第一幕 『一日』

 初めての夜、ルディは床の上で眠りました。
 ここに寝泊まりするのだと案内された部屋には、ちゃんとベッドがありました。そう広くはない部屋で、先ほどいた部屋ほどきれいに飾られてはいませんでしたが、ちゃんとワードローブと、それから物書き机でしょうか、引き出しのついた机と、その上には燭台しょくだいとろうそくも置かれていました。
 地下室で、冷たい石の床の上に、暖炉で薪が焼けたあとの灰にくるまって寝ていたルディにしてみれば、信じられない光景でした。
 そもそも、大手を振って外を歩けたことがないのです。案内する人のうしろをついて廊下を歩くときでさえ、だれかに見咎められはしないかとルディは肩をすぼめました。ろうそくに照らされた景色のあざやかさにも怯えていました。
 ルディの知っている世界はいつも夜で、月明かりの中、格子の向こうか、ドアの隙間から垣間見るだけのものでした。
 そんなルディの仕事は、だれの目にもつかないように、汚れた物を片付けることです。ベッドなんて触ろうものなら、シーツが汚れると殴られたでしょう。
 その夜、ルディはどうしてもベッドに近よるのが怖くて、床に丸まりました。それだって下は木の床でしたから、石や土に比べてずいぶんましでした。


 その部屋には窓がなくて、何度も目を覚ましては、廊下まで外を見に行きました。それを何度かくり返す内に、朝になりました。ルディは部屋のすみに身をよせて、立ちます。ルディの仕事は夜の内にすませておくべきものでしたが、日が昇ってからでも、もしうかつに寝ているところを見られたりしたら、怒鳴られました。
 どのくらい経ったでしょうか。部屋のドアが開いて、ルディは身を固くしました。女が現れました。ここで二番目に知った人です。昨日の夜、ルディをこの部屋に案内してくれました。名前はエヴァ。ルディより年嵩としかさで、うんと背が高いのです。
 エヴァは部屋の中を見渡して、すみにルディを見つけると、口を開きました。
「おはようございます」
 その言葉に、ルディはとても驚きました。意味は知っていました。みんなが口にする言葉です。でも自分にその言葉をかける人がいるとは思いもよりませんでした。
「……お…………おはよう、ございます」
 ぎごちなく、ルディは返しました。なんだか自分のしゃべっているのが別の国の言葉のように思えました。それくらい、久しぶりのことです。だれかに挨拶をしてもらって、それを返すなんて。
「眠れましたか」
「……はい」
 ルディはいつものように答えました。それ以外の返事は認められていませんでしたから、相手の言葉を深く考えることはありませんでした。
「早速ではありますが、貴方には覚えてもらうことがたくさんあります」
 と、彼女は切り出しました。彼女の仕事はルディを教育することだと、昨日聞きました。教育とはなんでしょうか。なんのためにするものでしょうか。
「まずあらためて説明しましょう。
 貴方がお仕えするお方の御名おんなは、シェリー様です。トニエール領の子爵でいらっしゃいますが、今はお父上様に代わって、ホーゼンウルズ辺境伯領を治めていらっしゃいます」
 「はい」とうなずこうとして、し損ねました。これこそ、別の国の言葉そのものです。意味が分からなくて、ルディはうつむきました。
 家では、言いつけを理解できないときはひどく怒られました。かと言って聞き返すことも、できませんでした。
「馬鹿野郎! そんなことも分からないのか!!」
 何度そう言われて、殴られたでしょうか。仕方なく、ルディは分かったふりをして「はい」と答えていました。けれどそれで失敗してしまうと、また殴られたり、蹴られたりするのです。
 エヴァは、部屋の入り口に立ったまま、それ以上進もうとはしません。ルディもやはり部屋のすみに立ったままでしたから、お互いが手を伸ばしても届かない距離です。それでもルディは、相手がその気になれば簡単に、部屋に踏みこみ、髪をつかんで引きずり倒すことができると知っていました。うなだれて、ただその時を待ちます。
 しかしエヴァは、その場を動きませんでした。
「ホーゼンウルズ辺境伯の名を聞いたことは?」
「…………」
「ではベルスート城のことは?」
「お城……」
 『お城』という言葉を、ルディは知っていました。どこかで聞いたことがあります。茨に囲まれたお城であったり、高い塔を持つお城であったり。ぼんやりとした像が心に浮かびます。そこに住んでいるのは、王様や王子様、それにお姫様です。
 たどたどしく、ルディは知っていることを伝えました。エヴァはうなずくことも、首を横に振ることもしませんでした。
「正確な定義で言えば、国や王という単語を、あの方々のお立場に当てはめるのは誤りです。ホーゼンウルズ辺境伯領は国ではありません。ですが貴方がお仕えするべき唯一無二の主人として、あの方々を一国の主のように認識することは間違いではないでしょう」
 やはりルディには難しくてわかりませんでしたが、一応二人の間で共通の納得がいったようでした。
「ではホーゼンウルズという名の国があるのだと、ひとまずは理解してください。貴方のお仕えする方は、ホーゼンウルズの王であるオブリード様の姫君、シェリー様です。今はお父上に代わって、この国を治めておられます。今私達がいる場所はホーゼンウルズの主都である、ベルスートです」
「…………」
 途方もない話で、ルディは思わずため息をつきました。とても偉い人なのだと、それだけなんとか理解しました。今までルディにとって一番偉い人は、おじい様でした。それでも王様ではありませんでしたし、お城も持っていませんでした。
 おじい様――と考えて、不意にルディはぞっとしました。おじい様は死んでしまったと――それどころか、むごたらしく殺されてしまったのだと、思い出したのです。あれは夢じゃないかと、いまだに信じられません。他の人はどうしたのでしょう? あの家は、本当に燃えてしまったのでしょうか?
