第五幕 『来訪者』

 その夜、いつものように寝る支度をすると、ルディはろうそくの火を吹き消しました。燭台を書き物机の上に置き、手探りでベッドの方まで進みます。
 壁を伝い、ベッドの脇まで来ると、床の上にうずくまります。いまだにここがルディの寝床でした。ベッドにはふれたこともありません。日に日に冬が深まり、寒さが本格的になると、毛布を一枚配られました。足の先までそれにくるまります。厚手の毛布は温かく、使い古された分だけ居心地が良くて、ルディにはこれで十分でした。


 ふと、ルディは目を覚ましました。まぶたの裏に何かを感じた気がして。窓がなく、月明かりすら入らないはずの室内で、物の影が浮かび上がっています。首を上げると、物書き机の上に火のついたランプが置いてありました。廊下へのドアは開いています。空気が動いて、知らないにおいがただよってきます。
 次の瞬間、体が浮き上がりました。えりぐりをつかまれ、毛布から引きずり出され、胸から壁に押しつけられます。とっさに首をひねったものの、頬をしたたかに打ちました。
 衝撃で、雷光のように、様々な記憶が脳裏に瞬きました。
 胸ぐらを捕まれ、壁に打ちつけられたこと――
 頭から、床に叩き伏せられたこと――
 壁を背にして殴られると、体を折ることもできず――
 相手の荒い息づかいまでもがそこにいるかのように思い出されて、ルディの心は恐慌に陥りました。
 お城に来たことは、すべて夢で――毛布を盗んで――寝ているところを見つかって――罰を受けるのだと――
 声もあげられないまま、ルディの体はがくがくとふるえ出しました。手を胸に、背中を丸めようにも、壁に押しつけられているものですから、せめて両手で壁にとりすがります。
 背後から、声がしました。
「何者です」
 聞いたことのない、女の声でした。ルディはまだ必死に身を縮めようとしていましたから、言葉の意味すら分からず、そうする内にまた強く壁に押しつけられました。女とは思えないほどの力です。ぐう、と肺から空気が漏れました。
「答えなさい。貴方は何者です?」
 わずかにえりぐりを押さえる手がゆるんで、ルディは息も絶え絶えに答えました。
「侍女です、お嬢さ……シェリー様の……」
 闇の中に、鋭い音が短く響きました。舌打ちです。相手の怒りを察して、ルディはまた息をのみました。しかし次の瞬間、えりをつかむ手はルディを解放していました。突然のことに、なんとか、壁をたよりに、その場に崩れ落ちずにすみました。
 おそるおそるうしろを振り返ると、ランプの光を受けて、一人の女が立っていました。ルディに向かって斜めに相対し、気むずかしげな顔でルディをにらみます。外から入ってきたようで、厚地のローブを着こんでいました。
「同輩、というわけですか」
 その声は苦々しくて、ルディは萎縮するばかりです。挨拶を、自己紹介をしなければいけないでしょう。しかしまだ頭が思うように動きません。彼女の決断は迅速でした。左手を立てて横に切ります。
「結構。事の次第は張本人に聞きましょう。貴方もついて来なさい」
 有無を言わさない態度に、もちろん、ルディが逆らうすべはありませんでした。
 女は書き物机の上のランプを取り、廊下へ出ます。大きな荷物を抱えていました。ルディがあとに続こうとしたとき、不意に彼女は振り返りました。ランプをかざして、ルディを上から下まで見ます。
「一応確認しますが、男ですね?」
 今着ているのは侍女の服ではない寝間着なのですが、それでも膝まであるワンピースなので、外見からでは男か女か分からないようです。そんなときは女と見られるのが常でしたから、彼女の洞察に驚きながらも、気恥ずかしさがあって、ルディはうつむきながら肯定しました。
 彼女が前を向くなり大きな舌打ちの音が響いて、ルディはすくみ上がりました。


「失礼」
 ノックのあと、返事がするやいなや、蹴破るほどの勢いで、彼女はドアを開け放ちました。室内へ、決然と一歩、踏み入れます。
「お嬢様、帰城のご挨拶に参りました」
 そしてうやうやしく、膝を折りました。
