第二幕 『傷』

 それは、奇妙な味がしました。
 血とも尿とも違い、ねばついています。舌に絡まって、口の端を汚しました。喉の奥にもつかえ、上手く飲みこむことができません。えづくような臭いです。
 これが自分の体から出たものかと思うと、底知れない罪悪感が湧き出ました。
 革靴の、木の底はざらざらと舌をきました。絨毯じゅうたんの毛に入りこんだものは、口をすぼめて吸い取りました。獣の毛と、砂利じゃりの味がしました。
 汚れた靴と絨毯じゅうたんを、全てなめとってから、ルディは許されました。エヴァがルディの退室を乞い、認められたのです。部屋に帰っているように言われ、初めて廊下を一人で歩きます。
 部屋にたどり着き、ルディはその場に座りこみました。それ以上立っていられませんでした。
 なんてみじめなんでしょう。
 今まで、激しく打ち据えられたことも、踏みにじられたこともあります。でもあんなに取り乱して、大声をあげたことはありません。おまけに最後はあんなことを――
 あれは、いったいなんだったのでしょう。
 だれかを前にしてああなってしまうのは、罪深いことに思われました。きっととても失礼な行為なのでしょう。おまけに他に何も考えられなくなって、仕事ができなくなるのです。そればかりか、余計な仕事を増やしてしまうのですから、罪と言うほかないでしょう。
 何をやっても上手くできないのに、さらに恥ずべき欠点が生まれてしまいました。
 ルディはうなだれて、自分を責めました。
 どれくらいの間、そうしていたでしょう。ノックの音がして、ルディは立ち上がりました。胸を押さえながら、ドアが開くのを瞬きもせずに見つめます。
 現れたのは、朝と同じように、エヴァでした。あの人ではないことにルディは少し緊張を解き、しかしすぐに視線をそらしました。エヴァも、あの一部始終を見ていたのです。とても顔を見られませんでした。
「体は大丈夫ですか」
 そう聞かれて、とっさに、手でルディはその部分を隠しました。ひりひりとした感覚は残っていますが、怪我まではしていないようです。小さく首を振ります。
「いいえ……あ……ごめんなさい…………僕、あんなことを……」
 エヴァに対しても、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。せっかく色々と教えてくれたのに、ルディが台無しにしてしまいました。
「貴方の行動は、確かに軽率ではありますが、貴方ばかりに責があることではありません。あの方もこうなることを見越していらっしゃったでしょう」
 それはどういうことかとルディは不安に思いましたが、エヴァは目を伏せるだけでした。
「あの方のご意思について何か推察しようとしても、それは無駄なことです」
 切れ長の目は、わずかにうれいを含んでいるように見えました。
「私達に求められているのは、あの方のご意向がどんなものであれ、それに付き従う忍耐です。あの方を前にして、貴方が理性的でいられるよう願います。それが何より貴方のためでもあります」
 そのとおりでしょう。
 我慢すればいいのです。我慢するべきなのです。家ではそうしてきました。そしてここでも。
 ルディは、力なくうなずきました。


 次の日は、朝早くから仕事が始まりました。
 まだ空が白む前から、ルディはエヴァについて、その人の部屋を訪れました。朝の支度です。
 またああなってしまうのが怖くて、ルディはなるべく部屋の端に身をよせていたのですが、すぐにエヴァに呼ばれました。もう、見ているだけではすまないようです。
 その人の体に手を伸ばしたとき、息が止まりました。
 恐怖もありました。その人の匂いに惑わされて、動揺もありました。
 しかしもっと深くルディの心にわだかまっていたのは、本当に自分が触れても良いのかという疑問でした。家では、自分の手が汚れているので、何にも触ってはいけませんでした。磨いた窓や白いシーツ、そして食べ物。きれいな物を、ルディの手は汚してしまうのです。ましてや人の肌なんて。
 しかし、今や逃れるすべはありませんでした。
 ふるえる手で、ルディはなるべく肌に当たらないよう、留め具の紐を引きました。
 不安と緊張に、朝のさえざえとした光が救いになったのでしょうか。ルディの体に明らかな変化は起こりませんでした。
 しかし昼のゆるんだ空気の中では勝手が違いました。また脱衣場で、あの人が服を脱ぐのを手伝いました。昨日と同じ、汗と、鉄と、砂ぼこりの匂いがしました。座りこむことはなかったのですが、もう一歩も動けず、立ち尽くしてしまいました。
 その人はくすくすと笑って、けれど日が高い内は、ルディのことをことさら責めはしませんでした。
 日が経つ内に、体は慣れてしまうものです。着替えを手伝うのは毎日、朝昼晩とくり返すことでしたから、そのたびに体がうずくようなことはなくなりました。
 その頃、ルディは服をもらいました。
