第三幕

   一 『石』

 その日、いつものように外はどんよりと曇っていました。葉は散り、季節は冬へと移りつつあります。太陽の出る日はだんだんと少なくなり、そのせいで昼でも気温は上がらず、夜はさらに冷えこむようになりました。やがて、一日中、氷が解けない日が続くようになるのでしょう。
 ルディの胸の内のようでもありました。
 慣れない城での暮らしに加えて、お嬢様から受ける仕打ちに、身も心も疲弊ひへいしきっていました。仕事も分からないことばかりで、少し先も見えない暗がりにいるような気分でした。
 エヴァが指示を出し、ルディが彼女の手本を見ながらそれをこなす、という形がずっと続くものだと思っていたら、いずれはルディがすべてをこなすようになるのだと告げられました。今朝もすでに、お嬢様の身支度をして、中庭まで送るという一連の流れを一人でやらされました。果たして、何の失敗もなくここまで来れたのか、中庭の回廊の下で、お嬢様の背中を見送りながら不安が沸き立ちます。いつも、ルディの心の半分以上はこの不安という感情にかっていますが、その湖面が音をたててざわめくのです。
 鍛錬に着ていく服は毎日同じです。深緑の上衣に焦げ茶のズボン、膝下まである黒いブーツ。しかし、れはなかったでしょうか。がねを一筋違えてはいなかったでしょうか。あとで脱ぐときに、間違いが見つかればぶたれるかもしれない、と想像すると足がふるえ出します。
 白い息を吐きながら行き来する兵士達を、見るともなく、しばらくルディはその場に立ち尽くしていました。
「おや、ルディ君」
「あ……」
 話しかけてくる人がいて、身をすくめます。ラールです。この中庭にいる近衛兵団の、二番目に偉い人だという。近衛兵というのは偉い人を守る役目を持った兵士のことで、ラールは昔からお嬢様に仕えているのだと聞きました。顔のしわからもそれがうかがえます。よく笑う人で、そうすると一層しわが目立ちました。
 近よってきた彼に頭を下げながら、消え入りそうな声で挨拶をします。
「おはようございます……」
「おはようございます。今日も姫様のお見送りですか?」
「はい」
「もう立派な侍女ですね。この城にもだいぶん慣れたのでは?」
 答えるべき言葉が見つからなくて、ルディは押し黙りました。気まずく感じます。
 挨拶程度はいつも交わしているのですが。まだ、訓練が始まるまで少し時間があるせいでしょうか。普段になく、彼はその場を離れようとしませんでした。
 エヴァは、こういう話をしません。会話はいつも必要なことに関して、必要な分だけ行われました。だからかえって、ルディにとっては負担が少なくすむのです。必要なことを、エヴァが説明します。分からないことがあるか聞かれるので、質問します。エヴァが答え、ルディが理解すれば、終わりです。エヴァの言うことはすべて必要なことでした。だからすべてを聞いていればいいのです。事務的なやりとりで、二人の間にはいつも適切な距離が空いていました。
 そう、ラールはそれほどでもないのですが、だれかに近くによられるのも苦手でした。不意にお嬢様が距離をつめてくることがあって、例えば顔を覗きこむだとか、そのたびにルディはおびおびえなければなりません。
 できれば、自分のことは、そこらの石ころのように放っておいて欲しいのです。たまに蹴飛ばされるくらいは我慢ができました。
「まだ慣れませんか。仕方のないことです」
 と、ラールは苦笑します。
「ごめんなさい……」
「謝る必要はありません。以前とは全く違う生活でしょうから」
 それから、少し沈黙がありました。何か言うべきか、それとも立ち去って良いのか迷う内に、彼が再び口を開きます。
「君は、あの町で生まれたのですか?」
 おそらくそうでしょう。覚えている限り、外に出た記憶はありません。
 小さくうなずき返します。
 ラールはルディから目を離し、前を向きました。
「では我々は、君から故郷を奪ってしまったのですね」
 静かな声でした。無機質なわけではなく、複雑に混じり合う感情が互いを抑え、その色味を失わせたような。それらがどんな感情なのか、ルディには分かりません。同じように前を見つめます。
 彼の目には、あの夜の出来事が映っているのでしょうか。ルディの耳にも、炎の音がよみがえりました。
 全容を見たわけではありません。しかし燃やし尽くしたと、あの人は言いました。ならばきっと、そうなのでしょう。
「あのとき、君はなぜあの家の地下などにいたのですか? それに、ひどくやつれていた」
「……あそこは、僕の家です。おじい様が……僕は、地下から出るなと…………みっともないから」
 ラールは言葉を失いました。
 使用人か奴隷とでも思われていたのでしょう。汚い格好をしていましたから。実際に、似たようなことを言われてもいました。彼を責める気にはなれません。
 故郷――そう呼べるほど、町のことも、家のことすらも、ルディはよく知りませんでした。一番偉いおじい様がいて、おばあ様がいて、子ども達、そしてその子ども達。そのくらいのことをぼんやりと理解していただけです。改めてルディに自己紹介をしたり、説明したりしてくれる人はいませんでしたから。家族でない使用人も何人かいました。彼らは皆、炎に焼かれたのでしょうか。
 気が付けば、ルディは聞いていました。
「あの町は……どうして、燃やされたんですか……」
 ラールは少し考えたようでしたが、言葉を選ぶようにゆっくりと、話し始めました。
「あの町が鉱山によって栄えていたことは知っていますか」
 知っているような気もします。家に、土で汚れた服を着た男達が集まることがよくありました。家の中まで上がることはなく、たいてい外の庭で集まって何か話をしたり、ときには夜通しの宴会が開かれもしました。おじい様を始め、家の人は彼らに命令する立場にいたようです。
「古くからあそこは良質な銅の産地でした。しかしそれだけではありません。近年になって、純白鉱石の鉱脈も見つかったらしいのです。らしい、と言うのは、それが我々には隠されていたということです」
 知らない単語にルディは首をかしげました。言葉にならない疑問を受けるように、ラールがうなずきます。
「魔術師ではない我々には分からぬ話ですが、純白鉱石は魔力を持った石だと。軍略上、非常に重要な産物です。すべて辺境伯閣下の権限の元に管理される決まりとなっていました。ところがあの町は石の存在を報告しなかった上に、秘密裏に採掘し、領外への輸出も行っていました。非常に重大な反逆行為です」
 苦々しげに、その眉根がよります。
「我々は再三警告もしました。しかし聞き入れられなかったために、あのような形で粛正しゅくせいが行われるに至ったのです」
 ルディはおののきました。罪の重さを正確に理解しているわけではありません。ただ、その意識だけで十分でした。家の人が自慢にしていた豊かな暮らしが、どこから来たのかと考えると――
「ごめんなさい……」
 ああ、ではやはり、自分の今の現状は、罰なのでしょうか。罪を犯したならつぐなわなければなりません。
 うしろめたさをそそがれ、胸の内の不安は水かさを増しました。どれだけもがいても足は底に着かず、ただ沈んでいくだけです。
 息苦しさに、ルディは胸を押さえました。そのとき、遠くで空気のふるえる音がしました。重く、腹に響く音です。顔を上げます。ラールも、中庭にいた近衛兵達のほとんどが、空を仰ぎます。
「爆発?」
「火薬庫か?」
「いや、塔の方だ」
