ルディとシェリーのお話。約3,700字。
『オールソーンの兄弟同盟』
ある日のことです。
おりからの雪はやみ、ベルスートの空は青く晴れ渡りました。長く厳しい冬の間には滅多にないことで、人々は今とばかりに雪をかいたり物を干したり、屋外の仕事をやっつけてしまいました。春に備えて球根を植えたり、庭の壊れた垣根を直しもしました。
そんな城内のせわしない様子を話の種にしようと、ルディが執務室の扉を開けたとき、中はすでにもぬけの殻でした。
「お嬢様?」
温かい香茶の乗った銀盆を手に、ルディは呼びました。返事はありません。一応扉の影を見てみても、誰もいませんでした。小用で席を立った――と、考えることができればよかったのですが。
執務室の大きな窓は開けっ広げになり、傾いた光がさんさんと振り込んでいました。
「また……」
ルディは執務机に香茶の銀盆を置き、おそるおそる下を覗きました。
目をこらすと、真っ白な雪の上に足跡がついていました。ちょうど窓の下から、館の裏の林に向かって。
執務室は階上にあるのですが、お嬢様のような魔法使いには問題にならないようです。ルディは実際に、目も眩むような高さの塔からお嬢様が飛び降りるのを見たことがあります。何か不思議な力に支えられて、鳥の羽根のようにふわりと、お嬢様の身体は地面に降り立つのです。
こういうときにはとても便利な魔法でした。
まだ部屋の空気は冷え切っていません。ルディは駆け足で、執務室を後にしました。
足跡をたどって、ルディは林を進みました。
雪の上の跡は、ルディのものとそう大きさは変わりませんが、ルディよりも大股で、規則正しく、堂々とした足取りで、それでいて当てもなく、林の奥に続いていました。
木々の合間に目指す人の姿を見つけたのは、程なくのことでした。
「お嬢様」
ほっと息をついて、ルディは駆け寄りました。
気づいていないはずはありませんが、お嬢様は構わず前へと歩き続けました。ルディに挨拶もしなければ、見すらしません。代わりに誰ともなく、しゃべり出します。
「オールソーンの兄弟同盟がまた、トルド自治領に関して文句をつけてきた。彼処は帝和条約で陛下の間接統治が認められた地だぞ。彼奴ら余程、純白鉱石に執心と見える」
宙の何かをにらみつけながら、とりとめもなく。
時折あることでした。こういうときルディはいつも、首をかしげながらお嬢様の話を聞いていました。何しろ何を言っているのか全く分からないのです。
あれは人の名前かなあ、これは地名かなあ、などと見当はつくのですが。
あんまりにも分からないことだらけなので、一度ルディはそれを謝ったことがあります。どれほど話を聞いても、ルディにはお嬢様のためになる助言などできるはずもなく、とても申し訳ない気持ちになりました。僕ではとうていお役に立てないので、どうか他の人にお言いつけください、とお願いしました。
するとお嬢様は当たり前のように、答えました。
『分からなくて当然だ。もしお前が私の言葉を理解していたら、私はお前の首を斬らなきゃいけない』
真っ青になったルディに、知らない方が良いこともあるのだと、他の侍女達は言いました。
だからルディは分からないまま、ただお嬢様が話すのを聞くだけでした。
お嬢様の低い声。根雪の上の新雪を踏む音。枯れ枝が折れる音。遠くに、甲高い鳥の声が聞こえました。
一度だけ、ルディは自分からお嬢様に声をかけました。
「あの……お嬢様、寒くはありませんか……」
お嬢様は仕事着である三つ揃いの上にガウンを羽織ってはいましたが、外を歩くには薄手に見えました。ルディは屋敷から、外套を持って出ていました。一抱えもある、分厚くて立派な、毛皮の外套です。
お嬢様は初めて振り返って、ルディのことを下から上まで眺めました。
「お前の方が、よほど寒そうだ」
「あ……」
ルディは裾の長いワンピース以外、上着すら被っていません。でも寒いのには慣れっこでしたから、特にどうとも思っていませんでした。まともな服を着ていられるだけ、ずいぶんましです。
ふいと、お嬢様はルディから視線を外しました。
「私はいい。お前はそれを着ていろ」
そう言われて、主人の前で堂々と外套を羽織れる召使いがいるでしょうか。
結局ルディは外套を抱えたまま、お嬢様の後ろについていきました。
それきりお嬢様は黙ってしまいました。
考え事をしているのか、遠くを見つめながら、前に歩き続けます。
斜め後ろから見るお嬢様の顔は、いつもの顔とは違って見えました。お仕事をしているときの顔です。きりりとした眉はそのままに、口元は閉じて。真面目な顔です。でも、つまらなそうに、ルディには見えました。
