イオスと、妻のオーセリエの話。エロ無しグロ無し。約3,900字。
画 布
ある日、絵を描きたいと夫が言い出した。
画家を呼んで自分や家族の姿を描かせるのは、ある程度の地位と財力を持つ人物であればよくあることで、オーセリエも生家で何度か経験した。記録や記念の意味もあったが、どちらかといえば示威の意図が色濃く反映された絵画の中で、現実より精悍な父や、美しい母、そしてたおやかに微笑む自分を居心地悪く眺めたものだ。
年頃になれば、見合い用にいくつか描かせたし、相手の絵も見せられた。その中でひときわ、今の夫は理知的で聡明な笑みを浮かべていた。
実際に会ってみると、その通りに頭と口がよく回り、それでいてもっと柔和に笑うことさえできる、そして、その裏で何を考えているのか得体の知れない男でもあった。
今も、では画家を呼ぶのかと尋ねたオーセリエの前で、自分でイーゼルを組み立て始めた。そしてオーセリエが面食らっている内に、長椅子に座ってあれやこれやと姿勢をとるよう、指示してきた。
結局、仰向けに寝そべりながら、上体はクッションに預けて少し起こす形で、顔は前を向き、腹の上で手を軽く握る、一番楽な姿勢に落ち着くと、夫は自身も椅子に腰かけて、キャンバスに木炭を走らせ始めた。
しばらくオーセリエは微動だにせず、夫の視線が自分とキャンバスを行き来するのを見つめていた。動揺もあって最初は何の気もなかったが、夫と目が合うたびに、生真面目が災いした。緊張で次第にけわしくなる自分の顔に気づくが、ほぐそうと意識するとかえって力が入った。体を動かしてはいけないという気負いもある。こういう場面では少しくらい微笑んでみせた方がいいのだと、頭では分かっているが、上手く行かない。生家でもさんざん画家をにらみつけて、『お嬢様、どうか少しでもいいので笑っていただけませんか』と懇願された。結局彼はあきらめて、オーセリエの笑顔を想像で描いた。
思い出す内にますます顔がこわばっていくようで、ついに、彼女は口を開いた。
「…………喋っても、よろしいですか」
「構わないよ」
ごく自然に微笑んでみせると、夫は快く了承した。喋る内はそちらに意識が向くだろうと、ほっと息をつき、オーセリエは先刻からの疑問を口にした。
「絵をお描きになるとは、存じませんでした」
少なくとも、見合いの身上書には書かれていなかった。立派な肩書きや華々しい戦歴、資産目録など他に書くことが様々あったから、埋もれていただけかもしれない。しかし隠し球を好む彼のことだから、何か企みがあるのかと疑ってしまう。
「ずぶの素人だからね。人に自慢できるような腕前じゃない」
返ってきた答えは平凡でうなずけるものだったが、その割に、木炭の滑りにはためらいがない。夫は手を動かしながら続けた。
「5年くらい前に、出入りの画家に少し習ったんだ。右手でできることは、何でもしてみたくて」
と、左肩をすくめる。その先は、欠けている。
約1年前にオーセリエと出会った時点で、すでに夫は左腕をなくしていた。まだ少年の頃、暗殺者に襲われた際に、主君を守るために失ったのだと武勇伝がついているが、本人は何も語らない。珍しいことに。
夫は雄弁で、多弁で、そして詭弁屋だ。
初めて出会ったときからそうで、実に巧みにオーセリエを褒めそやした。
可憐だのしとやかだの品が良いだの、他者にとってはいかにも心地よいだろう彼の言葉は、しかしオーセリエの心の表面を不快になぞり上げた。
曲がりなりにも名家の子女として育ったのだから、世辞なら慣れていたし、無難な受け答えも知っていた。見合いの場で相手をほめるのは自然なことだろう。しかし彼の言葉はあまりにも全てが空虚で、逆に何かしらの意図があるのかと、オーセリエは彼を問いただした。
すると彼は初めて口を閉じ、少し考えたあと、笑って、女性と会うときの口癖だと言った。
自分のみならず全ての女に対するあまりの不誠実さに、義憤して、オーセリエは彼を平手で打った。
彼にとって死角である左から、となれば卑劣さに踏みとどまったかもしれないが、オーセリエは左利きだった。健常な右手に防がれるかと思った平手は、まともに入った。
彼の、赤く痕のついた頬を見て、両親は泡を食って娘の非礼を詫びた。オーセリエも自身の衝動的な暴力を深く恥じていたが、一方で、彼の詭弁は許し難く、いずれにせよ破談だろうと、謝りはしなかった。
ソゾン伯爵家の本流は、武勇と暴虐で知られたホーゼンウルズ辺境伯家である。今では王家にも由縁がある。もはや縁談以前にどうか事を荒立てないよう、平身低頭する両親を見ながら、オーセリエは黙ったままでいた。
彼は両親の願いを聞くともなく、それでいて怒るようでもなく、ただ笑って、オーセリエの左手を取った。彼女の腕をねじり、彼女にだけ見えるよう意地悪く笑うと、手の平に口づけた。
