<前の小話へ  ホーム  次の小話へ>

 サヒヤとエヴァの話。約6,300字。




馬 鹿 の 話



 夜が更けて、サヒヤはベルスート城の地下へと、階段を下りた。
 本来の用途として、この城の地下にも、平生使われない道具や食料を保管しておく部屋があったが、もう一つ、全く別の目的で設けられた空間があった。入り口も階段も分けてある。まず階段室に立ち入るのでさえ、見張りの兵の許可を得る必要があった。この城の令嬢の侍女たるサヒヤは、当然見とがめられることなく彼の前を通った。
 この城には、いくつものヒエラルキーが存在し、複雑に関係し合っている。ほとんど全ての頂点に、城主であるホーゼンウルズ辺境伯オブリードが立つのは間違いないが、例外もあり、各ヒエラルキー間の力加減は時の采配によった。何しろこの城は辺境伯領の政治の場であり、城主達の生活の場であり、ホーゼンウルズ全土の社交の場でもあったからだ。
 まず支配者達の血族によるヒエラルキーは、今のところ、ホーゼンウルズ辺境伯オブリードを筆頭に、夫人であるエルメイア、その娘のシェリー、そして甥であるケンニヒで構成されている。彼らは、本質的な意味での城の住人である。しばしば招かれる彼らの友人や親族、客人達は、彼らとほぼ同等の扱いを受けた。
 次に公の側面として、やはり辺境伯を主君として、側近や大臣によって構成される家臣団と、それと同等の権威を持つ辺境伯領正規軍である"栄光騎士団"が存在する。正規軍とは別の軍隊として、シェリーを主君とし、血縁の従兄ケンニヒがその長に就く、"誉れ高き近衛兵団"もベルスートに常駐していた。騎士団と近衛兵団は別の主君を頂いているが、効率の面から平時はほとんど区別されておらず、人材の交流も盛んである。
 生活の面では、家令と家政婦の元、男女に分かれて、一般の使用人達のヒエラルキーも確立されていた。当然、これらの平民階級出身の者達は、もっぱら他の全てのヒエラルキーの下位に属した。とはいえ、城は彼らの存在なくしては回らない。日常の場でも、会議でも、公式晩餐会でも、ありとあらゆるお膳立てをし、後片付けをするのは彼らの仕事だ。
 そして、彼らと同じ使用人身分でありながら、それぞれの支配者に仕える侍従達は、支配者直轄のヒエラルキーを有し、表立って政や戦に関わることこそないが、時に主人達の代理として扱われることさえあった。
 特にサヒヤなど、城の鍛錬場で栄光騎士団も近衛兵団も、そして主君達でさえ容赦なくたたきのめすものだから、一目置かれている。先ほども、見張りの兵に立場上サヒヤは会釈してみせたが、むしろ相手が背を正して敬礼を返すほどだった。
 階段を下りた先で、堅固な扉をたたく。向こうで、何かが動く気配がした。扉にはのぞき窓が付いている。それが動いた。
 部屋の主ならばいいが、以前、物言わぬ従徒の白濁した目が迎えたことがある。サヒヤは心構えをしたが、幸い、今回現れた顔は見知ったものだった。相手の背が高いせいで口元だけが見える。
「どなたでしょうか」
「私です。母の薬を貰いに」
 サヒヤが答えると、間もなく錠の外れる音がした。
 ゆっくりと扉を開けて、部屋の女主人がサヒヤを迎え入れた。
 中は、仰々しい入り口からすると拍子抜けするほど、狭い部屋だ。まず目を引くのは、向かいの壁の半分を、天井まで占める棚で、その中には所狭しと瓶や箱のたぐいが並べられている。その隣の、やはり隙間なく本や書類の並べられた書架と併せて、視界の大部分を埋める。中央には小さな、2脚の椅子に挟まれて、食卓机とも作業台とも付かない簡素な机が置かれ、隅には、やはり簡素な寝台と物書き机、衣装箪笥が別なく置かれている。
 一見して、何かしらの知的な技術者の、仕事場兼私室だ。正確に言えば、医術士の工房である。診察室といってもいい。
