サヒヤの過去話。5,000字程度。
サヒヤは、いつも道場を見ていた。
渡り廊下を掃くとき、
城主達の食事の膳を下げるとき、
洗い場に荷を運ぶとき。
女中としての隙ない労働の合間に、手を止め、足を止めて、じっと、男達が剣を振るうのを見つめていた。
まだうら若い乙女が、汗を散らしながら剣を打ち合う男達を、熱の入った目で見るものだから、すぐに同輩の間では噂が立った。あの中に意中の相手がいるのだとか、ならそれは誰それであろうとか。
そしてある日、一人の若い剣士が、サヒヤに声をかけた。
見知った相手だが、お互い言葉を交わすのは初めてだった。名乗り合うと、男は何故そんなに道場を見るのかと、サヒヤに問うた。
剣を触ってみたいのだと、サヒヤは答えた。
女の身で剣を振るうことは許されていない。男は困ったように笑ったが、結局サヒヤと約束を取り付けた。
数日後、男が鍵の番をする夜に、二人は道場で落ち合った。
初めてサヒヤは剣に触れた。いつも食い入るように見つめていたそれを前に息をのみ、慣れない手つきで柄を握る。何度も握り直して、その質感を確かめた。
薄明かりの中で、頬を紅潮させたサヒヤの横顔に、男は目を細めた。
月の下、年若い男女のことである。
その晩サヒヤは犯された。
合意の上であったと、あるいはサヒヤから誘ったのだと男は言うだろうか。
どちらも真意ではないが、覆す術も考えもサヒヤは持っていなかった。
サヒヤは女であって、相手は男であった。
平民であるサヒヤに対し、男は士族の息子であった。
サヒヤには生まれたときから父がおらず、母と二人で住まいを転々としてきた。頼る実家もない中、母親は病に倒れ、サヒヤが一人でそれを養っていた。
抵抗して敵う相手ではないし、もしそれが上手く行ったとしても、男は気分を害するかもしれない。男が苦言を呈すれば、代わりの女中を雇えばいいと、女中頭は考えるのではないだろうか。
常識も貞淑も節度も、すべて、持てる人間の理論である。サヒヤのように持たざる者には、縁のない話で、路傍で飢えて死ぬことを思えば些細なことだった。
番が回るたびに、逢瀬を重ねた。
鍵をくすねる方法を覚えると、男が来るより早くサヒヤが居て、一人で剣を振るっていた。
剣の扱い方について、サヒヤが男に尋ねることはなかった。ただ闇雲に、見様見真似で体を動かす。ずしりと重いはずの剣は次第にサヒヤの手に馴染んだ。
ある晩、道場には男以外の影があった。
数人の、男よりも先達の門下生達が居並んでいた。彼らに囲まれた男は、下卑た笑みを浮かべた一人に肩をこづかれ、曖昧に笑った。請うような、すがるような目でサヒヤを見る。
その夜は、数人に犯された。
最初こそ腕や足を押さえられていたが、サヒヤが抵抗する素振りを見せないと、彼らは銘々好きにサヒヤの体を扱った。最中に声を上げてやると、彼らはなおさら機嫌を良くした。横目でサヒヤが見ると、男は泣きそうな顔でそれを見ていた。
同じような夜が二度三度続き、やがてサヒヤが道場にいるとき、それは自由に犯して良いということになった。だからサヒヤは毎晩のように道場に行った。
男達は駄賃とばかりに、サヒヤにとっては分不相応な品を置いていくことがあったから、小銭に換えるとサヒヤは母親に送ってやった。他より少しだけ贅沢な食事を、一人だけ別室でとることも許された。
代わる代わる貫かれ、すり切れるほどに揺さぶられながら、何故それでもここに来るのかと自分に問うて、母親のことを考えた。病で足が立たなくなって、間借りした家の手仕事を請け負い、時折便りをよこす母親の姿が浮かんだ。
しかしそれが遠くに霞んでいるようで、サヒヤは冷たい床の上でただ剣を抱いた。
まだ日の高い内に、男がサヒヤを呼び止めた。彼の顔を見るのはあの夜以来だった。
物陰で男はサヒヤの手を取ると、ここから逃げよう、と言った。痩せた体を抱いた。
どうして、とサヒヤは返した。ここには何だってあるじゃない、と。
男は、前に見たように、顔をゆがませた。
乱交が幾晩か立て続いた後の朝に、サヒヤは捕らえられた。
夜な夜な道場で行われる不謹慎沙汰が、城主の耳に入ったのだ。
城主に代わって責のある高弟が、他の門下生達に命じ、サヒヤを縛り上げ、折檻させた。
