薄い雲が所々にたなびき、渡り鳥が列をなして飛んでいく――
ベルスートの空は、高く澄んでいた。そこに空砲が打ち上げられ、乾いた音で人々の注意を引き付けては風にかき消える。
蒼天の元、小高い丘の頂上に立つベルスートの城には、色とりどりの旗が言祝ぎのために掲げられていた。城門からは一本の坂道が、ふもとの市街地の中心へと続いている。その坂の中程に設けられた、本来は荷解きや待機のための広場に、今日は大小様々な天幕が張られている。そして街へと坂道を辿って目をやれば、続く大通りには溢れんばかりの人がひしめき合い、幾つもの露天が軒を連ねていた。
今日は特別な日。
今日は赦しの日である。
本来なら死罪にあたるべき罪人達の中から、酌量の余地がある者が特別な恩赦を与えられる。冷徹な法が奪う者達の命を、為政者の寛大さが救うのである。
しかしそれを最終的に決めるのは、裁判官でも聖職者でも、この地の王たる辺境伯でもなかった。
『慈悲の樽』
そう名付けられた入れ物。あるいは、乗り物。これが罪人の罪を量った。
赦しの対象に選ばれた罪人は、この内側に無数の棘が付いた木製の樽に入れられ、城から街に続く坂道に蹴落とされる。制動もなく勾配を転がり落ちたそれは、街の中央広場に積まれた藁の山に突っ込むことでようやく止まり、そして再び樽の蓋が開いたとき、まだ息のある者はその罪を赦され自由を与えられた。
秋の終わり、作物の収穫を終えて、厳しい冬を前にしたこの時期、領主は人々の心を慰めるために毎年この祭りを開く。
催しの開始を心待ちにする人々の中に、真に罪人の恩赦を祝う者はまれだろうが、かと言ってただ残酷な見せ物のためにこれだけ多くの人が集まるわけではなく、皆それぞれに、罪人達の生死を案じていた。
生き残るのはどの囚人か、その性別は、どの樽が一番早く到着するか、その順番は――
ベルスートのそこかしこで、公的にも私的にも様々な賭けが行われる。例年、これで一財産を得る者、失う者が生まれ、そして胴元は肥え太った。
高らかな管楽器が行事の開始を告げると共に、今までで一番多くの空砲が空に散る。しかるべき間の後、誇らしげに胸を張った処刑人によって、居並ぶ第一陣の刑人達の罪状が読み上げられた。
中腹の広場のそれは、天幕の下に居並ぶ主賓達に向けられたもので、街ではいくつかの場所で別の者が同じ物を読んでいる。主賓らの耳には少し時をずらして眼下の歓声が聞こえた。
それと知らずに違法品を国内で売り歩いた異国の行商人――
脅されて義理の父の殺害に手を貸した女――
性別や年齢も同時に述べられ、賭けの重要な判断材料となる。年嵩よりは若い方がいい。しかし子供はだめだ。体格も重要だった。男がいいか女がいいか。思いがけない幸運が命を繋ぐこともある。
その中にひときわ、小柄な少女が立ち、人々の目を引いた。年は7、と処刑人が述べる。
露店商から品物を盗んだ罪と、逃げる際にぶつかった老婆が死んだ罪のために、彼女は死罪を宣告された。
しかし、まだ年若いこと。親兄弟も無く、飢えての盗みであったこと。偶発的な殺人であったこと。それらが赦しの理由となった。
最後に自分の名が挙げられたときも果たして、少女はぼうっと空を眺めていた。
彼女が物心ついた時に母はなく、ただ酒に溺れる父だけがいた。ある日その父が病で死に、気ままに殴られ物を投げつけられる日々が終わったかと思えば、家賃を払えないために家を追い出された少女を苛んだのは飢えと寒さだった。物乞いのために訪れた市場で、目の前に並べられた果実の1つを、思わず手にとった。見とがめられて、罵声を背に逃げた先、ちょうど角を曲がってきた老婆に衝突し、打ち所が悪かったのか程なくその老婆は死んだ。
牢獄で与えられる一日一回の食事に安堵していた少女の前にぶら下げられたのは、死と苦痛の両天秤だった。
死ねば地獄、しかし生きるも地獄。いずれも少女にとっては大差のないことである。
それでもわずかな希望にすがって恩赦を願ったが、慈悲の棘を受けて運良く赦されたとして、果たしてその先何があるというのだろう。家族もおらず仲間もいない。誰からも求められることのない孤独が彼女の心を絶望で染めていた。あの時死を選んだ方がましだったかもしれないと、樽の内側に並ぶ、あるいは真っ直ぐな、あるいはねじ曲がった棘を見て少女は思った。
