、同姓をそう呼ぶことに慣れないと言っていた。ペドロにとっては当たり前で、それ以外にどう言えばいいのか分からない。恋人と口にするのは古くさくて恥ずかいし、パートナーや相方なんて言い方は早すぎるだろう。
とっさに色々と気を揉んだが、果たして、父親の反応は斜め上だった。
「どういうことだ、ペドロ」
ペドロの襟首をつかみ、怒りをあらわにした顔を近づける。
「は?」
反射的に顔をしかめたペドロに、彼は押し殺した声で言った。
「同性愛は許す。だが、小児趣味は犯罪だぞ」
「その発想に引くわ!」
力一杯、ペドロは父親の手を払いのけた。
「オヤジがオレをどういう目で見てるかよく分かった!!」
いきなり信用のなさを痛感して、悔しいやら呆れるやら、ペドロは我を忘れて怒鳴る。
「子供なワケないだろ、ダッブはオレより年上だよ!」
「ペドロ、静かにした方がいい」
当のダッブは、冷静に――というよりもマイペースに、それを制した。
「だってダッブ!」
「他の人に迷惑だよ。かけなさい」
その通りだった。周囲からの視線に、ペドロはひとまず怒りを抑えて、乱暴に椅子に座り直した。父親もそれに続く。
真四角のテーブルに、ちょうどペドロを挟む形で、ダッブと父親が向かい合った。特に気負った様子もなく、ダッブの方から話しかける。
「はじめまして。ダッブ・ブランです。成人したのは随分昔のことですから、ご心配には及びません」
彼の年を聞いて、む、と父親は小さくうなった。そらみろ、とペドロがにらみつける。素直に父親は非礼をわびた。
「申し訳ない。あまりにも――若く、見えるので」
お構いなく、とダッブはそれを受けた。
父親のような、初老にさしかかりつつある年齢の人間から、わざわざ“若い”と言われるほどダッブも年をとっているわけではない。年齢よりずっと“幼く”思われるのは、慣れたものだった。単純に童顔というのもあるし、肩幅が両腕分狭いせいで、小柄に見える。
もう一度わびると、父親も名乗った。
「ペドロがお世話になっているそうで。私の名はマルシオ・カルデナス。マルシオと呼んでくれて構わない」
ひととおりの自己紹介が終わって、とりあえず料理を決めた。ペドロと父親は同じコースを、ダッブはいつもするように、ベジタリアン向けのコースを、もっと量を減らしてほしいと頼んだ。
最初からダッブはアルコールを飲めないと断ったが、ペドロは、ワインを飲むという父親に、少しだけつきあうことにした。父親の前だし、ダッブのことがあるから酔っぱらうわけにはいかないが、父親と酒を飲む、というのが目的の一つだ。
飲み慣れないワインは、ぎごちなくのどを滑り落ちた。
前菜が運ばれて来る頃になると、ペドロの怒りも収まって、二人の少しうち解けた様子を眺める余裕ができた。
どちらもよそ行きの顔をしていて、面白い。親しい人間より他人に接するときの方が、愛想が良いんじゃないか。ダッブは相変わらずの無表情ではあるが、どことなく目元も口元もゆるんでいる。父親も同じようで、ときどき微笑んでみせた。
それに、お互いに話すときは他人行儀だが、ペドロに話しかけるときは口調が変わる。堅苦しい敬語などやめてしまえばいいのに、とペドロは思ったが、二人ともそれを苦痛とは思わないのか、最後までその提案はなかった。
話し出すのは父親かペドロが多かったが、答えるダッブもいつもに比べてよく喋った。
「ペドロ、仕事の方はどうだ」
「ん、順調。もうオレも慣れたし、とりあえず今ん所は仕事量も人手も、落ち着いてる。シフトもそんなにずれないし――最近、いつも同じ曜日に会えてるよね」
「そうだね」
うなずくダッブに、父親が聞く。
「ダッブ君は、お仕事は何を?」
「翻訳の仕事をしています。……小遣い稼ぎ程度で、それで生計を立てているわけではありませんが」
重度の障害を持つ上に身寄りのないダッブは、施設の家賃やそれに伴う生活費と、そして医療費に関しては、行政から全額の補助を受けている。仕事も真面目にしてはいるが収入は不安定で、貯めておいて遊興費に使える程度だ。何より、あっという間に本や資料代に消えていく。書籍の電子化という革命的なサービスがなければ、ダッブの部屋はとっくに本に埋もれていただろう。
ダッブのマルチリンガルぶりには父親も感心し、身を乗り出して、きっかけや勉強法を尋ねた。出身大学の名を聞いて、心当たりがあったらしく大きく相づちを打つ。
