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 タイトル通りの話。約3,700字。




お嬢様はケンニヒ様と結婚するんですか?



 人々が噂話を好むのは世の常でしたし、時にその噂話が根も葉もないものであることも、やはり世の常でした。
 ルディが城にいながらにして聞く外の話も、大半は伝え聞きで曖昧模糊としています。耳から入ったものが口から出る間に形を変えるのだから、不思議だなあといつもルディは思っていました。お互い承知の出来事でさえ、見る間に大小の尾ひれがついて、やがて勝手に人の間を泳いでいくのです。
 ルディが直接仕事を教わる上司や先輩達は、そういった不確実な話を好まない人達で、人口の間を漂う噂話よりも信頼できる筋からの情報を頼りにしているようでした。しかしそこから離れれば、他の使用人達は口慰みとばかりに種々の噂を口に上らせます。
 どれもいずれはどこかへ流れて消えてしまう話題ばかりでした。そんな中で最近女中達の話の種になっているのは、城主の一人娘がいったい誰を婿に迎えるか、という話題です。
「お嬢様が、結婚するんですか?」
 ルディが聞くと、なじみの洗濯女中は笑いました。
「そうよ。お嬢様だってもう年頃だもの。偉い人ならなおさら、結婚はお国の大事でしょ」
「この前の舞踏会で誰か見初めちゃったりしなかったのかしら」
「前は、隣国の王子様が来てたって話じゃない。美形で独身!」
「王子は駄目よ、だってシェリー様がこのホーゼンウルズを継ぐのよ」
「家柄は大事だけど、次男か三男くらいが良いわね」
 きゃあきゃあと、何度も浮ついた声が上がりました。
 洗濯場の女中達は、直接主人達と関わることはないため、呑気なものです。気軽に主人やその関係者を、遊技の駒のように空想の舞台のあちらこちらに配置して、役割を演じさせ、筋書きが進むたびにああだこうだと評点がつきます。
 ルディにとってみればその主人達が具体的な人物であるために、逆に現実味のない話で、はあ、とか、へえ、とか、おおよそ気のない返事をしていました。
「あたしはケンニヒ様だと思う」
 不意に聞き慣れた名前が挙がって、あ、とルディは思いました。
「やっぱり本命はそこよねー。姫君と騎士とか、王道で燃えるわ」
「いつも一緒にいるし。ね、ルディ君」
「そう、ですね……」
 正直なところ、想像したこともなかったので、意外には違いありませんでしたが、同時に、妙な説得力にうながされて、ルディはうなずきました。
 彼女達の言うとおり、騎士と姫君には違いがありません。この2人の役が登場するお話をルディも幾つか知っていました。姫君と騎士は、幾多の困難を乗り越えて結ばれるのです。
 もっとも、どのお姫様だって、ズボンを履いて戦場に立ったりはしませんでしたが。そしてこのお城の姫君の側に立つ騎士だって、恭しく手をとり口づけたりはしません。
 でも2人はいつも一緒に居ました。仲むつまじく寄り添うと言うよりは、背中合わせに、あるいは肩を並べて。そんな様がすぐ目に浮かびます。
「お二人は、とても仲が良いですから……」
 口にしながら、いかにも言葉足らずで、ルディはもどかしく思いました。
 仲が良いという表現ではとても言い表せないくらい深い間柄でしたし、不道徳な仲でもありましたし、本当に仲が良いのかと疑うほど暴力的なやりとりをしていることもありました。足蹴にしたり、首根っこを捕まえたり。殴り合い斬り合うことも珍しくありません。
 そもそも城内や出入りの貴人達を見てみると、手放しで仲が良いと思える夫婦は少ないようでした。ですから夫婦関係において仲が良いということはあまり重要ではないようにも思えましたが、きっと、仲が悪いよりは良いでしょう。
 心の機微に疎いルディにだって、2人の間に何か、他の人では代われない何かがあるのが分かりました。
 求め合うことも、頼り合うこともなく。それよりもずっと自然に。二人が一緒にいるのは、当たり前のことに思えたのです。
 やっぱり!とひとしきり盛り上がった後に、洗濯女中もルディもお互い仕事の途中でしたから、それ以上話が続くことはありませんでした。けれど、ルディはその日の間ずっと、そうかな、そうかもな、そうかしら、とふわふわした疑問を胸に抱いていました。
 そして夜になり、ルディは開きました。
「お嬢様は、ケンニヒ様と結婚するんですか?」
 寝室に、寝る前の香茶を一杯、いつものように持って行ったときのことです。
「…………」
 長いすに腰掛けていたお嬢様は数秒、ルディを真顔で見つめました。何の意図かと内心いぶかしんでいたのですが、無知で無垢で無邪気な侍女見習いが、持ち前の素朴な好奇心を発揮したのはこれが初めてではありません。それに気づいて納得すると、改めて質問の意味を吟味して、それから、にやあ、と笑いました。