「父上! 私はあれに賭けます。あそこ、あの栗色の髪の娘に!」
不意に、はしゃいだ声が少女の耳に響いた。思わず顔を向けると、天幕の下の、最も栄えある壇上に座る人々が彼女に注目していた。この街に住むならば顔を知らぬ人はいない、ホーゼンウルズ辺境伯とその愛娘である。娘は、少女を指さして精一杯父親の注意を引こうとする。
「ふむ、どうやらお前とそう年も変わらないようだが、あれがいいのかね」
まだ幼い娘に、身体ごと耳を傾けて、辺境伯はそう聞いた。
「はい。あの娘が赦されたなら、私に父上の馬を下さい。あの一番速い馬を!」
それが最良の思いつきだと信じて、娘は父親にねだる。しかし父は頭を振った。
「あれは姫には大きすぎるだろう」
「いいえ!」
途端に、心外だと言わんばかりに剣呑となった娘の眼差しに、父親は苦笑しながら心変わりを伝える。
「よかろう。あの娘が生き延びたなら、儂の馬を姫にやるとしよう」
その約束に、眉根を寄せていた娘はパッと破顔した。
そして勢い良く、席を立って壇上から跳び降りる。
「姫様、危のうございます!」
慌てて止めようとする執行人の助手の手をすり抜け、あっと気づいたときには少女の眼前にベルスートの姫君が立っていた。
躊躇なく伸びてきた両手に身がすくんだが、後ずさる間もなく、頬を挟まれる。そこだけ風が遮られ、場違いなぬくもりを生んだ。
切りそろえられた黒髪の向こう、血のように紅い双眸が少女を見つめている。陽の光でも照らしきれない漆黒の瞳は真っ直ぐに少女のそれへと向けられていた。
ゆっくりとその唇が動く。長い犬歯がわずかに覗いた。
「名は?」
端的過ぎる問いに、しばらくの混乱の後、ようやく少女の頭は、名前を聞かれたのだと理解できた。乾いた唇が答えると、相手は一度口中でそれを転がすように呟いた。そして再び、今度ははっきりと、少女の名前を呼んだ。今まで、誰からも聞いたこともないような声で。驚くほど深く響く、信じられないほど甘い音色で。呼ばれたのは一度きりのはずなのに、何度も、ぐるぐると少女の頭の中をその声が巡る。めまいのような錯覚の中、畳みかけられる。
「じゃあお前は今から、私のために生きるんだ」
生き延びろと、その眼は言った。少女のまぶたが大きく開かれる。触れられた頬が急速に熱くなり、胸が高なった。
「あそこに着いて」
と、相手が街にちらりと目を向けたことで少女から視線が外れる。一瞬のそれすら耐え難く、すぐに再び絡み合った視線に少女は安堵した。早く先を、と喉の奥でねだる。
「蓋を開けられたら、声をあげろ」
その様を少女は明確に想像した。藁の山の中、樽から滑り出た自分があげる歓喜の声を、はるか頭上の姫が、待ち望んだそれを、聞いてやはり同じように、喜びの声をあげるのだ。
「私はお前を待っている」
優しげに少し伏せられた双眸に、同じことを相手も思っていると確信して、少女の身体は震えた。その時を切望する。
そしてそれを最後に、少女を捕らえた真紅の瞳は彼女を離れ、頬を包んだ両手はぬくもりだけを残していった。
数秒の、夢のような出来事だ。
来たときと同じようにあっという間に、その背中は離れていき、元居た父親の横へと帰っていった。解放された後もしばらく少女はその姿を追っていたが、ふと他に視線をそらした瞬間、目を見張った。
行き交う人々の色とりどりの衣装、精緻な文様が施された天幕、風を受けてはためく掲揚旗――
急に全てが鮮やかな色をもって、彼女に迫ってきた。
さっきまで見ていたはずの空でさえ、ああまでも青かっただろうか。
まるで今日初めて目が開いたように、せわしなく少女は周囲を見回した。何もかもが見違えている。魔法にかかったようだ。眼下の町並みやその向こうの森や平原までくっきりと輪郭を結び、輝いている。
少しの間少女は自分の目の前に広がる新しい世界に見とれていたが、その間にも着々と進行されていた式次第に乗っ取って、かけられた合図に我に返った。
見ると、慈悲の樽が、両手を広げて罪人達を迎えていた。ここでも少女は改めて、光を受けて不規則にきらめく、棘の鋭さに気づく。蝶番で開閉するように出来た側面には、所狭しと様々な種類の棘が内側に向けて取り付けられていた。しかし少なくとも、一撃で乗り手の命を奪うほど大きなものはない。
