小さい頃のトーマスと、エイミー・ポリーの話。約4,600字。
は じ ま り の 話
トーマスがウェストサイドホームにやって来たのは、6才になるかならないかの頃でした。
ウェストサイドホームは、なんてことのない、普通の町です。
大きくもなく、小さくもなく。大都会というわけでも、田舎というわけでもありません。
海沿いにあって、ビーチがあれば港もあります。鉄道の中心駅は海の方にありましたが、町の中心部はそれより少し奥に行ったところにあります。背の高いビルが建ち並ぶ中心部からは四方八方にメトロが伸びて、郊外には住宅街や、ちょっと山の方に行けば、牧場や畑が広がっています。
ママに手を引かれて、トーマスはこの町に住むおじいちゃんとおばあちゃんのところに、やって来ました。
お日様がかんかんと照る夏の暑い日で、ノドがからからで、ママもトーマスもどこか憂うつでした。
今日からおじいちゃんとおばあちゃんと一緒に住むのだと、ママは言いました。
パパはいません。
この町に来るまでトーマスは、パパとママと一緒に暮らしていました。
でももうパパはいないのです。
どうしてだか、トーマスには思い出せません。思い出そうと頭が痛くなるので、トーマスは、大人たちが言うように、何も考えないようにしました。ただとてもひどいことがあったのは確かで、そのせいで、トーマスたちはここに来なくてはいけなくなったのです。
なんとなく、それは僕の右目が見えなくなったことと関係があるんだろうな、とトーマスは思っていました。今トーマスの右目は、壊れて、見えなくなって――というよりも、完全に、無くなってしまっています。代わりにはまっているのは作り物の目玉です。作り物だから見ることはできないし、左目が動くようには動きません。それをほかの人に見られるのが嫌で、トーマスはずっと病院でもらった眼帯をしていました。
「ねえママ」
と、道を歩きながら、トーマスはママに聞きました。さっきのことをずっと聞かなきゃいけないと思っていたのです。聞くなら今がいいだろうなと思いました。
「僕らがここに来なきゃいけなくなったのは、僕のせいなの?」
パパがいないのは、とトーマスは言いませんでした。パパの話をすると、ママはとても悲しそうな顔をするからです。そうでなくても、ママは、トーマスの質問を聞いて、泣きそうな顔をしました。すぐに、振り払うように前を見て、ママは言いました。
「違うわ。あんたのせいじゃない。私の――いいえ、誰のせいでもないのよ。ただ、巡り合わせが悪かったの」
その言葉はまるでママが自分に言い聞かせているようで、じゃあきっと僕もそう信じた方がいいんだろうな、とトーマスは思いました。ただ信じるというのは時々、とても難しいことでしたが。
一軒の家の前に着くと、ママはここがおじいちゃんとおばあちゃんの家だと言いました。そしてトーマスの手を強く握って、いい子にするのよ、と言い聞かせました。ママの手は汗をかいていて、それが暑さのせいだけではないようで、トーマスはドキドキしました。トーマスは、ここに来るまで、2人がいることさえ知らなかったのです。おじいちゃんとおばあちゃんはどんな人だろう。やさしい人かな、怖い人かな、僕いい子にできるかな、とトーマスは精一杯考えました。
「ねえあなた、キャンディじゃない?」
けれど、いざ庭を越えて玄関に行こうとしたとき、急にトーマスたちは呼び止められました。声のした方を見ると、隣の家の垣根から、女の人が顔を覗かせていました。ママが返事をするのを聞いて、この人ママのことをキャンディと呼んでるんだ、とトーマスは気づきました。ママはもっと別の名前なのですが、女の人は懐かしげにキャンディ、キャンディと繰り返しました。ママが時々トーマスのことを、プッペとかポポルとか呼ぶのと同じようなものかしら、とトーマスは見当をつけました。
「やっぱりそうよ。久しぶりね。もう何年経つのかしら? あなたったら全然帰ってこないんだもの。すっかり大人になったのねえ。やだ、それじゃ私も年を取ったってことね」
女の人は早口でママに話しかけましたが、ふと隣のトーマスに気づいたようで、あら、と声をあげました。
「この子、まさかあなたの子供? そっくりね。はじめまして。私、ママのお隣さんで、小さい頃からお友たちだったのよ」
そしてトーマスと目を合わすと、にっこりと笑いました。
「はじめまして……」
恥ずかしくて、トーマスはママの後ろに隠れながら、返事をしました。
「もうこんなに大きいの? うちの双子たちと同じくらいじゃないかしら。私も結婚して、子供が生まれたのよ。うちの場合は両親がもっと田舎に住みたいっていうから、私たち家族でこの家に住んでるの……」
女の人はとりとめなく、昔の話や今の話をしていましたが、だんだんトーマスはそわそわしてきて、ママのジーンズをにぎったりひっぱったりし始めました。大人たちが話をしているときは、自分がここにいてはいけないように感じるのです。病院ではよく、先生やママや、他の大人たちが、深刻な顔をして話し合っていました。それを見つけると、トーマスは決まって気づかなかったふりをして、自分の部屋に戻りました。
下を向いたまま顔を上げないトーマスを見て、女の人は声をかけました。
「昔話なんて子供には退屈よねえ。ねえあなた、家の中に入ってみる? ちょうどうちにも、あなたと同じくらいの子供がいるのよ。かわいい女の子たちよ。双子なの。双子って見たことある?」
「…………うん。あるよ」
スーパーや公園で時々見る、同じ顔をして同じ服を着ていたり、二つ並んだストローラーで寝ていたりするやつだ。トーマスは分かった気になって、女の人に頷きました。
女の人が庭から2階に向かって呼びかけます。
