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 兄妹の話。約7,000字。






 1年ぶりに訪れた生家は、やはりよそよそしかった。
 幼い頃にソゾンを離れて、もう10年以上になる。その間に帰郷したのは片手で足りるほどだ。責務に追われていたと言えば、言い訳はたつ。事実、鍛練と政務と主君の相手で、日々は忙殺されていく。だがそれ以上に、足が向かなかった。わざわざ帰る必要性を感じられない。もっと言えば、そこに“帰る”という感覚すら――よほど意識しないと言葉を忘れるほどに、希薄だった。
 母は、自分が4才の時に死んだ。記憶はあまり定かではない。父はすぐに後妻を娶り、5才の時には異母妹が産まれた。これもやはりおぼろげである。妹が初めて話すのを聞いた頃に、本家であるホーゼンウルズの辺境伯から、一人娘の小姓として望まれた。主君であり実兄でもある当主に心酔する父は、喜んで自分を差し出した。
 それ以来、故郷のソゾンを離れ、もっぱら辺境伯領のベルスート城で暮らしてきた。年数でも記憶に残る出来事の数でも、当然見知った人も、ソゾンよりベルスートの方が多い。
 成人する直前に一時、独りで当てもなく他国を放浪した経験がある。頼る相手もなく、路傍で夜を明かしたこともあるが、異国の地でさえ生家を恋しく思うことはなかった。
 そしてより長くを過ごしたベルスートにしてみても、それは同様だった。
 主人である従妹とは兄妹のように育てられた。気心の知れた仲で、他人もそう扱うのに慣れていた。ただ、偉大な辺境伯を、世辞でも父と呼べるほど気楽な仲ではない。主人であり、従者であるという前提が覆ることはなかった。
 自分のあるべき場所と言えば、主君の隣を思う。互いに慣れ合いすぎて、厭わしいことすらあったが、彼女の側に居る自分こそが正しい姿だと認識している。だがそこから義務という概念を差し引けば、果たしてどれほどの想いが残るだろうか。分家に生まれ、本家で小姓として育ったのだから、果たすべき使命は思い返すまでもなく、身に染みついている。今さらこの生き方から、公と私を分かつことは出来ない。だが仮に1人の個人として立つことを考えたとき、帰属する場所を彼はまだ見出していなかった。
 せめて、父は自分を捨てたのだ、あんな家に帰ってなどやるものか、などといういじけた心があれば、まだ和解の糸口があったのかも知れないが――実際の所、生家と彼を縁遠くさせているのは、ひたすらの居心地の悪さだけだった。

 この度の帰郷には、いくつか目的があった。
 一番は、父親が家族の揃った肖像画を描かせようと計画したことだ。
 その話を持ちかけられたとき、絵師をベルスートに寄越せばいいと彼は答えたが、父の思惑ではなかったらしい。のちに父や妹に口添えされた主君から直々に、帰郷を言いつけられた。
「たまには母君の墓でも詣でてこい」
 厄介払いのように、ひらひらと手を振る彼女の口から発せられた言葉が、もう一つの目的になった。それから、最近生まれた兄の第一子を見る目的もあった。彼にとっては甥にあたる。これは兄がぜひにと、再三誘ってきたことだ。さすがにまだ丸裸も同然の赤ん坊をベルスートまでは連れて来られない。寝るか泣くか乳を吸うことしかしないのだから、見せてどうなるものでもない。何のことはない、ただの親馬鹿だが、ともかく口実になった。
 こうして、かつて望まれてそこから離れたように、再び望まれて、彼は生家を訪れた。