そして、求婚した。
まさかの話に破顔した両親と、彼の家との間でとんとんと話が進み、そしてオーセリエがソゾンに嫁いで、半年以上が過ぎた。
未だに慣れぬことが多々ある。結婚とは、夫の家に入るとは、全く新しい世界に足を踏み入れ、そこに自分を染めることだ。オーセリエもその心づもりで来た。しかしソゾン伯家の家風を知るたびに、相容れない自分を感じる。あまりに放蕩、あまりに傍若無人。とはいえ、意外にも、彼の親族達――つまり、悪名高きエデルカイト家の面々達――は友好的で、そしてどこか同情的でもあった。彼の妻であるという理由で、何かとオーセリエを気にかけている。そして世間体の良い夫であるから、少なくとも外聞には幸せな若夫婦だということになっているのだろう。
確かに、夫といる間は退屈しない。忙しい政務や外遊の間に、彼は妻を誘って趣味を楽しんだ。かつての神童という評判どおり、彼は多才で、知識と興味、人脈の多さはひとかどのものであった。活動的に狩りや野遊びに出かけたかと思うと、芸術もたしなみ、歌曲を聴くことも好んだし、時には自分で詩も詠んだ。そして自分の趣味に妻を伴うことを、煩わしいと思わない人間だった。
それでいて、恐ろしいほどこちらの心情を読む。心ない、人でなしであるにもかかわらず。
オーセリエが疲れているときは声だけかけて一人で出て行くし、人前で気疲れしたときなどはさりげなく、別室で休むように誘った。本格的に不調となれば、気張る彼女をさっさと寝台に寝かしつけた。
今も、そろそろオーセリエが身動きしたくなった頃に、夫は手を止めた。
「この辺りで終わりにしよう。ありがとう、気が済んだ」
あくまで手慰みだと強調しながら、夫は先を続けない理由を付け加えた。
「色の混ぜ方や塗り方を教わる時間はなかったんだ。まあ、いずれ、暇になったらまた習ってみよう」
ソゾン伯の地位を継ぐ目算となっている夫が暇になるのは、あと何十年先のことだろうかと、オーセリエは遠い未来のことを思った。漠然とした図像は体を起こす内に消えて、興味は目の前の、裏を見せたキャンバスに移った。
「見ても?」
「下手だよ」
夫はやけに卑下してみせる。だが拒絶はしなかったので、オーセリエはゆっくりと立ち上がると、夫の隣に回った。
首を曲げて、視線だけをキャンバスに落とす。身をかがめればもっとよく見えるだろうが、今は難しい。
キャンバスには、大きく、自分の上体と、長椅子の枠が描かれていた。輪郭や簡単な線だけの素描だ。案の定、巧い。この状態の絵を見たことはあまりないが、よく描けているように思えた。細部を見ればいかにも荒いし、線一つ一つを見れば意味をなさない。しかし全体として出来映えがするのは、構図の良さと、物の特徴を的確に捉えているからだろう。何をさせても上手くやるのだと、夫への評がより確かなものになる。
でも、とオーセリエは初見の違和感のために、賛辞を口にしなかった。
絵の中の自分は、おだやかに微笑んでいた。
嘘つき、と心の中で夫をなじる。
嘘と言うほどのことではない。少なくとも彼が常日頃口から吐く大小の嘘よりは、よほど害がない。彼も、あの画家のように、人を描くときの作法に従っただけだ。
しかしいくらかの反骨心を、押さえきれず、彼女は言葉にした。
「こんな風に笑いましたか」
滲んだ非難の色に気付くと、夫は自身で描いた妻の顔をなぞり、実際の妻の顔を見上げて、それから苦笑した。
「僕にはあまり笑わないね」
そして視線を落とし、オーセリエの体にそっと触れる。
「でも、この子にはよく笑うようだ」
優しく、丸くふくらんだ腹をさする。自然と、よくするように、オーセリエは両手で夫の右手を覆った。触れあった部分から、お互いの、いや、3人分の熱が伝わるようで、静かに心を埋める幸福感に、目を細める。
気づけば、夫が再びオーセリエを見上げていた。
かあっと顔が熱くなる。あんなふうに、絵の中のように、自分は笑っていたのだろうか。はっきりとした自覚はないが、しかし考えてみれば確かに身に覚えがあって、しかもそれをたびたび夫に見られていたのか思うと、オーセリエは恥ずかしくなった。
「このところ、よく中から蹴るものですから、くすぐったくて……」
夫は微笑んで、何も言わなかった。
キャンバスを丸めながら、夫は思いついたように言った。
「この子が生まれたら、また描こう」
今度は本物の画家を呼んで、と笑う夫に、オーセリエはその様子を考えた。そうしたいし、そうするべきだし、きっとそうするだろう。我が子誕生の記念に、そして家の繁栄を顕示するために、必要なことだ。個人の是非が混じる部分ではない。
一度うなずいた後、オーセリエはじっと夫の顔を見た。不思議そうに首をかしげる彼から少しだけ視線を落として、言い添える。
「貴男が、いいわ」