 紺色のワンピースに、フリルの付いたエプロンを重ね、脚には白いストッキングを履きます。シュミーズにストッキングと、下着も一揃い与えられました。
 スカートの丈が、他の人よりずいぶん短いようです。ルディが男の侍女だからでしょうか。それとも半人前だからでしょうか。
 家で着ていた――というよりも、身にまとっていた――ぼろとは比べものにならない、ちゃんとした服ですから、ルディにはなんの文句もありませんでした。
 ただ初めて見る人が皆、一様に目を見開き、顔をそらすのが、申し訳なくはありました。
 相変わらず、不安も緊張もありました。失敗もしました。数え切れないくらいです。意外に思えるほど、その人は失敗に対して寛大でした。無頓着な部分もありました。しかし求めることについて、妥協はしませんでした。言われたとおりにできないと、何度もルディはやり直すよう言われました。
 そして夜になると。


 毎晩、その人は、ルディの体を責め立てました。最初こそ、その人の放つ匂いにあてられて体が反応していたのですが、じきにそれが直接の原因になることはなくなりました。
 今はむしろ、その過程で与えられた様々なものが新しく、ルディをとらえてからめ取りました。たとえば夜というのもそうでしたし、その人の妖しく光るまなざしだとか、何気ない手ぶりだとか。
ひざまづけ」
 そしてその言葉ほど明確に、ルディの体を支配するものはありませんでした。わずかな迷いのあと、なんの救いも容赦もそこにはないのだと思い出し、床に膝をつきます。腰をかがめて、体をさらけ出します。そうしたいのではなくて、そうするしかないのです。
 せっかくもらった服が汚れるのは忍びないと、そう懇願こんがんすると、服を脱ぐよう言われました。素肌をさらして、鞭を手にされたときは心底恐ろしく思いました。片腕ほどの長さの、馬に使う鞭です。革の巻かれた持ち手は、その人の手に馴染んでいるようでした。堅くてしなる軸の先端に、四角い革の一片がついています。思わずルディは顔を腕で隠しました。すかさず、無防備な腹を鞭が打ちます。
「あっ」
 声が出ました。
 次々と、風を切る音のあと、革が皮膚の上で跳ねます。鞭は容赦なく、顔をかばう腕にも与えられました。
「うっ……あっ、ごめんなさい……っ」
「目を開けろ。何が起こっているか自分の目でよく確かめるがいい」
 泣きそうになりながら、腕を下げて、胸の前で手を握り合わせます。自分の体をルディは見下ろしました。見る見る内に、打たれた皮膚が赤く腫れ上がります。その下で、忌まわしい部分が、これ以上ないほど、大きく、赤黒く、膨れ上がっていました。一瞬、そこも鞭打たれたのかと考えるほどに。
 鞭の先がそこをはじいたとき、それが錯覚にすぎないと、思い知りました。
「あ゛――っ」
 衝撃に、背中がそり返ります。跳ね上がった先端から、ねばついた雫が飛び散りました。腰が浮きます。見なくても分かります。そこはどくどくと脈打ち、今にも、中から裂けそうでした。
 なにが起こるかは知っています。ちぎれはしません。死にもしません。ただ汚れをまき散らす、罪深い瞬間が来るだけです。
 そして唯一それだけが、この苦しみから逃げる方法でした。
 唇をかんで、その瞬間を待ちます。目の前の人に、容赦というものはないのです。こらえられないならせめて、できるだけ早く終わりが訪れればいいと思いました。まだ理性のある内に、嫌悪を噛み潰しながら終わらせたいのです。
 あきらめと覚悟を胸に抱いて、じっと天井を見つめます。しかし決定的な一撃は与えられず、代わりに鞭の先がやわらかく先端に触れました。
「んっ……」
 にじみ出す液で、鞭の先がぬめります。ぴたぴたと、湿った音を鳴らせて、革はくり返し、丸く膨れた先端を打ちました。
「んっ、……あ、あっ……」
 引き結んでいた口は徐々にほどけて、そこからだらしのない吐息が漏れます。革の冷たい感触は、先端をなで回す内に体温となじんで、生き物のように感じられました。なめくじのようなおぞましさだというのに、透明な粘液はとめどなく、あふれ続けました。
「は――あっ、ごめんなさいっ」
 もどかしく、ルディは体を揺すります。
「お願いです……許してください……」
 早く、と思います。その思いは先ほどと意味を変えていました。鞭の一なでごとに理性の皮ははぎとられ、赤黒い本性がむき出しになります。一刻も早い終わりを待ち望むのです。逃れるためではなく、まさにその瞬間の衝動を深く深く味わうために。
 鞭は先端の丸みから、ゆっくりとみきをなで下り、とうとうルディのふとももの間に差し入れられました。起立している部分の根元、そこに普段は垂れ下がっている袋のようなものが、今は前の動きに釣られるように、引きしぼられています。鞭がそこを小さく叩きました。
「あっ」
 内蔵をえぐる痛みの中に、脳をとろかすような甘さがあります。
「あ――んっ、あっ、あんっ」