 もてなしは充分で、不都合はなかった。
 ――――気遣いが過ぎて、逆に居心地が悪いのだと考えるのは、さすがに不誠実だろう。
 ソゾンの領主で、この家の主であるはずの父親は小心を装うのが好きで、妙におどおどと自分に話しかけてくるから、やりにくい。あれこれと気を配って、先回りしていたようだが、こちらがその意図通りに動けるとは限らない。城内を案内する者を付けようと父が言い出したとき、彼は丁重に断った。さすがに広間と食堂の場所くらいは心得ていたし、それ以上は、寝起きする部屋さえ分かれば十分だった。旅先の家を、いちいち上から下まで子細に見て回るだろうか。――いや、むしろ他人の家財や装飾、庭の自慢であれば、まだ聞いたかもしれない。
 父の後妻は、快く彼を迎え入れた。父と一緒になって自分を構おうとするが、おっとりとした性分で、反応に一喜一憂してみせる父親よりは落ち着いている部分があった。馴れ馴れしいこともなく、義母という立場だけで気安く母と呼べるはずもないが、他人行儀さが丁度いい。
 兄だけは親密に接してくるが、彼に屈託がないのは、別にこの家の中だけに限ったことではない。さらに言えば、自分相手に限ったことでもない。真意の透けない態度のせいで、ある意味最も油断がならず、向かい合ったときの緊張は今も昔も、ここも外も変わらない。兄の妻は若干気構えた様子だったが、女にしてはお喋りではないし、口を開くときは真っ直ぐと向き合ってくるので気苦労はなかった。
 1年前の来訪もやはり兄絡みで、彼の結婚式だった。そのときは主君と共に、半ば公務であったから、あまり里帰りという感覚はなく、来客として扱われる分勝手がよかった。
 結局、周囲の期待と、彼の自覚の齟齬が、この所在のなさを生んでいるのだ。
 いっそ他人の家であれば、縁故もなければ、居心地が悪いのも当然で、堂々としていられる。しかし、いくら当人が意識せずとも、生まれというものは付いて回る。
 懐かしいだろうと聞かれれば、そうだと答える――
 身に覚えのない思い出話に、耳を傾ける――
 家だ、家族だと言われて、違和感を呑み込み、頷いてみせる――
 そういった煩わしさのせいで、彼はこの地にあえて足を運ぶことなかった。

 5日の逗留の予定で、最初の晩餐は身内だけで行われた。酒を酌み交わし、しばらく歓談した後、旅の疲れがあるからと彼は部屋に引いた。
 当然ながら、自分の部屋などというものはない。
 かつての子供部屋は、今は兄夫婦の寝室になっているらしい。立ち入る気にはなれない。きっと内装も変わってしまっているだろう。
 そういえば、ソゾンの建物の雰囲気は、質実剛健を旨とするベルスートとは多少異なる。やや柔和で、色彩が豊かだ。建てられた年代が新しいし、当然父親の趣味が反映されたであろうし、さらに、隣国の影響も色濃いのだという。生母も、父の後妻もそこの生まれだ。以前から交易や交流が盛んで、父親は今後も関係をさらに強める気でいる。
 寝台や鏡台、衣装戸棚など一通りの家具が揃えられた客間の中で、持ち込んだ物――主に、衣服――は、すでに荷解きされ、収められていた。
 今となっては彼自身が小姓を従える身で、ソゾンにも同行させていた。身の回りの世話のためにと言うよりは、見聞を広めてやる意図の方が強かったから、城に着いて早々、荷物さえ運べば後は好きにしろと、自由にさせてやった。まだ14になったばかりの少年だが、自分よりは余程社交的だ。顔も見せないということは、うまくやっている証拠だろう。小姓の不在を彼は全く構わなかった。従妹などは朝起きてから寝るまで何くれとなく侍従の手を煩わせることを好んだが、彼は平時であれば、自分のことは自分でした。
 寝間着に着替えると、慣れない寝台に身を横たえる。
 枕が変わると寝られない、などという繊細さとは無縁のはずだが、寝付けないだろうという予感はした。
 まず物理的に、窮屈なのだ。