「私も直接見知っているわけではないが――あのロズベルガー博士が教授をされていた所だね」
「そうです。ちょうど在籍中で、彼の記念講演を聴きに行きました」
聞き覚えのない名前に、ペドロは首をかしげた。
「ロズベルガー博士って?」
「僕の大学の教授で、ノーベル物理学賞を受賞された方だよ」
やはり知らない偉人だったが、それよりもペドロは目を見張る。
「ブツリって……ダッブ分かるの?」
ダッブの専門は文系のはずだが――まさかそこまで知識の幅があるのかと驚いたのだが、ダッブはあっさりと首を振った。
「いや。でも講演は僕のような一般の学生向けだったから、物理学についてというより、学問に対する心構えのような内容で、とても興味深かったよ」
へー、とペドロは納得する。
「知らなかった」
「その頃お前はまだ中学生になっていないだろう。知らなくて当然だ」
「そっか」
今の出来事だとしても、知っている保証はないが――父親の出した助け船に、ペドロは乗った。
だいたいの会話はこんな風に進んで、とにかく、二人が同じ話題で盛り上がるときには、ペドロは置いていかれがちだ。有り体に、話題のレベルが合わない。昨日見たテレビの話にしたって、この二人の場合バラエティではなくニュース番組だ。
そういうときに言葉の意味を尋ねても、ダッブは嫌な顔一つせず、わかりやすく説明してくれた。もちろんこれは彼の本質的な気の良さから来ているのだろうが、どこか、言い換えること自体を楽しんでいるように見える。ともあれ、変に難しい単語を使うことはないし、知識をひけらかすような嫌みさもないから、ペドロとしても聞きやすかった。
上から下まで臨機応変に合わせることができるのが、ダッブのすごいところだな、と改めて思う。情けない話だが。
父親の方は、自分と息子とでは頭の出来が違う、という事実を理解できない部分があるらしく、難解な議論を展開した後にペドロが何も返せないでいると、そのまま押し黙ってしまう。そんなときペドロは闇雲な反感を覚えて、つい父親をにらみつけた。それとなくダッブが取り持ってくれることもあった。
とは言っても、さすがに彼らの会話を全部“翻訳”してもらうのは気が引ける。
メジャーリーグの新人選手の話をしていたときはよかったが、税制改革だの為替レートだのの話になったとき、ペドロはトイレに行くと告げて席を立った。
ダッブの食事の介助役がいなくなるが――少しの間くらい、二人で喋っているだろう。
小ぎれいな洗面台で手を洗った後、顔を上げると、鏡の向こうの自分と目が合った。着慣れないスーツに身を包んで、それでも、それなりに、見えるものだ。
こんなもんか、と一人で納得した。
有様にしても、親子関係にしても。
久しぶりの父親との会話はいたってスムーズで拍子抜けするくらいだ。
少なくとも変に気負っていたのは自分だけのようで、ダッブも父親も自分のペースでくつろいで見えた。そう、ダッブと一緒に来るのは、いいアイデアだったな、と自分で考えたわけでもないのに自画自賛する。父親と二人きりだとさすがに間が持たなかったかもしれないが、ダッブを挟むと上手く行った。ダッブも、父親と話すのはどこか楽しそうだ。
予想通り――――予想以上に、二人は話が合うようだ。
むしろ、上手く行き過ぎじゃないかと、急に不安になった。
何故あの二人は、今日この場で出会ったばかりで、ああまで仲が良さそうなのだろう。
ダッブは話好きな方ではない。人よりも本を相手にするのが好きなんじゃないかと思うくらい、他人にもあまり関心がない。あんなに自分から話すなんて、いくら初対面とはいえ、気をつかって、というレベルではない。
父親も、アルコールが入ってることをさし引いても、あれほど饒舌なタイプだろうか。いや、自分が知っているのは家での父親だけだから、外では意外と社交的なのかもしれない。
たまたま、性格が似ているだけだ。物静かで本が好き。興味の方向も似ている。それだけだ。
しかしまさか、と疑念は大きく膨らむ。
ダッブはノーマルだ。だからその心配はない。でも、自分とつきあう内に、影響された可能性は? そもそも、女が好きとも言いがたい。じゃあ性指向はニュートラルということになる。言い換えるなら、どっちでもいい、ということだ。