 横にいたルディは呆気にとられました。
 お嬢様の部屋です。夜もふけています。寝静まっているはずの時間です。大きな音をたてることすらはばかられるような時間に、まさか、他でもないお嬢様の部屋にこんな、押し入るような――
 どれほどのとがめを受けるか、頭の中で不穏な想像が嵐のように渦巻きました。
 はたして室内は、すみに置かれた背の高いランプに照らされていました。布張りの傘をかぶったランプは、優美な代わりにすみずみまで照らすにはとても足りない、弱々しい光を放っています。ベッドの上に、二つの影が折り重なるように横たわっていました。一人が体を起こします。闇の中に、白い肌が浮かび上がりました。
 エヴァです。いつもは几帳面にまとめられた髪が、ゆるやかに弧を描いて揺れました。はだけていた胸元を、手でおおいます。
 あられもない様子に、ルディは頬を赤らめました。侍女の仕事は当番制で、今夜は彼女がお嬢様のそばに控えている日でした。
 エヴァがベッドから退くと、その下に寝そべっていたお嬢様が体を起こしました。ルディ達を見ても、乱れた寝衣しんいをとりたてて気にする様子はありません。軽く肩にかけ直し、悠然とベッドのふちに腰かけました。足を組み、膝の上に片ひじをつきます。
「お帰り、サヒヤ」
「彼は?」
 単刀直入、とはこのことでしょう。女、サヒヤは、ルディを指して聞きました。お嬢様はルディに目を留めると、笑いました。
「ああ、ルディ。この女の名はサヒヤ。私の侍女だ。エヴァの後進、お前にとっては先達だ」
 それから改めてサヒヤの方を向きます。
「聞いてのとおりだサヒヤ。ルディという、新しい侍女だ。可愛がってやれ。まさかもう虐めたわけではないだろうな?」
「久々に部屋に帰れば知らぬ者がおりますので、絞め上げはしました」
「可哀想に」
 同情を受けながら、ルディは居心地悪く感じました。この、サヒヤという人も、ルディと同じく侍女だというのです。彼女の口振りからすると、あの部屋は元々、彼女の部屋だったようです。留守の間に、ルディが居座ってしまったのでしょうか。
「私の不手際です、サヒヤ」
 エヴァが口を開きました。服を整えて、お嬢様の隣に立ちます。
「貴方が帰る前には別の部屋を整えておく予定でしたが、便りがなかったもので、まだ先かと思っていました」
 サヒヤはいぶかしげに眉をひそめました。
「帰る前に手紙を送りましたが……追い抜いたようですね」
「相変わらずの健脚だな」
「私がいない間にさぞ不精をしていらっしゃるだろうと、跳び急いで帰ってきたら案の定、この有様です」
 口を挟んだお嬢様に、サヒヤは辛辣しんらつな言葉を浴びせました。
「問いただしたいことは山ほどありますが、そもそも、なぜ男を“侍女”に?」
 ――今まで、あまり考えたことがなかったのですが、確かに不思議なことでした。侍女と言うからにはやはり、女がなるものなのでしょう。女の人の世話をするのですから、その方が適切なようにも思えます。
 答えるお嬢様は、にやにやと笑っていました。とても真面目な風には見えません。
「見つけたときには髪が長かったから、初めは女だと思った。というのはどうだ?」
「間抜けな話ですね」
 その言葉を待っていたかのように、お嬢様は尊大に背を反らしました。牙を見せて笑います。
「そうだろう。だから間抜けを貫くことにした。たまには馬鹿を真面目にやるのも面白い」
「その上この格好というわけですか? まったく、どこをどう切り取っても悪趣味な」
「それは褒め言葉か?」
 答えの代わりに、舌打ちの音が響きました。
「彼が床で寝ていたのは?」
 それを聞いて初めて、お嬢様の眉が跳ねました。聞き返します。
「床に?」
 サヒヤがうなずくと、次はエヴァに視線をやります。彼女は頭を下げました。
「存じ上げませんでした」
「エヴァ、彼が侍女だというなら、侍女頭である貴方の監督不行き届きでは?」
「私室の使い方まで口を出す必要はないと思っていましたが、私の認識不足だったようです」
