仕事を終えた厨房見習いの双子が主人の元にやって来たのは、いつものように夜が更けてからだった。
その時主人はまだ執務机に向かっていたが、二人の姿にペンを持つその手を休める。自分はといえば、一向に仕事を止める気配のない主人に香茶を差し出したところだった。邪魔になるだろうとすぐ去ろうとしたが、双子に引き留められ、主人からも許されたので、部屋の片隅に立って彼らの話を聞いていた。
厨房勤めとしての煩雑な、しかし他愛もない一日の報告を双子は代わる代わる挙げていく。曰く、今日のあの料理は自分が下ごしらえをしただとか、配達人から聞いた話によると町ではこんな遊びが流行っているだとか。その一つ一つに打つ相槌から主人の二人への寵愛が見てとれて、ほほえましい気分になる。双子もそれを感じるのだろう、頬を紅潮させ、矢継ぎ早に言葉を重ねる。最初こそ仕事中の主に遠慮した様子で、彼らにしては身を正し、かしこまった風ではあったが、次第に普段どおりの甘えた仕草や口調に変わった。彼らの年は自分とほとんど変わらないそうだが、大げさな身ぶり手ぶりが幼さを感じさせる。その子供っぽさに賛否があることを聞いていたが、少なくとも自分には嫌みのなさが好ましく思えた。何より主人がそれを咎めたことはない。もっとも彼女にしたところで、自分や双子とせいぜい姉弟程の年しか離れていないのだが――。
ともあれ、弟妹のように可愛がっている二人の話を主人は熱心に聞いてやっていた。しかしいよいよ話が盛り上がりを見せたところで、いかにも痛快な調子で切り出された話題の一つに、主人は相づちを止める。代わりに、二人に同調するように乗り出していた上半身を起こした。二人が不思議そうに見つめる、その前で彼女は革の背もたれに体を預け、笑う。
「賢しいぞ、仔犬達」
誰もがその意味を理解できなかった。
しかし次の瞬間には、その声が、笑みが、覗く牙が、双子を容易く恐慌へと陥れていた。
「わあああああああああっ!」
ひときわ著しい反応を見せたのは女児の方で、絶叫しながら頭を抱え、その場にしゃがみ込む。そのあられもない声は、片割れが息をのんだ音をかき消し、部屋中に響いた。その激しさに、毒気を抜かれた男児は少しの間呆然と、騒ぎ立てる少女を見つめていたが、怯えた表情で主人の顔を伺うとすぐさま少女の側に膝をつく。
「チュニパ! 静かにするんだ!」
その様子を主人は悠然と、微笑しながら見ていた。もはや言葉など忘れたかのように声を絞る少女を、同じ顔をした少年が止めようとする様は、滑稽に映っただろうか。狂乱に曝されて、相手の口をふさぎ、首を絞めんばかりの必死さという点で。
「あー! あー! あー! あー!! あっ! ああっ!」
ひどく錯乱したまま少女は叫び続ける。
「チュニパ!! 姫様の前なんだよ! どうして静かにできないんだ!!」
「あーっ! やだ! いや!! いや! いや! いやぁっ! あ!」
「お願いだよチュニパ、静かにして……!」
しばらくの間、忠告から叱責を経て、懇願へと至った片割れの声を少女が聞き入れる様子はなかったが、彼の崇高な努力の果てにその悲鳴が治まると、主人はおもむろに口を開いた。
「以前誰からか聞いたが、仔犬の成長というのはなるほど、早いものだな」
と、何かを懐かしむように目を細める。
「昔、初めて私がお前達を見出した頃、お前達は無垢で純真な野の獣と同じ様であり、つい最近までよどむこともこごることも知らない勤勉で忠実な私の猟犬だった。しかし、今や人に混じる内に怠惰を知り、私を軽んじることを考え始めた」
「違います…!」
結局片割れの頭を自分の胸にかき抱くことで、彼女に少しばかりの平静を与えることに成功した彼は、いくらか理性的であるという不合理な理由でさらに不幸な役割へと回らざるを得なかった。恐怖に舌を絡ませながら、たどたどしく弁解する。
「違うんです、姫様。僕たちはただ…少し、今の生活が良くなればいいと思っただけで……姫様を軽んじるなんて……そんなつもりなんて、なかったんです」
まさか取るに足らない、ささやかな抵抗。主人はさも愉快そうに声を上げて笑い、それを踏みにじった。
「おまけに、主人に口答えをするようになった。まったく大したものだ」
「………っ」
有無を言わせない様子に少年は言葉を失う。救いを求めるように主人を仰ぎ見て、しかしその射抜くような視線に突き放されると、明らかにそれまでと違う絶望が見る間に少年の顔を青白く染めた。わななく唇の間だからようやく、少年は先ほどの弁さえ比較にならないほどつたなく単語を紡ぐ。
「でも…でも……姫様は、知ってるでしょう? 僕、僕たちは、最初からずっと、ずっと姫様が……姫様を……姫様のために、僕たちは、今まで……ねえ、だって、でも……忘れたの? もういらないの? 違うよね? 違う? ねえ…っ」