 空気が張りつめます。
「ルディ!」
 人垣を裂いて、お嬢様が素早く歩み出ました。
「エヴァはどこだ?」
 けわしい顔で問います。今なら、きっと、片付けのためにお嬢様の部屋にいるでしょう。しかしそのまなざしにすくめられ、言葉が出ません。お嬢様の手が、ルディのむなぐらをつかみました。近づいてくる赤眼に、息をのみます。
 声は重く、静かでした。
「塔の魔術師どもが何かしくじったらしい。怪我人が出た。エヴァを呼んで塔に向かわせろ」
 そして手はゆるみ、ルディの胸をゆっくりと押します。
「走れ!」
 振り返り、ルディは駆け出しました。
「私は先に塔に行く!」
「お供いたします」
「ラール、ケンニヒ、レデリエート、シャイデ、この四名だけ来い! 他の者はここで待て!」
 人々の声を背後に残し、ドアを開けます。大きな音をたてて走ることなど、家ではなかった――許されていなかったので、すぐに息が切れました。しかし無我夢中で、階段を駆け上ります。
 途中で、降りてきたエヴァとかち合います。
「何かあったのですか?」
 異変に気付いていたようです。
「お嬢様がお怪我をされたのですか?」
「いえ、塔で、魔術師が……怪我をしたって……」
「分かりました」
 エヴァが向かう先は外ではなく、地下に降りる階段でした。
「用意をしてすぐに参ります。負傷者の把握をするよう、伝えてください」
 中庭へ戻ると、すでにお嬢様達の姿はありませんでした。従士見習いの一人が言い出て、そのことを伝えに走ってくれました。
 残された近衛兵達はあるいは空を仰ぎ、あるいは腕を組み、数人で固まり、話し合う者達もいました。使用人達も不安げに中庭まで出て、事情をたずねます。
「いや、我々にも分からん。姫様は何か感じとられたようだが。すでに塔に向かわれた」
「うかつに近よるなよ。魔術の事故だと、何が起こるか分からん」
「まったく魔術師どもめ、何をやっているんだ……」
「対魔術装備がもっとあれば我々も……」
 口々に言い立てるので、中庭は騒然とします。その最中さなか、廊下を足早に通り抜ける一団がありました。
「エヴァ殿だ」
 だれかがそういうのを聞いて、先頭を行くのが彼女だと、初めて気付きます。眼だけをわずかに残して、他はすべてフードとマスクにおおわれていました。以前、彼女が助手と呼んだ男がしていたのと同じような姿です。そして彼女のうしろに続く五人こそ、その助手達でしょう。とりわけて背の高い彼女だからこそ本人だと分かる程度で、そのほかでは彼女も助手達も、見分けはつきませんでした。
「エヴァ殿が向かったならひとまずは安心だな」
「どうかな、頭と胴体がバラバラにでもなっていたら、さすがのエヴァ殿でも治療は不可能だろう」
「あちらには姫様もおられる。魔術師達だって全員やられたわけではないだろう」
 中庭の中は、再び人々があれこれ言う声で満ちました。それもやがて収束した頃、さっき飛び出した従士見習いが戻ってきて、負傷者を運ぶからと、近衛兵を数十人連れ、また走っていきました。
 また時が経ち、城の中に負傷した人々が運びこまれました。数人はすでに手当てされていて、より重傷の者は地下へと担架で送られます。それを先導するのは、やはりエヴァでした。
 やがて、怪我人を運び終えた兵士達が中庭に戻り、駆けよる仲間達に見たことを話し出しました。
 何か、誤って爆発が起きたらしいということです。彼らが行ったときには、すでにお嬢様達によって事故自体は収束しており、塔の外まで運び出されていた怪我人をエヴァ達が手当てしているところでした。
 塔では魔術師達が魔術の研究をしているそうです。先ほど聞いた、純白鉱石などのことでしょうか。中には取り扱いの難しい物もあり、危険な行為が行われることもあると。
 またしばらく時間が経って、最後に、お嬢様達が戻りました。
 気付けば、もう昼近くになっていました。
 物の焼け焦げたにおいが鼻を突きます。先発の五人は爆発のあったむねに入ったということで、服や手は、黒いすすや白い灰と、怪我人のものでしょう、赤黒い血で汚れていました。特に、真っ先に飛びこんだというお嬢様は顔まで汚れています。
「やれやれ、とんだ災難でしたな」
 と、ラールが場の雰囲気をなごませるように笑いました。
「人災だ。魔術師達には原因をよく調べさせる」
 お嬢様は手のひらで頬のすすぬぐおうとしましたが、そこすら黒く汚れていることに気付いて、止めます。
「一旦解散いたしますか」
「そうしよう」
 ラールの進言に、お嬢様はうなずきました。そして声を張り上げます。
「皆、よく働いた。昼は良く休め。だが今後の処理にまた人手が必要になるかもしれん。全員、午後は城で待機せよ」
 いっせいに応じる声が、中庭に響きました。
 ずっと、回廊に立ち尽くしていたルディは、近づいてくるお嬢様に慌てて頭を下げました。
 そばを通り過ぎる、そのうしろに付き添います。もう昼食の時間でした。しかしまずは汚れを落とすために湯浴ゆあみだろうと、見当をつけます。
「午後はいそがしくなるぞ。魔術師どもの言い開きが楽しみだな」
 建物の中に入り、お嬢様は言いました。ルディに向けた言葉のようです。しかしなんと答えていいのか分かりませんでした。他の人がするように、何か、もっともな受け答えか、さもなくば気の利いた返事をしなければいけないのでしょう。しかしルディの口から出たのは頼りない問いかけだけでした。
「あの……怪我は……?」
「無事だ」
 お嬢様は手を振ってみせます。
「もし私の身に何かあったら、あの女が見過ごしてはいないだろう。普段は死体のように鈍感な女だが、このことばかりは目敏めざとい」
 にやりと笑いました。あの女とは、エヴァのことのようです。怪我や病気を治すのが本来の仕事と聞きました。今回の件こそが、彼女の職分というわけです。
 急に、忘れていた不安が、瓶の中の水が揺れたような音をたてます。今から侍女の仕事が始まるというのに、エヴァがいないことに気付きました。しばらくは帰って来れないでしょう。そのあとについて、うしろめたさもまた、あぶくとなって水面を波立たせました。
 ルディのいた町は、家の人は、罪を犯したのです。今の自分の状況はその罰です。目の前の人は苛烈かれつな裁きをくだす人でした。
 恐れとともに、何かしらの覚悟をルディは抱きます。立ち向かう覚悟ではなく、どんな扱いも受け入れようとする覚悟です。
 家でだってそうでした。家の人がルディを責めるのは、仕方のないことでした。ルディは、罪の子でしたから。
「お前みたいなやつを家にいさせてやってるんだ」
「本当に恥ずかしい子ね」
「おい、こんな所で何をしているんだ。さっさと地下室に行け!」
「あんたを見てると気味が悪いわ」
 言われたことが、頭の中でぐるぐると回り出します。
「ああ、ルディ」
 廊下の途中で立ち止まり、その人はルディを見ました。手を伸ばします。
 数時間前の感触が、胸の表面によみがえります。むなぐらをつかまれた感触です。同じふうにされて、頬を打たれたこともありました。痛みと衝撃を思い、それらに耐えるために、唇を引き、目をつむります。
 頭に、何かが触れました。
「お前もよくやった」
 そのまま、さすられます。髪越しに、やわらかく、あたたかい感触が地肌をくすぐります。何がなされているか理解して――うなじの毛がぞわりと逆立ちました。
 頭を振り、その手を払いのけます。
「やめてください……っ」
 喉の奥で叫びながら、大きく、身を退きます。