 言いしれない不安が、ルディの胸をおおいました。事の顛末てんまつを知りたい、というよりは、知ってしまうのが恐ろしいように感じました。そんなルディの胸中が見えたわけではないでしょうが、エヴァはルディの生まれ育った家のことについて触れました。
「先ほど言ったことは、ホーゼンウルズに住む人間にとっては“常識”と呼ばれる範疇の知識です。ですが人間はその生い立ちによって、身につけた常識に大きく幅が出るということは理解しています。貴方がどのような家庭環境で育ち、どのような教育を受けたかについては、私も全く関知しておりません。分からないことがあれば、すぐに確認してください」
「…………」
 おじい様や、おばあ様、家の他の人たち。彼らのことを全く知らない人たちが住む所へ、遠い遠い所へ来てしまったのだと、改めてルディは実感しました。
 そうなると、分かることよりも、分からないことの方がずっと多いでしょう。ルディが知っているのは、あの町のあの家の中で見知ったことだけでしたから。いっそ分からないことが何なのかすら分からなくて、ルディは答えるべき言葉を思いつきませんでした。黙ったまま、視線を足下に落とします。これを伝えれば目の前の人のことを失望させてしまうだろうと、恐ろしかったのです。
 エヴァはしばらく待っていましたが、ルディが何も言わないのを見て、再び口を開きました。
「貴方が置かれた状況の困難さは、理解しています。貴方の意志に関わりなくここに連れて来られました。同情されてしかるべき立場でしょう。しかし嘆いても状況は変わりません。
 またその困難に立ち向かうのは、貴方だけではないのです。私も貴方と共に、困難に挑みます」
 エヴァは静かに、言葉を重ねました。
「私は貴方を侍女として教育するよう、主人からおお せつかりました。これは絶対の命令です。私が役目を果たすためには、まず貴方のことを知らなければいけません。情報を共有するためです。貴方が何を知っていて、何を知らないのか、私に教えてください。貴方は無知を恥じる必要はありません。私もまた、貴方に対して無知であることを認めましょう。
 無知は無駄を生みます。貴方が知っているはずと思って私が説明したことを、貴方が無知のために理解できなかったとしたら、それは効率的な教授の方法とは言えないでしょう。私達に無駄な時間を費やす余裕はないのです。貴方のことを正しく理解することが、貴方と私、双方のためになります。
 分からないことがあれば、どんな些細ささいなことでも、私に聞いて下さい。私の知る限りを貴方に教えます」
 その声は本当に静かで、抑揚はほとんど無く、いっそ無機質と言ってもいいくらいでしたが、その分よく耳に染み入るようでした。がなりたて、わめきたてられる言葉と違って、ルディは一つ一つをよく聞いて、ちゃんと理解できたような気がしました。
 ルディにとって、今の身のまわりにあるのは分からないものばかりですが、言いかえると、まわりのものにとってはルディこそが、分からないものなのです。ルディのことを知りたいと、エヴァは言いました。分からない者同士が分かり合うためには、ルディが口をきくしかないのです。
「よろしいですか?」
 それでも、答えるのはずいぶん勇気のいることでした。唇を開いては閉じ、開いては閉じ、とうとう。
「はい」
 消え入りそうな声で、ルディは答えました。


「侍女というのは、貴人の側にお仕えして、身の回りのお世話をする者のことです」 
 廊下を歩きながら、エヴァは説明しました。
「この城には何人か敬意を払うべき方がいらっしゃいますが、私達侍女がしんにお仕えするべきなお方はただ一人です」
「シェリー……様……?」
 昨日から何度か聞いた名前を、ルディは口にしました。
「そのとおりです。お立場上、様々な呼ばれ方をされますが、この城の中であれば私達侍女は『お嬢様』とお呼びするように」
「お嬢様……」
 不思議な響きの言葉を、ルディは自分の口でくり返しました。
「朝のお支度は私が済ませておきました。今は中庭にいらっしゃるはずです」
 階段を降りて、エヴァは外へと続くドアを開けました。
 目の前が真っ白になって――とっさに、ルディは手をかざします。
 まるで針を突き立てられたように。日の光は、痛みとなってルディをさいなみました。
 家ではずっと地下室にいて、外に出るのは日が暮れてからで、昨日目覚めたのもやはり夜でした。空が白んで、夜が明けるのは見ていました。それからエヴァを待つ間に、日は高く昇ったようです。
 ルディは慣れない光に、目を閉じたり開いたりしました。何度もくり返してようやく、ぼんやりと物の輪郭が見えてきました。
 中庭、とエヴァが言った場所には、たくさんの人がいました。広さはルディが想像していたよりもずっと広く、それでも所狭ところせましと人が詰まって、動いています。あるいは、数人で同じ動きをくり返したり、あるいは、二人で向かい合って剣を打ち合ったり。剣の稽古をしているのでしょうか。
 ルディの住んでいた町には自警団があって、時々おじい様の所に集まることがありました。その人たちがこれ見よがしにかざす剣のにぶい輝きを、ルディは思い出しました。
 建物の向こうに見える空は、青く晴れています。夏に比べればいくらか鋭さを失った秋の日差しでさえ、ルディにとっては容赦のないものでした。左右を見渡すと、中庭には建物に沿って回廊が設けられていました。廊下から出たばかりのルディたちはその屋根の下にいます。回廊の壁には、朱と緑で、何か木のような模様が描かれています。回廊の中は、通路のような物置ものおきのような、ついたてやら何かの道具やら、剣や鎧などがあまり整理もされず置かれていました。いくつかテーブルとイスがあって、そこには必ず水差しも置いてありました。中庭に目を戻せば、剣を振る男たちはたくましく、日に焼けた肌をしています。段々と、おぼろげだった人の顔も、目鼻立ちがくっきりとしてきました。
