開幕
暗闇はいつもほこりと湿気でよどんでいて
それゆえに責めることなく ルディを包みこむのでした
真っ暗な地下室の床に、ルディは背中を丸めて眠っていました。疲れ切って、夢も見ないほど深く寝入っていました。
しかし不意に、鼻を突く臭いが意識を引きずり上げます。何かの燃える臭いです。
秋の半ば、本来なら、朝の床石の冷たさに目が覚めるはずの頃でした。
他の人が起きるまで寝ていたなんて知られたら、何をされるか分かりません。体を起こそうと手をつき、その拍子に左の二の腕が傷んで、ルディは顔をしかめました。昨日、ちりをかき集めるために差し出した手が邪魔だったというので、蹴倒されたのです。力を入れるとにぶい痛みが返ってきます。ともあれ、それはいつものことです。壁にすがって、長く絡まった髪で床をさらいながら立ち上がると、手探りで廊下へのドアを開けました。
そこで
思っていたものとは全く違う光景がありました。ほこり臭くじめじめとして、薄暗く静かだった地下は今や、外からの喧騒に何もかもをわやくちゃにされていました。天井近くの小さな明かりとりからは、白々しい朝の光が差しこむ代わりに、赤や
頼りなく、ルディはその場に立っていました。その間にも、炎の中で、どう、と何かが地面にぶつかる音がしました。向こうに建っていた
途方にくれるその内に、一階へ続く階段から、だれかが足をもつれさせながら駆けおりてくる音が響きました。ルディが息を止めて
「助けてくれ」
かすれた声で老人は訴えました。
「あいつら、急にやって来て――
町を、わしの家を――
助けてくれ、みな殺された――
寝ていたんだ――
助けてくれ」
老人は必死な様子でわめきたてましたが、ルディにはわけの分からないことばかりでした。何かひどいことが起きて、彼を怯えさせたのは分かりました。でも彼の見た惨劇を思い描くには、知っていることをすべて貼り合わせても、足りないのです。
ただふるえる手で、ルディは時々大きくしゃくりあげる老人にふれました。せめて、彼を慰めようとしたのです。だって彼は他でもない、ルディのおじい様でした。
両腕を彼の背中に回すと、胸がつまるような思いになりました。しわだらけでふしくれだった手、ルディを力強く抱きしめる腕、がっしりとして大きな体、そして体温。
ルディは今まで、どんなにかそれを望んだでしょうか。
そして、いともはかなく失われてしまうものでした。
突然、ルディの体は吹き飛ばされました。
おじい様を抱く手に力をこめた、そのときでした。身動きもとれず、二人で固く結び合ったまま、どうと床に倒れこみます。
「――――」
息がつまり、ルディは喉を
「――っ――――っ」
喉がひきつって呼吸すらままならず、ルディはえづきました。空気を求めて胸をかきむしるように、おじい様の肩に爪を立てようとしましたが、その手は、びくびくと
場違いな幸福におぼれて、ルディはそれがおじい様を追うように降りてきたのに全く気付かなかったのです。
明かりとりから踊り入る炎の光に照らされて、その姿形はぼんやりと霞んで見えました。黒い髪に、黒い服を着ていました。しかし色のせいだけとは思えないような暗さが彼を包みこんでいて、いくら目をこらしても、それ以上
まるで漆黒の闇から一部が切り取られ、そこに投じられたように、不安定な輪郭でわだかまっているのです。
今はもう、お互いに手を伸ばせば触れ合えるような位置にいるのに、果てしなく遠く思えました。
あるいは何もない宙にぽっかりと穴が開いて、深淵が覗いたよう――――
落ちる!