 顔を上げると、赤い眼と視線がぶつかります。頭をなでた手は宙に取り残されていました。その顔にうかがい知れるような感情はなく、わずかばかりの意外性によるものか、ただルディを見つめます。
 その無頓着むとんちゃくな、無邪気な、無垢な、無造作なまなざしに抱いたのは、がむしゃらな、反発心でした。
 放っておかれるのも、蹴飛ばされるのも、耐えられます。しかし、こんな仕打ちは全く我慢できないのです。
 胸の内を吹き荒れる風は嵐のように、湖面を巻き上げました。その激しさに、どうしようもなく、二歩、三歩、あとずさり、ルディはその場から逃げ出しました。
 廊下を走って、階段を駆け上り、また走って、しかしどこにも行き場の無いのは知れていました。
 灰色の空がルディを迎えます。バルコニーに走り出る頃には、息は切れ、脚が悲鳴を上げていました。胸が早鐘を打ち、痛みます。
 頭の中では暗く重たい感情が幾重にも重なって、渦を巻いていました。
 あの家の仕打ちは、ルディの存在に対する罰でした。
 この城での処遇しょぐうは、あの町の罪に対する罰です。
 だから仕方がないのです。耐えるしかないのです。耐えればいいのです。そうしてきました。これからもそうするでしょう。文句なんてありません。言える立場ではありません。
 だから、だから、だから――――
 頭をかかえて、ルディは石の床の上にしゃがみこみました。さっき触れられた部分をかきむしろうとして、できずに、耳の上あたりで手を握ります。
 だから、あんな風にされると、どうしていいか分かりません。
 悲しくもないのに、涙がにじみました。胸がひどく痛みます。じきに息がととのい、足のふるえが止まっても、胸の痛みは消えませんでした。
 長い間、ルディはその痛みが収まるのを待っていました。しかし、いつまで耐えても消え去りません。結局、それを胸にかかえたまま、冷える体を立ち上がらせます。
 同時に、弱々しい覚悟を秘めていました。
 自分のしたことを思い返します。
 手を振り払い、逃げ出しました。するべき仕事をしなかったのです。
 これで、きっと――罰が与えられるでしょう。
 重たい足取りで、ルディは与えられた部屋まで戻りました。
 あかりもつけず、すみにうずくまります。扉を開ける人が来るのを待ちます。荒々しく踏みこみ、自分を殴り倒すのを。
 窓のない部屋は暗く、あの地下室のようでした。
 ほこりのにおいがしません。
 どれほど経ったでしょう。
 足がしびれても、ルディはその場を動きませんでした。
 日没を告げる鐘が響き渡ります。
 それが鳴り終わり、また、恐ろしいほどの静寂がルディの耳を浸食しました。
 そしてとうとう、ドアをノックする音が闇にこだましました。
 足をふらつかせながら立ち上がり、答えます。ドアが開き、その向こうからエヴァが現れました。フードもマスクもなく、いつも着ているような、普通の人と同じ服装に戻っています。
 ルディを一瞥いちべつし――「ここにいたのか」というような、目で、見て分かることを、彼女はわざわざ口にしません――廊下に立ったまま、抑揚よくようのない声を発します。
「お嬢様がお呼びです」
 そのあとに、ルディは従いました。
 連れて行かれたのは、執務室でした。普段なら、夕食を終え、自室でくつろいでいるはずの時間でしたが、お嬢様はいまだに午後服で、執務机に向かっていました。その前に、エヴァと並びます。
 いざそこに立つと、弱々しい覚悟を踏み散らして、恐怖が鎌首をもたげました。今から受ける罰について想像を巡らします。さあっと音をたてて、頭から血が引きました。心臓が早鐘を打ちます。
 顔を上げずに、お嬢様は口を開きました。
「早かったな」
「自分の部屋におりました」
「ご苦労。
 魔術師どもの報告書だが、あとにするか」
 たばになった紙を机の端に置き、
「さて」
 ルディを見上げます。
「お前の申し開きを聞こうか」
「…………ごめんなさい……」
 やっとの思いで、ルディは声を絞り出しました。
「謝罪はあとでいい。まずは言い訳を聞かせてみろ。何故逃げ出した?」
 何を話せばいいのでしょう。
「ごめんなさい……」
 ただ、ルディはそうくり返しました。
 言葉を探そうともせず、顔をうつむかせます。恐怖とは裏腹に、早くそのときが来ないかと考えていました。頭をつかまれ、床にたたき伏せられる瞬間です。全く矛盾していますが、そうすれば楽になれると感じていました。痛くて苦しくて怖いのに、何も心配しなくていいのです。
 しかし、お嬢様の口から出てきたのは、思いもよらない言葉でした。
「私の手が汚れていたからか」
 ルディは困惑して顔を上げます。お嬢様は左手で頬杖をつき、首をかしげていました。
「そう言われた。私の手が汚れていたから嫌がられたのだと」
 今はもう、きれいになった、右手のひらをかざします。別段、気を悪くしたり、気にする風ではありません。
「いいえ……」
 おそるおそる、首を振ります。確かに、あのとき、その手はすすや灰で汚れていたでしょう。しかしそんな理由ではありません。
「申し上げましたとおり、とりわけ彼には適切な距離が必要なのです」
 一歩離れた隣に立つエヴァが、口を開きました。不意にその手が自分に向かって上げられ、ルディは身をすくめます。何も起こらず、反射的に閉じていた目を開けると、エヴァの体は元のように前を向いていました。
「このように、対人距離がせばまると極度の緊張状態におかれるようです」
「ああ、私がお前を殴ると思ったのか」
 心外だ、という顔ではありませんでした。平然としています。あり得ないことではないと、言いたげな。
 しかし、そうはしなかったではないですか。
 また首を振ります。
「では頭をでられたのが気にさわったのか」
 心の湖面がざあっと波立ちます。どこかで、先ほど触れられた意味を認めたくない気持ちがありました。しかし今改めて、他でもない本人の口から、それが明らかになったのです。反発心が風のように吹き、それにあおられて、ルディの口から拒絶が突いて出ました。
「なでないで、ください……」
「嫌なのか?」
 いやだとか、してほしくないとかではなく、そうするべきではないのです。もどかしさにルディは胸をふるわせましたが、自分の口だって上手く説明できません。
「おじい様も、他の人も、僕を、殴ったり……蹴ったり……でも、仕方ないんです。僕が悪いんです。僕は……あの町の罰のために、連れてこられたのでしょう? だから、ここでも……そうしてくれれば…………放っておいて、蹴飛ばしたり……それでいいんです」
 どうしてここの人達はそれが分からないのでしょう。家の人はたいていみんなよく分かっていました。
「優しく……しないでください……」
 言いながら、胸が張り裂けそうになります。
 家の、子供が。ルディよりも小さい子が、かじっていたパンを分けてくれたことがあります。ほんの切れ端でしたが、いつもお腹を空かせていましたから、食べられる物ならなんでも良くて、そして分けてくれたことが嬉しくて、何度も、ルディはお礼を言いました。あとでその子は大人からとがめられて、ルディを指差しました。
「違うよ、アイツが盗んだんだよ」
 その日は、立てなくなるまで殴られました。
 優しくされるのは、ひどくされるよりももっとつらいことです。何故ならそれは必ず、失われるものだからです。何度もそれを経験してきました。ならいっそのこと、最初から何も無い方がいいのです。