常々、ダッブは別に自分のことが好きなわけじゃないんだと、ペドロは痛感している。男とか女とか以前に、もっと大人で、知的で、落ち着いたタイプが好きなんだと。ダッブが口にしたことはないが。それが今日、いざ目の前に現れたわけで。
お互い、ひとめぼれとか――
あの二人にはおおよそに合わない言葉だが、あり得ないことなんてこの世界にあるだろうか。
嫌な予感を胸に、レストルームを後にする。
そして目の当たりにしたのは、ダッブを抱きかかえる父親の姿だった。
叫ぶ。
「何やってんだよ!」
しん――と、レストランの中が静まりかえる。
気まずさも、やましさもなく、返ってきた二人の視線は冷ややかだった。ものすごく、冷ややかだった。
血の昇ったペドロの頭を、瞬時に冷やしてしまうくらいに。
「僕がバランスを崩して椅子から落ちかけたのを、君のお父さんが助けてくれただけだよ」
簡潔で道理の通った説明を口にしたのは、父親に抱かれたダッブの方だった。
父親は同調を表明する必要すら感じない様子で、黙ったまま、ダッブの言葉の通りに彼の体を車椅子の上に乗せる。
続きがないと知ると、周囲の視線はちりぢりに去っていった。さっきから騒がしい客だ、と思われているだろう。
握った拳の下ろす先を失って立ちつくすペドロに、父親が重々しく告げた。
「座れ、ペドロ」
何となく、二人ともペドロが何を勘違いしたのか察したようだった。ペドロが冷や汗をかきながら席に戻ると、まず父親がダッブに声をかけた。
「昔から、この子――息子は、思いこみが激しいところがあって。どうやら、今もご迷惑をかけているらしい」
「そうですね」
そんなことはありません、とダッブは言わなかった。かーっとペドロの顔が熱くなる。それ以上とやかく言う気もなさそうだが、父親の方は再び刺すような視線をペドロに向けた。
「ごめん。ごめんなさい。悪かったってば」
とにかく、ペドロは謝った。
「まったく」
しかし、父親の声は増すばかりだった。一種の“溜め”のように、“そもそも”を切り出す。
「おまえは、母さんと私の仲をなんだと思ってるんだ」
このまま説教に持ち込まれてはたまらない。苦し紛れに、ペドロは別の話題を振った。
「そういや、母さん、元気? 母さんも一緒に来ればよかったのに」
いきなり変わった話題に――意表を突かれたようで、父親は目を丸くする。しかし、どうも他のことよりよほど彼にとって気まずい話題だったらしく、眉根を寄せたまま視線をそらした。口ひげを人差し指でなでながら、
「そうだな、そうすればよかったが……ミラやジョンの世話があるからな」
と、彼にとっては孫、ペドロにとっては甥姪の名前を挙げる。遊び盛りの子供たちは家中を走り回っていると聞くから、さぞ両親は落ち着かない日々を送っているのだろう。姉夫婦は共働きで、彼らの世話はもっぱら母親が見ているらしい。言われてみれば、子供たちの相手で疲れ切っている、と本人から愚痴の電話をされたばかりだ。その中に母親を置いてくることに、後ろめたさがあったらしい。さっきの剣幕もどこへやら、父親は椅子にもたれかかって、ため息をつく。
「さすがにあの年の子供たちには体がついて行かない。母さんはもっと大変だろうな」
「なんだよ、それ。年寄りみたいじゃん」
急に枯れたようなことを言う父親に、ペドロは意外さを感じた。しかし、自分が大人になったのと同じように、父親も年をとったのだと気づく。父親は苦笑しながら肩をすくめた。
「年寄りだよ。父さんをいくつだと思ってる。そろそろ引退したっていい頃だ。子供たちは皆立派に育って、あとは余生を静かに暮らしたいといつも思っているよ」
言葉だけ聞けば、ずいぶんと気弱だ。しかしその声はまだ、慰める余地のないくらいに力強く、へえ、とペドロは思った。
老いたという言葉とは裏腹に、父親の声には、現状の自分への誇らしさが滲んでいる。それは今まで積み重ねてきたものへの自信と、未だに現役で勤める、職務に対する真摯さが支えるものだ。
ちょっといいな、と思った。こういう大人、いいな、と。
父親としてというより、一人の人間として。父親のことを、少しカッコいいなと思えた。
それから、色々な話をした。父親の仕事についても、今までほとんど知らなかったが、聞いてみると思っていたのと違う部分もあった。昔の話もいくつか聞いた。ペドロが生まれる前も、生まれた後も。思ったより父親は自分のことを覚えていて、時々他の兄弟と間違えることもあったが、ぼんやりとペドロに覚えがあるようなことを、父親は正確に語って見せた。