 二度、三度、続けられると、脚がふるえ出しました。腰に力が入らず、ルディは上体を前に倒しました。汗とよだれが床に落ちます。袋はますます上に向かって縮こまっているようです。すでに他のことを考える余裕などなく、狂おしく、その瞬間を待ちます。もうすぐそこまで来ています。
 鞭はそっと離れました。
 大きく開いた距離から、次に何が起こるか理解して、ルディは青ざめます。
 次の瞬間、鞭は大きくしなりました。
 ぱん、と音をたてて、ほとんど体に埋まりかけていた袋が弾き上げられました。
「――――」
 悲鳴すらあげられず、ルディはその場で横ざまに倒れます。痛みが脳天まで駆け上りました。同時に先端から、白い液体が噴き出します。次から次へと、奥から中をすべり抜けて、勢いよく打ち上がります。
「あっ、あぁっ、あ――あ――」
 涙が頬を伝います。脈動は強く、何度も続きました。あとになれば、なぜ耐えられなかったのかと、後悔する瞬間です。しかしその最中さなかばかりは、束の間の恍惚こうこつに、ルディは身をゆだねました。
 しつけだとその人は言いました。
 ではそれは、昼間は全くそしらぬ顔をして、夜になればこのように理性を忘れ、身も心もさらけ出すことなのでしょうか。
 いったいこの責め苦が何のために行われるのか分からず、ルディは夜が来るのをひたすら恐れていました。
 日が経つにつれて、毎晩のようにもてあそばれることはなくなりました。けれど一度覚えてしまったことに体は敏感で、いくら日が空いても、ひとたびあの人が命じれば、それで十分なのです。ルディは膝をついて、ふるえる身を差し出すのでした。


  ***


 ある日、ルディは城の中で、迷ってしまいました。服を受け取りに洗濯場まで行って帰るはずだったのですが。何度か通った道だというのに、気付けば城の敷地をぐるりと取り囲む壁の、すぐそばまで来ていました。その壁を伝い歩く内に、門にたどり着きました。立派な装飾の付いた正門ではなく、木と、鉄がむき出しになった裏門です。ちょうど荷馬車が着いて、荷物が積み降ろされていました。門は開いています。
 ルディは向こうを覗きました。
 お城は、山の中腹に立っています。ふもとには街が広がります。雲にさえぎられた日差しの元で、全景は灰色がかっています。その中でくすんだ赤や茶色の屋根が、あるいは四角くあるいは三角に尖って、数え切れないほどです。街の壁の外は、いくらかひらけて畑になっています。それ以外は、鬱蒼うっそうとした黒い森におおわれています。森は視界の奥に向かってゆるやかに傾斜し、高い山々に続きます。山は白い雪をかぶって、いただきは厚くたれこめた雲に埋まっています。
 城壁を越えて見る景色には、見覚えがありました。
 けれど、さえぎる物のない世界の、広いこと――
 ふらりと、ルディは門の外へ踏み出ました。とたんに、見咎みとがめられました。
「おい、お前。勝手に出入りしてはならんぞ」
 槍をたずさえた門番は、ルディをにらみつけました。
「見覚えがあるな……そうか、シェリー様の新しい侍女だな。まさか、逃げようというのではないだろうな」
 ルディは顔を真っ青にして、物も言えないでいました。
 門番はすぐに、ルディを城の中へと連れて行きました。控え室にいたエヴァがとりつぎ、執務室へと案内します。
「よくやった。お前の働きは守衛長に伝えておこう」
 と、その人は門番を下がらせました。扉の正面にある窓を背に、執務机についたまま、残されたルディとエヴァを眺めます。
 ルディはうなだれ、立ち尽くしていました。けっして、逃げ出すつもりはありませんでした。外の広さに目がくらんで、足がふらついただけです。けれど、それを言ってどうなるでしょう。弁明が通じたことなどなく、むしろ相手の怒りを煽るだけでした。
「お許しを。彼を使いに出したのは私です」
 隣で、エヴァも頭を下げます。
「我が城の門番が優秀だということがよく分かった」
 そう言うと、その人は立ち上がりました。近づいてくる気配にルディは身を固くします。次の瞬間には殴り倒され床に伏せるのを、待ちました。
「可哀想に」
 しかしかけられた声は、思いがけないものでした。
「迷子になったのか?」
 ルディはおずおずと、目線だけでその人の顔色をうかがいました。赤い眼は怒りに燃えるでもなく、静かにルディを見つめていました。
 ルディは小さくうなずきます。
「そうか」
 その人も、うなずき返しました。
「新参者には珍しくないことだ。元々攻め入られないための城だからな。そう広くはないが、造りが複雑だ」
 口元に手をやり、考えこむ仕草をします。
「今回はあの門番が気を利かせたが、次は分からん。また迷子になって、だれかにかどわかされんとも限らんな」
 そして、笑いました。
「今の内に、お前が私のものであるという印をやろう」


 エヴァと共にルディは城の地下を訪れました。そこは彼女の自室であり、もう一つの職場でもあると、簡易に説明されました。
