ルディとシェリーの小話です。
約5,800字。ややグロ・暴力表現有り。
- Prologue -
暗闇はいつも埃と湿気でよどんでいて
それゆえにルディを責めることなく包み込むのでした。
真っ暗な地下室の床に、ルディは背中を丸めて眠っていました。
疲れ切って、夢も見ない程深く寝入っていましたが、不意に、何かの燃える臭いが意識を引きずり上げました。抗いがたい眠気に半分浸かったままの頭で、ぼんやりと暖炉の薪がたてるにおいを思いました。けれど、地下に暖炉は設けられていませんし、ましてやそれが彼のためにつけられることはありません。その内、パチパチと木がはぜる音も耳に届くようになりました。混じって人の声が聞こえたとき、慌ててルディは顔を上げました。
本来ならば、朝は床石の冷たさに目が覚めるはずの、秋の始まりの日でした。
他の人が起きるまで寝ていたなんて知られたら、何をされるか分かりません。体を起こそうと手をつき、その拍子に左の二の腕が傷んで、ルディは顔をしかめました。昨日、塵を掻き集めるために差し出した手が邪魔だったというので、蹴倒されたのです。力を入れるとにぶい痛みが返ってきます。ともあれ、それはいつものことです。壁にすがって、長く絡まった髪で床をさらいながら立ち上がると、ルディは手探りで廊下へのドアを開けました。
そこで呆然と、立ちつくしました。
思っていたものとは全く違う光景があったのです。埃臭くじめじめとして、薄暗く静かだった地下は今や、外からの喧騒に何もかもをわやくちゃにされていました。天井近くの小さな明かり取りからは、白々しい朝の光が差し込む代わりに、赤や橙が目まぐるしく躍り込んでいます。ごうごうと空気を震わす音に、外で何かが燃えているのだと理解して、ルディは目を見張りました。
指図を求めて辺りを見回しますが、こんな場所には誰もいません。
頼りなく、ルディはその場に立っていました。その間にも、炎のたてる音の中で、どう、と何かが地面にぶつかりました。向こうに建っていた納屋が倒れたのでしょうか。胸が早鐘を打ちました。逃げなければ、とルディは考えるのですが、勝手に出たらまた殴られるかしらと思うと、足が動きませんでした。
途方にくれるその内に、1階への階段から、誰かが駆け降りてくる音が響きました。ルディが凝視する中、転がるように飛び込んできたのは一人の老人でした。彼は奇妙にひきつった顔でルディを見つけると、わっと駆け寄り、細い身体にとりすがりました。
「助けてくれ」
かすれた声で老人は訴えました。
「あいつら、急にやって来て――
町を、わしの家を――
助けてくれ、みんな殺された――
寝ていたんだ――
助けてくれ」
老人は必死な様子でわめきたてましたが、ルディにはわけの分からないことばかりでした。何かひどいことが起きて、彼をひどく怯えさせたのは分かりました。でも彼の見た惨劇を思い描くには、知識も気力も足りないのです。
ただ震える手で、ルディは時々大きくしゃくりあげる老人に触れました。せめて、彼を慰めようとしたのです。だって彼は他でもない、ルディのおじい様でした。
両腕を彼の背中に回すと、胸がつまるような思いになりました。しわだらけでふしくれだった手、ルディを力強く抱きしめる腕、がっしりとして大きな身体、そして体温。
ルディは今まで、どんなにかそれを望んだでしょうか。焦がれたでしょうか。殴られ蹴られ、生まれをあげつらわれても、いわれのないそしりに心を踏みにじられても、いつかこんな風に誰かが手をさしのべてくれるのを、ルディは待ち望んでいました。それは暴力と罵倒の中、磨耗してゆく心の底で、ルディが願って、願い続けたものでした。
そしてどうあっても叶わず、いとも儚く失われてしまうものでした。
突然、ルディの体は吹き飛ばされました。
おじい様を抱く手に力をこめた、そのときでした。身動きもとれず、二人で固く結び合ったまま、どうと床に倒れ込みます。
「――――」
息が詰まり、ルディは喉をそらしました。雷のような痛みが体の中を引き裂いたのです。
「――っ――――っ」
喉がひきつって呼吸すらままならず、ルディはえづきました。空気を求めて胸をかきむしるように、おじい様の肩に爪を立てようとしましたが、その手は、びくびくと痙攣するだけでした。五本の指が自分の意思とは無関係に動く様を、おじい様の肩越しにをルディはただ見つめることしか出来ず、その向こうにかろうじて人影を見つけたのは、もう数歩先まで近づかれたときでした。
場違いな幸福におぼれて、ルディはそれがおじい様を追うように降りてきたのに全く気づかなかったのです。