 サヒヤは、お嬢様に対してもエヴァに対しても、全く引く様子がありません。片やルディは、彼女の隣で恐縮しきっていました。まさかこの場でルディの行動が槍玉に挙がるとは、思っていませんでした。どうやらとてもいけないことだったようです。
 お嬢様は頬に指を当て、考えます。
「相も変わらず謙虚なものだ。お前のちをかんがみれば大体の察しはつくが……」
ち?」
 とサヒヤが問い、お嬢様は短く答えました。
「地下室にいた」
「またどこぞで、胡乱うろんな拾い物をしてきたというわけですか」
 これだけで分かってしまうものなのか、それ以上サヒヤは何も言いませんでした。
「ルディ」
 呼ばれて、ルディは意識を前に向けます。お嬢様は静かに言いました。
「だれかが、お前に床で寝るよう言ったのか」
「……いいえ」
「ではお前が自分で判断したのだな」
 小さく、うなずきます。
「私は以前言ったな。お前を侮辱する者は許さんと。それは“お前自身”もそうだ。お前が自分を必要以上におとしめる必要は無い。例えば、自分は寝台で寝る資格なぞない――といったようにな。
 ああ、こう言うとお前は、私に命じられたからと、今夜から寝台で寝るようになるのか。侍女一人の、私室での過ごし方に主人がとやかく口を出すものではない。お前が床で寝たいというならそうするがいい。それも自由だ。だが“そうしなければならない”と思う必要は無い。分かるか?」
「はい……」
 うつむくように、ルディはうなずきました。
 それからお嬢様はサヒヤに向き合い、にやりと笑います。
「ああそうか、それでお前は、自分の寝床がないと陳情に来たのか」
「文句を言いに来たのです」
 からかいの言葉をさえぎるように、サヒヤは声を張りました。始終、口喧嘩をしているようなやりとりです。確かに、思いの外お嬢様は寛大――と言うより、物事の些細ささいな部分を気にしないところがあるのですが、だからといって、身分を越えて、こんな強気な態度に出る人は他にいませんでした。ルディはサヒヤの勇気に敬服すら覚えました。一方お嬢様も、この挑戦的な掛け合いを楽しんでいる風でした。
 その場を納めたのは、エヴァでした。
「サヒヤ、今夜は私の代わりに控え室で休みなさい。私は自分の部屋に戻ります。明日、別の部屋を用意しましょう」
 控え室は、お嬢様の寝室に隣接した、侍女が待機するための小さな部屋で、机とベッドがあります。侍女はそこで夜を過ごし、お嬢様の用がないときは仮眠をとるのです。
「結構」
 と、サヒヤは声を張りました。
「あの部屋は彼に譲りましょう。私が新しい部屋に入ります。どこであろうと同じこと。――乱痴気らんちき騒ぎの事無ごとない方々のおそば以外は。せいぜい今夜はよく眠りたいものですね」
 皮肉だと、間を空けてルディは理解しました。何もなければ控え室で休めるといっても、夜に何もないことはほとんどなくて、すぐお嬢様達に呼び出されることを言っているのでしょう。
 くだんの人は、笑ってそれを聞くだけでした。外から――旅からでしょうか――それも、長い――帰ったばかりのサヒヤがよく休めるか、ルディは不安に思いました。
 エヴァは膝を折って、お嬢様に退室を願いました。隣に立つと、彼女のほどかれたままの長い髪に、ルディの胸は変に音をたてました。いつも一筋の漏れもなく頭のうしろでまとめられている髪が、今は思い思いの曲線を描きながら彼女の肩や背に流れて落ちています。普段の彼女の姿からは想像もつかないしどけなさです。先ほど垣間見た、大きく開いた白い胸元や、そこからこぼれ落ちそうな乳房を、思い出さずにはいられませんでした。
 代わりにサヒヤが室内に入り、お嬢様の寝衣しんいの前を閉じます。その手つきはまるで胸ぐらをつかむようにも見えました。何事か、小声で文句を言っているようです。
 去り際に、お嬢様はルディに声をかけました。
「色々と教えてもらうといい。このとおり小うるさくはあるが、生真面目で、有能だ」
 「はあ」、とかそんな気のない返事をして、ルディはその場をあとにしました。