 彼の身長は、並の男と比べて頭半分ほど飛び抜けている。父方も皆低い方ではないが、おそらく長躯の多い母方の血筋だろう。エデルカイト家の記録の中では最も大柄だという。
 流浪の頃が一番、背が伸びた。あの欠食状態でよくもと自分でも思うが、日々着ている服が小さくなった覚えがある。ベルスートに戻ってからも成長は続き、小柄な父はもとより、兄の目線に並んだかと思うと、伯父の背丈も超え、気づけば彼に居並ぶ者はほとんどいなくなった。何とか人中の範囲ではあるが、女と話すときなどは一歩引かないとお互い顔も見えない。体躯もまた人並み以上であったから、敵を畏怖させるには都合がよかったが、日常では時に、差し障りを生んだ。
 ベルスートであれば彼の背丈に合った寝台が用意されているが、そう広くない部屋に効率的に収められた客用の寝台は、しばしば彼の体格に合わない。今回は幸いにも身が余るということはなかったが、頭上にも足下にもわずかな余地があるだけだ。
 傍らの灯りをつけたまま、彼はじっと天井を見上げていた。
 しばらくして、扉を叩く音がした。
 軽やかで、ともすれば弱々しいそれから、女の手が浮かぶ。
 慎重に身を起こすと、彼は扉に近づき、ゆっくりと開いた。廊下には点々と灯りがともされている。
 彼がソゾンに着いてから夕餉の場まで、ついぞ姿を見せることのなかった妹が、そこに立っていた。
「兄様」
 小首をかしげて、妹は微笑む。
 その顔は乏しい灯りの下でも分かるほど青ざめていたが、頬と唇は薔薇色をしている。双眸は潤ませながら、妹は聞いた。
「入れてくださる?」
 答えを待たずに、妹の体は彼の脇をすり抜ける。
 残り香に顔をしかめて、彼は扉を閉めた。
「せっかくケンニヒ兄様が来てらっしゃるのに、ご挨拶もできなくてごめんなさい」
 体調を崩して伏せているのだと、義母は言っていた。そのくせ、靴も履かずに、裸足で、妹は部屋の中央に立つ。
 闇の中で浮き上がるような、真白な服を着ていた。せめてこんな時くらいは他の色を許せばいいものを、と彼は思うが、義母の意思は頑なだった。
 汚れのない純白の衣装は、妹の身の純潔を表すのだという。
 恐ろしく馬鹿馬鹿しい着想だが、義母はこれを最善と考え、父もそれをよしとした。妹は生まれてこの方、髪留めや刺繍の糸に至るまで、白以外を身に着けたことはない。彼が直接見る以外、どの絵にも、白い衣装に包まれて微笑む妹が描かれていた。
 そして家族の肖像に妹が揃うのは、おそらくこれが最後になる。そう聞かされたことも、生家への重い足を踏み出す理由の一つになった。
 妹は、近い内に他家へと嫁ぐ。
 彼女の母の生家と縁のある、隣国の王族が相手に目されていると聞いた。
 あちらとこちらで人質をやりとりする、まるで物々交換だ。あるいは父親にとって血を分けた子供達は盤上の駒と同じで、自身の遊戯を有利に進めるために使われる。1人は手元に、1人は主君に、そしてもう1人も。妹も彼と同じように、外に出されるのだ。
 より良い成果をあげるためには、駒に価値がなくてはいけない。悪徳で知られた一族の中で、妹はあえての潔白を喧伝させられていた。だがその戒めにどれほどの作用があるのだろうか。
 穢れを一切知らないはずの生娘に、胸元も脚も露わにした、まるで娼婦のような恰好で男の部屋を訪れさせるのだから。実の兄とは言え、夜分のことである。
「私、とても楽しみにしていたのよ。だって兄様がソゾンに来られるなんて、滅多にないことでしょう? お見せしたいものがたくさんあるの。ベルスートにはクラヴィーアがないけれど、私、とても上手に弾けるようになったのよ」
 それが目的だったといわんばかりに、妹の口は些事を吐き続ける。小さな手を顔の前で結んだり、ほどいて広げたりしながら。相槌すら待たずに繰り返される可憐で愛らしい仕草を、彼は冷めた目で見つめていた。
 その内に、妹の手が、彼を寝台へと誘った。