「ケンニヒとか。悪くないな」
「馬鹿をおっしゃい」
 すぐ近くに立ち、話し相手になっていたサヒヤが、不機嫌そうにお嬢様をたしなめます。
「最悪よりはまだマシ、という程度の相手です。得にならないどころか、赤字が出ますよ」
 身分の垣根を斬り伏せ踏みつけて、辛辣にサヒヤは言い捨てました。
「そうか?」
「そうです。貴族の次男坊なのは構いませんが、まず、財力がない。どこぞの領地を持っているわけでもない、財産どころか貴方から俸給を貰う身でしょう」
 うんうんと、素直にお嬢様はうなずきました。どこか得意げに、近衛兵団のことを指して言います。
「私があれらを養ってやってるんだ」
「頂いた資産を運用するような才覚があるわけでもなし、持参金を期待しようにも、あの親子から、どれ程せしめられると思いますか」
 と、サヒヤは言外に、彼の生家であるソゾン伯爵家を挙げました。
「持参金どころか、ホーゼンウルズのどこぞの分割を要求されかねんな」
「現状、ソゾンとホーゼンウルズの両エデルカイト家の間は十分に親密ですから、わざわざ婚姻関係を結ぶ利点は大きくありません。
 お父上が早々にソゾンを接収しようとなさるなら別ですがね。それなら長男の方とさっさと結婚させてしまえば良かった」
 それを聞いて、お嬢様は珍しく、心底嫌そうな顔をしました。例え話すら疎ましげに、首をそらします。
「あの男と結婚するくらいなら自分でここを掻き切るぞ」
「そういう話になったらお暇を頂きますので、介助はできませんよ。独りで上手くおやりなさい」
 悲壮な覚悟を受け流して、サヒヤは続けました。
「ソゾンの次男坊の場合はもっと悪いことになるでしょうね。宗家と分家の両方に、叔父上様の血が入ることになる」
「叔父上はたいそうお喜びになるだろうな」
「間違いなく、あれよあれよと母屋を乗っ取られますよ」
 ソゾン伯とは、小太りで気弱そうな笑みを浮かべた、まるで人を油断させるような外見をしている人なのですが、近親者によると、内心で蛇のように狡猾でしたたかで計算高い、という枕詞が常について回りました。
 一つ一つ、サヒヤの言うことに相づちを打ち、それが終わると、お嬢様はルディに向き直りました。
「だそうだ」
 まるで最初から分かりきっていて、わざわざ説明させたようにも見えました。
「そうですか……なんだか、大変なんですね」
 まあ四方八方にひどい言いようではありましたが、それ以上に、複雑な話なのだとルディは理解しました。女中達が言うような個人の間の感情よりも、財産だとか家だとか血だとか、そういう話になるようです。お嬢様は頷きました。
「生憎、我が身一つとして自由になる生まれではない。中でも、あの男は候補にも挙がらないほど条件が悪い。最悪の一歩前だと」
 けらけらと笑います。
「私人としては悪くないと思うがね。あの男の相手なら慣れている。今さら何を気にするような間柄ではないし。ああ、新鮮味が足りないな。今さら過ぎる。でも」
 不意に、お嬢様はルディに顔を向けたまま、もっとずっと遠くを見るような目をしました。そのまま、微笑んで言います。
「あの男なら死ななそうだ」
 あいつと違って――と、お嬢様は言いませんでした。
 でもその視線の先に誰かがいる気がして、ルディは思わず振り返りました。しかしやはり、後ろには何もありません。そしてルディが気をそらした内にお嬢様が香茶に口をつけ、それで話は終わりになりました。
 その横顔を、伏せられた睫毛を見ながら、この話題にまつわる何かが過去にあったのだとルディは察しました。
 きっと、誰かに聞けば、逸話の一端は明らかになるでしょう。
 けれど聞き伝えというのはいかようにも形を変えて、その真偽は誰にも分かりません。思い出でさえ、確かなことは何もないのです。覚えていたはずのことは忘れ、信じていたはずのことも後で誤っていたことが分かるのです。
 ならばせめて、当の本人から直接聞くことがいつかあるかしら、と。どこか焦がれるように、ルディは思いました。




「ケンニヒ様は、お嬢様とは結婚しないんですか?」
 翌朝、兵士達でごった返す修練場で。
 汗と埃にまみれた場内には到底似つかわしくない、まるで愛玩犬のように華奢な少年が、丸々頭二つ分も背丈の違う巨漢にそんな疑問を投げかけて。
 普段感情を露わにすることのない彼に、苦渋に充ち満ちた、腹の底からわき上がる苦虫を奥歯で噛み潰したような、つまり眉根を寄せ唇が歪みほどに歯を食いしばる、心底、嫌そうな顔をさせた。
 というのは、結構な一大事でありました。




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