 一人、部屋に戻り、ルディは落ち着かないでいました。今まで無人だと思っていたこの部屋に、別の主がいたと知って、もはや前と同じようには思えませんでした。それにしても、だれかの生活していた跡は全く感じられなかったのです。初めてこの部屋に来た夜、確かにルディは混乱していて、こまかいことには気付く余裕はなかったでしょう。けれどそのあとも、今までずっと、ルディはこの部屋が空き部屋だったのだと信じていました。ワードローブの中に服や靴などはもちろん、その他の私物も何も残されていませんでした。サヒヤが出たあとに、片付けられてしまったのでしょうか。
 それも非常に居心地の悪いことでした。久しぶりに帰ってきた部屋に、自分の持ち物はなく、知らない人間が寝ていたら、だれだって驚き、腹を立てるでしょう。
 そうだ、ともう一つ気まずいことをルディは思い出しました。床にはぎ捨てられたままの毛布を見下ろします。床で寝たいのならそうしていいと、お嬢様は言いました。きっと床の方が安心して寝られるでしょう。では本当にそうしたいのかと自問すると、答えは出ませんでした。あの家で、柔らかなベッドをうらやんだことが、確かにあります。固い石の上で寝ると節々ふしぶしが痛みました。なんといっても耐えがたいのはその寒さでした。体の芯まで冷えて眠れないとき、温かいベッドで眠れたらどんなに良いか願いました。
 叶うことのない願いでした。だから次第に、願うこともルディは忘れていました。自分は汚いから、ベッドで寝ることができないのは当たり前だと待っていました。けれどここでは、ルディがふれて怒る人はいないのです。
 こわごわと、ベッドの白い上掛うわがけのふちをなぞります。お嬢様の物ほど上等ではありません。手触りは固く、レースのふち飾りもありません。それでもルディにとってはとてつもなく気後きおくれのする代物でした。
 とうとう、ルディは毛布を拾い上げると、ベッドに広げました。そしてその上に身を横たえ、くるまります。
 木の床よりもずっとベッドはやわらかく、ルディを迎えました。どうかこれが夢ではありませんように、と願いながら、ルディは目を閉じました。


  ***


 眠れたような、眠れなかったような、曖昧な夜が明けました。ベッドの上は思った以上に心地良くて、逆に深く寝入ってしまうのが不安で、何度か目を覚ましました。それでも最後に意識は深く沈みこみ、はっと気付くと起きる時間になっていました。
 今日の朝の当番はルディです。
 いつものようにお嬢様の部屋で支度を手伝い、中庭まで送り届けます。隣の控え室にサヒヤが寝ているはずでしたが、物音はしませんでした。
 中庭にはすでに近衛の兵士たちが集まっていました。それぞれ、朝の冷えた空気の中で白い息を吐きながら、体を伸ばしたり折ったりしています。お嬢様を見ると、さっと身を引いたあとに姿勢を正し、片足を引いて胸に手を当てるお辞儀をしました。お嬢様が中庭を奥に進むにつれて、人垣が割れ、波のようにお辞儀が続きます。このときいつも、物語で聞いた、海の水を割って対岸に渡った魔法使いの話を思い出します。ルディは、海を見たことがありませんので、すべて想像でしたが。やがてお嬢様の姿が兵士の中に紛れると、海は前のような水面を取り戻すのでした。
 昨日ともおとついとも変わらないはずの光景です。しかし今朝は何か違うものを感じて、ルディはその正体を確かめようと目をこらしました。兵士達の交わす言葉が少ないような、一人一人の表情が固いような。普段からして皆、打ち解けた雰囲気の中にも緊張感をもって鍛錬にとりくんでいるのですが、今は緊張の方が強くなっているようでした。
 不思議に思っていると、背後のドアが開きました。ぼうっと突っ立っていたルディの隣を人影が通り過ぎます。
 サヒヤです。
 日の光の元で見る髪は、銀色に輝いていました。長い三つ編みが宙にひらめきます。野暮やぼったい外套を脱いだうしろ姿は、すっと背筋が伸び、きりりと引き締まっていました。身にまとう服は、深緑色の分厚い生地で、お嬢様や他の騎士が着ているものと同じに違いありません。剣を振るって戦う人のための服です。ただしその下半身は、長くたなびくスカート状でした。