 どうして世界がこんなにもあらわなのか、それは日の光のせいだけではなく、これまで長く伸びていた前髪がさっぱり切られたせいだと不意に気付いて、ルディは顔を伏せました。ここが日陰で、皆いそがしそうにして、だれもルディたちを気にとめないのを幸運に思いました。家では、大勢の人前に出ることなどありませんでした。うっかり客に姿を見せて、ひどく叱られたこともありました。その場では怒鳴られただけで、ルディは慌てて地下室に逃げ帰ったのですが、あとから、さんざんに蹴られました。
 こんな日の下で、たくさんの人の中にいるのは落ち着かず、元いた地下室に戻りたいと思いました。あそこにいれば、ほこりっぽい暗闇の中に身をひそめて、安心できましたから。少なくとも、だれか来るまでは。
 しかしこの場を離れることも、下を向いたままでいることもできませんでした。
「あちらにいらっしゃいます」
 と、エヴァが向こうを手の平で示しました。ルディは顔を上げ、その先に目をこらします。
 中庭の真ん中辺りに、長身の男たちの向こう、一回り小さな影が見えました。
 あの人です。
 胸がきゅう、と縮まりました。
 黒い髪が、を受けてつやめいていました。体の動きで揺れるたびに、小さな光の破片がこぼれます。暗闇の中、炎をたよりに見た姿は闇に溶け入りそうでしたが、昼間の光の中ではこんなにもあざやかなのです。
 あの人が立つ場所は、人が動き回れる程度の広さで一段高くなっていて、向こうにはもう一人の男がいました。お互いに剣を交わらせ、打ち合っています。
 その体はしなやかに動き、相手の剣をひらりとかわしたかと思うと、さっと鋭く突きこみました。
 髪は短く、スカートも履いていません。男の人たちに混じって、同じように剣を振るっています。
「今は剣の鍛錬中でいらっしゃいます。特にお声がかからない限り、私達からうかがう必要はありません。この場であれば、周囲の近衛達がご用を仰せつかります」
 そうエヴァは、侍女の役目を言いました。思わず、ルディは聞いていました。
「あの人は……女の人、なんですよね?」
「そうです」
 ルディの言葉を肯定したあと、すぐにエヴァは付け加えました。
「今この場に限り許しますが、今後、ことさらあの方の性別を改めるような発言はしないように。たとえご本人のいらっしゃらない所であろうと、不敬にあたります」
 エヴァの声は淡々としたままでした。ですからルディは怒られたのだと、しばらく気付きませんでした。
「ごめんなさい……」
 今から身をすくめるべきかと迷うルディに、エヴァは拳の代わりに言葉を続けました。
「貴方の疑問は致し方のないことです。通例であれば、女性の身でありながら、あのように男性に混じって武芸を学ぶなど、ありえないことです。ですが、この城の主でいらっしゃるオブリード様には、あの方以外にはご子息もご息女もいらっしゃいません。そのため、オブリード様はあの方をこの城の跡継ぎとして、男子のようにお育てになったのです。先ほど言ったように、今はお父上の代位として、政務に就いておられます」
 難しいことは、ルディには分かりませんでした。ただ今からルディがお仕えするという方はとても特別な身の上なのだと、ぼんやり見ていました。
「あっ」
 と、ルディは小さく声をあげます。しばらく剣の身を打ち付け合っていた両者でしたが、ふとした隙に、あの人の体が男の懐に潜りこみました。すかさず、剣をしならせるように振り上げます。相手の剣が、宙を舞いました。
 わっと歓声が上がります。
 あの人が、勝ったのでしょう。
 手首を押さえた男に対して、あの人は誇らしげに剣を掲げ、晴れ晴れしく笑いました。
 その瞬間、赤い眼がルディを見ていました。
 血のような赤。
 ルディは息をのみました。
 血のにおい。立ち上る炎。悲鳴。おじい様の手。すすの味。
 あの夜のことがまざまざと思い出されて、夢ではなかったのだと、どこかすがるような気持ちだったのが、音をたてて打ち砕かれました。やはりあそこで、おじい様は死んだのでしょう。あの家は、町は、燃え落ちたのでしょう。まるで地獄のような光景の中に、あの人は立っていました。あの赤こそが、そのあかしではありませんか。
 隣でエヴァがスカートをつまみ、ひざを折って深く会釈えしゃくしました。
「私の真似をしてください」
 ルディははっとしました。ぎごちなく、頭を下げます。
 数秒のあと、頭を起こすと、あの人の姿はもう人混みに紛れて消えていました。ルディはそろそろと、息を吐きました。こんなに離れているのに、猟犬に追いつめられた兎のようでした。
 そのとき、一人の男がルディ達に気付いて声をあげました。
「おや、これは侍女殿」
 近づいてくる彼を見て、エヴァは先ほどと同じように、丁寧に頭を下げました。ルディも慌ててならいます。
「おはようございます」
 その人も腰に剣を差していましたから、やはり剣士なのでしょう。他の人と比べて目立って大柄というわけではありませんでしたが、その体はよく引き締まっていました。年は若くはないようです。顔にいくつかしわが入っていました。
「ルディ、ご挨拶をしてください」
 と、エヴァがルディに言いました。
「ラール様です。お嬢様の近衛兵の副団長でいらっしゃる」
 指をまっすぐそろえて、彼を示します。挨拶、と言われても、何を言えばいいのでしょうか。戸惑うルディを、エヴァがうながしました。
「名前は?」
「……ルディ……です」