執行人の大きな、有無を言わさぬ手が少女の肩を掴み、樽へと押し出した。先程の想像を胸に、少女はかたく両手を握りしめる。
それでも、いざ樽の前へと歩み出たとき、温かい水が太ももを伝い、大量に足元を濡らした。失禁したのだと気づいたときには、もうそれ以上立っていられなくなっていた。痩せた少女の身体を抱きかかえながら、執行人は、よくあることだと、まるで慰めのように、笑って言った。
樽の底に膝を折って座らされ、まず側面が閉じられた後にきつく金具が締められる。その上から木製の丸い蓋がかぶせられ、小気味よいリズムで釘が打たれていった。
全ての準備が整うと、樽は静かに坂の起点へと並べられる。
開始の合図は、いつものように領主へと委ねられた。彼は片手をあげてそれを示す。耳を裂くような笛の音と同時に、慈悲の樽が、搭乗者の命と共に坂を転げ落ちた。
最初の一針は二の腕に。しかしすぐさま足も頭も背中も、全身が区別もなく苦痛の腕に抱かれる。回転に合わせて鋭い棘が次々と少女の肉を掻きむしっていった。細く尖ったそれは穴を穿ち、平たく研がれたそれは肉を削ぐ。奥歯をかみしめながら、少女は身体を折り曲げ自分の膝に顔を埋めた。
やがて速度が上がると坂の緩急に追いつけず、樽は大きく跳ね上がる。一瞬の浮遊の後、少女の願いも空しく、それは自然の摂理に従って、激しく地面に打ちつけられた。それまで少女の表皮を撫でるだけだった鉤状の棘が深く少女の身体に食い込み、周囲の肉をかき回し破壊し尽くすと、名残惜しそうに抜けていく。
それが何度も繰り返された。
回転が激しさを増し、痛みに錯乱すると、もはや少女が頭を抱えた姿勢を保つことは出来ず、それまで無傷だった胸や腹部、顔面が無数の棘に晒された。
悲鳴をあげようとした瞬間、予想も付かない衝撃が彼女の首を殴りつけ、その力で彼女の歯は自らの口内を噛みちぎった。引きつった頬を今度は横から太い棘が貫く。奥歯の割れた痛みは格別だった。
ついには両手を伸ばして、周囲の棘にすがることで少女は体勢を保とうとするが、高速で回転する樽の中、その試みはいたずらにいくつかの爪を剥いだだけだった。縦に裂けた手の平ではもう何もつかめない。
それでも今度は足の裏で棘を踏み、反対の壁に背中を押しつけることで少女はわずかな均衡を得ようとする。しかし幾つもの棘が小さな背中に埋まったその時、樽は藁の山に突っ込み、静止した。中の少女はそのまま、進行方向にあった棘の山へと顔面から叩きつけられる。
目の前が赤く染まる。
少女には何が起きたか理解できないまま、藁の上を滑ってごとんと樽が地面に落ちる。その揺り返しで少女は樽の底に尻餅をついた。痛みは既に痛みとして感じられない。しかし水が飛び散るように、絶え間なく明滅する視界に――正確には、それまで視界と知覚できていたものに起きた異変によって、少女は自分の両眼に何が起こったかを理解した。
1つはねじれ曲がった鉤によって、固く閉じたまぶたごと引きずり出された。
1つはちょうどまぶたの隙間から侵入した平刃によって、眼底まで貫かれた。
力なく、少女の身体が樽の底へと崩れ落ちる。
程なくして、釘を抜く振動が樽を揺らした。蓋が取り除かれるとむせかえるような血の匂いが周囲に立ち上る。そして樽の胴体が開けられ、血まみれの少女の姿が観客へと披露された。少女の耳に何も聞こえないのは、誰もが固唾をのんで囚人達の生死を見定めているからか、それとも鼓膜が破れたのか。
執行人は少女の腕を掴むと、無造作に彼女を樽の外へと引きずりだした。砂の上に無数の穴や裂け目から血が飛び散る。ちぎれた指やむき出しになったあばら骨にある者は目を背け、ある者は好奇の目を向けた。上下する薄い胸に、生きているぞ、と誰かが声をあげる。
それを示すように、少女は自分の手で地面をついて、上体を支えた。下を向いたまま口を開くと何かが滑り出て、唇の端にぶら下がる。呼吸の度に揺れてひどく邪魔なので、少女はそれがちぎれかけた舌だとも知らず、まだ残っていた前歯で噛み切った。びしゃりと、それが地面に落ちると共に、喉から大量の血液が吐き出され、その上に降り注いだ。