 重々しく無骨ぶこつなドアを抜けると、まず鼻を突くにおいがしました。酒のにおいを、余計な風味をとって、もっとぎ澄ませたようなにおいです。それからあとに続いて、もっと複雑な、重々しいにおいがしました。食べ物や家畜、木や草のにおいとも違う、知らないにおいです。
 不穏さに胸をざわつかせるルディを、エヴァは椅子に座らせました。トレイに張った液体で手を洗ったあと、引き出しから何かを取り出します。
 妖しい光に、ルディは目を見張りました。彼女が手にしたのは、鋭く尖った針でした。革を縫うときのような、長くて太い針です。
「今からこれで、貴方の耳たぶに穴をあけます」
 無感情に、エヴァは言いました。
「目を閉じて。動かないでください。さほど痛くはありません」
 言われる前に、ルディは固く目を閉じていました。胸の前で握り拳を作ります。さあ、今から罰を与えられるのです。
 前に、エヴァの座る気配がしました。
「右を向いてください」
 ふるえながら首をねじったルディの左耳を、冷たい手が押さえます。
 次の瞬間、貫かれました。
 食いしばった歯の間から、ルディは息を漏らしました。文字通り、針で刺された痛みです。
「片方も同じようにします。左を向いてください」
 それは冷徹な言葉でしたが、ルディは言われたとおりにしました。
 右耳に触れ、針を通す手に、やはりためらいはありませんでした。
 また一点、じわりと痛みが広がります。エヴァの言ったとおり、耐えられない痛みではありません。殴られるよりはいくらかましです。しかし両耳の違和感に、頭を振って払いたい気持ちになりました。
「穴を開けるのはこれで終わりです。処置をします。少し染みるかもしれませんが、そのまま動かないでください」
 ルディはまだ、目を閉じたままでした。耳元で、金属の音がします。できたばかりの傷口がこすれて、ルディは思わず身を引きそうになりました。幸いだったのは、エヴァの手の動きはなめらかで、処置がわずかな時間で成し遂げられたことです。
「終わりました」
 その声に、ルディはそろそろと目を開けました。握りしめていた手をほどきます。違和感と痛みは変わらず続いていました。
「傷口が安定するまでには時間がかかります。その間、無闇に触らず、よく洗って清潔を保ってください。痛みが強くなったり、腫れたりした場合はすぐに私に言うように」
 よどみなく、彼女は言いました。非常に慣れた様子でした。痛みとは別の不安が頭をもたげ、ルディはふるえる口を開きました。
「あの……これも、侍女の仕事ですか……?」
 たった数日でも、様々なことを教えられました。付け加えて、人を刺す針の扱いも習うのでしょうか。いったい、侍女の仕事とはどれほど幅広いものなのでしょう。そして、習熟するまでにどれほど時間がかかるでしょうか。目の前に山積みになった課題の巨大さに、ルディは怯えていました。
「いいえ。これは侍女が覚えるべき仕事ではありません」
 エヴァは首を振ります。
「しかし私にとってはこういったことこそが本来の職務です。今はあの方のお側にお仕えする都合上、侍女としても任を受けていますが、元々私はあの方のための従医です。あの方のお体のすこやかさを保つことを旨としています」
 そういうこともあるのかと、ルディは納得しました。そして胸をなで下ろします。まだ具体的に、それがどういうことであるのか、理解はしていませんでした。


 地下室を出る前に、エヴァは鏡を見せてくれました。ルディの両方の耳たぶに、赤いたまがついていました。血かと見間違えるような、深い赤です。金属の芯に押さえられて、血は止まっているようでした。ちくちくとした痛みは収まりませんし、熱を持って腫れています。
 自室に戻ったついでに片付ける用事があると、エヴァはルディだけを先に執務室に戻しました。
「なかなか似合うな。髪の色に良く映える」
 ちょうどその人は執務室の書棚に手をかけたところでした。わざわざ部屋の入り口まで歩いて来られたので、ルディは大いに怯えました。しかしその言葉には胸がくすぐられるような感じがあって、ルディは不思議に思います。きっとつけられたばかりの傷がうずくせいでしょう。
 これは外に出ようとした罰だと思っていましたが、よく考えれば、その人だって同じようにして耳飾りを着けていました。衣装室に置かれた宝石箱には、色々な耳飾りが並んでいて、その日の服に合わせて取り替えます。偉い人も使用人も、女でも男でも、耳たぶに穴を開けて耳飾りをしている人はたくさんいます。きらきらと美しく輝くそれらが罰ということはないでしょう。
「いずれ、これが役に立つときが来るかもしれん」
 と、その人は赤い石を指しました。その拍子に何かに目を留めて、ルディの耳に手を伸ばします。思わず身がすくみました。こちらへ伸びてくる手というものに良い記憶はありません。とりわけ、目の前の人は恐ろしい人でした。いやというほど知っています。思い知らされています。その人は宙で手を止めました。