「お嬢様の新しい侍女でございます」
 エヴァは小さくうなずき、そつなく補いました。どうやら挨拶とは、名前を言うことのようです。
「ああ、例の」
 ラールは大きくうなずきました。ルディに笑いかけます。
「姫様が見出された人ですね。貴方はご存じないだろうが、私もあの場にいたのですよ。気を失った貴方を、姫様が連れていらした」
 ほがらかな笑顔に、ルディは戸惑いました。しかも自分についてだれかが罵声以外で話しているのは久しぶりで、いっそ別人に話しかけているようにさえ聞こえました。
 一つ、ラールが咳払いをしたので、ようやく身をすくませます。
「それで、エヴァ殿。もし私の間違いであれば大変恐縮ですが、確かこの子は……」
 言葉にはならなかったその先を受けて、エヴァは答えました。
「おっしゃる通り、男性です」
「ううむ……」
 気の良さそうな笑顔が消えます。
「あの方のお心のままに」
 というエヴァの言葉に、
「勿論。是非もないことです」
 神妙な顔をして、ラールはうなずきました。
 どうやら、侍女というのは、女の人がなるもののようです。でも、男のような格好をしたお姫様ですから、男の侍女を使うこともあるのでしょうか。
 ルディの住んでいた家の中を見ても、男と女では随分役割が違うようでした。男の人は外に出て働き、女の人は家の中の仕事をしました。料理や裁縫、掃除、子供の世話は女の仕事、庭の手入れや井戸を掘ったり壁を直したりするのは男の仕事。偉いのは男の方で、重要なことを決めます。中でも一番年上のおじい様の言うことは絶対でした。もっとも、それらの区別はルディには関係のないことでしたが。ルディからすれば男も女も皆ルディより偉い人で、彼らから命じられれば何でもやりました。だれもやりたくない、一番汚くて嫌な仕事です。
 だからラールの言葉の意味が分かったあとも、とりたてて何も感じはしませんでした。男とか女とか、そういう扱いもまた、長く覚えのないことでした。だれも、そこに転がっているほこりの塊が男だとか女だとかは、気にもとめないでしょう。あの家でのルディの扱いは、そういうものでした。
 ラールは改めてルディに向き直りました。
「いずれにせよ、我らは剣と盾をもってあの方をお守りし、貴方達は気配きくばりとこまやかさをもってあの方をお支えする。同じ主に仕える者同士、共にはげみましょう」
勿体もったいないお言葉です」
 ラールの真摯しんしなまなざしは、やはりルディには自分のことと思えず、素通りするようでした。何にも言えないルディの代わりに、またエヴァが答え、深々と頭を下げました。ルディができたのは、それにあわせてお辞儀をすることだけでした。
 ラールが去ったあとエヴァは、ルディにお城の中を案内しました。偉い人たちが使う主階段や、使用人が使うべき通路、暖房室や食堂、侍女の控え室。
 とにかくお城は広くて、限られた時間ではとても回りきれないことは、彼女自身が認めました。
「今すぐすべての部屋を覚える必要はありません。自然と分かるようになるでしょう」
 頭のいい人なのでしょう。説明はいつも簡潔でしたが的確でした。漏れもなく無駄もなく、二人は城内を回りました。
 その最中に人に会うこともありました。厨房には料理番がいましたし、床を掃いている使用人もいました。そのたびにエヴァは、ルディに挨拶をさせました。
 ルディが名前を言い、エヴァが付け加える。
 同じことが何度か続いて、素知そしらぬふりもできず、とうとうルディは自分から言いました。
「ルディです……お嬢様の、侍女に……なります……」
 本当に? ルディは、侍女になるのでしょうか?
 ルディにはまだ、侍女になるどころか、何が起こったのかさえ分からない思いが強いのに、そんなことを言ってしまってよいのでしょうか。けれど一度口から出た言葉は、蜘蛛くもの糸のようにルディの心に絡まりました。紹介される部屋が、人が増えるたびに、かけられた糸が一本ずつ増えていくようです。元よりルディには他人に逆らう意気はないのですが、それどころかがんじがらめに縛られて、身動きもとれなくなるように感じました。


 エヴァは立ち止まると、スカートのポケットから小さな円盤を取り出しました。金属で出来ていて、細い鎖とガラスがはめられていました。
「そろそろ時間です」
 時計なのだ、とルディは目を見開きました。時計と言えば、振り子時計しか知りませんでした。おじい様が自慢にしていた、広間の立派な時計です。文字盤の数字は黒々と、針はきらきら光る金色をしていて、ガラスのはまった柱の中で、真鍮しんちゅうの振り子が規則正しく動いていました。いったいどんな魔法をかければ、あんな大きな物がこんなに小さな容器に収まるのでしょうか。縦になったり横になったりで、振り子は上手く振れるのでしょうか。
 今いるお城が、広くて、大きいことは、段々実感として理解できるようになってきました。しかし反対に、小さな物にすらルディの想像もしない世界が広がっているのです。
 自分がここにいて、しかも、仕事をするだなんて、途方もないことだと、改めてルディは不安に思いました。それでも時計の針はルディを待ってくれず、進み続けます。
「お嬢様は朝起きられて、この時間までは鍛錬をされるのが日課でいらっしゃいます。そのあとは湯浴ゆあみをされてから、ご昼食。午後は政務に就かれます」
 歩きながら、エヴァは言いました。
「お食事は他の者が準備します。給仕も、客間女中がお世話をするので私達は必要ありません。政務の最中は三時にお飲物を用意し、その間にご用があれば仰せつかります。まずは、湯浴みのお世話をしましょう」


 二人は、また中庭に出ました。日はずいぶん高く昇っていました。目を細めて、ルディは中庭を見渡します。