言いながら、自身の発言に追い詰められるように、少年の身体はゆっくりと力を失っていった。それが完全に崩れ落ちる直前に、主人が答える。
「勿論、忘れるはずもない」
その声に含まれる響きは憐憫か嘲笑かと思えば、静かに底を流れるような愁いだった。それを隠すように主人は目を伏せる。
「お前達は今までよく働き、私を満足させた。日々をつましく過ごし、辛いときは黙って耐え、遠く放ったとしても私の元に戻ってきた。そして私の側で笑うお前達を見捨てられるはずがない。今の今でさえ、お前達は私の大切な飼い犬だよ」
その思いに、それまで食いしばった歯の隙間からひいひいと、声とも息ともつかない音を漏らすだけだった少女が動いた。片割れの腕から這い出て、主人の足下に頭を垂れる。
「姫様、ごめんなさい……!」
そして、枯れた喉から考えうる限りの謝罪を絞り出した。
「あたしが悪いの。ごめんなさい。生意気でした。姫様はあたし達のこと……なのにいけないことを考えました。もうしません。絶対にしません」
その様子に心を取り戻した少年が同じように並び、這いつくばって許しを請う。
「ごめんなさい姫様、許してください。僕たちこれからも、今までと同じくらい、もっとずっといい子にします」
「何でも、姫様の言う通りにします。ねえ、だから姫様――」
「お願いです姫様――」
言葉にすることすら適わない願いを、それと知っていて、主人は2人に顔を上げるよう促した。傾いだ椅子の背から身を起こし、足下にひれ伏す2人の濡れた瞳を順に、その意志を確かめるように見据えて、それから優しく微笑む。
「お前達が自らの本分を忘れず、私に忠実な猟犬であるかぎり、お前達を見限るようなことはしない。約束できるか?」
「します!」
「できます!」
勢い良く、瞳を輝かせながら明答する2人に、主人は満足そうにうなずいた。落着を示すように、泰然と椅子に座り直す。
「そうだろう。だが私はそんな約束などしないよ、2人共」
絶句。忘我。
完全な油断に切り込まれて、2人の心は動きを止めた。
容赦が与えられることを信じて笑みを作っていた口に、もはや叫ぶ気力はなく、2人はお互いに身を寄せ合うと、深くうつむく。その様は断頭台に首を差し出す受刑者に似て、ただ黙ってその時を待っている。荒い息の漏れる唇から、あるいは見開いた瞼から、あるいは額を滑り鼻先から、滴が絨毯の上に落ちたその時、主人の言の葉の一片一片が慈雨のように2人に降り注いだ。
「お前達がどこにいようと、それが誰の足下であろうと、私はお前達の幸せを想うよ。例えその姿が醜く肥え太り、浅ましい考えに浸っていようとも。その腹が満たされ、夜に怯えることも寒さに震えることもなく、お互いを頼りに眠れるよう。ただ一度でもお前達は私の手をとり、私の名を呼んだのだから」
2人は手を取り合ったまま主人の顔を見上げ、その腕が招くように開かれた途端、膝の上に泣きすがる。歓喜にむせび、嗚咽の間に何度も主人を呼んだ。感謝を捧げ忠誠を誓う。その頭を撫でながら、主人は言った。
「お前達の背が伸びるのを止められないように、お前達の心が育つのを誰が止められるだろう。それは自由で無縫にあるべきだ。私にできることと言えば、ただせめてそれが健やかで真っ直ぐであるよう導くだけだよ」
「はい!」
声をそろえて答えると、2人は飛びつくように、最愛の姫君の頬に口づけた。
事が収まって安堵してからもしばらく、鼓動は続いた。それが主に見咎められない内に沈めようと、慎重に深く息をする。同時に、主人の側に侍女頭がいたならば、と願った。彼女なら、息すらできない程の緊迫に満ちたあの場を上手く取り繕ってみせただろう。いやそもそもこれまでの彼女の卒ない振る舞いを鑑みれば、主人を待つまでもなく彼女が代わって、そしてもっと穏便なやり方で、双子を諫めただろう。その顔色を窺う必要もないほど、彼女の思考は常に主人に寄り添っている。
ひょっとすると、それを求められたのは自分であったかもしれないと、そこで気付いた。普段主人の一番近くに仕える侍女として、他の従僕達と主人の間を取り持つことは何度かあった。この場を自分に任せた彼女はそれを自分に期待したのだろうか。
応えられなかった自分を嫌悪しながら、しかし自分にはとても無理だとどこかであきらめた。
足がすくみ、身動き一つとれなくなったのは、主人が双子をたしなめるより前のことだったのだから。
* * *
「ねえ姫様、お願いを聞いてくれますか?」
主人の腕を抱き、甘えるように少女が言った。料理の話や町の噂に連なる、一日の報告の途中だ。
「いつもご飯を知らないところから捕ってくるのは、大変なの」
「だから僕たち考えたんです。農場でハンソがしているみたいに」
と少年が、邸内の牧地で牛や羊の世話をしている牧童の名を挙げる。先を越されまいと少女は言葉尻を追いかけた。
「あの子がしているみたいに私達も、ご飯を育ててもいいでしょう?」