明かりとりから漏れ入る炎の光に照らされて、その姿形はぼんやりと霞んで見えました。黒い髪に、黒い服を着ていました。しかし色のせいだけとは思えないような暗さが彼を包み込んでいて、いくら目をこらしても、それ以上子細を見ることはできませんでした。外の光が目まぐるしく揺れ動くせいでしょうか。
まるで闇の中から一部が切り取られ、そこに投じられたように、不安定な輪郭がわだかまっているのです。
今はもう、お互いに手をのばせば触れ合えるような位置にいるのに、果てしなく遠く霞んで思えました。
あるいは何もない宙にぽっかりと穴が開いて、深淵が覗いたような錯覚を覚え、ルディは身震いしました。
ぴくりとも動かないおじい様の身体の下で、何とかルディは肘を突いて上体を起こしました。痛みはいまだに脳髄を抉るようでしたが、その人影を、恐ろしいものだと感じたのです。逃げなければいけないと思ったのです。
ルディがあがく内に、影から伸びた黒い手が、おじい様の頭をつかみました。
しわが寄り、髪がまばらになった老人の頭を黒い手が無造作に持ち上げました。
全く力なく開かれたまぶたの隙間から、よどんだ目がルディを見ました。
そしてその目が見開かれ目玉が飛び出し縦に延びた鼻が口がねじれ頬が波打つようにたわみ暗い喉の奥からいかにも不快な空気が漏れ細く薄い骨が砕け固く太い骨が関節から外れる音が響くと皮膚とその下の筋や管が布のようなそれでいて生ぬるく湿った音をたてて伸びた端から耐えきれずに破けしなりどす黒い液体を次々とまき散らし
おじい様の頭は引きちぎれました。
それは、ただ、ただ、奇妙な光景でした。
さっきまでそこにあった人頭の丸みはぽっかりと失われ、わずかに目を落とせば不規則で汚らしい血だまりが広がっていました。取り残された下顎に並んだ不揃いな歯で、ようやく元は人間だったのだと思い出せるくらいです。
呆然とルディは、半分しか残っていない舌や気管の穴を、一つ一つをおじい様と結びつけようと見ていました。けれどさっきまで抱きしめていたぬくもりが、最後にルディを抱いたあの呼吸の面影が、どこにも見つけられないのです。
視界の隅をよぎったものにはっと目線を上げれば、かつて人だったいびつな半球が、黒い手から無情に放り捨てられるところでした。血が弧を描き、宙に二つ跡を残しました。
それらがあまりにも長く留まっているものだと思ったら、二つの目がルディを見ていました。
血のように赤い目でした。
「ひぃ」
初めて、ルディは声をあげました。
「ひぁ――あ―あ――あ――」
杭のようにルディを床に打ち付けるおじい様の身体の下から、ルディはあらん限りの力で這い出ました。それでも全く足は立たず、恐ろしい物に背中を向けて、腕だけでルディは進みました。まもなく行き止まると、力なく壁を背にうずくまります。
「――ごめんなさ、ごめんなさい」
身を縮め、頭を覆い、懇願を繰り返しました。
もっとも、その言葉が功を奏したことは今までありませんでしたし、今もそうでした。
音もなく近寄った影は、細い腕の抵抗も甲斐なく、ルディの鳩尾を蹴りあげました。体が浮く程の衝撃に、からっぽの胃は裏返ったように痙攣しました。酸が喉を焼いて溢れます。
「あ゙、あ゙っ、ゔえ――――……」
体幹は何度か収縮を繰り返しましたが、やがてその力もなくなり、ルディは自分の吐いた胃液に突っ伏しました。
「あははははは」
声をあげて、影は笑いました。
ルディの髪をつかんで顔を上げさせます。
細い髪に体重がかかるとひどくきしんで痛みましたが、抵抗する力は残っていませんでした。逃げようにも、指先一つ動かないのです。
漆黒の奥の赤に見すえられても、もう目をそらすこともできませんでした。
大きく開いた割れ目から白い牙が覗いて、ああこれは人でないのだと、思いました。死ぬのかしら、とも思いましたが、だからといってどうにかしようとは思いませんでした。すぐそこに転がっているはずのおじい様のようになるのだと、思いました。
「名前は?」
ルディが眠りに落ちるように目を閉じる寸前、影はルディに問いかけました。
は、とわずかながらまぶたを開けると、かすむ視界の向こうで、赤い瞳がルディを見つめていました。
急に輪郭を持った影は、やはり人の形をしていました。
答えなければいけないと、汚泥のように沈んでいく意識の中で、ルディは考えました。
かろうじて、一度だけ、ルディの意志に応えた唇がわななきました。
しかし意識を保てたのはそれまでで。
自分がなんと答えたのかも知れないまま、ルディは気を失いました。
***
次にルディが目を覚ましたのは、熱い湯を頭からそそがれたときでした。
ずいぶんと長い間、馬車に揺られていました。その間に、水やパンを差し出された気もします。しかし全て朦朧としていて、はっきりとルディが覚えているのは、身も知らぬ場所で、洗い桶に放りこまれて湯を浴びせられたところからです。