 見れば、彼女は腰に剣を携えていました。おそらく剣なのでしょう。つばはなく、長い刀身はわずかに反っています。柄も鞘も同じ白で、日の光を受けて淡く光っていました。
 まっすぐに、中庭の土の上へ降り立ちます。
 あっ、とルディは声をあげそうになりました。男でもない、兵士でもない人が立ち入ることははばかられる場所です。しかしその歩みが惑うことはありませんでした。サヒヤの姿を見つけた兵士が、道を開けます。また、海が割れました。とがめられることもなく、やがて彼女の姿はお嬢様と同じように、波間に消えていきました。
 ルディは呆気にとられ、立ち尽くしました。
 まさかお嬢様以外に、この鍛錬場に立ち入る女がいるとは思いませんでした。ここは近衛兵達にとってとても特別で重要な場所で、だから何もないときに近衛兵以外の人が立ち入るのは望ましくないとされていました。そういう規則があるわけではなく、言外にそう決まっているのです。そして女もまたここに近づくのは良くないことだとされていました。女の身で、武芸に興味を持つのは分別の無いことでしたし、女の体は剣の道を志す兵達の気を惑わすのだそうです。
 中庭というのは、解放されているようで、内にこもった閉鎖的な場所でした。ここベルスートでは。
 その中に堂々とサヒヤは進んでいきました。また周りの兵達もそれを受け入れていました。考えられることは、たった一つ――
「おはようございます」
 聞き覚えのある声に、ルディは振り返りました。エヴァです。一瞬、昨日のことを思い出して、ルディは赤面しました。彼女の髪は、丁寧に頭のうしろにまとめられています。
 エヴァはルディの隣に立ち、お嬢様やサヒヤの姿が消えていった先を見つめました。特別な用事――つまり、だれかが――あるいは、他でもないお嬢様が――怪我をしたとかでもない限り、彼女ですら立ち入らない先です。ルディの疑問に答えるように口を開きます。
「サヒヤはお嬢様の侍女ではありますが、特別な技能を持ち、この場に立ち入ることが許されています」
「サヒヤさんも、剣が使えるんですか……?」
「そうです」
 思ったとおりでした。何故かそれほど驚きはありません。すでに臆することなく鍛錬場に立ち入ったサヒヤを見たあとでもありましたし、彼女の確かな足取りがただの侍女のものではないというのもまた、うなずけることでした。
「元々は他国で女中をしておりましたが、剣の技能がお嬢様に見出され――」
アウフレヒト速く! シュネー鋭く! ヴァイゼレクト踏みこむ!」
 女の声が、中庭に響き渡ります。まるで空気を切り裂くように良く通る声でした。
 ルディは思わず姿勢を正し、声の主の顔色をうかがおうとしました。人垣の向こうで、それは無理なことでしたが。兵達の緊張が理解できました。サヒヤは、単にこの中に混じり共に剣を振るうだけの存在ではないようです。エヴァの言葉がそれを裏付けました。
「今は、お嬢様の剣術指南役を仰せつかっています」
 昨日のお嬢様の言葉を思い出して、ルディはとんでもないことだと思いました。はたして彼女から、ルディなんかが学べることなんて、あるのでしょうか。


 三人が、再び顔をそろえたのは、昼食の場でした。普段ならエヴァは、地下の部屋で一人で食事をとるのですか、今日ばかりはルディと共に食堂を訪れ、着替えてきたサヒヤと落ち合いました。サヒヤは鍛錬服を脱ぎ、白いブラウスの上に、上下同じ素材のジャケットとスカートを身に着けていました。えり元にリボンと、頭に白いフリルの付いたヘアバンドをあしらっています。多少こぎれいな、しかし華美すぎることもない、つまり“侍女として適切”な服装です。エヴァを見ていても思ったのですが、どうやら侍女には決まった制服というものはないようでした。ルディは服を一枚も持っていないから作ってもらっただけで。
 いざサヒヤを目の前にすると、昨日の夜のことを思い出しました。えりぐりを捕まれ、壁に押しつけられたことです。無意識に、ルディは胸元で手を握りました。ルディを不審者と誤解してのことだったので――ともかくも、部屋の件をサヒヤに謝りました。