 そうすれば、心は、不安の底に沈んで、平穏でした。
 何も言えなくなって、下を向きます。馬鹿なことを、みっともなく声をあげたなと、自分で自分をののしります。
「なるほど、罰か」
 頬杖をやめて、お嬢様はうなずきました。
「だれかがお前に余計なことをしゃべったな」
 その声は笑っています。まさかラールが罰されはしないかと、ルディは青ざめました。それをかき消すように、お嬢様は手をひらひらと振ります。
「かまわん。特に隠すようなことでもない」
 そしてルディに向かって身を乗り出しました。
「前も言っていたな。あの男がお前の祖父だというのは事実か? あの、お前にとりすがっていた老人だろう? あの家の家長だと聞いた」
 小さくうなずきます。
「ふうん」
 と、お嬢様は一瞬、神妙な顔をしました。すぐにまた、笑います。
「さて、では二つ、教えてやろう。一つは、私はお前をあの家の罪の代償として連れてきたわけではない。そもそも、あの時、お前があの家の子だとは思っていなかった。みすぼらしくて、奴隷か何かに見えたからな」
 ゆっくりと、ルディは息を吐きました。そう言われて、わずかに気が楽になるでしょうか。しかし信じていいのか、まず疑っていました。そして罪の重さが消えたとしても、目の前の暗がりが晴れたわけではありません。同時に、ここにいる理由を失ったということでもあります。これからの扱いが変わるわけでもないでしょう。
 お嬢様は思いを巡らすように、首を傾けました。黒髪がさらりと揺れます。
「あの町のつぐないならばあの場ですでに終わらせたつもりだ。近衛兵達はよく働いた。煙に巻かれて逃げ出た住民をほとんど一人残らず斬り伏せた。お前のようなわずかな取りこぼしを除いて」
 獣の目がルディを見ます。ぞっと冷たいものが背筋を下りました。あのとき、あの場で死んでいたとしても不思議はないのです。炎に焼かれて、あるいは、がれきで生き埋めになって。だからといって、この人は何の痛痒つうようも感じなかったでしょう。
 崖の中の、もろい足場に立っているように錯覚します。ここにいることが全く不確かに感じられました。
「もう一つ」
 その声に、わずかに正気をとり戻ります。地の底から太陽を仰ぐように眉根をよせて、ルディは前を見ました。
「お前は、私の侍女だ。もはやあの家の無価値な石ころではない。だれかが私に仕える者を侮辱ぶじょくしたとしたら、それは私を侮辱したのと同じことだ。その舌の根が乾くのを待つつもりはない。お前を傷つける者が現れたなら私の名を言ってやるといい。だれ一人として、私の臣下を無碍むげに扱う者を許しはせん」
 強い光を感じます。冬の、雲間に差しこむ陽のように冴え冴えとして、それよりももっと強い。さらされて、顔をおおうような。
「お前をそのように扱えるのは、私だけだ」
 肌を、くような。
「それにしても、あの家の人間はお前につまらん扱いをしていたようだな。だが、私には、石ころを蹴って遊ぶ趣味はない」
 目を細めて笑います。
「物言わぬ石を蹴りつけて、何が楽しい? 生きて考え、震える人間相手だからこそ、相手をする甲斐があるだろう?」
 心臓が激しく鳴り響き、足が木の棒のようにすくみました。頭の中で、得体の知れない感情が渦巻きます。心臓の音は雷のようにとどろきました。
「ルディ」
 お嬢様が立ち上がり、そばによってくるのにも、身を引く余裕はありませんでした。耳に顔をよせ、ささやきます。
「だから喜びも悲しみも痛みも、すべて私に捧げるがいい。私こそがお前の全存在の理由だ。私の侍女」
 ルディは涙をこらえて、目を閉じました。世界は闇に包まれ、真っ逆さまに落ちていきます。
 望みとは、叶えられないものです。
 耐えなければいけません。
 頭に触れる、その手があたたかくて、優しいのが、ひどく胸をふるわせました。




   二 『本』

 雪のちらつく午後のことでした。
「図書館に行って、この本を返してこい」
 執務室に呼ばれ、ルディはお嬢様に言われました。数冊の本を渡されます。こういった細々こまごまとした用事こそが、侍女の仕事のようです。
 隣に立つエヴァを見上げると、
「本館の側に立つ大きな建物です。厨房の隣の裏口から出て、正面玄関に回り、左手に道を行けばすぐ分かるでしょう」
 そう教えてくれました。
 正面の大きな玄関を使うのは、偉い人だけです。ルディは言われたとおり使用人用の裏口から出て、お城の正面に回りました。
 道を歩きながら、改めて意識してみると、その方向に古い建物があるのを、前から知っていました。城の中からも、木立こだちの向こうに見えています。図書館とは、本をたくさん置いてある建物だそうです。どんな場所なのでしょうか。
 ルディは本を読んだことがありません。文字が読めないからです。試しに、お嬢様から渡された本の表紙を指でなぞってみましたが、やはり、深緑の表紙に浮かぶ金色の文字が花のようだと思うだけでした。きっとこんな風に、図書館も本も、自分とは一生縁遠いものなのだろうと、感じていました。
 近くまでよるとその建物は大きく、ルディの目から見ても明らかに、城とは違う雰囲気でした。城の外の壁は土色をしていますが、図書館は青黒い石でできています。材質から組み方、屋根の形にいたるまで、この場所にこの建物があるのは異質に思えました。全体に苔が生え、非常に古いようです。
 正面には大きくて立派な門が構えてありました。すぐ隣に通用口を見つけて、ルディはそちらを開けます。
 中は、真っ暗でした。とても高い所に、小さな窓が転々と付いているだけで、全体を照らすにはとても足りないようです。ルディの背丈より何倍も高い棚が所狭しと並んでいる、その陰だけが見て取れます。想像していたような、ほこりのにおいはしませんでした。紙と木と革と石のにおい。古びた外観に反して、中は清潔に保たれているようでした。
 こういうときは、思い切って暗がりに飛びこんでしまった方が、早く目が慣れるものです。ルディは扉を開けたまま中へと踏み入りました。
「あの……だれか……」
 司書という、本を管理する人がいると、聞いていました。その人は、こんなに暗い所で仕事をしているのでしょうか。
 しばらく目をこらしていると、黄色いもやが、あたりをくまなくおおっているのが分かりました。何か、綿ぼこりのようでもあります。それが本棚一面に広がっているのです。
 三歩、四歩と足を進めて、何かにつまずき、ルディは倒れそうになりました。とっさに、すぐ近くの本棚にすがりつきます。
 ぞわり、とその手に何かが絡みつきました。
「――――」
 息をのみます。
 細い、糸が、何本も。ただ絡まっているだけではありません。ゆっくりと動いて、手のひらを這い、手首に巻き付きます。
 それは、髪の毛でした。
 ルディはあたりを見回しました。本棚を、壁を、床をくまなくおおう、もやだと思っていた物はすべて、髪の毛でした。
 おぞましい光景です。何千、何万、それ以上の髪の毛が、そこら中にとりつき、うごめいているのです。
 足首をぞわりとした感覚が襲います。
「ひっ……」
 見下ろせば、そこにも髪の毛が巻きついていました。じわじわと膝まで這い登ります。
 何が起こっているのか理解するひまもなく、身動きがとれなくなりました。絡みつく髪は一本、また一本と、数を増やしていき、その内に腰や肩にもかかります。足をすくい上げられ、あっと思う間に、ルディの体は宙に吊り上げられました。
「あっ…………」