 ちょうど、号令がかかって、皆解散するところのようでした。集まっていた人々は四方に散っていきます。剣の帯を解き、甲冑かっちゅうを脱ぎ、水を飲み下し――一転して、くつろいだ雰囲気が中庭に広がります。
 そんな中で、こちらに向かってくる影がありました。
 ――あの人です。
 ルディが我を忘れずにすんだのは、すぐ隣でエヴァが深々と頭を下げたおかげでした。それにならって頭を下げれば、あの眼に捕われることはありません。
 人が、近づいてくる気配がして、
「お迎えに上がりました」
 頭を下げたまま、エヴァは言いました。
「ご苦労」
 そう答えた声は、自然なものでした。気取った風でもなく、威張った風でもなく。冷たさもなく、かといって気安さもなく。
 つまりこの人は、当たり前のこととして人を従えているのだと――石の床を見つめながらルディはそう思いました。
 気配は立ち止まることなく、そばを通り過ぎました。エヴァが黙ってそのあとに続いたので、まだのろのろと顔を上げていたルディも、足をもつれさせながらあとを追いました。
 三人は連れだって、廊下を歩きました。
 うしろ姿を、揺れる髪をルディは見ていました。服の背中はじっとりと汗で濡れています。汗と土ぼこりと、革と金属の混じったにおいがします。男達のあいだに混ざっているときは小柄に見えましたが、こうして近くにいるとルディより背が高く、剣を振るうせいでしょうか、体つきもしっかりとしていました。
「どうだった?」
 と、振り返らないままあの人は聞きました。半歩遅れて隣を歩く、エヴァが答えます。
「まだ途中ですが、一通り城の中を案内して参りました」
 ルディのことを話しているようです。
「教育の程度はまだ分かりませんが、あまり高くはないか、偏っているようです。恐れながら、ホーゼンウルズ辺境伯領のことも存じ上げませんでした」
 数歩うしろを行きながら、ルディはいたたまれない気持ちになりました。「馬鹿野郎!」と罵る声が頭の中で聞こえます。いつもそうでした。自分は馬鹿だから物を知らなくて、だから色々なことが上手くできなくて、それで人を怒らせてしまうのです。きっとここでもそうでしょう。
「極度の畏縮いしゅくが見受けられます。このまま侍女として教育するのは非常に困難でしょう」
 これにも心当たりがありました。人の顔を、じろじろ見ると怒られることが多かったので、ルディはいつも下を向いていました。それで、態度が悪いと殴られることがありました。どうして良いか分からず、視線をあちらこちらにすると、また、ちゃんと話を聞けと、怒鳴られました。自分は何か、よほど不真面目にできているのでしょう。それが他の人の気に障るのです。
 エヴァにもすぐ分かったのだと、ルディは暗い気持ちになりました。足が重くなります。
 先陣を切る足は、颯爽さっそうとしていました。背の高いエヴァは難なく並んで歩くのですが、ルディは時々小走りになってついて行かなければなりません。気付けば今まで以上に差が空いていました。慌ててルディは足を早めます。
 目の前、その人が身をひるがえします。あっと思う間に、赤い眼がそこにありました。
 息をのみます。
 もう少しでぶつかるところでした。足を止めるのが精一杯で、顔を伏せることも忘れて、ルディはその眼を見つめていました。ぞっとするような、赤い眼は、笑っていました。
「我がホーゼンウルズ辺境伯領を“知らなかった”か。構わん。今では知っているわけだろう? では私がだれか、言えるようになったか」
 吐息がかかるほどの距離で、低い声が言います。
「シェリー……様。このお城の、お姫様です……」
 無我夢中で、口が勝手に答えるようでした。
「ではお前は何者だ?」
「ルディです……」
 蜘蛛の吐く糸がもう一本。
「……お嬢様の、侍女になります……」
 では今目の前にいるこの人は、赤い目玉の大蜘蛛でしょうか。
「上出来だ」
 笑うと、牙が覗きました。蜘蛛の巣にかかって――もがけばもがくほど糸はきつくしまり――最後には、その牙でばらばらに引き裂かれるような気がしました。
 その眼がすっとルディから離れます。
「見ろ、しゃべったぞ」
 と、エヴァを見ます。してやったと言いたげです。
「磨かずに光る石はない。赤子も、昨日は知りもしなかった言葉が、今日には話せるようになるではないか」
「それは成長途中の子供に限った話です。今の彼に同じ学習能力を求めるのは酷だと思いますが」
「それができずして、何のための教育だ」
 にやりと笑います。
「お手並み拝見だな、侍女頭」
 エヴァは軽く眼を伏せ、うなずきました。
「お心のままに。どうかご寛容を頂戴いたしますよう、お願い申し上げます」
 ルディは呆然と、立ち尽くしていました。


 浴室、という場所の手前の小部屋で、服を脱ぎ着することになっているそうです。侍女はそれを手伝うのです。
 深緑色をした上衣は、ずいぶん分厚い生地でできているようでした。首をすっぽりおおっていて、背の中ほどから首の上まで、紐で編み上げられています。背中側に生地の余分があって、全体を体の形に合わせてしぼるためのようでした。
 まずは見ているように、と言われて、ルディは、エヴァがその紐を解くのを、少し離れた横から見つめていました。
 堅い結び目をほぐしてから、紐をゆるめます。それから袖口も、同じように紐で編み上げ、生地がよせられていましたから、同じ手順でほどきます。
 なるほど、これは確かに、人の手が要るでしょう。ルディの着ている物など、上から被って頭と腕を通せば終わりでしたが、偉い人だからでしょうか、どこも大変手のこんだ作りをしています。