「あ」
そうしてようやくなんの支障もなく声が出た。
「ああ、あ、あ、あ」
潰れた顔を上げ、空を向いて、犬のように少女は吠えた。血のあぶくがひどく邪魔したが、少しでも届くように喉をそらす。
「あああああああああああ」
いくら仰ごうとも、もう少女に空は見えない。
少女の眼球は、1つは失われ、もう一つは深く傷ついたからだ。片方は血にまみれた眼窩を覗かせ、もう片方は溢れる血で濁っている。
しかし少女は充足に胸を詰まらせて、笑った。
今の自分はあんな目をしているだろうかと。
血のような、深淵の赤を心に描いた。
***
風に乗って届いた声と、掲げられた旗に、シェリーは歓声をあげました。
「父上! 見て下さい! あの娘! あの娘が残りました! 私の選んだ娘が!」
と大手柄を言い立てながら、壇上を飛び跳ねます。
礼服の窮屈さも構わず手足をいっぱいに伸ばす娘に、しかしオブリード辺境伯は少し考えこむ風でした。娘の勝利はただの幸運と言ってしまえばそれまでですが、この催し物はオブリードがまだ彼女くらいの年だった頃から何十年も行われており、それでいて、未だかつてあれほど小さい子供が恩赦の樽を生き延びたことはありません。余程強い身体と心を持っていなければならないはずですが、先程見た覇気のない少女にその様子はありませんでした。それで、罪人の少女と娘との短い接近の間に、何かが起こったのではないかと彼は思ったのです。幼いとは言え、もうシェリーは魔術の心得を学び始めていました。元来秘密主義で差別主義者の魔術師達が、人心を操作するような魔術を知っていても不思議はありません。
「姫よ。先程、あの娘に何か術をかけたのかね?」
オブリードが日を受けて光る背中にそう問いかけると、彼女は振り返って答えました。
「いいえ。まさか」
首をかしげ、目をきょとんとさせて、まったく何のことだか分からないといった風です。その無垢な目を見れば、彼女の潔白は明らかな様でしたが、その裏で、鮮やかな嘘を隠してみせるのが彼らの血族でした。例え幼子であろうとも例外ではないと、自分が子供の頃を思い出してもオブリードはそう思いました。わずかな素振りから、慎重に、ことの真偽を推し量らなければなりません。しかし今回は、あえてオブリードはその判断はしないことにしました。どちらにせよ、彼はとても上機嫌だったのです。
彼女が嘘をついているとして、しかしこれ程までに上手く知らぬ素振りが出来るのなら、誉めてやるべきでしょう。それは彼女がこの先生きていくために必要な能力でした。さほど熱心に教えたつもりはありませんが、周りからそれを学んでいるならば大したものです。
一方、彼女が本当に何も知らなかったとして、それならばひょっとすると、この娘には人を惹き付ける天性の魅力があるのかもしれない。そうオブリードは考えました。それがあの少女の魂を焚きつけ、最後の一声を導いたのです。
どちらであっても素晴らしいことした。そして自分が自然とそう考えられたことに、彼は大層満足したのでした。ああなんと、無条件の愛とは幸福なことだろう、と。全く愛とは麻薬のようなもので、それさえ実感できれば他には何も、食事すら要らないのです。それが血を分けた実の娘に対してであればなおさらでした。
「よかろう。あの馬は姫にやるとしよう」
穏やかに心を満たした幸福の余韻にひたりながら、オブリードは立ち上がってシェリーの傍に行きました。街の広場では第一陣の後片付けが始まり、坂の上の広場では次の準備が進められています。
「元より、わしの持てる全てはお前に譲るつもりだよ」
と、彼は娘を抱き寄せると、その小さな体を自分と同じ目線に持ち上げました。そのつやつやと赤い頬に口を寄せます。シェリーはくすぐったそうに笑ってそれを受けました。
2人には今、澄み切った空の下、ベルスートを起点として、草原とその向こうの森を越え、はるか向こうの山々までが見渡せます。片手でシェリーを抱き、もう一方の手の平でその景色を示しながら、オブリードは言いました。
「見える限りがじきにお前のものとなる」