「ポリー、エイミー、おりてらっしゃい! お友だちよ!」
はぁいママ、と声が聞こえました。
「さ、入って。あの子たちすぐ降りてくるわ」
女の人が指差すように、庭を通って、トーマスは隣の家の玄関に立ちました。
知らない玄関に立って、トーマスはまたドキドキしました。そっとドアを開けると、中から涼しい空気が漏れてきて、少しトーマスをほっとさせます。勇気を出して、トーマスは、えい、とドアを開けました。外の強烈な明るさに比べると、中は薄暗くて、静かです。玄関からまっすぐ奥に廊下が続いていました。右手には階段があります。その上から、トントンと階段を降りる音が聞こえました。
女の子が2人、とトーマスは思いました。どんな子たちだろう。一緒に遊んでくれるかしら。嫌われないかな。僕、何か変なんだもの。右目が見えないし、すぐ頭が痛くなるし。
ぐるぐると心配が頭を回ってトーマスは逃げ出したい気持ちになりました。その内に、階段の上から女の子の足が現れました。次に体が現れて、それから、顔が見えて――
トーマスは逃げることも忘れて、立ち尽くしました。
「あなたが、ママの言ってたおともだち?」
「中から聞こえてたのよ。あなた、お隣にひっこしてきたの?」
2人はトーマスを見つけると、階段の上からめいめい話しかけました。しかしトーマスは2人が何を言っているのかまったく分からずに、
「君たち、いったいどうしたの?」
やっとこれだけ言いました。とにかく、驚いていたのです。
2人は不思議そうにトーマスに聞き返しました。
「どうしたって、なにが?」
「そんなにビックリすることがあるかしら」
「だって、君たち……」
どう言っていいのかわからなくて、トーマスはただ2人を見ていました。やっぱり不思議そうに、2人もトーマスを見返していましたが、やがてトーマスが2人の体のことを言っているようだと見当をつけて、答えました。
「どうもしないわ」
「私たち生まれたときからこうなのよ」
「生まれたときから……」
呆然と繰り返すトーマスに、2人は、そうよ、と念を押しました。
それから逆にトーマスの眼帯を指して、聞きました。
「あなたこそどうしたの?」
「ケガをしたの?」
「僕は…………」
トーマスははっと我に返ると、右目のあった場所を押さえました。
なんだか痛いような気がしたのです。2人を見て、痛くなったように感じました。
それは痛いというよりむしろ、悲しいとかつらいとかいった気持ちでした。
2人の言葉を頭の中で繰り返します。
僕の右目が生まれたときからこんなだったら、パパとずっと一緒にいられたのかな。
急にそんな考えが浮かんだのです。
(これは後から考えると間違ったことだったのですが、とにかくこの時のトーマスには、こう思えてなりませんでした。それはトーマスなりに自分たちに起こったことを順序立てて考えて、長い時間をかけて答えを出すまでの、一つの通過点でした)
2人は目を押さえてうつむいたトーマスを心配して、近くまでよりました。
「痛いの? お医者様に行く?」
「大丈夫? 見せて」
2人はトーマスの顔に触るとやさしく手をどかして、ナースのような手つきで眼帯をめくりました。
あっとトーマスは思いましたが、もう手遅れでした。2人に見られてしまったのです。泣きそうになって、目をぎゅっとつぶりました。それでも右目の方はうまくまぶたが閉じてくれなくて、ますますトーマスは泣きそうになりました。
「あら……なんてことはないのね」
2人は眼帯の下をまじまじと見て、言いました。
「大丈夫よ、ちゃんときれいな目玉が入ってる」
トーマスはそれを聞いて、信じられない気持ちになりました。
みんな、トーマスの右目を見ると、気の毒そうな顔をするのです。ママもお医者さんも、先生も。かわいそうに、とトーマスの頭をなでて抱きしめてくれるのですが、そんなときトーマスはいつも消えてしまいたい気持ちでした。そんな顔をさせてしまうのは、ほかでもない自分なのですから。自分が悪いんだと思って、ごめんなさいと頭の中で謝っていました。その顔を見たくなくて、眼帯をして、目をつむるのです。
けれど2人は、違うことを言いました。
おそるおそる目を開けて、トーマスは2人に聞きました。
「……そうなの?」
「そうよ」
「平気よ」
トーマスの眼はちゃんとしてるといったのです。
そうかな、そうなのかな、としばらくトーマスは下を向いて、口をもごもごさせていました。そうよそうよと2人は答えていましたが、あんまりトーマスがうつむいたままなのでだんだん心配になって、言いました。
「でも痛いのなら、ママに言った方がいいわ」
その言葉にようやく、トーマスは顔をあげます。
「ううん、大丈夫……痛くないんだ」
首を振って、それから少し、笑いました。
ママの言ったことをわかったような気がしました。
ぱっと2人は笑顔になると、2人そろってトーマスの手を取りました。
「私ポリー」
「私はエイミー」
そろって言ったものだから結局どっちがどっちなのか分かりませんでしたが、トーマスも答えて名乗りました。
「僕、トーマス。今日ここに来たんだ」
「この町は初めて?」
「うん」
「じゃあいろいろ教えてあげる。とってもいいところなのよ」
「海があるのよ。山には牛さんもいるの」
2人はトーマスをリビングまで連れて行くと、冷蔵庫からレモネードを出してくれました。
ひんやりした飲み物はトーマスの喉をすべって、心の硬くてぼこぼこした部分も、少し洗い流してくれたように感じました。
外から、2人のママの声と、それからトーマスのママの笑い声が聞こえました。
ウェストサイドホームは、なんてことのない、普通の町です。
でもとても素敵なところだなと、トーマスは思いました。