<前のイラストへ  ホーム  次の小話へ>

 幼いアスヘールの話。約4,800字。



 (アイツ、今日は来るかな……)
 天を振り仰いで、少年は一人考えた。拍子に額から大粒の汗が滑り落ちて、土で汚れた頬を伝う。ぬぐった右手もやはり汚れていたから、結局、少年の頬のほとんどが泥にまみれた。穢れた、墓場の土である。
 彼の手には大きな円匙が握られていた。それで地面を掘り返していたのだ。
 静寂と秩序が支配する墓場で、子供が一人。町の子供であれば大人も咎めただろうが、一瞥して分かる彼の素性から、誰も彼に声をかけなかった。
 灰のように乾いた髪に、灰のようによどんだ目。代々死者の園を管理してきた墓守の血を、彼も色濃く受け継いでいた。名を、アスへール・グランバレという。彼にとっては、果てしなく平行して横たわる死と生、それらの狭間に位置するこの死者の園が、庭のようなものだ。
 彼の一族は、ホーゼンウルズ辺境伯領が成立する以前からこの土地に住んでいた。かつて初代辺境伯領がこの地に都市を興したときに、彼らの特殊な能力が認められ、町全体並びに辺境伯家の墓を守るという名誉が与えられた。
 一族の責務に対して彼は忠実で、幼いながらも熱心に大人達の見よう見まねを繰り返した。まだ一人前と認められず、正装である黒衣を許されてはいない。普通の子供が着るような、簡素な上衣とズボンを履いている。しかし将来を見込まれ、習わしに従って彼の片目は“塞がれて”いた。
 それら一つ一つの、段階的なイニシエーションを、彼は自身のあるべき姿として――幾分のあきらめを含みつつも――ふさわしいものと認識していたが、同時に一つ一つ重ねるごとに、世界と彼を分かつ壁が高くなっていくのを感じていた。
 まず墓守として生まれつき、墓守として成長していく。運命と言うほど劇的ではなく、かといって選択の余地があるほど自由でもない。あるべくして、望まれて、ならばそう在らんと欲し、為っていく。本人の意志すら巻き込む潮流に、生来ひたされていた。
 壁とはすなわち物理的な境界であり、精神的な隔たりである。
 視線を空から少し下げれば、町をぐるりと取り囲む堅固な壁が否応なく視界に入る。
 壁の向こうに隠れされた町が“世界”であり、彼らはその“世界”から排除された存在である。
 一族の人間がひとたび町へ入れば、誰もが恐れ顔を背けた。
 黒衣で全身を覆い、報せもなく戸口に立つ様は死神に例えられ、しばしば大衆の脳裏で、彼らの仕事道具はいかにも不吉な大鎌へと置き換えられた。生真面目な彼らはこのイメージに大いに憤慨したが――栓のないことである。
 かつては町中まで自由に必要な品を買いに行けたらしいが、店先に立つと不吉であるという理由から段々と立ち入りが制限され、やがては配給を受けるようになった。墓守は役人の一種として行政から給与を受けていたから、定期的な収入の保証されたこの仕事をどの商人も請け負いたがった。しかし実際に指名された店が、この幸運を吹聴することはなかった。墓守と交わした縁から穢れが移ると言わんばかりである。
 町の人々から疎まれ、軽んじられる彼らが、では町の住人ではないかというと、それもまた違った。
 週末ごとに、近隣の農村から人が集まり、広場に市を作る。彼らは通行税を払って門をくぐる外の人間だが、アスへール達と違うのが、彼らにとって町は帰るべき場所ではないということだ。朝早くやってきて、市を立て、その日の儲けで町の品を買い、昼頃には元来た村へと帰っていく。先には家があって迎える家族がおり、果たす役割が存在するのだろう。
 しかし墓守達に他に帰るべき場所なく、あるべき場所は、たしかに、この町だった。
 町の外に居ながら、町に属していた。町の共同体に含まれながら、排斥された。“世界”から疎外され、隔離され壁を建てられているにもかかわらず、付かず離れず壁の外周にへばりつくように。