 しかしその場を清廉潔白な人命救済の場と見るには、さらに奥へと続く扉の存在を見過ごす必要があった。
 かつては牢獄だったという広大な一画は、今やそれよりおぞましい場所へと変貌している。
 サヒヤは直接見たことはない。しかし生死に関わらず、多数の人間がそこに運ばれるのを、城の誰もが知っている。堅固な守りと、ごく少数の関係者の口の堅さによって中の様子が漏れ伝えられたことはないが、この部屋の女主人は、仕事場に世にはびこる種々の病を蒐集し、凄惨な人体実験を繰り返し、さらには生きた人間の臓器の働きを利用して薬を作っているとも噂されている。
 いずれも吐き気を催さんばかりのことだが、彼女の冒涜的技術が、主人をはじめとして多数の人間の生を支えてきたのも確かだ。現に、サヒヤもシェリーに仕えるようになって以来、母の持病の薬を彼女に処方してもらっていた。完全に治ることはないが、少なくとも薬を飲んでいる間は体が楽だという。
 女主人、エヴァは、音もなく中央の机の向こう側に腰かけると、サヒヤにも着席を促した。
「お母様のご様子に、お変わりはありませんか」
 サヒヤが応じて座ると、彼女はさっそく問診を始めた。言葉こそ優しげだが、表情は一つも変わらない。見れば見るほど、恐ろしいほどに整った顔立ちだ。翠玉のように色濃い緑の瞳は半ば伏せられて、かすかに寄せられた眉根と併せて、どこか物憂げで儚い印象を与える。これから休むところだったのか、いつも一つにまとめてある金髪はおろされて、優雅な曲線を描いて垂れていた。肌は、灯されたランプ一つではぬぐいがたい夜の闇の中で、輝くばかりに白い。
 まるで、いっそ、彼女の操る屍と変わりがない。
 屍と闇の中で相対することを想像して、サヒヤは改めて、この部屋にそれらがいないことを幸運に思った。
 初めて彼女の屍を見たとき、まるで生きているかのごとく、彼女の指図に従って動く様に、怖気が走った。これが彼女の出自である北方ではごく当たり前のことだと言うから、サヒヤは固く、たとえ何があっても北には行くまいと心に決めた。
 屍が、サヒヤは苦手だ。斬れる気がしない。生きているものなら斬ってしまえば大人しくなるが、すでに死んだものを斬ってどうなるのだろう。むろん、斬れば、おそらく動かなくなるだろう。足がなくて手だけで這うようならば、腕も切り落としてやればいい。縦に斬るのが一番確実かもしれない。しかし、腕では自信があっても、頭がそれを拒否した。死者を良いようにすることに是非を唱えるような倫理観とも無縁のはずだが、とにかく、生理的に、サヒヤは屍達に嫌悪と、ともすれば恐怖を覚えていた。
 幸いにも、目の前の女と対峙することはなさそうだ。少なくとも、同じ主人に仕えている間は。
 手順があるのだろう、毎回決まった質問に、サヒヤはだいたい同じように答えた。適当なわけではなく、このところ母の様子は落ち着いている。最後にサヒヤが、同じ薬を飲んでいれば良いようだと伝えると、彼女は席を立って後ろの棚からすでに用意してあった袋を取った。振り返り、ついでに聞く。
「風邪薬は必要でしょうか?」
「まだ余りがあるようです」
 それからエヴァは戻って机に袋を置いたが、さらについでを思い出したのか、サヒヤに手を差し出した。
「貴女も。腕を見せてください」
「ああ」
 言われて、初めてサヒヤは自分の右腕の痣のことを思い出した。今朝こしらえたばかりだ。痛くないわけではない。ただ庇って動くのにあっという間に慣れたため、忘れていた。
「打っただけですよ。今さら、どうしようもない」
 言いながらも、サヒヤは素直に袖をまくると、斜めに一筋青く染まった小手を見せた。
「そのようですね」
 見たり触れたり、サヒヤの肘を回したり、ひととおりを確かめると、エヴァはうなずいた。
「一応、湿布を出しておきましょう」
 そう言って再び、後ろの棚に向かった。彼女はためらいなく一つの小箱を選んであけたが、何百と並べられた薬は数も形も様々で、サヒヤには見当も付かない。