ぴくりとも動かないおじい様の体の下で、なんとかルディはうしろにひじをつきました。痛みはいまだに頭の芯をえぐるようでしたが、どうにかして逃げなければいけません。恐ろしいその人影から。
ルディがあがく内に、影から伸びた黒い手が、おじい様の頭をつかみました。しわがより、髪のまばらになった老人の頭を、無造作に持ち上げます。
まったく力なく開かれたまぶたの隙間から、よどんだ目がルディを見ました。
そしてその目が見開かれ、目玉が飛び出し、縦に伸びた鼻が口がねじれ、頬が波打つようにたわみ、暗い喉の奥からいかにも不快な空気が漏れ、細く薄い骨は砕け、固く太い骨が関節から外れる音が響くと、皮膚とその下の筋や管が布のような、それでいて生ぬるく湿った音をたてて、伸びた端から耐えきれずに破け、しなり、どす黒い液体を次々とまき散らし
おじい様の頭は引きちぎれました。
それは、ただ、ただ、奇妙な光景でした。
さっきまでそこにあった人頭の丸みはぽっかりと失われ、わずかに目を落とせば不規則で汚らしい血だまりが広がっていました。取り残された下あごに並んだ歯が、不ぞろいで、かろうじて元は人間だったのだと思い出せるくらいです。
呆然とルディは、半分しか残っていない舌や喉の穴を、一つ一つをおじい様と結びつけようと見ていました。けれどさっきまで抱きしめていたぬくもりが、最後にルディを抱いたあの呼吸の面影が、どこにも見つけられないのです。
視界の隅をよぎった物にはっと目線を上げれば、かつて人だったいびつな半球が、黒い手から無情に放り捨てられるところでした。血が弧を描き、宙に二つ
それらがあまりにも長く留まっているものだと思ったら、二つの眼がルディを見ていました。
血のように赤い眼でした。
「ひぃ」
初めて、ルディは声をあげました。
「ひぁ――あ―あ――あ――」
杭のようにルディを床に打ち付けるおじい様の体の下から、ルディはあらん限りの力で這い出ました。それでも全く足は立たず、恐ろしいものに背を向けて、腕だけで進みました。まもなく行き止まると、力なく壁を背にうずくまります。
「――ごめんなさ、ごめんなさい」
身を縮め、頭をおおい、懇願をくり返しました。
もっとも、その言葉が功を奏したことは今までありませんでしたし、今もそうでした。
音もなく近よった影は、細い腕の抵抗も甲斐なく、ルディの
「あ゙、あ゙っ、ゔえ――――……」
体幹は何度かけいれんをくり返しましたが、やがてその力もなくなり、ルディは自分の吐いたものの上に突っ伏しました。
「あははははは」
高らかな声で、影は笑いました。
ルディの髪をつかんで顔を上げさせます。
細い髪に体重がかかるとひどくきしんで痛みましたが、抵抗する力は残っていません。逃げようにも、指先一つ動きません。
漆黒の奥の赤に見すえられても、もう目をそらすことすらできませんでした。
大きく開いた割れ目から白い牙が覗いて、ああこれは人でないのだと、思いました。死ぬのかしら、とも思いました。すぐそこに転がっているはずのおじい様のようになるのだと、想像します。
「名前は?」
ルディが眠りに落ちるように目を閉じる寸前、影は問いかけました。
は、とわずかながらまぶたを開けると、かすむ視界の向こうで、赤い眼がルディを見つめていました。
急に確かな輪郭を持った影は、やはり人の形をしていました。
答えなければいけないと、沼に落ちた石のように沈んでいく意識の中で、ルディは考えました。
かろうじて、一度だけ、ルディの意志に応えた唇がわななきました。
しかし意識を保てたのはそれまでで。
自分がなんと答えたのかも知れないまま、ルディは気を失いました。
***
次にルディが意識を取り戻したのは、湯を頭からそそがれたときでした。
ずいぶんと長い間、馬車に揺られていました。その間に、水やパンを差し出された気もします。しかしどれも
当然ルディはひどく驚いて怯えたのですが、数人の女達が有無を言わさず、ルディの全身をこすり上げ、のび放題になっていた髪を短く切ってしまいました。やっと解放されたかと思うと、小部屋に通され、そこで待つように言われました。
だれもいない部屋で、真新しい服に身を包んで座っていると、だんだん、自分は死んでしまって天国にいるんじゃないかという気になりました。
だって、こんなきれいな部屋は見たことがないのです。ルディがいたお屋敷は裕福で、住人達はよく、立派な家具や造りを他の人に自慢していました。でもルディの知る限りであの屋敷の一番良い広間よりも、この小部屋の方がずっときれいに飾られているのです。