 空中であお向けになった体は完全により所を失います。なんとか、身をよじり、抜け出そうとしますが、もがけばもがくほど髪の毛はきつく締まりました。
「――――」
 声が出ません。喉を絞められたからでも、怖いからでもありません。「いやだ」とか「助けて」とか、言葉は喉まで来ているのです。しかし形にはなりませんでした。
 助けを求めて、懇願して、それが聞き入れられたことなんてあったでしょうか。
 ルディは知りません。
 とりすがった手は、振り払われるだけです。
 それを思い出して、ルディの手は力を失いました。肌を這う不快感に身をゆだねます。髪の毛の侵食は止まらず、あるいは手首をねじり上げ、あるいはふとももを通ってスカートの中へと伸び、さらには首をきりきりと締めつけました。涙が一筋、ルディの眼から流れ落ちます。
 ここで死ぬのだろうかと、考えました。
 その瞬間、奇妙な感覚がルディを襲いました。ぐるりと、頭の中に手を入れられて、裏返されたような――
 急に、痛みを感じなくなりました。目の前のものがどこか遠く感じられます。体が軽くなって、まるで水に浮いたようです。
 くい、とえりを引っ張られます。わずかな力のはずですが、ルディの体は水面をただよう小枝のように、引きよせられました。
 きつく巻き付いていたはずの髪は、溶けるようにルディの手足をすり抜けていきます。
 落ちる――とルディは身構えました。眼を固く閉じ、背を丸めます。
 しかしいつまで待っても、そのときは訪れず――
「目を開けろ、ルディ」
 聞き知った声が、耳元で響きました。はっと目を開けると、すぐ近くにお嬢様の顔があります。床に落ちる代わりに、ルディはお嬢様に抱き留められていました。
「大丈夫か?」
 微笑みかけられて、息が止まりました。
 無辺にうごめく髪の毛と、この人と、どちらが恐ろしいかなど、考えたくはありません。
 ルディは声も出せないまま、首を上下に振りました。お嬢様に支えられている肩が、膝の裏が、にわかに熱を帯びて、ルディの心を揺さぶります。
 締めつけられた跡はどこも無事でした。痛むだけです。だから、早く降ろして欲しい――ルディの願いは、すぐに叶えられました。
 お嬢様はルディの肩を抱いたまま、片方ずつルディの足を床に降ろしました。両足で降りたった瞬間、めまいがルディを襲いました。頭から血の気が引きます。急に、地面が体を引く力を、強く感じました。こめかみを押さえながら、なんとかルディはその場に踏みとどまります。お嬢様の手がなければ、倒れていたかもしれません。
不埒ふらちな有象無象だ」
 ルディが一人で立てるのを見ると、お嬢様は手を離し、暗闇に向かって悪態をつきました。この不快感は、あの黄色い髪のせいなのでしょうか。
「出て来いレントウ!」
 一喝。
「さっさと出てなければ、お前の臓物を、本ごと焼き払うぞ!」
 自分に言われたわけではないのに、ルディはすくみ上がりました。けっしてお嬢様は、怒った風ではないのです。むしろ楽しそうに笑っています。きっとそれが必要となれば、ためらいもなく火を放つでしょう。それも喜んで。
 図書館中に鳴り響いたこだまが消えて、再び建物の中はしん、としました。祈るような気持ちでルディは、暗闇の奥を見つめていました。焼けて死ぬのはきっと苦しいことでしょう。
 やがて、衣ずれの音が聞こえました。ゆっくりと、すその長い服を引きずる音です。ふっと弱い明かりがともりました。
「どうかお許しを、シェリー様」
 それに照らされて、一人の男が現れました。背が高く、やわらかい笑みを浮かべて、しかしそのまぶたは閉じられています。目を引くのは、長い髪です。くくられもせず、無造作なような髪は、その人の背中を通って地面まで届き、まだずっと暗闇の向こうまで伸びています。まさかこれが図書館中にうごめくすべての髪の毛に続いているのかと、気付いて、ルディはぞっとしました。
「知らない方がいらっしゃったものですから、緊張してしまいました」
 そんな異様さとは裏腹に、おだやかな声でその人は話しました。
「私の新しい侍女だ」
「ああ、お話だけはうかがっております。新しい方を迎えられたのですね」
 うなずいて、ルディの方に顔を向けます。
「はじめまして。私はレントウと申します。この図書館に住む、妖精のようなものです」
「妖怪の間違いだろう」
 お嬢様は笑って、しかし辛辣しんらつに、レントウの言葉を否定しました。レントウもただ黙って微笑み、意に介した風はありません。
「安心しろ、ルディ。見てのとおりこれは人間ではないが、害は無い。この図書館の番人だ」
「司書……の人、ですか?」
「そう呼ぶ者もいるな」
 異質な図書館に異様な司書。似つかわしいと言えば、そうなのでしょうか。まためまいがするような気がしました。
「この図書館の本はすべて私が管理しております。何かお探しのもの、お知りになりたいことがあれば、なんなりとお申し付けください」
 人ではない人は、にこやかに言いました。
「それで、シェリー様」
 と、手に持っていた本をぱらぱらと開きます。
「わざわざこちらまでご足労いただいて光栄です。本日はどのような御用向きで?」
 いつの間にか、ルディが取り落とした本は、レントウの手の中にありました。
「この本の続巻をお貸ししましょうか。弟子の筆によるものですが、第二巻がございます。対訳をご所望でしたら、古代ゲール語と西トッカーサ語のものが。あるいはこの本より百年近くあとですが、サーパドレ氏の著書に興味深い引用がございます」
「確かに用はあるがな。私ではない。このルディのことだ」
「えっ?」
 思わず声が上がります。
「新しい侍女だが、どうやらまっとうな教育を受けてこなかったらしい。余計なことを知る必要はないが、読み書きもできないようでは使いにくい。いつもの仕事だ、レントウ。お前の持てる知識で、教育してやれ」
 突然のことだったので、ルディは眼を白黒させました。そもそもルディは今、侍女として教育を受けている最中なのですが。
「あの……僕……」
「遠慮するな。これに時間は掃いて捨てるほどある」
「ご随意に、シェリー様」
 ルディの混乱をよそに、二人の間では合意が行ったようでした。
「では、いつからにいたしましょう」
「無論、今からだ」
「承知いたしました」
 雷のような、素早さです。
 しかし、お嬢様にお仕えするのが侍女の仕事ですから、その時間を他のことにあてるのを、お嬢様自身が良いと言うなら、良いのでしょう。まだ侍女としても、次に何をすべきか常に人に聞かなければ分からない状態でしたから、ここでレントウと、何か――教育を受けろと言われるのなら、それでもルディに文句はありませんでした。
「とりあえずは夕刻までだ。また戻ってこい」
 と言い残して、お嬢様は去って行きました。その背中を見送ってから、レントウはルディを奥へと導きました。
「先ほどは申し訳ありませんでした。ご覧のとおり私の髪はとても長くて、先端のこととなると少しにぶいようです。何が起こっているのか気付くのが遅くなってしまいました。
 ああ、踏んでも大丈夫ですよ。痛みは感じません」
 そう言いながら、ルディが踏み出すと、床に広がる髪はさらさらと退いていきました。
 明かりは宙を舞っていて、彼に合わせて動きます。なんて、不思議な場所なのでしょう。それとも図書館というものはすべて、このような場所なのでしょうか。