 自分の腕に付いた痕と、彼女の後ろ姿、そして薬棚を順に眺めて、ふとサヒヤは聞いた。
「その中に、馬鹿につける薬はないんですか?」
「口が過ぎます」
 エヴァは振り返ると不遜な言葉遣いをたしなめたが、即座にサヒヤは切り返す。
「誰のこととは言ってませんよ」
「…………」
 エヴァの返事がなかったのは、やりこめられたからではなく、あらためて問いただす必要を感じなかったからだろう。すでに共通の認識ができあがっている。
 他でもない"馬鹿"を――今朝の稽古の様子を、サヒヤは思い出していた。
 剣技には守るべき型が存在する。斬り込むばかりではいけない。一撃で敵を屠れれば言うことはないが、普通は攻防一体となって初めて体を成す。そのことを繰り返し、サヒヤは彼女に教え込み、叩き込んできた。
 しかし模擬剣で斬り結んだそのとき、引けと教えた場所で、彼女は踏み込んできた。不意を突かれて右腕を打たれ、サヒヤは剣を取り落とした。一本取ったと彼女は瞳を輝かせたが、直後、激怒したサヒヤの拳に殴り倒された。
 それから小一時間も説教を受けたが、彼女が反省した様子はなかった。
「何度教えても、引くことはおろか、止まることさえ覚えない人間を、馬鹿と呼ばずして何と呼びますか」
 行儀悪く頬杖をついて、サヒヤは"馬鹿"を繰り返したが、やはり、エヴァは答えなかった。
「では、命知らずを直す薬は?」
 と、言葉を変える。とはいえ、答えを求めたわけではない。ただの軽口だ。
 彼女の無鉄砲は、何も斬り合いに限った話ではない。とかく、命を平気で投げ出しかねない危うさがある。一兵士ならまだしも責務ある立場にもかかわらず、とサヒヤは何度も口を酸っぱくしたが、いっこうに、聞き入れるどころか、話を理解した風さえない。生来の性格もあるだろうが、躾けられてのことのように思えて、しかもそれが誰の手によるものなのか容易に想像できて、腹立たしさが増す。
 思い浮かべるだけでも忌々しく思えて、サヒヤは眉間を寄せた。
 それを見て、エヴァは口を開く。
「ある種の香薬は、闘争心を失わせ、人の心を平穏にすることが分かっています」
 は、とサヒヤは耳を疑った。まさかあるとは思っていなかった。さらに、とエヴァは淡々と、平気で恐ろしいことを続ける。
「また頭部を開いて中身の一部を取り出せば、衝動性を抑えることも可能です」
「――――」
 地域や系統はどうあれ、医術士達の熱心さには時折空恐ろしいものを感じる。時に彼らには、患者、あるいは被験者を、例えば自身の意のままにしたいといった思いさえないのだ。ただ純粋なる好奇心。切なる探求心。純真に人を救おうと志す者もいるだろうが、その裏に、彼らが言うところの"人体の神秘"への欲望が渦巻いている。
 案の定、その先は悲惨なものだ。
「ですがどちらも、人の気質そのものを、不可逆に変えてしまう術です。副作用として、無気力で無為自閉となり、あるいは完全な廃人と化す」
 それは本意ではないでしょう、と言い締めて、彼女は自分で提示した可能性を否定した。
 確かに、考慮するまでもない。闘争が、生命の火の迸りだとして、燃えさかってこそが美しい、それが主という人間だ。その猛々しい意気が消沈してしまえば、見るべくもない。
 ならば太く短く、燃え尽きてしまうのが定めなのだろうか。
 最後まで聞いて、サヒヤは黙ってエヴァを見つめていた。彼女が湿布を持って机の側に立ち、自分の前に置くのを。サヒヤがそれを取れば、診察は終わりだ。あとは夜分の非礼を詫びて、退室すればいい。
 しかしサヒヤは不作法に頬杖をついたまま、エヴァの顔をにらみつけていた。
 彼女の答えは、何もサヒヤのために用意したわけではなさそうだ。すでに自分で考えたことを、なぞったように聞こえた。そしてもう一度確認するように。その真意を、サヒヤは待った。