 視線を下ろすと、革のブーツにも細かく金具がついて、下から上までしっかりと紐で留められていました。このくらいならできるかしら、と考えます。首やら腕やらを触るのは想像するだけでも気後きおくれがしますが、固い靴の上から紐を解くくらいなら、自分にもできるかもしれません。
 ズボンの帯を解き、中にたくしこんであった生地を引きずり出してついに、上衣は自由に動かせるようになりました。腕と首を通して、脱ぎ去られます。その下から、肌があらわになりました。
 急に、ルディの胸がざわつき始めます。
 窮屈きゅうくつな服から解放されて、首筋はゆっくりと前にしなだれました。冷たい空気にさらされて、火照ほてった肌からわずかに蒸気が上がります。分厚い布で隠されていた体は、窓から差しこむ日の光を浴びて、くっきりとした曲線を浮かび上がらせます。
 肌着は汗を吸って濡れていました。何とも言えない匂いがします。鼻を通ってその奥、頭の芯をくすぐる、奇妙な匂いです。
 その匂いにそそのかされるように、胸のざわつきは強くなっていきました。違和感が胸から全身に広がって、手足はしびれたようにぴりぴりします。脚が体を支えきれず、ルディはその場にへたりこみました。
「あ……」
 床に手をついて、眼を白黒させます。いったい何が起こったのでしょう。いつの間にか胸のざわつきは滑り落ち、下半身の一点に集まっていました。思わず、手をやります。
 その瞬間、稲妻のような感覚がルディの体を走り抜けました。
 慌てふためいて、手を引きます。
 そこは、熱を持って、ふくれていました。殴られたり蹴られたりした痕が、赤く腫れるのと似ているかもしれません。しかしそれらがただ痛いばかりと比べて、これはむしろ――
 二人が、ルディを見下ろしました。
 立たなければ、怒られるでしょう。しかし体は言うことを聞きません。
 喉の奥で、あの人は笑いました。
「忘れるところだった。あんななりをしていても、男は男だな」
「この職には不向きなのでは?」
「そうかもしれんな」
 二人のやりとりを聞いて、頬が熱くなります。とても、顔を上げることなどできません。こんなこと、今まであったでしょうか。喉がからからに渇いて、息が荒くなります。じんじんと、その一点は“何か”をルディに訴えてきます。
「残念だが、今は時間がない」
 と、その人は言いました。
「そこに、そのまま座っておいで」
「………………はい」
 力なく、ルディはうなずきます。
 布のこすれる音が続きました。少しずつ、脱ぎ捨てられていく衣服が、視界のすみに映ります。顔を伏せても、眼を閉じても、匂いからは逃げられません。
 そこは、服の下で、見てとれるくらいにふくれ上がっていました。先ほど手で触ったときの感触が思い起こされます。今も、服とこすれる部分から、頭の中をひっかくような感覚が生まれます。もう一度、と欲望がルディを突き動かしました。その感覚の正体を確かめたい――
 ルディは、そっと手を浮かせました。
「動くな」
 びくりと、手がふるえます。
「それには触れるな」
 ルディはつばを飲みこみました。返事をする余裕もないまま、床に手を戻します。その冷たさは、下半身の熱とはっきりとした対比となって、触れたくとも触れられないもどかしさをいや増しました。
 座っていろと、触るなと、その人は言いました。命令でした。従わなければいけません。
 その人が最後の一枚を脱ぎ捨てるまで、ルディは黙って耐えていました。
 最後に、エヴァが言いました。
「この場は私だけで済ませます。収まったなら、ここを出て、廊下で待っていなさい」
 二人が扉の向こうに消えても、しばらく余韻は続きました。徐々に残り香が薄れて、少しずつ、ルディの体は落ち着きを取り戻しました。熱が消えて、手足に力が戻ります。よたよたと立ち上がって、ルディは廊下へ出ました。
 とてもみじめな気持ちでした。
 どうしようもない失敗だったでしょう。何をしても上手くできないので、今までたくさん怒られてきました。それにしたって、あんな失敗は、本当に、初めてでした。打ち据えられたわけでもないのに、体が動きませんでした。やっぱり自分はぐずで役立たずなのだと、改めて思い知りました。
 何よりもルディの心をさいなんだのは、あの感覚が忘れられないことでした。また、もう一度、と考えてしまうのです。手を下ろせば、きっとそこに触れてしまいます。怖くて、ルディは胸の上で拳を握りました。


 扉が開きました。ルディはおそるおそる、顔を上げます。二人が出てきて、ルディを見ましたが、先ほどのことにはふれませんでした。かえって居心地が悪く、ルディは目をそらしました。
 汗を流して、その人はさっぱりとした様子でした。先ほどとは違う服を着ています。上下が揃いで、つややかな黒地に金の刺繍が入った、上等そうな服でした。これが午後の仕事着なのでしょうか。
 昼の仕事は、エヴァが言ったとおりに進みました。食堂まで見届ければ、あとは給仕の担当だそうです。
 その間に、ルディ達も食事をとりました。厨房のすぐ横に、使用人のための食堂があります。そこで、丸パンに、温かい――しかも具のたっぷり入った――スープを出されて、ルディは目を丸くしました。今日は色々なことに驚いてばかりでしたが、心底、これだけは格別でした。
 いつも、ゴミの中から食べられる物を集めていました。鍋の底のおりをすくってなめもしました。鶏の骨をかじったこともあります。豚の餌の味も知っています。まさかちゃんと形のあるパンなんて。湯気の立つスープなんて。
 昨日は、あの人が無事帰ってきた、お祝いをしたのだそうです。だからごちそうの残りが全部このスープに入っていて、それで、そして、こんなに、たくさん、そのにおいといったら!!