「……お前のその耳は、どういったことだろうな。生まれつきなのだろう?」
 ルディの耳は、普通の人と違っていました。付け根から反対側が三角に尖っているのです。まるでだれかがつまんで引っ張ったようです。
 おばあ様は、ルディが――――ロバの子だから、こんな耳をしているのだと、よく言っていました。おばあ様はいつも、こぶしの代わりに言葉でルディを責めました。その中でもこれが、一番みじめな気持ちになる話でした。違う、と首を振って、耳をふさいでしまいたい言葉でした。ロバの子だからルディは「まぬけ」で「のろま」で「役立たず」なのだと、さんざん言い聞かされてきました。
 ルディはうつむきます。
「……ロバの、耳なんです。僕は…………ロバの子だから……」
 口に出してみるといっそう悲惨でした。泣きそうになります。案の定、その人は笑いました。
「ロバか。よく働く、役に立つ生き物だ」
 身構えていたルディは、その言葉を受け取り損ねました。とげのついた言葉の塊が、心を傷だらけにするのが日常でした。ときに体の怪我よりもっと長く痛みました。針を刺したままにされたように、思い出すたびにつらくなるのです。
 やわらかく投げかけられた言葉は、胸の底に落ちてむなしく転がります。
 ぼんやりと、言われたことを頭の中でくり返すすきに、お嬢様はまたルディに手を伸ばしました。ルディの耳に触れます。傷をよけながら、親指の腹で耳のひだを、尖った先までなぞります。
 むずがゆさに、ルディは体をふるわせました。頬が熱くなります。
「ああ、本物だ。血が通っている」
 愉快ゆかいそうにその人は言いました。
 頬の熱は、耳の先まで広がっているようです。いたたまれなさに、ルディは逃げ出したい気持ちになりました。壁際に追いつめられたときと同じです。どこか隠れる場所はないかと視線をめぐらせますが、どこにも隙間がありません。ならばいっそさっさと殴ってくれたら地面に突っ伏すことができるのに、と考えます。目の前の人の意図が分かりません。顔の熱さばかりが、気に障りました。
 手の内の些細ささいな発見をしばらく楽しむと、お嬢様は手を戻しました。満足したのか、ルディのそばから離れ、再び書棚を向きます。ルディはほっと息をつきました。
「そうだ」
 と、突然振り返ります。飛び上がらんばかりに驚くルディの前で、良いことを思いついたと上機嫌でした。
「もし今の話が本当なら、今すぐエヴァに教えてやれ。あの女はこういう奇形を集めるのが趣味で、出自しゅつじの明らかな物ならなおさらだ。あの女の部屋の陳列棚を見たか?」
 と、執務室の書棚を手のひらで示します。本と一緒に、白地に青い模様の入った壷や、鈍色にびいろの兜が飾られています。このようなものだと言いたいのでしょう。ルディは見た覚えがありません。
「あの女の蒐集しゅうしゅう物だ。手やら足やら……最初、お前の耳も珍しがっていた。私が許せば、すぐさまお前の耳を切り落として並べるだろうな」
 すっと熱が引きます。
 エヴァのあの引き出しの中に、針に混じってはさみがあって、ばさみのように大きな、鋭いそれで、ルディの耳を根本から――
 想像すると、寒気さえ感じました。どうしてこんなことが笑って言えるのでしょうか。せめて本気ではないと思いたかったのですが、顔色をうかがおうにも、その人は書棚に向き直り、二度とルディを見はしませんでした。
 他にたよる物もなく、ルディは服の胸元を握りしめました。


 夜、寝る頃には傷の痛みはあまり気にならなくなっていました。しかし着替えたり床に体を横たえたりするとき、金具がどこかに引っかかりはしないかとひやひやしました。そっと触れると、熱を感じます。
 傷が閉じてしまわないように、金属の芯を通したままにしておくそうです。傷はその形で固まるということでした。異物を内側に含んだまま。
 それでいい、と抵抗する気力もありませんでした。どうせ消えない傷なら、早く馴染んでくれればいいのです。そうすれば気にならなくなります。熱も痛みも、心をさいなむわずらわしいものでした。頬が熱くなるのも、胸がむずがゆくなるのも――――
 その感覚を思い返そうとする自分を制して、ルディは目を閉じました。


   ***


「ルディ。お前は、自分をロバの子だと言ったな」
 見下ろして、お嬢様は言いました。つま先はルディのそれに触れ、押したり引いたり、もてあそんでいます。いつものように床の上にひざまづかされ、「お願いです、やめてください」と懇願こんがんしたすぐあとのことでした。回を重ねるごとに、一連の行為で得られる感覚は深くなり、そうであるがゆえに抵抗感は増していました。
 押しよせる感覚の波間に浅い呼吸をしながら、何を言われるのかルディは待ちました。
「本当にそうかもしれん。お前はロバのように忍耐強い、頑固者だ」
 言葉の意味を考えつくまでに、つま先がルディのそれを小突こづきます。
「あ――っ」
「大抵の者は肉体の快楽に耐えられん。お前もすぐに、尻尾を振って腰をすりよせてくるだろうと思っていたが――まだ抵抗してみせる」