壁に作りつけられたろうそく立て一つとっても、金色に塗られた台座には細い線で模様が描かれて、ありふれたものではないと、ルディにだって分かりました。木製の机や棚はいくらか古いようでしたが、その分表面はなめらかで、ろうそくの光に照らされた木目は何とも言えないつややかさを見せていました。床でさえ、複雑な組木模様は無数に花が咲いたようで、踏むのをためらうほどです。
しばらくの間、イスに座ることもできず、ルディは立ったままでいました。しかしこの部屋とみすぼらしい自分との落差にだんだんといたたまれなくなって、ついに、廊下へと出ました。
左右を見通しても人の姿はなく、さらに目の前のバルコニーへと出ます。外はもうすっかり暗くなっていました。
向かいから吹いてくる風は、全く知らないにおいをはらんでいます。
広いバルコニーの端にそっと近よって、ルディは
眼下には、無数の灯りが散らばっています。山の
目をそらし、振り返り、さらにルディは言葉を失いました。背後には、見たこともないほど大きな建物がそびえていたのです。ルディの背丈の何倍も、何十倍もある壁にはやはり無数の窓が並び、そこから光があふれていました。
ふもとから吹く風が、あらわになったうなじをくすぐります。まだ乾ききっていない洗い髪の冷たさに、ルディは身ぶるいしました。
「ここは……」
寒さと不安に自分の腕を抱きながら、だれともなくつぶやきます。
「
まさか答えが返ってくるとは思ってもいませんでした。ぎょっと、ルディは声のした方を見ます。
バルコニーの入り口に、人が立っていました。
その影形には見覚えがありましたし、黒い髪に、赤い眼。すぐにだれだか分かって、ルディは大きく身をすくめました。さっきから絶え間なく脈打っていた心臓がさらに大きく跳ね上がります。
しかしそんなルディに構う様子は全くなく、彼は――いいえ、服装は確かに男のものなのですが、それを着ているのは女なのだと、顔や体を見て分かるほど近くに、その人はまっすぐ歩いてきました。
反射的に顔を伏せます。しかし、黒いまつげにふち取られた真紅のまなざしは、いやでもルディの心を捕らえて放しません。伏し目のあいだからおそるおそるそれを見上げました。思えば、だれかから真っ向に見つめられるなど、どれぐらい久しぶりのことでしょうか。さっき部屋にいたときよりももっと居心地が悪く感じました。勝手に部屋を出たことを後悔します。
「ごめんなさい……」
何に謝るかと言えば、例えばうかつに声を出したことだとか、知らない人に姿をさらしただとか、あるいはぼうっと突っ立っていただとか、それらの、自分のせいで人が不快になることすべてです。
「……僕…………戻らないと……」
地下室へ。勝手にそこから出たことが家の人に分かれば、怒られるでしょう。
「どこへ?」
「家……地下に……」
部屋があって――と、ちゃんと説明するべきですが、とてもそんな勇気はありません。すると、恐るべき事実が告げられました。
「あの家はもう無い。町ごと燃やし尽くしてやった」
耳を疑います。
「だから、お前には戻る場所など無い」
その声は楽しげに、しかしはっきりと言い切りました。心臓がいっそうの早鐘を打ちます。いったいどういうことでしょう。
その人は自分の胸に手を当てました。
「私の名は、シェリー・エデルカイト・フォン・ホーゼンウルズ・デア・ヴァイセン・トニエール」
なんて長い名前でしょう。それは家名や爵位といったような、その人を表す様々な肩書きでしたが、そのときのルディには全く馴染みのないものでした。
その人は、ルディがとりたててその名に反応せず、変わらずおどおどとするだけなのを見て、おかしそうに笑います。
「ルディ」
それが自分の名前だと、自分が呼ばれたことにも、その人が呼んだことにも驚いて、ルディは思わず顔を上げました。
揺れ動く空色の眼を、深い赤の眼が受け止めました。
悠然と笑って、その人は告げました。
「お前は今日から、私の侍女になるのだよ」
これが始まりでした。
ルディがその人の言葉の一部を理解するのはまだあとのことでしたし、すべてを理解するのはもっと先のことでした。
つまり、その人の名前が持つ意味――ここがどこで、その人がだれであるのか。
だれとは、その人の地位や身分でありましたし、同時にどういう人物であるかということです。
そして新しくルディの世界となったこのお城が、はたして天国であるのか地獄であるのか。
このときルディはまだ何も、知りませんでした。