 広大無辺な実在の世界から見れば、内側に自身を固く閉じ込める町の方がよほど孤立しているのだが、一人の人間が活動しうる限り、影響を及ぼせる限り、という意味合いでの“世界”はひどく狭い。幼い彼にとってはそれこそ、この墓園と、家族と、壁の向こうの秘匿が知りうる世界の全てだ。辺境伯の統治下で他の地域との交易は盛んになり、話だけはいくらでも入ってくる。しかし、いくら大海に思いを馳せようとも、蛙が居るのは井戸の底だ。苔むし、ぬめる壁を、這い上がる隙は無い。
 外に向かって歩いて行っても、アスヘールらを迎える土地があるわけではない。どこかの町や村に辿り着けば、おそらくそこにも壁があるのだろう。そして村の住人でありながら、村の外に置き去りにされた人種もまた同じように。人の死なぬ場所など、この世界にありはしないのだから。
 その壁を越えて来るのが、先程からアスヘールが思いを巡らす“アイツ”だった。
 年はアスヘールと同じくらいだろう。背丈がそう変わらない。黒い髪は眉よりさらに高い位置でていねいに切り揃えられていて、むきだしになった赤い目がたびたびこちらをぎょっとさせる。
 着ている服はときに真っ白であったり、あざやかな朱に染められていたり、子供であるアスヘールにも分かるほど上等だったが、どこをどうくぐってくるのか、いつもそこら中かぎ裂きができていた。顔にもすり傷やら土埃が付いてくる。
 出会ったのは墓場で、今日と同じようにアスヘールは、隅の未開拓の部分で大人の真似事をしていた。明らかに迷い込んだ風で、彼は辺りをキョロキョロと見回しながらアスヘールを見つけて、近くに寄ってきた。
『ここで、何をしているんだ?』
 話しかけられて、アスヘールはそれを無視したが、相手は構わず話し続けた。後を付いて、終いには手を出し始め、ついにアスヘールは痺れを切らした。
『うるせー、あっち行きやがれ、です』
 相手の口が大きく開いて、牙がむき出しになった。笑ったのだと気付くまで、アスヘールは噛みつかれまいと円匙を構えていた。
 それから、相手はやりたい放題、アスヘールを振り回した。
 素手で芝生を抜き取り穴を掘ろうとしたり、園を流れる人工の小川を石で塞いで堰を作ろうとしたり。慌てて止めようとするが、手が縺れる内に、気がつくと一緒になって悪さをしていた。
 アスヘールが墓地に落ちる石や小枝を拾って掃除をするとそれを真似るが、立派な木の枝を見つけるとすぐ振り上げた。チャンバラは相手の方がめっぽう強いので、アスへールはすぐに背を向けた。逃げ足は彼の方が速かった。
 彼は庭に植えられた植物がどのように生長するかについては驚くほど無知だったが、空を飛ぶ渡り鳥がどこから来たかについてはよく知っていた。明日の天気の読み合いは、五分五分と言えた。遠くからキャラバンが来るというときには、道の近くの茂みから盗み見て、変わった装束や荷を引く見慣れない生き物について話し合った。
 三日続けて来ることもあれば、一ヶ月でも二ヶ月でも、ぷつりと姿を見せないことがあった。その度にこれが最後かと思うものだが、そうする内にまたひょこりと現れる。名前を聞けば、いつもてんでばらばらな答えが返ってくるので、何度目かでアスヘールはあきらめた。声には「おい」とか「お前」とか出しているし、心の中では“アイツ”と呼んでいる。
 来て欲しいわけではない。むしろ来られるとすぐ口や手を挟むから邪魔である。しかし滅多にない同年代の遊び相手であるから、容易には得難いものと自覚していた。アスヘールが呼ぶわけではないから、来てしまうのは相手の都合だ。仕方がないから、相手をしてやる。
 待つともなく、心のどこかで期待しながら、アスヘールが目の前の作業に再び視線を戻した。
 その時、小さな悲鳴が上がった。
 聞いた声に、アスヘールの全身が総毛立った。声のした方を振り返る。墓場の奥の、より鬱蒼とした辺りだ。
 墓場は禁忌の場所だが、人目がないからと、よからぬことを考える人間もいる。人に聞かせられない相談をしようと、あるいは人をおびき出して拐かそうと、例が無いわけではない。さらに滅多にないことだが、死者が昼間に起き上がることもあった。かつて異邦の死霊術士達の残した虫が、悪さをするのだという。
 いずれにせよ碌なことではない。
 円匙を持ったまま、アスヘールは駈け出していた。