 靴の裏がゆっくりとそれを踏みました。最初は軽く、次第に重く、絨毯じゅうたんの上に押しつけられていきます。重さはじわじわと痛みに姿を変えます。絨毯じゅうたんの堅い毛がぞわぞわと表面を掻くのもまた、痛みを助長しました。
「はっ――あ――――、あっ――!」
 それが靴の下でびくりと跳ねます。すると、それまでルディを押さえつけていた足はわずかに浮きました。動いたのが、分かるのでしょうか。そう考えると気が気ではありませんが、意識をやればやるほど、ますますそれは大きく跳ね上がりました。自由になった分だけ、隙間を埋めるように、自分で自分を絨毯じゅうたんに、靴の裏に、打ち付けます。
「はっ――あっ、だめ――っ」
 直接、手で押さえられれば――それで、はたして望むとおりの結末が迎えられるは分かりませんが、どちらにせよルディのそこは靴の下に組み敷かれていましたから、叶わぬことでした。もどかしく、顔の前から脚のあいだに降ろされた靴を見つめます。昼間、ルディが履かせた靴です。焦げ茶色の革でできた、膝下まである編み上げのブーツで、側面に波状のステッチが三重に入っています。履き心地が良いから持ち主が好んで履く内の一足で、何度もルディはその固い革の合わせ目を、絹のリボンで編み上げたことがあります。その味すら、ルディはもう知っています。渇いた口の中に革の味がよみがえり、喉がきゅう、と鳴りました。同時に、靴の下のそれが、ひときわ大きく振れました。
「うぁ――っ」
 靴を、かきむしる代わりに、自分の胴を抱いて横腹に爪を立てます。
「そら、強情ごうじょうだ。むしろますます我慢強くなるようだ」
 面白そうに笑って、その人は今度こそ強く、ルディのそれを踏みつけました。
「あぁっ――!!」
「それともこれは口だけの抵抗だろうか?」
 今となっては、あえて引いてみせるようなことはなく、今まで以上に無慈悲に、靴底はそれを押し転がします。容赦のない痛みが、いただきに向かって理性を追い立てました。
 腰が奥から引き絞られるような感覚があります。いやだいやだと思って、それを押しとどめようとするのですが、体のどこに力を入れれば止まるのでしょうか。探す内にも引き絞る力はどんどん強くなり、ついに放たれる直前の矢のように張りつめます。自分の体の中にどろどろとした物があるのを感じます。鍋の中の湯のように、煮えくり返り、内からルディを突き上げます。これをはなってしまえば楽になれます。
 そのあとにどれほど後悔するか知っていても。
「あああっ!」
 靴底に向かって、ルディの体は白濁を放ちました。勢いは強く、靴の裏からさらにあふれて、絨毯じゅうたんの上に飛び散ります。
「はっ――は――あ――……」
 最後の一滴まで絞り出して、そのあとにも長く、余韻の拍動は続きました。
「あぁ…………」
 しかし、それが終われば――熱に浮かされた一瞬が過ぎ去ってしまえば、何もかもがむなしく思えます。口の端を伝うよだれに気付いて、慌てて手の甲でぬぐいます。みっともなくあげた声が形に残らないからといって、何の慰めになるでしょう。こだまとなって耳に跳ね返るようでした。何より、見間違いようもない汚れが、絨毯じゅうたんの上にまき散らされています。
 手をついて、ルディは床に口をつけました。相変わらず、ひどい臭いと味です。いまだに慣れることがありません。しかし、これだけが自分にできるせめてもの償いのように思えました。
「だがお前はとても良い子だ、ルディ」
 その人は満足そうに笑い、足をルディの前に突き出します。その裏にも、ルディは舌を這わせました。


 全てをすすぎ終えて、うつろな頭で、ようやく今日を終えられると考えていたところに、残酷な言葉がかけられます。
「お前は我慢強い良い子だから、似合いのいましめをやろう」
 服を整えるのもそこそこに、ルディは地下へと連れて行かれました。地下の、エヴァの部屋です。
 お嬢様の言葉を聞いて、エヴァは二人を手前の小部屋から奥へと案内しました。また部屋があります。いくらか広い部屋でした。手前の部屋で感じていた異様なにおいは強さを増します。壁には棚が作り付けられていました。たくさんのガラスの瓶が並んでいて、目を引きます。大きいもの、小さいもの、細いもの、浅いもの。中には黄色がかった液体が詰められ、何かしら様々な物が沈んでいます。赤や、黒、茶色、青い筋が入ったもの――見慣れないものばかりの中でふと、知った形を見つけます。それが何であるか理解した瞬間、音をたてて血の気が引きました。
 手の形をしています。左手です。手の甲の中程から大きく裂けています。中から突き出た白い物は、骨でしょうか。もしかして、と目をこらすと、それぞれの形が本来の有り様を訴えだします。ふくれ上がった人の頭、爪のない足の指、何重にも結合した――あるいは分裂した――目玉、とぐろを巻く内臓、――頭のつぶれた――赤ん坊――――!