 目の前にある物が信じられなくて、しばらく、ルディは固まっていました。魔法でできていて、口に入れたら消えてしまうのではないでしょうか。
「どうぞ」
 うながされてようやく、おそるおそる、ルディはスプーンを口に運びました。
 熱くて、何がどれやら分からないまま、夢中でルディは飲みこみました。二口目も、三口目もそうでした。味なんてほとんど分かりません。味わう間もないまま、一すくいごとにスープの中身が減ってしまいます。それでも手が止まりませんでした。
「確かに今日はいつもと比べて豪勢だけど。それにしたってこの子は、今まで食べ物を見たことがないのかい?」
「あるいは、そうかもしれません」
 料理番とエヴァが言っていることも、ほとんど耳に入りませんでした。ルディは夢中で食べ進みました。
 それでもスープを一皿飲み干す前に、お腹がふくれてしまいました。満腹するまで食べるなんて、生まれて初めてかもしれません。胸のあたりまできゅうきゅうと苦しくなりました。
 目の前にまだ食べる物があるのに、もうこれ以上食べることができないなんて。半分かじったパンを前に、ルディは途方にくれました。
 よっぽどおかしく見えたのでしょう。
「そんな顔をするんじゃないよ。これほどじゃないだろうけど、明日も作ってやるさ」
 と、料理番は声をあげて笑いました。
 ルディは野菜の塊が残った器に視線を落とします。しかしそれはもうルディの目には、意味のあるものとして映っていませんでした。
 明日――
 心の中で、言われた言葉をくり返します。
 意味は分かります。日が暮れて、また昇れば、明日になります。
 ルディにとっては、今日のその日に、食べ物が見つけられて、仕事が終われば、それで精一杯でした。ルディを殴ったり、踏みつけたりする人の気がすめば、一日が終わります。あとはただ、地下室にうずくまって、夜の寒さに耐えられるようかどうか考えていました。その内に、眠りが訪れます。
 明日――次に目が覚めるときのことなど、ルディは考えたこともありませんでした。


 午後の仕事も、やはりエヴァの言ったとおりに進みました。あの人は、執務室という部屋で、仕事をします。これが普通の形なのだそうです。あの人が出かけたり、来客があったり、催しがあったり、色々な形で普通でないことは、時には毎日続くこともあるそうです。それらには臨機応変に対応しなければいけないと、エヴァは説明しました。
 エヴァはあの人に許しを願って退室し、またルディに城内を案内しました。本来は、何かあればすぐ用を聞きに行けるよう、近くの小部屋で控えているそうです。
 三時になれば、案内は中断して、あの人に飲み物とお菓子を待って行きました。いつも香茶を飲むそうです。刺激的だけれどわずかに甘い、不思議な香りのする飲み物でした。
 そのついでに、二、三、エヴァは用事を言いつけられたようでした。これが侍女の仕事なのでしょう。
 日が暮れて、また食事をとりました。一日に二度も食べられることにルディがまた仰天したのは、言うまでもありません。
 そして、夜がふけました。


 エヴァのあとについて、ルディはあの人の寝室へと向かいました。寝衣しんいに着替える手伝いをするのだそうです。着替え、と聞いて、昼間のことを思い出さないはずがありませんでした。心がざわつき出します。
 いやだな、と初めてルディは思いました。思うだけで、口にすることは許されない言葉です。
 また失敗することを恐れていました。今度こそ責められるでしょう。今日一日、まだだれからも怒鳴られてないことが奇跡のようです。
 でもそれ以上に、何事かを期待している自分がいるのです。胸がざわつくのは不安のためではないと、薄々気付いていました。また、同じ感覚を味わいたいと考えてしまうのです。できることならば、もっと深く――。
 こんなにいやしいことを考えるなんて。苦々しさに唇を噛みます。
 寝室には、天蓋の付いた大きなベッドの他に、ソファと、低いテーブルがありました。鏡台もあります。
 その人は、ベッドに腰かけていました。黒い上着はすでに、ベッドの上に無造作に脱ぎ捨てられています。その下には、さらさらとした生地の白いシャツを着ていました。
「失礼いたします」
 とエヴァが近づこうとすると、その人は止めました。
「お前は、新参をずっとそこに立たせておくつもりか? 何故手伝わせようとしない」
 とがめられたのが自分でもないのに、ルディは体をふるわせました。一方、エヴァに動揺の色はありませんでした。す、と頭を下げます。
「お許しを。ですが、彼はまだ、仕事を教わっている最中でございます」
「見ているばかりで何が分かる。実地以上の訓練などあるものか」
「申し上げたとおり、この職に関する十分な知識がないようです。お嬢様に粗相そそうがあってはいけません」
「私が許すと言っている」
 エヴァはもっともな説明をするのですが、その人は譲る気がないようでした。エヴァは目を伏せました。
「では、お心のままに」
 うながされて、ルディは前に出ました。今はルディが、座るその人を見下ろしているのですが、堂々としたたたずまいに気圧けおされるばかりでした。赤い眼がルディを見つめています。ルディは、まるでやぶの中の兎のように、息を殺しました。そうしていれば見過ごされるかもしれないと、狼の面前で、馬鹿なことを考えたのでしょうか。
 もちろん、その人は、ルディから目を離しはしませんでした。
ひざまづけ」
 赤い唇が、笑いながら言います。ルディはそのとおりに、膝を絨毯じゅうたんの上につきました。
「まずは靴からだ」
 と差し出された足を、怖々と見つめます。
 朝のブーツは、ごつごつとした革に金具が付いて、その間が紐でしっかりと留められていましたが、今履いているそれは、薄緑の布でできていて、生地と生地の隙間は細いリボンでゆるやかに結んでありました。
「失礼……します……」
 これならできると、どうして昼は軽々しく思ってしまったのでしょう。実際になると、靴の上からでさえ、ふれるのはためらわれました。指先が戸惑って、揺れます。