シェリーはまっすぐ父と同じ方を向いて、しかしまだおぼつかない様子で、山の端の少し霞んでいる辺りを見つめていました。その山から流れ出す川のほとりには森の切れ間があり、伐採場だと分かります。山肌のむき出したところは採石場でしょう。領地の中には豊かな鉱山もあります。裾野には白い毛玉のような家畜が群れる放牧地や、刈り入れが終わって土が露出した豊かな畑が広がっていました。別の方を向いても、山も平地も大部分は木々に覆われていますが、ところどころ草原があり、拓けた所には、畑や放牧場、小さな集落や宿場町が幾つかありました。道は広いものや細いものが四方に広がり、川には橋が架けられています。オブリードはそれら一つ一つを示して、やがて娘が受け継ぐはずのものの名前を挙げました。この大地全ては彼にとって娘のように愛おしく、それでいて父のように尊いものです。遠くの山から始まって、森や草原を越え、最後に彼が示したのは、足元のベルスートの街並みでした。
「愛しき娘よ。見えるかね、人々の顔が。皆、この盛大な催し物に歓喜し熱狂している。この顔こそが、彼らを守り、彼らの日々の勤勉な労働に報いるのが我らの務めの一つと教えてくれる」
と、大通りを指します。
「門という門には人が立ち、窓という窓から身を乗り出している。どれほどの楽しみかが見えるようだ」
それは全くその通りに見えました。通りに面した家や商店の軒下には所狭しとテーブルや椅子が並べられ、そこからあぶれた者も路上に立ち並び、路地や家の隙間にまで人が溢れています。2階はそれら全てからうらやまれる観客席で、家族中でそこに集まったり、この日だけ席料を取って2階の窓を貸している者もいるようです。それまで第一陣の樽の行方を見守っていた人々は、幕間になってお互い顔を見合わせ、口々に何かを言い合っています。これ幸いと飲み食いするものを調達しに行く人も多くいました。なるほど、人々がこんなに楽しそうなのは良いことだとシェリーは心から思います。そこで、オブリードは、しかし、と続けました。
「見えるか。家々の内いくつかは閂がおり、固く閉ざされている。彼らは何故この騒ぎに顔を見せないのだ? お前に想像できるか?」
そう言われて、シェリーが父の指す方を見ると、確かにそのような家が何軒かありました。通りの人々とは対照的に静かなたたずまいは、今日のにぎわう街にはそぐわず、どこか別の場所にあるように見えます。外から眺めたことがあるだけの、それらの家の中を想像しようとするシェリーに、オブリードはいくつかの可能性を挙げました。
「稼業か私用か、あるいは慶弔か、それらで外せぬ用があるのか?
傷つき病に伏せているのか?
世の騒ぎに無関心なのか?
それとも、この様な血生臭い余興を好まぬのか」
いくら言い聞かせても、まだ6つになったばかりの娘です。世間のことも、世界のことも、まだ想像を助けるほどの知識もありません。シェリーは何も言わず、ただ前を見つめているだけでした。そもそもそれらは、常に、誰にとっても、知っているよりも知らぬことの方が多いものです。勿論オブリードにとってもそうです。死んだ彼の偉大な父親でさえそうだったでしょう。しかし、それでもなすべきことを父は娘に教えようとしました。
「分かるか、シェリー。見えるだけが全てではないのだ。見えぬものを見よ。聞こえぬものを聞くがいい。そこにこそ知るべき真実が隠されているかもしれん」
オブリードが言い終えた後、シェリーは父親の腕に抱かれたまま、真剣な眼差しで視界に映る全てを順に見ました。先程と何ら変わらないはずのそれらは、しかしいくらか違ったものに見えました。陽の光を受けている場所もあれば、影になっている場所もあります。生まれてからずっと見慣れた景色も、思えばそれはいつも同じ面しか見せていませんでした。幾つもの見えるもの、見えないものをシェリーは数えました。いったいそれらのどれに意味があり、何を隠しているのでしょう。あるいは何も隠れていないかもしれません。それは良いことでしょうか、悪いことでしょうか。
こうしていれば手が届きそうなのに、決して実際に掴んでその中身をあらわにすることは出来ません。
もどかしさにシェリーが身じろぎしたちょうどその時、再び笛の音が辺りに響き渡り、数個の樽が一斉に坂道を転がり落ちました。