 低木を並べた垣根の向こう、周囲の森との境界の辺りに、地面に膝をつく男が見えた。その身体の下には、友が組み敷かれている。間違いようがなく、首に手を掛けられていた。
 とっさに、アスヘールは円匙を投げ出した。男の横っ腹めがけて、頭から突っ込む。骨が折れるかという衝撃がアスヘールを襲う。
 男は思わぬ力をまともに受けて、どっと横に身を転がした。
 痛みに目がかすみ、背中と肩がきしんだが、構わずアスヘールは友の手を掴んだ。揺れる紅い瞳が確かにアスヘールを捉えた。
「来いっ!」
 彼が立ち上がる間さえ惜しんで、駆け出す。
 男は友を狙っているのだろうか。偶々だろうか。友は何か見てはならぬものでも見たのか。男に追うほどの気勢がないことを願いながら――どこか身を潜める物陰まで、もっと良いのは、大人達のいる場所まで。逃げる。
 頭の中で安全な箇所を思い浮かべ、そこまでの道筋を必死で探る。
 しかし、その手は振り払われた。
「!?」 
 勢いで前につんのめりながら、アスへールは振り返った。見えたのは、まっすぐ男に向かって走る、後ろ姿だった。
 走りながら、アスヘールの落とした円匙を拾い上げる。
 男は脇腹を押さえながら、立ち上がろうとしていた。その横に立ちはだかり、円匙を高く掲げる。いつか見せたチャンバラのように、突き刺すように、真っ直ぐに振り下ろす。
 鉄の刃が、男の首を、斜め上からちょうど案配良く――骨を逸れ、脈打つ辺りを、切断した。
 すぐさま彼はてこのように円匙をひねり、刃を引き抜く。開いた傷口から鮮血がほとばしるのを、避けもせず、浴びる。
 男は青い顔をして、声もなく、かろうじて、傷口を確かめようと手を伸ばしたが――結局それは達することなく、力を失った。
「――――」
 顔を押さえて、アスヘールもまた、その場に倒れ込んだ。
 ぐるぐると視界が回った。驚愕に見開かれた男の顔と、森と、芝生と、墓石と、空が代わる代わる映る。
 墓守の家に生まれつきながら、死を目の当たりにするのは初めてだった。
 人は何をもって死を知るだろうか。
 腐臭を嗅げば、それは明らかである。肉体がもはや死に絡め取られたことを、腐れ落ちていく肉そのものから生まれる臭いで知れる。
 より早い段階、人が死に行くその瞬間に、触れて、失われていく体温を感じ取るのは、もっとも肉薄した看取りようだろう。
 手の内で、心の臓が鼓動するのをやめる。
 眠っているのとも、倒れているのとも明らかに違う、完全に脱力した身体を見て、疑うものはいない。
 事切れる音を聞いた、と言う者もいる。
 四感を持って人は死を知る。
 果たして、彼は。墓守の末裔である彼は。
 “見た”のだ。
 死を初めて“見た”。
 だがそれは彼の生きた目玉からではなかった。
 泥に塗り固められた、まぶたの隙間から。まるで死がそこに浸み入るように。
 見えぬ目で、吹き出す朱よりなお鮮やかに、彼は“見た”のだ。
 眼球の、さらに奥がぎょろりと蠢く。衝動に、アスヘールは身をくの字に折った。
 喉からえづくような、胃からせり上がるような。
 それは乾きに似ていた。
 そして、飢えに似ていた。
 紛れもない渇望が、右目の奥から口中にあふれ出す。舌を侵食する感覚は、まるで、まるで、死の味だった。それを欲している。求めている。
 認めがたい。だが抗いがたい。激しく動揺する片目を押さえて、彼は地面をのたうち回った。
 後に、一族の大人達が憂慮することだが――彼の、最初の経験は、幼い身体にはあまりに早く、鮮やかすぎた。
 衝動から逃れようと、アスヘールは何度も、地面に頭をこすりつけながら姿勢を変えた。
 視界の隅に、友が立っている。口元に付いた血をぬぐう。しかしその手もやはり血で濡れていて、さながら獲物に食いついた四足獣のようだった。まだあたたかい血肉に食いつき、むさぼったような。
「ふうん」
 彼はアスヘールを見下ろすと、首をかしげて、こともなげに言った。
「お前の右目は、そんな風になっていたのだね」


 その日、アスヘールは家長である祖父から、“開眼”を認められた。
 さらに、必要な知識を学び、正式な墓守として拝謁を許されたのは、数年後のことである。





<前のイラストへ  ホーム  次の小話へ>