 レントウは、相変わらず眼を閉じたままでしたが、歩くのにはなんの支障もないようです。林の木々のようにそびえる本棚を抜けた先に、大きなテーブルとイスが置いてありました。テーブルの上に開かれたままの本は、レントウがさっきまで読んでいたもののようです。
 うながされて、ルディはイスの一つに座りました。レントウも斜め向かいの席に着き、途中の本を閉じて、脇によせました。
「さて。まずは、自己紹介をしてもらいましょうか。貴方は、ルディ君とおっしゃいましたね」
「はい……」
「ではルディ君、貴方の知っているお話を、私に教えてください」
「お話……?」
「なんでも構いませんよ。小さい頃に聞きませんでしたか? 面白いお話、悲しいお話、ためになるお話。短くても、長くても。私はここにいらした方からお話を聞くのが、何よりの楽しみなのです」
 ルディは押し黙りました。
 お話なんて、ルディはなんにも知りません。そんな風にルディに話をしてくれる人は、あの家にはいませんでした。怒鳴りつけて、追い立てたり、ぶったり蹴ったりする人ばかりでした。
「そうですね、お話というのはたとえば、こう始まります。『ある所に、一匹の猫がいました』。あるいは、『昔々、ハンスという男がおりました』。それとも、『遠い昔の話です。あるお城に、王様とお姫様が住んでいました』……」
「お城……」
 ルディは、はっとしました。
 お城。その言葉を、ルディは知っていました。だれかが、ルディにお城の話をしてくれたのです。何か胸に、とても懐かしくて、恋しい予感がしました。それにすがるように、ひどく頼りない記憶の糸を、ルディは必死でたぐります。
「昔、お城があって……」
 今にも消えてしまいそうな細い糸を探るのは、もどかしいものでした。
「お姫様が……住んでいました――」
 言葉の一節一節、一語一語を確かめながら、先を進めます。
「求婚をしてくる男を、王様は……」
 縦糸も横糸も定かでないまま、場面のつながりは曖昧で、でたらめにしゃべっているような気さえしました。
「お姫様はお城で……隣の国の王子様と……」
 それでもルディが言葉を紡ぐたびに、失われた物語は少しずつ、意味のある模様を描きます。
「――物語は、それでおしまい……めでたし、めでたし……」
 とうとうルディは、一枚のタペストリーのような物語を織り終えました。模様はにじみ、色あせて、所々ほころびた、けっして出来は良くない織物です。けれどとても大切だったはずのものです。
「とても、興味深いお話ですね。このお話を貴方に教えてくださったのは、どなたですか?」
 ルディの目には、涙があふれていました。
「………………お母様」
 ずっと忘れていました。今、思い出しました。ルディには、お母様がいたのです。お城のお話をしてくれたお母様です。どうして忘れてしまっていたのでしょう。
「おや……泣いていますね。このお話は、貴方の悲しい思い出にまつわるものなのですか?」
 ルディが首を振ると、涙の粒が宙に散りました。
 お母様について思い出すのは、優しかったというばかりです。頭をなでて、ルディに笑いかけてくれました。
 けれどどうしてでしょう、その笑顔はぼやけて、はっきりとは思い出せないのです。
 ああそうだ、ずいぶん前にお母様は死んでしまったのだと、それもルディは思い出しました。守ってくれる人がいなくなって、ルディは独りでした。つらくて、悲しくて、毎日生きることに精一杯で、それでお母様のことをぽっかりと忘れてしまったのです。こんなに大切なことなのに。
 ロバの子だと言われるのがあんなに嫌だったのは、ルディにはお母様がいたからです。ルディはお母様の子です。どこかでそれを覚えていたから、つらかったのです。
 レントウはルディの涙が止まるのを待ってから、口を開きました。
「貴方のお母様は、想像力が豊かな方なのですね。貴方のしてくれたお話は、私の知らないものでした。きっと、貴方のお母様が、貴方のために作ったお話なのでしょう」
 それを聞いて、また涙がにじみます。
 優しいお母様。可哀想なお母様。ルディが生まれたせいで閉じこめられたのです。それでもルディのことを愛してくれました。なのにもう、お母様がどんな声でお話をしてくれたか、ルディには思い出せませんでした。
「ごめんなさい……」
 嗚咽が止まらなくて、ルディは謝りました。
「いいえ」
 と、レントウは首を振ります。
「お話にはしばしば、思い出が付きまとうものです。貴方にとってこのお話は、お母様にまつわる大切なものなのでしょう。私は貴方よりうんとたくさんのお話を知っていますが、貴方のように大切なお話は何一つありません。私には思い出がないからです。どうかこのお話と一緒に、その思い出も忘れないで下さい」
 ルディが今度こそ泣きやむと、レントウは小さな本を片手に、ゆっくりと切り出しました。
「貴方のお母様はきっと色々な本を読んで、先ほどのお話を作ったのでしょう。こちらの本に、似た一節が出てきます。一緒に読んでみましょう」
 泣きはらしたルディの目に、花のような文字が広がりました。


 夕刻が来る少し前に、ルディは本館へと戻りました。外はもうほとんど暮れています。目が赤くなってはいないかとルディは、窓ガラスを覗きこみました。そこにはいつもの気弱な顔が映っているだけで、迫り来る夜を前に、色までは分かりませんでした。
 執務室には、お嬢様とエヴァがいました。
「貴方が出たあとに、私がお嬢様に申し上げたのです。貴方に一般的な教養を教えるためには、私だけでは時間が足りないと。レントウは今までも、新人の教育をした経験があります。知識という点でも、気の長さという点でも、適任でしょう」
 とエヴァは説明してくれました。
「とはいえ、今日すぐに、とは申しませんでしたが」
 この言葉は、お嬢様に向けられたもののようでした。ルディは本を届ければすぐ戻るはずでしたから、予定が狂ったのでしょう。ルディは恐縮しましたが、お嬢様はそしらぬ顔です。
「どうだった? あれからまたいじめられたりはしなかっただろう?」
「はい……あの、お話を……しました」
 ルディはまた、お母様のことを思い出しました。レントウと読んだ物語の節々に、お母様の面影を感じました。
「ああ、あれの常套句じょうとうくだな。私は生まれたときからレントウのことを知っている。人ではないが、知識も態度も信用には十分足る。よく学ぶと良い」
「……はい」
 ルディはうなずきました。
 この日からルディは、毎日、決まった時間に図書館を訪れることになりました。文字の読み書きと合わせてまず教わったのは、お嬢様のことでした。
 お嬢様の名前はシェリー・エデルカイト・フォン・ホーゼンウルズ・デア・ヴァイセン・トニエール。ホーゼンウルズという場所の、エデルカイトという家の人で、トニエールという場所を治める子爵であるということでした。
 ホーゼンウルズは、辺境伯領という場所です。たった一人の王様を頂点に、その下にはたくさんの貴族がいて、それぞれ領土と領民を持っています。この貴族の中にも位が上の人と下の人が何段階にも別れていて、辺境伯はその中でも特別な地位ということでした。お嬢様のひいおじい様が、東の蛮族を蹴散らしてこの国の領土を大きく拡げたとき、その功績として与えられたそうです。まだ大きな都市もなく、点々と蛮族が住むだけの未開の土地でしたから、治めるのが難しく、大きな権限を持つ地位として、辺境伯というものが作られました。お嬢様はひいおじい様の次にこの辺境伯領を継いだ息子の、その息子の、子供、つまり、直系の子孫だということです。