当然ルディはひどく驚いて怯えたのですが、数人の女達が有無を言わさず、ルディの全身をこすり上げ、のび放題になっていた髪を短く切ってしまいました。やっと解放されたかと思うと、小部屋に通され、そこで待つように言われました。
誰もいない部屋で、真新しい服に身を包んで座っていると、だんだん、自分は死んでしまって天国にいるんじゃないかという気になりました。
だって、こんな豪奢な部屋は見たことがないのです。ルディが居たお屋敷は裕福で、住人達は頻繁に、調度品や造りを他の人に自慢していました。でもルディの知る限りで一番良い部屋よりも、この小部屋の方がずっと美しく装われているのです。
壁に作り付けられたろうそく立て一つとっても、金色に塗装された台座には優美な装飾が施され、凡庸なものではないと、ルディにだって分かりました。木製の机や棚はいくらか古いようでしたが、その分表面はなめらかで、ろうそくの光に照らされた木目が優美な艶を反射していました。床でさえ、複雑な組木模様は無数に花が咲いたようで、踏むのをためらう程です。
しばらくの間、椅子に座ることも出来ず、ルディはぽつんと取り残されたまま立っていました。しかしだんだんと自分の場違いさにいたたまれなくなって、ついに、廊下へと出ました。
左右を見通しても人の姿はなく、さらに目の前のバルコニーへと出ます。外はもうすっかり暗くなっていました。
向かいから吹いてくる風は全く違うにおいがします。
広いバルコニーの端にそっと近寄って、ルディは愕然としました。
眼下には、無数の灯りが広がっていました。小高い丘の裾野に幾つもの家々が広がっているのです。その数は、ルディの居た町の、通りを行き交う人々全てを合わせてもとても足りません。それはつまり、ルディの知り得た全世界をはるかに超えた途方もない数ということです。
「――――」
振り返り、さらにルディは言葉を失いました。背後には、見たこともないほど大きな建物がそびえていたのです。ルディの背丈の何倍も、何十倍もある壁にはやはり無数の窓が並び、そこから光が漏れていました。
風が、露になったうなじをくすぐります。まだ乾ききっていない洗い髪の冷たさに、ルディは身震いしました。
「ここは……」
寒さと不安に自分の腕を抱きながら、ルディは誰とも無く呟きました。
「此処は、我が居城ベルスートだ」
まさか答えが返ってくるとは思っていなかったのです。ぎょっと、ルディは声のした方を見ました。
バルコニーの入り口に、人が立っていました。
その影形には見覚えがありましたし、黒い髪に、赤い瞳。すぐに誰だか分かって、ルディは大きく身をすくめました。さっきから絶え間なく脈打っていた心臓がさらに大きく跳ね上がります。
しかしそんなルディに構う様子は全くなく、彼は――いいえ、服装は確かに男の物なのですが、それを着ている本人は女なのだと、顔や身体を見て分かるほど近くに、彼女は真っ直ぐ歩いてきました。
反射的にルディは顔を伏せました。しかし、黒い睫毛に縁取られた真紅の眼差しは、いやでもルディの心を捕らえて放さず、伏し目の間からおそるおそるルディは視線を向けました。思えば誰かから真っ向に見つめられるなど、どれぐらい久しぶりのことでしょうか。
「…………」
さっき部屋にいたときよりももっといたたまれなくなって、あの、とか、ええと、とか、何事かをルディは絞りだそうとしました。聞きたいことはたくさんあります。しかし先に声を出したのは彼女の方でした。
「私の名はシェリー」
と名乗り、さらにいくつかを挙げます。その意味が分からずルディは首をかしげました。それは家名や爵位といったような彼女にまつわる肩書きでしたが、ルディには馴染みのないものでした。
言い終わると彼女は一呼吸を起き、それから続けました。
「ルディ」
彼女の口から出たのが自分の名前だと、自分が呼ばれたことにも、彼女が呼んだことにも驚いて、ルディは思わず顔を上げました。
揺れ動く空色の瞳を、深い赤の瞳が受け止めました。
悠然と笑って、彼女は告げました。
「お前は今日から、私の侍女になるのだよ」
これが始まりでした。
ルディが彼女の言葉の一部を理解するのはまだ後のことでしたし、全てを理解するのはもっと先のことでした。
つまり、彼女の名前が持つ意味――ここがどこで、彼女が誰であるのか。
誰とは、彼女の地位や身分でありましたし、同時にどういう人物であるかということです。
そして新しくルディの世界となったこのお城が、果たして天国であるのか地獄であるのか。
この時ルディはまだ何も、知りませんでした。