 自分達が何者であるかを訴える声は、絶叫となってルディを取り巻きました。かつては生きた人間であったと、がむしゃらにつかみかかり、揺さぶりかけます。
 胃がぐるりと動きました。この部屋に充満する異様な空気が何からできているか思い至ります。瓶の蓋の隙間から、染み出すそれは――
 熱いものが、一気に喉を駆け上がりました。反射的に体が前に曲がります。こらえる間もなく、胃の中身が口から吹き出しました。音をたてて、床に飛び散ります。
 ルディはその場に膝から崩れ落ちました。ひどい臭気が、口の中からも外からも立ちのぼり、さらなる吐気を誘います。しかし二度目は、なんとか飲み下しました。口を押さえ、喉を突く反射をとどめます。
「っ……すみません、ごめんなさいっ…………」
 予想していなかった事態に、ルディ自身が一番、困惑していました。反対の手で、吐いた物をさらおうとします。汚すと怒られます。怒鳴られます。殴られます。蹴られます。
「なんだ、ここは初めてか?」
 その声が、恐慌に陥りかけた心を引き戻しました。
「こちらの部屋に無用の者を入れることはございません。ルディ、無闇に触らないでください。助手に掃除させます。
 スヴィー、ポガーズスチャ・エィット・ポル」
 エヴァが知らない言葉を発すると、物陰から一人の男が歩み出ました。フードを目深まぶかにかぶり、口元も布におおわれて、目だけが見えています。緩慢かんまんな動作で布巾ふきんを取り、ルディの前の床を拭きます。
「あ……ごめんなさい……」
 助手と呼ばれた男は黙々と作業をし、ルディと目を合わせることすらありませんでした。
 エヴァに言われて、水場で手と口をゆすぎます。その間もずっと胃からせり上がる物がありました。背を向けても臭いからは逃れられません。中身のつまったガラス瓶が同じ空間にあるというだけで、だれかが背後から忍びよってくるかのように恐ろしいのですが、エヴァもお嬢様も全く意に介した様子はありませんでした。
 特にエヴァにとっては、ここは彼女の部屋の続きです。ルディに仕事を教える以外は、ほとんど必ずこの部屋にいるようでした。普段、この部屋の中で何を思っているのでしょう。まさか、彼女が、ここに自分の耳も並べたがっているだなんて――嘘だと、ルディは信じようとしました。
 身も心もすっかり疲弊ひへいしていました。長い一日です。外の様子をうかがおうと窓を探して、ここが地下だと思い出します。いずれにせよ何も見えなかったでしょう。夜はとうにふけていました。そしていまだに、ここに連れてこられた理由をルディは聞かされていません。
 ひととおりの原状回復がなされると、エヴァは二人を部屋の奥に案内しました。ついたての向こう、そこには不思議な作りのイスが置いてありました。イスと言えば本来、座って休むためだとか、作業をするためだとかの物ですが、そのイスはおおよそ、座って快適なようには見えませんでした。
 金属の頑丈な骨組みの上に、木枠に布を張ったらしい座面や背もたれ、肘掛けが付いています。どれも、最小限の幅しかありません。座面はやっと腰の奥半分がかけられる程度、背もたれは肩から首のうしろの辺りだけ、ひじ掛けもひじと手首を当てる場所にのみ取り付けてあります。作りはしっかりとしているようですが、とても身を任せることなどできそうもありません。
 むしろこれは、作業台です。人を乗せて、作業するための物です。各部には革のベルトが備えられていました。
 ぞわぞわと、うなじの辺りが粟立ちます。エヴァがまた何事かを命じると、男はルディの肩をつかみ、そのイスに座らせました。ただでさえ疲れ果てた体は、恐怖のためにこわばり、彼の手をはねのけることはありませんでした。せいぜい、そのぎごちなさが彼をわずらわせた程度でしょうか。
 それでも文句一つ発さず、彼はルディの手足をベルトで固定しました。手袋越しの彼の手は固く、わずかに見える目は白く濁っています。まるで死体のようです。
 前に座るエヴァもまた、なんら感情らしいものを見せませんでした。機嫌良く、口の端をつり上げているお嬢様とは対照的です。エヴァは、イスにくくりつけられて大きく開いたルディの脚の間に手を伸ばし、スカートをめくりあげます。怯えきって、恥じらうどころではありませんでした。あらわになったそこも縮こまっています。