 お嬢様の年は17才。お父様の名はオブリード、今のエデルカイト家の家長であり、ホーゼンウルズ辺境伯です。お母様はエルメイア、今の王様の末娘。
 お嬢様は14才の時に、トニエール子爵領をお父様から与えられました。トニエールは、昔お父様が成人したときに、そのとき辺境伯であった自分のお父様から受け継いだ土地です。トニエールの領主となることは、次にホーゼンウルズの領主となることを意味していました。
 そして少し前からお父様は重い病気にかかり、療養のためにベルスートを離れました。代わりにお嬢様がホーゼンウルズを治めているそうです。
 難しい話でした。ルディにとって世界は、国があって、王様がいて、お城に住んで、町や村がいくつかあり――という単純なものでした。それらが漠然とではあるものの、いくらか具体的にとらえられるようになるまで、レントウは根気強く教えてくれました。
 それから数の数え方、計算の仕方についても少しずつ学びました。地図の見方についても。ベルスートは海から遠い場所にあること。西に行けば王都、東に行けば蛮族の地。ルディの生まれた町は、トレントと言って、ホーゼンウルズ辺境伯領の北東のはずれにありました。小さな町です。
 知っていることが増えると、逆に知らないことがどれほど多いのか思い知って、ルディは何度も打ちのめされそうになりました。図書館へと向かう足取りが重く感じられたこともあります。
 けれど、お城のことを聞いて、お母様のしてくれた物語を思い出したように、海と聞いて、お母様のお話の船乗りを想像してみます。遠い国の話を聞いて、そこにはお話に出てきた丸い屋根の宮殿があるのかしらと考えてみます。この世界の成り立ちのそこかしこに、お母様の教えてくれたことが隠れているようでした。それを探しに、ルディは図書館に通い続けたのでした。




   三 『香茶

 午後、お嬢様には、夕食までの間にお茶の時間があります。料理番が軽食を作り、侍女が香茶を添えます。執務の間に簡単に手に取れるようにと、軽食はたいてい、堅い黒パンを薄く切ってハムやチーズを挟んだものでした。時には酒や他の飲み物を出すときもありますが、お嬢様が普段好んで飲むのは香茶でした。
 毎日のことですから、ベルスートに連れて来られてすぐ、この仕事を教えられました。エヴァが、ルディを専用の保存室に案内しました。
 壁に備え付けられた棚には茶器と、小さな壺がいくつも並んでいます。壺の中に入っているのは、葉や花に、実や種などです。まとめて茶葉と呼んでしまうこれらの素材を一つ、ないし二、三種類を組み合わせてれるのが香茶というものでした。
 目の前で、エヴァは乾燥した葉を数枚、銀のティーポットに入れて、熱いお湯を注ぎました。わずかに甘さを含んだ、爽やかな香りが広がりました。ふっと気がゆるむような香りでした。
 最初は見ているだけでした。教えられながら、初めて香茶を淹れたときは、手がふるえました。初めての仕事だからというわけではなく、きれいな器や飲む物に触ることに、恐れがありました。罪悪感にも似ていました。ルディの体は汚れているからです。家では、他の人の触るものに手をつけてはいけないことになっていました。ましてや口につけるものなんて。
 それでも自分の手から注がれたはずの香茶はちゃんと良い香りがして、違和感に戸惑いました。
 そのせいでしょうか、最初にお嬢様に香茶を出したときのことを、ルディは覚えていません。お嬢様にしても、ルディが来る前から続く習慣でしたから、ことさらなんの反応もなかったのかもしれません。
 他に覚えることは、山のようにありました。日々のせわしなさに紛れてしまうものでした。ベルスートでの暮らしと共に次第と、香茶を淹れることにも慣れました。
 棚には、壷の下にそれぞれ中身の名前と、作られた日付が書いてありました。ルディは字が読めませんでしたから、まずどれがなんという植物で、棚のどの位置に置いてあるのか、覚えてしまわなければいけませんでした。最初こそ苦労したものの、少しずつ文字も覚えましたし、幸い、においは他の感覚と比べても、よく記憶に結びつくようでした。やがて迷わず探せるようになりました。
 保存室の中は、細かく開閉する窓で湿度と温度を調整できるようになっていましたが、それでも少しずつ、瓶の中で風味が落ちていきました。中には外国から仕入れた珍しい茶葉もあるそうです。これらの扱いにはとりわけ気を使いました。
 特別な日には特別な香茶が似合いますが、普段飲むならやはり地で採れた、新鮮なものが良いように思われました。裏庭には、薬草園と並んで香草園がありました。たいていの香草は寒さにも強くて、冬でもよく育ちました。
 ある日、そこからんだばかりの香草がいくつも運ばれて、ルディの心は浮き立ちました。
 どれもいいにおいがします。一つ一つ手に取り、においを確かめます。甘いにおい、苦いにおい、土のにおい、露のにおい、日差しのにおい。
 今日と明日と、あさってくらいまでは新鮮なまま楽しめるでしょう。使いきれないものは早めに見切りをつけ、干して乾燥させます。するとまた違った香りをさせるものもあります。
 エヴァは、一つ一つ香草を鼻によせるルディをまじまじと見て、言いました。
「貴方の鼻は、普通の人間よりよく利くようですね」
 ――犬のような真似をするなと、怒鳴られたことを思い出して、ルディは体をすくませました。お腹がいて、何か食べるものはないかと、においをたよりに地下室を探していたときでした。家の人に見つかって、犬のように嗅ぎ回ったことを怒られました。
 おそるおそる、手に取っていた香草をかごに戻します。エヴァはそれを見て、語調を改めました。
「貴方のことを責めたわけではありません」
 そのとおりでしょう。エヴァは、ルディを指導する中で、声を荒らげたことも、手を上げたこともありません。それはルディが良い生徒だからというわけではなくて、彼女がとても忍耐強いからです。脅しつけて言うことを聞かせるよりも、くり返し何度でも説明し、やらせてみる方が効果があると彼女は信じているようでした。けれどいまだに家で受けた扱いは端々はしばしで、ルディの心を縛りつけています。
 エヴァがルディを咎めたわけではないにせよ、きっとあれこれ嗅ぎ比べる姿は、みっともないものだっただろうな、と思います。侍女のとるべきふさわしい行動について、エヴァはよく教えてくれました。言葉遣いや立ちふるまいのことです。丁寧にしゃべって、丁寧にふるまわなければいけません。相手の人に失礼がないように、そして侍女をそばに置くお嬢様が恥ずかしくないように。
 それにはエヴァを手本にするのが一番のように思えました。彼女はとても丁寧に、そして適切にしゃべります。つまり、余計なおしゃべりをしないということでした。そして自分のというものをわきまえていて、お嬢様の言うことに完璧に応えます。足音を立てて走るようなこともなく、いつも落ち着いて見えました。気がつくとルディは、何かするとき、エヴァならどうするだろう、と考えるようになっていました。
 たぶん彼女なら、無闇に物に鼻をよせたりはしないだろうと思うのです。
 しかし彼女自身は違う感想を抱いたようでした。
「都合の良いことだと考えていたのです。私は長年この仕事を続けていますが、貴方のように嗅覚に優れているわけではありませんし、香茶を淹れる感性に関して言えば、他の人間より劣っています」
 と、手元のティーセットに視線を落とします。