「兄様」
 巨躯の上に跨がって、妹は彼を呼んだ。
 その体はか細く軽い。常人の中にあっても小柄が目立つから、自分と比べると何か別の生き物のように思えた。並んで立てば頭二つ分程も差がある。こうしてお互いを重ねてみても、彼女の痩身が覆う部分はあまりにも少ない。全身汗ばんではいるが決して体温は高くなく、所々、別の部分をかばうように強張っているのが分かる。不調は嘘ではないようだ。
 抱けば、折れるだろう。握ればひねり潰せる。触れるだけでも壊れそうで、妹の挙動を遮ることはしなかった。
「おかしいわ」
 それを、妹は嗤った。
「兄様は、私が怖いの?」
 指を蟲のように、彼の胸に這わせる。
「兄様はこんなに大きくて、立派な方なのに。私はこんなに小さくて、何もできない女なのに」
 大人と子供だと、言い分けてしまえば簡単だ。小さな子供をあやすように扱ってやれば良い。だが妹の心は今さらの子供扱いをよしとしなかったし、その体も、幼いなりをしながらすでに成熟している。
 見せつけるように、妹は腰を、彼の太股に擦りつけた。熱いものが布に染み、肌を濡らす。
 血の匂いが鼻をついて、彼は眉根を寄せた。
 素知らぬふりで、妹は声をあげて笑った。鈴のような音で、兄を罵り、嘲る。開いた三角から、小さく、その分尖った牙が見え隠れする。
「それとも、ねえ、兄様のような方でも、失うのは怖いものなのかしら?」
 と、布越しに彼の下半身に触れる。妹の痴態を前にして、すでにそこは熱を持っていた。
 兄妹の間で保つべき倫理など彼らは知らない。むしろ血を分けた相手だからこそ生まれる渇望に常に突き動かされている。血の粘りが生む格別の快楽にとらわれている。
 だが彼女の体には鍵がかけられていた。それどころか、棘と毒が仕込まれている。得体の知れない、異教のまじないだ。
 侵入者を拒むためのものであるのは間違いないが、秘所に触れただけで指が飛ぶだの、いや絶命せしめるほど強力なものであるだの、話は種々変わる。
 あるいは全て嘘かも知れない。妹の腹に塗られた朱はただの飾りで、一切効はないかも知れない。
「意気地無し」
 それを試す気概のないことを、妹はなじった。
 当たり前だと、市井の男は答えるだろうか。女一人を抱くのに文字通りの命をかけるような狂人はいないと。ましてや父を同じくする妹である。慈しみこそすれ、よもや女として思うなどと。
 だが事実として、彼は妹に欲情していた。
 幼い肢体が経血を流しながら自分を誘う、奇妙に不均衡な様に、耐えがたい劣情を抱いている。
 さて、自己の破滅もいとわず狂気に身を堕とす血族の一員ではあるが――
 彼の内心には、恐れに似た感情があった。
「お前の言う通りかもしれん」
 ようやく、彼は口を開いた。
「怖い?」
 妹は勝ち誇ったように笑ったが、同時に失望で眉を寄せた。眼前の女を欲しながら怖じ気づく男の姿を、哀れげに見る。
「ああ」
 その目を見つめて、吐露する。
「お前を失うのは、惜しい」
 円らな瞳が見開かれた。
 不意を突いて、結い髪を掴んで、引き倒したい衝動が湧いたが――結局、彼は体勢を転じることも、指一本動かすことも、しなかった。あまりにも容易くて、それ故に甲斐のないことだからだ。
 簡単に得られるものに焦がれなどしない。
 他の女と比べて、彼女の価値などどこにあるというのだ。ただの小娘だ。幼稚な誘い文句を連ねてばかりの、未熟で、男を籠絡する手管も知らない。兄と妹という血の繋がりに頼る程度の能しかない。
 ならば尊いのは、その身の純潔などという、硝子細工のように脆いものだけだ。
 貫いた瞬間、砕けて消える。
 手に入れたと思えばそれは失われるのだ。
 意味があるのは誰からも汚されぬ内だけで、自由になればいかなる放蕩もためらわぬのが彼らの信条であったから、最初の手合いが自分であったと誇れるはずもない。
 ならば芯から湧き出る切望に、身をよじって耐えるのを眺めている方が、気味がいい。
 まじないが嘘であろうと真実であろうと、端からどうでもいい。厳重に鎖をかけられた宝箱も、蝋で封印された恋文も、開いてしまえば中身のつまらなさばかりが目立つ。代わりに閉じたままであれば、たとえ中身が空であっても、恋い焦がれ切なく欲するに値する。
 鍵や棘や毒を口実に、お互い想いを募らせる――その内が、華だ。
 そして、そうであっても、そうでなくても。
「お前のためにくれてやる命なぞ俺にはない」
 男と女として番うだけが、欲望を果たす手段ではない。妹の望みを叶えてやる義理など彼にあるはずがない。
 華奢な背中を抱きしめて、柔肌に指を食いこませ、肉を引きちぎり、骨を砕いて、胎を裂けば――熱い血潮に身をひたしながら、隅々まで食い散らかせば、気が済むだろう。飽くまで愛してやったと満足するだろう。
 そして残るのは、ただの肉塊だけだ。
 女の最期の一声を反芻して余韻に浸るような趣味はない。
 壊してしまうのは惜しいが、壊してしまえば、壊れてしまうようなものに用はなかったのだと、やはり気づくのだろう。
 それでも欲しいなら――と、彼は妹を嘲笑った。
「せいぜい俺がその気になるよう、泣いて縋ってみせろ」
「――――」
 少女の瞳の奥で、炎が燃えた。
 非力な少女の手で、男の厚い胸板に太い腕に、いくら爪をたてても拳を打ちつけても、敵うはずがない。しかし彼女は眼前の獣の牙に怯えることはなく、怒りに眼を爛爛と、彼を睨みつける。身を支えるのは矜恃だけである。

 それから

 真っ白で、窮屈な服を着て。
 身中を割れ鐘のように響く痛みに耐えて、
 辱めにも似た扱いの中で、胸を張って。

 笑ってみせる。

 ああ、これこそが。
 美しく、不様で、気高く、何よりも大切な妹だ。
 壊して奪ってやりたいが、それができない。だからこそ愛おしい。
 心の底から、愛している。

 ほころんだ唇から、詩を紡ぐように妹は言った。
「私達はなんて滑稽なのかしら」
 震える睫毛を閉じ合わせる。
「本当に欲しいのは、手に入らないものだけなんて」
 拍子に、雫が頬を滑り落ちた。
 追うように口づける。

 不快な、紅の味がした。




原寸(とても大きい)

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