 いやでも眼につく部分でしたから、ベルスートに来て以来その形が徐々に変わっていったことに気付いていました。おそらくお嬢様から受ける仕打ちのせいで間違いはないでしょう。そこがあんな風に伸びるのを、ここで初めて知ったのですから。前は、そこの先端は皮の中に埋まっていて、夜の行為のあいだだけ伸びて、皮から出てきていました。しかしそれをくり返す内に、縮まっても中には戻らず、普段から外に露出するようになりました。全体として、一回り大きくなったようにも思います。
 それは、ほかならぬお嬢様も知るところだったのでしょう。
 そこへ穴を開けるのだと聞かされました。
 耳たぶへ、針を刺したように――今度は、その部分へ――
 縛られた手足がふるえ出します。わななく唇から悲鳴とも哀願ともつかない声が漏れました。
「やぁ……や、あぁ…………」
 それを気にとめる人はいません。エヴァは針を手に取りました。
「どちらにいたしましょう」
「裏のすじの所はどうだ?」
「かしこまりました」
 うなずいて、ルディの方を向きます。切れ長の緑の眼は、少しも曇ることなくルディを見つめました。冷酷さも、残忍さも、憐れみもそこには映らず、一点のかげりもない宝石のように美しく、そして無感動でした。
耳朶じだへの穿孔せんこう――以前、耳たぶに穴を開けたのと、要領は同じです。敏感な部位に思えるかもしれませんが、表面の皮膚の感覚は他の部位と変わりません。皮下に存在する性感帯は温存されます。形状からみて施術は容易で、予後も良いと予想されます」
「説明は十分だ、医術士殿」
 手を振って、お嬢様はエヴァをさえぎりました。忌まわしげに眉をよせて笑います。
「まったく、お前にかかればどんな艶事つやごといろどりを失うな」
「事実を申し上げているだけです。施術の効果を上げるためには、対象の協力が必要不可欠となります。無駄に対象の恐怖心をあおることは、本意ではありません」
「いいだろう。だがこれ以上風情ふぜいが無くなる前に、さっさとやれ」
 最後の命令が下されました。エヴァは左手でそれをつまみ上げます。くびれた部分をしっかりとつかみ、狙いを定めます。
 貫通は一瞬で済みました。
 針はすぐに金具に差し替えられました。一筋流れた血もぬぐいとられます。
 ルディが、止めていた息を大きく吐き出したとき、大粒の涙がこぼれ落ちました。痛みはそれほどではありません。少なくとも恐れたよりは。耳たぶに穴を開けたときとも大きく違いません。けれど涙はぼろぼろと流れて、止まりませんでした。
 痛みのせいではなくて、なにか、取り返しのつかない重大なことが、自分の体に自分の意志に反して施されたという実感が、ルディの心をぐちゃぐちゃに荒らしたのです。欠片かけらほど残っていたルディの尊厳が、無惨にも踏みにじられた思いでした。
「これは戒めだ、ルディ。お前がみだらな欲望に屈さず、自分を律することができるように、私からの贈り物だ。私は、お前の自尊心に敬意を払おう。嬉しいだろう?」
 その人の言葉はひどくルディを混乱させます。反射的にうなずこうとしたのは、首を固定されていたおかげでまぬがれました。


 解放されて、やっとルディは部屋に帰りました。
 一人になって、自分の体を見下ろしても、もはや涙は出ませんでした。じくじくと痛むその部分をかばいながら、暗闇の中でうずくまります。汚泥のようにまとわりつく疲労に反して、眼はさえていました。闇の向こうを凝視します。
 これも印でしょうか、それとも罰でしょうか。
 戒めだとあの人は言いました。
 ルディには意味が分かりません。
 いずれであっても、甘んじて受けるほかありません。ここでの生活以外に、すがるものは何もないのですから。どれほど痛めつけられようと、明日になれば立ちあがって、働かなくてはなりません。ルディは半ば無理矢理、まぶたを閉じました。


 傷が痛まなくなる頃、金具は輪に替えられ、さらに革の首輪を与えられました。自分で自分を制するようにと、その首輪と輪は、鎖でつながれました。
 最初、金属のこすれる音にルディはびくついていました。服の下に隠しておきたい汚れが、他の人にも容易に知られるようでした。しかしやがて、音が鳴らないように立ちふるまうことを覚えました。
 時と共に熱と痛みが去って、傷は、金具を通したままふさがっていました。痛みも感じない代わりに、ぽっかりと穴が空いています。
 心も同じでした。
 傷がついて、いずれ、いびつなまま固まるのです。