ルディに向き合うとき、お嬢様は笑っています。
ひどいことをするときの顔です。めちゃくちゃをします。とても恐ろしいはずなのに、それでもルディはやっぱり笑っている方のお嬢様がいいなあと、ぼんやり思っていました。
それにしたってお嬢様はどうして、こんなことをするのでしょう。
執務室は、暖房室から送られた空気で十分に暖かです。なのにわざわざ寒い外に出て、目的もなくぶらぶらと歩くのです。
初めて空っぽの執務室に遭遇したとき、ルディはすぐ先輩の侍女に助けを求めました。彼女は心得ていて、すぐさま言いました。追いかけろ、と。
お嬢様にはお仕事があります。とても大事です。この国の未来を決めるお仕事です。だからふらりといなくなってしまったお嬢様を、ルディたちは追いかけなければいけません。追いかけて、見つけて、そして部屋に連れ戻すのです。
最後の使命は、ルディにとっては無理難題でした。
ですからルディはただ追いかけて、お嬢様を見つけて、後をついて回りました。わけのわからない話を“うん“とも“はぁ“とも言えないまま聞き続けて、早くお嬢様の気が済まないかと願いました。
追いかけずに待っていたら案外早く戻ってくるんじゃないかしら、と考えたこともあります。
けれど誰しも、お嬢様がいなくなったら、後を追うのです。隠れ家から遊びに出た子猫を、親猫が首をくわえて連れ戻すように。
気まぐれな方でした。追いかけなければ、ふっとそのままいなくなってしまうような。
それで、一人で出て行って、誰かと戻ってくるときには、ぶつくさ言いながら歩いてくることもあれば、手を引かれていることもありましたし、時には抱えられていることもありました。
ルディにできるのは、話を聞いて後ろをついて回ることだけです。
それでも追いかけろとみんな言うのです。そしてルディ相手に話し飽きると、ちゃんとお嬢様はお屋敷に帰るのです。
ああだからきっと、これも大事な僕の仕事なんだろうな、とルディは思いました。
「寒い」
唐突にお嬢様がそう言い出したとき、むしろルディは安心しました。
抱えていた外套を広げます。両手でしっかりつかまなければ取り落としてしまいそうなほどずっしりとしたそれは、きっと冷えた身体を暖めてくれるでしょう。
見るなり、お嬢様は言いました。
「父上の外套だな」
「えっ」
慌てていて気づかなかったのですが、確かに気をつけてみれば、外套からはルディに馴染みのないにおいがしました。男の人のにおいです。お嬢様の外套に比べて、幅がだいぶん広いでしょうか。
気を回したつもりで粗相をしてしまいましたが、誰のものであっても外套には違いないでしょう。お嬢様も拒む様子はなかったので、ルディはその肩に、お父様の外套をかけました。
「父上のにおいがする」
裏地に鼻をよせてどこか懐かしそうに言った後、お嬢様は手を広げたり裾を払ってみたりしました。たっぷりとあしらわれた縁取りに雪が絡みます。
「大きいな」
「すみません……」
いくらお嬢様の背が高いからといっても、男の人とは違います。せっかく立派な外套だというのに、裾を引きずって歩くことになるでしょう。自分の失敗が恥ずかしくなって、ルディは顔を伏せました。
「ちょうどいい」
言うなり、お嬢様はルディの肩を抱きよせました。
外套の端を広げて、ルディの身体を包みます。
驚いて、声も出ませんでした。
されるがままに、お嬢様の身体にぴったりと寄り添い、そして身動き一つとれなくなりました。
「冷えたな」
お嬢様はルディの肩を抱いて、その冷たさを笑いました。
ルディは、ただ小さくうなずくだけでした。
震える手で、外套の端を取ります。お嬢様の手が離れることを期待して。
何でもない顔でこういうことをするのです。
どれほどルディのひ弱な心臓が鳴り響いているか、知りもしないでしょう。
それとも知っていてでしょうか。ひどいことをするのが大好きですから。
困った人だな、とルディは思いました。
お仕事中に部屋を抜け出して、追いかけた先ではこんなことをします。
ああ本当に、大変なところに来てしまったと、繰り返し、ルディは思いました。
やっとの思いで、息を吐いて、吸いました。冷たい空気が胸に広がります。
部屋を出て、半刻は経つでしょうか。夕刻の鐘にはまだ間がありそうですが、もう日は傾いていました。木々の隙間を通して、橙色の光が白い雪の上に散らばります。
夜になれば、きっとまた雪が降るでしょう。
それまでに帰らなければ、今度こそ本当に凍えてしまうでしょう。
一つの外套にくるまって、お嬢様とルディは、歩き出しました。