 集中しようと、ルディは努力しました。両手で一番上のリボンの結び目をつかみ、花結びの両端をゆっくりと引きます。一つ目は、上手くいきました。二つ目も、同じようにできました。三つ目も。だんだんと、ブーツはゆるんでいきます。
 ほっと息をつく余裕が生まれた途端、ふと、その人に見下みおろされているのを思い出しました。背筋を、冷たいものがすべり落ちます。
 同時に、昼間のことが思い出されます。汗ばんだうなじ――肌の色――匂い――
 リボンを解くたびに、それがあらわになっていくかと思うと――
 ルディの手は、それ以上動きませんでした。体を支える足ががくがくと揺れ出します。
 昼と同じです。ルディの意志とは無関係に、下半身の、“そこ”が起きあがりました。呼吸に合わせて、体が揺れると、“そこ”も服の中でちりちりとこすれます。
 必死で、ルディはなんでもないようにふるまおうとしました。でもいくら念じても、そこは収まらないし、手も止まったままでした。
 その人の足がルディの手をふりほどき、服の下に入りこみました。
「あっ」
 靴先が、それに触れます。冷たい感触が下から上まで、ゆっくりとなぞり上げます。
「……っ」
 ぞくぞくと、えもいわれぬ感覚が背筋を駆け上ります。思わずルディは顔を上げました。赤い眼とぶつかります。楽しそうに、その人はルディを見ていました。
「なるほど、この職には向いていないのかも知らんな。これでは仕事にならん」
「…………ごめん……な、さい……」
 喉の奥から、声を絞り出します。
「ごめんな、さい……こんな……こと……僕、初めてで……どうして……ごめんなさい……」
 言い訳が、通用したことなどないのですが。
「ふうん」
 はたして、その人は、小首をかしげました。
「本当に?」
 ルディは必死でうなずきます。
「では教えてやろう。それがそうなるのは、男として健全なことだ。だが実に動物的で、理性を欠いた行動だ。時と場所と、相手をわきまえないようでは困る」
 と、さとすその間にも、靴先は軽くそこに触れていて、ルディは気もそぞろでした。自分から、腰を動かして、りつけられたら、どんなにか良いでしょう。動いてはいけない。触ってもいけない。その言いつけがルディをとどめていました。けれどいつまで、我慢できるものなのでしょうか。さっきからそこは、ひくひくと、物欲しげにふるえています。
「ルディ」
 呼ぶ声に、意識は目の前のことに引き戻されました。二つの眼が焦点を結びます。その人は変わらず、ルディを見つめていました。
「昼の続きをしよう」
 そう言って、すっくと立ち上がります。ひざまづいたままのルディには、その影は途方もなく大きく見えました。
 次の瞬間、ルディのそれは踏みつけられました。
「いっ――――」
 痛みに、ルディは目を見開きます。喉の奥で、悲鳴を飲みこみます。声を出して、大げさに痛がれば、もっと、ひどいことをされました。歯を食いしばり、それでも、どっと、汗が噴き出します。今まで散々、痛い思いはしてきました。けれどそれまで感じたこともないような痛みに、ルディは激しく息をしました。
「あっ……あ……」
 一旦口を開いてしまえば、あとは簡単なことで――一つの言葉だけが、せきを切ったように溢れ出しました。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ、ごめんなさい……っ!」
 体を折って許しを請います。この痛みから逃れるためなら何でもするでしょう。床に頭をこすりつけることだって。けれど他ならぬ、下半身の一点を縫いとめる足がそれを阻んでいました。
「だれも、口先だけなら何とでも言える」
 冷徹な声が、ルディの言葉をさえぎります。
上辺うわべだけを塗り固めるのが教育とは言わん。暗きを開き、道理を心髄しんずいに響かせ、教化してこそだ」
 ぐり、と靴底で、ルディのそれを床に押しつけます。
「ひっ!」
 たまらず、ルディは悲鳴をあげました。しかしそこは痛みで収まるどころか、ますます熱を帯びて、ふくらみました。確かに、痛いのです。でも一方で、あらがえない快感が、ルディを責め立てました。靴底の冷たい重みが。絨毯じゅうたんの毛の刺すような刺激が。
「もう一度聞く。私はだれだ?」
 泡を吹く唇でルディは答えました。
「シェリー様っ……このお城で――っお姫様、偉い人です……!」
 がむしゃらに、知っている限りの言葉を並べます。
「お前は?」
「貴方のっ、侍女です……! ――侍女になりますっ!」
「では、お前の主人はだれだ?」
「――――!」
 どくんと、それが脈打ちました。ルディの必死さなどお構いなしに、それは、靴底を押しのけるような勢いで、跳ね上がります。きゅう、と体の奥が引き絞られました。
「お嬢様っ……!」
 絡まる舌で言えたのは、そこまででした。
「あっ――やっ――あ、あー!!」
 靴の下で、ルディのそれはぜました。
 何かが、ルディの中から放たれました。縮まった分だけ一気に、一筋のほとばしりとなって、飛び出しました。
 頭の中が真っ白になりました。
 ――――頭ががくんと落ちて、次にルディが我に返りました。呆然ぼうぜんと、自分の体を見下ろします。
 いったい何が起こったのか考えて、靴の下の、その部分は、ちぎれてしまったのだと思いました。きっと血が出たのでしょう。荒く息をしながら、ルディはそれが明らかになるのを待ちました。
「やれやれ」
 と、靴が退きました。その人は首をすくめ、ベッドに座り直します。
 おそるおそる、ルディは服をたくし上げました。そこは、元通りの形で残っています。確かに赤くはなっていて、痛くて、ひりひりしましたが、いつもと同じ大きさに戻っていました。血も出ていません。
 代わりに、白くねとつく液体が、床と靴底のあいだで糸を引きました。
「まだ話は終わっていない」
 降りかかる声に、ルディは顔を上げました。
「主人を相手に欲情などと、不遜ふそんに過ぎる。おまけに説教の途中でこれとはな」
 その人は――――お嬢様は、牙を見せて笑いました。
「お前の吐いた罪だ。お前の口ですすぐがいい」
 汚れた片足をルディに突き出します。
 薄く、体がふるえます。怖いのでしょうか。
 からからに渇いた喉で、
「はい……」
 と答えます。
 床に手をつき、ルディは汚れた靴に口づけました。