喋る合間に料理が運ばれ、気づけば2時間近くが経っていた。
食後に、ペドロはコーヒーを、父親はエスプレッソ、ダッブはノンカフェインのハーブティーを頼んだ。そういうしゃれたものがあるなら、こういうところも悪くないなと思った。いつも行く店は、ノンアルコールでノンカフェインといったらコーラかジュースしかなくて、ダッブは水ばかり飲んでいる。コースに付いてくるデザートは残すかと思ったが、それも全部食べた。
ソースで汚れた口元を拭いてやりながら、ペドロは声をかけた。小食なダッブが今日はいつもより多く食べて、嬉しい。
「けっこうウマかったね」
「うん」
その様子を、父親が不思議に目を細めて見ていた。
「なんだよ」
「いや――」
ペドロが尋ねると、父親はしわのよった眉間を指でほぐしながら言った。
「正直、お前のことだから、ダッブ君のことを聞いて心配をしていたんだが……私の取り越し苦労だったようだ」
詳しくは分からないが、何となく信用のないことを言われた気がしてむっとしていると、そんなペドロを通り越して、父親はダッブに話しかける。
「ダッブ君、今後も色々とご迷惑をおかけするだろうが、ペドロをよろしく頼む」
うなずきはせず、代わりに、ダッブは少し目を伏せた。
「迷惑をかけるのも、お世話になっているのも僕の方です」
「かけてねーし、かかってないよ」
父親の言葉とダッブの言葉、両方をペドロは否定した。
すぐ後に、いや、半分くらい嘘かな、と思った。しかし、そんなはずはない、と自分にすら言い聞かせる。だから父親の言葉に、胸を張った。
「ダッブ君はお前には勿体ないくらいの人だ。大切にするんだぞ」
「そんなのオヤジに言われるまでもねえし。オレ、すっごいちゃんとやってるよな、ダッブ」
ダッブは、素直にうなずく。
「うん。いつも、ありがとう」
今度こそ思いが通じ合ったことに感激して、ペドロはダッブの額にキスをした。
「そうだな――」
二人を見て、父親はまた目を細める。深く椅子に腰掛け、笑った。
「安心した」
そのときになって――最後になってようやく――これって特別だったんじゃないかと、ペドロは気づいた。
ペドロにとっても、父親にとっても。
父親に恋人を紹介するのは、初めてだった。
***
その夜に、レストランの前で別れてから、一度だけ。ペドロは父親に礼のメールを送った。改めたのは、ダッブに言われたからだ。そして父親が返事があって、やりとりは終わった。そんなものだろうと思う。これまで仲が悪かったわけではないから、逆にこれで急に仲がよくなったわけでもない。ただ苦手意識は薄れていたから、次に同じような機会があっても良いなと思った。
ある時、不意にダッブが言った。
「君のお父さんは、君によく似てるね」
「そーかな?」
自覚はない。ペドロは首をひねった。
「顔つきや、ジェスチャーなんかがね」
親子だから、確かに似ている部分はあるだろう。想像して、ペドロは笑った。
「オレもヒゲ生やしたら、もっと似るかな?」
「それもいいかもしれないね」
あれ、と彼の言葉に引っかかる。
微妙なニュアンスだが、他人の容姿に関して、ダッブが何かを勧めることは少ない。こうした方が良いとか、こうすべきとか、言ったことがない。強く主張を求められた時を除いて、いつも曖昧に、“そうかもしれない”なんて答えていた。なのに今回に限って、“いいかもしれない”だなんて――
どういう意味だろう、生やした方が好きなんだろうかと、もやもやした疑念を抱えたペドロには気づかず、ダッブは別の話題を切り出す。
「ところで」
「え、うん――なに?」
「君のお父さんがまたこちらに来るそうだけど、君の予定は?」
「は?」
別の話題じゃなかった。
「な――」
なんで、ダッブの方に連絡が来てるのか――
なんで、お互いの連絡先を知っているのか――
もっと聞きたいことがあって、他の言葉を遮った。しかし、それは、口にして、認めることすら許せない内容だ。しかもダッブはきっと、自分で気づいてないに違いない。
ダッブは首をかしげて、ペドロを見上げている。日付を告げるその口元は、わずかに、ほころんでいた。
なんで、そんなに嬉しそうなのか――
敵だ、あの男は敵だ。
瞬時に認識を撤回したペドロに、ダッブは暢気に、君のお父さんがね、と繰り返した。