全身を打ち据えられ、血の混じった唾液を吐くサヒヤを見下ろしながら、高弟は重々しく道理を説いた。
いわく、卑しい身分で士族の子弟をたぶらかすとは言語道断である。剣士の栄光ある志を惑わす悪行に他ならない。また、女の身で神聖な道場に立ち入るのみならず、剣を握ったその罪はもはや贖い難いと。罪の重さを十分に自覚せしめんと、昼の間中、サヒヤは腕を縛られたまま日の照る中庭に転がされた。
そして夜となり、かがり火のともされた中庭で、門下一同数十人がサヒヤを取り囲み、処刑の運びとなった。不名誉な私刑であるから、砦の門は固く閉じられた。
首を刎ねるのに邪魔にならないよう、長い髪は切りそろえられた。ざくりと鋏で落とされていくのが髪以上の何かのようで、軽くなった頭をサヒヤは力なく横に倒した。
身動きのとれない女を斬るのは下賤な首切り役人の仕事であり、士の道に外れるからと、縄がほどかれた。群衆の真ん中に突き出されて、かろうじてサヒヤは立つと、震える舌で空気をなめた。
相対する、まだ髭も生えない少年の手は震えていた。物のついでに、彼に少し早い人斬りを経験させてやろうと、誰かが言ったのだ。
構うことはない、と野次が飛んだ。
一度斬ってしまえば慣れると。
高弟が号をあげ、少年は剣を構えると、サヒヤに向けて走った。
一歩、二歩、三歩――教え通りによく計られた飛び足では、距離は数えるほどもない。
サヒヤと少年の視線が交差する。恐れと憐れみを抱いた瞳は、しかし真っ直ぐに、サヒヤの喉元に殺気を迸らせていた。
斬る場所が分かれば、動きは知れてくる。ましてや見慣れた剣技である。奪う気もなく、取るためにサヒヤは手を伸ばした。
二人の影が交わった瞬間、血しぶきが上がった。
果たして、袈裟懸けから吹き出した鮮血は、少年のものだった。何事が起きたかも分からぬといった顔のまま少年は、サヒヤの足下に崩れ落ちた。
自由になったその手には、するりと刃が収まっている。
「ああ本当」
馴染んだ握りを手の中で翻して、サヒヤは誰ともなく言った。
「斬ってしまえば、どうということはない」
それから、全員を斬った。思いつく限り、全員を。
不思議と痛みも疲れもなかった。剣を振るってさえいれば立っていられた。走っていられた。
向かってくる腕を、逃げる背中を、おびえた横顔を、悲鳴にふるえる喉を、失禁した腹を、もつれる足を。
刃が骨でこぼれれば、脂でぬめって斬れなくなれば、また新しい剣を奪った。
騒ぎを聞いて飛び出してきた使用人も斬った。知った顔も知らない顔も、皆斬った。
そうして奥に、吸い込まれるように、歩を進めた。
城主の部屋の扉を、サヒヤは蹴破った。
中には城主と、男が居た。あの男だ。城主は毅然とした表情を崩さずに乱入者をにらみつけたが、男は振り返ると、血にまみれたサヒヤの姿に顔を引き攣らせた。
「どうしてここに――」
その言葉に、サヒヤは事の次第を理解した。
建前として、門下達による私刑であるから、城主は自室にこもって、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。そして男もここにいた。
男が密告したのだ。
そして今回の騒ぎの元凶となった、己が身を恥じよと、城主直々に説教を受けていたのだ。
「お前が、お前が悪いのだ」
顔を覆い、男はわめいた。
「俺は、お前を――お前のために――なのにお前は――」
そう、とサヒヤは心の内で答えて、掌もろとも男の顔を斬った。血と共に、いつか繋いだ指が散った。その下の顔は、半分になってもまだゆがんでいた。苦痛と、嫉妬に。他の男に抱かれる女を見るに耐えられなかった男の顔だ。
「悪鬼め――」
目の前で門下が肉塊と化すのを見て、城主は引き結んだ唇の間から罵言を放った。腰のひときわ大きな剣を抜く。
壮年の盛りは過ぎようという体から、異様な闘気が立つ。正気ならそれだけで気圧されてしかるべきだが、ぐるりと、サヒヤは視界を回して、笑った。彼の言葉がおかしくて、おかしくて、仕方がなかった。今この人間は何と言っただろうか。
「あなた方が、私にとって理不尽であるならば」
誰が、誰で、誰にとって、何であるというのだ。
「私もあなた方にとって、理不尽であり続けましょう」
誰が、誰に、何だったというのか!