 能面のような顔でサヒヤの様子を眺めていたエヴァは、やがて、彼女が立ち去る気がないのを知ると、再び席に着いた。わずかに、向かいのサヒヤの眼より視線を落とす。
「私は」
 そして、やはり平然と、彼女は言った。
「あの方の脚の腱を一つ、断ってしまおうかと考えたことがあります」
 一瞬、サヒヤのうなじの辺りが、ちりりとざわついた。主に他人が危害を加えるような行為は、例え話であっても血が騒いだ。しかも、目の前の女なら、立場としても腕としても、いともたやすくやってしまえるだろう。サヒヤが、腰に携えた剣を意識するより早く、エヴァは自分の言葉を否定した。
「ですが、たとえ走れなくなってもあの方は進まれるでしょう。ならば、せめて走れる脚があった方がいい」
 それが彼女の出した答えだ。
 やはり、と頬杖を説いて、胸の前で腕を組んだ。
 サヒヤとエヴァとでは、仕える年季が違う。正真正銘の子供の頃から、もう10年にもなるのだという。サヒヤの憂いなど、今さらの話だ。しかもただの主従の間柄ではない。密やかではあるが、確かに、お互いを想い合っているのは、近しい者なら自然と知れた。
 彼女の所作は感情など無いかのようだが、人を想う気持ちがあるなら、やはり心があるのだろう。
 治さねば、主人は死ぬ。しかし治せば、また去っていく、その繰り返しだ。
「理不尽な話です」
「そうですね」
 吐き捨てるような感想に、エヴァはうなずいた。腕組みをといて、サヒヤは机の上で拳を握った。
「あんなやり方では、早い内に死にます」
 むしろ、今まで死ななかったのが不思議なほどだ。
「そうかもしれません」
 よりはっきりとした言葉で斬りつけてもその表情は変わらなかったが、おもむろに彼女は視線を上げた。
「ただ、あの方には、人を集める才があるようです」
 と、サヒヤを見つめて、言外にサヒヤと、他の人間、そして彼女自身のことを指した。
「あるいは、人を惹きつけてやまない天賦の才が」
「どうだか」
 正直サヒヤには、主にそこまで能があるとは思えない。人選はいつも全くの思いつきで、でたらめだらけだ。子飼いの手先はいくつもいたが、全てを掌握しているとは思えない。
「でも、貴女が言うならばそうなのでしょう」
 こと客観性に関しては、この女の目をサヒヤは信頼していた。どんな局面であろうとけして理性を失うことがないために、今の従医としての立場を守り続けている。利のための犠牲も算段できる。
 サヒヤが納得を見せると、エヴァは先を続けた。
「あの方を生かすのは、あの方自身と、そして私達だと、私は思っています」
 と、不意にサヒヤの右腕を取る。
「私があの方を癒す泉となるよう。貴女はあの方の先を拓く剣となるよう」
 触診のようになでるでもさするでもなく、ただその拳をほぐして、両手で包む。そして決意を誘うように、握った。
「――――」
 この女にしてはずいぶんと詩的で、情緒的で、いくらか劇的なやり方だ。まるでこのところの主の振る舞いに習ったようで、サヒヤは口角を上げた。
 しかし茶化すことはしなかった。
「では私はあの方の、一降りの剣でありましょう」
 答えて、その手を握り返す。お互い、けして細くしなやかな女のそれではない。一方は扱う薬と毒でささくれだち、一方は握る剣で節くれ立っている。
 サヒヤの意志を聴き、そして目で見ると、エヴァはそっと手を離した。
 解放されたその手で薬袋を取り、サヒヤは立ち上がった。
「夜分に長々と失礼をしました。薬を、感謝します」
 扉をあけて半身出ると、振り返って告げる。
「お休みなさい」
「お休みなさい。良い夢を」
 女主人は自身も立ち上がり、扉の錠に手をかけながら、彼女を見送った。

 そしてサヒヤは、地獄のような、あさましくも厭いがたい、生と死の葛藤の場を、後にした。




<前の小話へ  ホーム  次の小話へ>