「私は前任者の仕事を引き継いだだけです。習ったとおりに淹れることはできますが、私の淹れた香茶があの方の御心に適ったことはないでしょう」
 その声は平坦なままでしたが、わずかに憂いを帯びたように聞こえました。
 エヴァは棚の引き出しを開け、片手ほどの小さな帳面を取り出しました。そっと、表紙を指先でなでます。
「前任者の覚え書きです。基本的な事柄ことがらは私が教えたとおりですが、詳しいことはこちらを参照してください。持ち出しても構いません。それから、図書館にもいくつか参考になる本があります。もっと学びたいと思えば、助けになるでしょう」
 差し出された帳面を、ルディはどこかうやうやしい気持ちで受け取りました。


「茶葉を変えたのか」
 その日、お嬢様は淹れたての香茶を口元によせると、そう言いました。覚えている限り、ルディの淹れた香茶に言及されるのは初めてです。
「あ……今日は、新しいものが入って……」
 緊張しながら、ルディは答えました。
「フレネルか?」
「はい」
 園丁えんていの名を挙げられて、うなずきます。彼は、日に焼けたしわくちゃの顔をしていて、けっして愛想が良いとは言えない老人でしたが、日がな一日腰をかがめて植物の世話をしても文句一つ言わない、園の真面目な世話人でした。
「そうか、相変わらず良い働きをする」
「ええ、とても……」
 彼のごつごつとした手を思います。彼の手は土で汚れていて、しかし彼の手が作ったという草も木も花も、どれも見事に成長していました。
 それをそばで見ていたエヴァが、口を開きます。
「ルディの嗅覚は、常人より優れているようです」
「いえ……」
 ルディはさっと首をすくめました。自分のこととなると、途端に自信がなくなります。
「ふうん。お前が言うからには確かなのだろうな」
 お嬢様は興味深そうに、エヴァを見上げました。
「微細な香りを嗅ぎ分ける能力があるようです」
「それはいい。調香師を呼んで訓練でもさせるか」
「その価値があるかもしれません」
 調香師というのが、香水を作ることを生業なりわいにする人のことだと、知ったのはあとからでした。その訓練をするべきだと言われたら、ルディは従ったでしょう。あるいは、ルディがそうしたいと言ったら、お嬢様やエヴァは手配をしたでしょうか。しかしルディが黙ったままでいたので、話はそこでおしまいになりました。
 お嬢様は手元のカップを揺らしました。薄緑の湖面が波立つたびに、ふわりふわりと甘い香りが湧き立ちます。
「良い香りだ」
 と、満足げに微笑むと、香茶を口に含みました。
 なんと答えるべきか困って、ルディは眉根をよせました。お嬢様が口を開く度に、何か粗相そそうがあったか、それとも無理難題を突きつけられるのかと、びくびくしなければいけません。
 毎日のことでした。ルディが香茶を淹れて、器に注ぎ、お嬢様がそれを飲み干す。その流れが滞りなく、なんの言葉もなく終わったとき、初めてルディはほっと胸をなで下ろします。
 ただ、空っぽになった器を片づけるとき、ふと気付けば、胸の内を満たす何かがありました。


 その夜、ルディは部屋の書き物机に座ると、エヴァから受け取った帳面を手にしました。ろうそくの光に照らされた表紙を眺めながら、エヴァの言ったことが段々と頭に染み入ります。なるほどと思うことが二つありました。
 一つ目は、においに関してです。
 心当たりはありました。どうも、他の人はルディほどにはにおいを気にしたりしないようです。木のにおい、紙のにおい、肉のにおい、錆のにおい、テーブルのにおい、階段のにおい、草のにおい、人のにおい。いつも、世界は様々なにおいに満ちあふれていました。例えるなら、地図のようだったり、色とりどりの絵画のようだったりします。ルディにとっては道しるべでもあり、良いにおいも悪いにおいも、視覚よりもずっとあざやかな印象をルディに与えました。
 ここに来るまで忘れていた感覚の一つでもあります。なにしろ、家では体も滅多に洗えず、自分自身がひどい臭いをしていましたから。鼻は麻痺して、周りのにおいを嗅ぐどころではありませんでした。自分よりもっと臭いものか、食べ物のにおいを嗅ぎつけた程度です。
 そして二つ目は、エヴァの言うところの感性についてです。
 エヴァは物静かな人でした。ルディのように心が浮つくことなどないようです。ルディは香茶の香りが好きでした。お嬢様もそうでしょう。けれど香茶は、生きるためになくてはならないものではありません。軽食をとるとき、喉をうるおすものが必要だとしても、ならば水でもいいのです。香茶は、心を華やがせたり落ち着かせたりするもの、楽しみのためのものでした。
 ひょっとするとエヴァには、楽しむということが分からないのではないかと思います。楽しみに限らず、怒るだとか恐れるだとか、おおよそ人間らしい感情すべてについて。頭の良い人ですから、他の人がそういう感覚を持っているということを十分に理解していて、配慮もできるのですが、彼女自身が何かを楽しんだり、悲しんだりしているところは見たことがありません。だとしたら彼女には、香茶の香り一つで一喜一憂するのは理解し難いことでしょう。
 そんな彼女が、心を乱すことがあるとすれば、それはお嬢様についてかもしれません。彼女は、いつもお嬢様のことを考え、お嬢様のために行動します。その献身が、仕事だからというだけで果たせるものでしょうか。
『お嬢様』
 エヴァの、その声色を思い返すとき、胸に何か響くものがあります。奏でられるのは、甘さを含んだ感情ではないのですが。静謐せいひつな彼女の心にわずかに湧き立つ万感の思いをこめたような、そんな声です。
 そして――
 昼間、彼女がそうしていたように、ルディはそっと帳面の表紙をなでました。そう新しくはなく、かといって古びた風もなく、ただ何度もめくられたのでしょう、手ずれがあります。開くと、中のページには細かな字がびっしりとつづられていました。紙もインクも安い物ではありませんから、少しでも多くの情報を詰めようとしたのでしょう。時々、茶葉の絵も描かれています。
 熱いお湯を――香りが――けれど、苦味が出るため、すぐに――
 淹れた――の香りを楽しむためには、あらかじめ――ではなく、――で淹れること――
 ピョーテルの葉二枚に、――の葉一枚――のような香り――
 書かれたすべてを読み解くのは、今のルディには難しいことでした。覚え書きと言うほどですから、時に丁寧な字で、時に殴り書きで、様々なことが書きとめられています。辞書のように整理されてもいません。
 ただこれを書いた人がとても熱心であったということだけは、紙面を眺めているだけでも伝わりました。とても、たくさんのことが書かれています。香茶が好きだったのでしょう。そしてきっと、それを飲む人のことが。
 ――お嬢様のお気に入り
 そんな走り書きを見つけて、ルディは不思議な気分になりました。この帳面を作ったのは、いったいどんな人なのでしょう。前任者、とエヴァは言いました。侍女でしょうか。
 この帳面を手にしたとき、エヴァは大切そうに表紙をなでました。普段、そういう所作しょさをしない人でした。物を扱うときはいつも丁重ていちょうでしたが、感情のこもった手つきとはまた別です。そのエヴァが、この帳面には特別、思い入れがあるように見えました。それはきっと『前任者』にまつわるためでしょう。
 読めない単語を指でなぞりながら、名前も知らないその人について、ルディは思いを巡らせました。