城主が構えた瞬間、サヒヤは手にした唯一の武器を、彼に向かって投げつけた。
とっさに信じられぬ行動だったのだろう、たたき落とす間はなく、城主は身を翻してそれを避けた。その跡をサヒヤが追いかけることで、二人の位置が入れ替わる。壁に追い詰められる形となったが、サヒヤの狙いは城主にはなく、その奥、壁に掛けられた白い剣をめがけていた。
エイドス剣術に古くから伝えられる秘剣、と、砦で働く内にサヒヤは聞いていた。
吸い寄せられるように柄を握り、鞘から引き抜く。抵抗もなく、輝く刃が抜き身となった。鍔はなく、わずかに反った白い刀身から、朝露のように燐光が落ちる。重心は確かであるのに、羽のように軽かった。
城主が目を見張る。
エイドス剣術の開祖が天より授かったと言い伝えられる、エイドスの誇りともいえる神剣である。それが瞬く間に悪鬼の手中となれば、比にならぬ憤怒が彼を煽った。同時に、その刀身が、彼の師からも聞いたことがないほど澄み渡るのを見て、氷が背中を滑るような錯覚を覚える。
即座に、城主は、奇妙な構えをとった。
剣を大きく体の後ろにねじる、道場では見たこともない構えだ。
秘技のたぐいだろうとサヒヤは見当をつける。有象無象を斬ったときとは違う感覚に、サヒヤは半歩退いて身構えた。握った剣の軌跡をたどられまいと、身の後ろに隠す。
そのまま対峙して数瞬、不意にサヒヤは滑稽な矛盾に気づいた。
城主は、これをサヒヤに見せてはならない。見せればサヒヤは、砂が水を吸うように、この技を覚えるだろう。人非の悪鬼が、大陸最強と謳われた剣の秘技を識るのだ。あってはならぬことである。
しかし見せなければ、城主は死ぬ。
見せてサヒヤを斬れればそれで良い。しかし斬れるだろうか。秘技を振るうに敵う相手である。使わねば斬れない、しかし使っても斬れるかどうか分からぬ相手であった。そしてその手には神剣が握られている。
ならば、見せずに斬られるべきであろうか。彼は当代の宗主であるが、未だに教えを受けた師や、分けた同輩は存命であり、そしてすでに与えた弟子は幾人も独り立ちしている。彼らに後を託して、目の前の災厄に殉じるべきであろうか。
サヒヤが気づいたときには、彼も気づいていた。己の生死と剣の道とを賭けた葛藤が、城主の額に汗となって浮き上がる。
サヒヤは動かなかった。ならば、見届けなくては。
一人で道場を見つめていたときのように、得体の知れぬ渇望に突き動かされて、サヒヤは城主の全身を凝視した。見たい。識りたい。欲しい。
刹那、あり得ない位置から、剣が伸びた。
それは四肢の筋肉の完璧な制動がなした御技だ。ねじりきった蔓が、跳ねるようである。城主の全身が鞭のごとくしなり、サヒヤを薙ぎ払った。
速く、重く、いったいこの世のどんな剣技がこれに比類するであろうか。
大剣がサヒヤの左腕もろごと、肋から肺腑までを、押し斬る。
そこまで見て、サヒヤは動いた。まだ城主の体は跳ね始めたばかりである。どこからどう動くかすでに見切れている。大きく空いた彼の背中に、身を滑り込ませる。
下段から、斬り上げる。
重さは全くなかった。
かと言って空を切る虚しさとは違う。
隙間に誘い込まれるような、まるで向かい入れられたような、あるべき、肉と骨を筋を断つ完全な手応えが、サヒヤの手に伝えられる。
大きく振り下ろした勢いのまま、城主の上半身は半回転しながらどう、と地に落ちた。
返り血はすでにサヒヤの全身を余すところなく濡らしている。しかし刀身を汚すことはできず、珠となってこぼれた。
「露の刃」
一度だけ聞いた、その名をサヒヤは口にした。
由来は、斬った血が露となってその刃を滑る様からとも、あるいは人命がその刃を前に、朝露のように儚いからとも。
握り直すと、サヒヤは部屋を後にした。
その晩、ヒンブル砦の城主とその家族を始め、住み込んでいた門下数十人、使用人に至るまで、全員が虐殺された。
未だにそれが何者の仕業であるかは謎のままであり、そしてまた、剣術の秘宝である神剣の行方は、ようと知れない。