「ごめんなさい、あの部屋……僕、知らなくて……」
「結構です。私もこの城に雇われる身ですから。あの部屋だろうと他の部屋だろうと、寝泊まりする場所がいただければそれで十分です」
 はっきりと物を言う人でした。厳しさに満ちた声にルディは身を固くします。
「貴方には二階の部屋を手配しておきました」
「あの部屋に、サヒヤさんの物は……?」
 エヴァが話すあとを追って、なんとか、もう一つ心配だったことをルディはたずねました。
「元々物持ちではありませんから。旅の荷物にしてしまえば何も残りません」
 サヒヤは少しの沈黙のあと、視線を横にそらしました。
「母が病気なもので、見舞いに行っていました。母は一人なので……本来なら常にお嬢様のおそばに仕えるべき身ではありますが、これからも長く空けることがあるでしょう」
「お母様が……」
 そのとき改めて、短く、ルディとサヒヤは挨拶を交わしました。と言ってもルディに話すべき身の上は無く、サヒヤもそれ以上のことを語ろうとはしませんでしたが。ただ、遠くに母親がおり、見舞いに行くほどに大事にしているというだけで、彼女がずいぶん身近な存在になった気がしました。
 エヴァは、サヒヤからも侍女の仕事を学ぶよう言いました。
「信頼に足る人物です。学ぶことは多いでしょう」
 さっそく午後から、ルディはサヒヤについて仕事をすることになりました。
 彼女は、厳しい人でした。エヴァはどんなときでも感情を顔や声に出すことはないのですが、サヒヤの声は時にけんを含み、鋭い刃物のようなまなざしはルディをすくみ上がらせます。理由もなく当たり散らすようなことはないのですが、間違えれば即座に叱責しっせきが飛びました。
 例えばある日、お嬢様の出かける準備をしていて、窓から外を見やったサヒヤは矢継やつばやに言いました。
「用意する馬車が違います。御者に、今日は視察だと伝えなかったのですか? 公的な外出ですよ。何をもたもたしているんです、走って伝えてきなさい!」
 顔を真っ青にして、必死で、ルディは走りました。手をあげられることこそないものの、その声だけで大いに動揺してしまいます。
「そう声を張り上げるな。ルディはお前と違って繊細だ」
 と、お嬢様でさえ言うほどでした。――ただし笑っていたので、面白がっていたのかもしれません。
「余計な口を挟まなくて結構。私はすべきことをしているだけです」
 案の定ぴしゃりと、サヒヤはそれを跳ねつけました。
 そうでなくとも、二人の人に物事を習うというのは大変なことだと、数日の内にルディは思い始めました。同じことでもやり方が違うのです。ルディにとってここの仕事は全く初めてのものばかりでしたから、まずエヴァから教わったとおりにやるのが一番重要なことでした。しかしサヒヤは時に、違うやり方をとるのです。ちょっとした手順が前後したり、あるいは思いもよらない行動をしたり。
 ルディは戸惑い、つい口にしていました。
「でも、エヴァさんは……」
 言ってから、サヒヤを不快にさせたのではないかと、口元を押さえます。心臓がばくばくと鳴りました。彼女は、スカートのスリットに剣を携えたままでした。それを振り下ろされれば、ひとたまりもないでしょう。まだ見ぬ刃の光を想像して、ぞっとしました。
 彼女は気難しい顔をしたまま、答えます。
「彼女には彼女の、私には私のやり方があります。もちろん、ならうべき所はならいますが」
 それから数日、相変わらず混乱するルディに、彼女は言いました。
「小手先ばかりに惑わされてはいけません。何事も、その本質を見極めることが肝要です。何のためにそれをやるのか、見失えば手元の作業に無駄な労を重ねるだけです。ただ与えられた仕事を漫然とこなすだけが勤勉とはいいません。私もエヴァも、貴方に一通りの仕事は教えるでしょう。出来うる限りその本質を。しかし方法を考えるのは貴方自身です。目的を見据え、意味を考え、常に最適な方法を探り続けなさい」
 彼女の言うことはもっともでした。けれど、自分にはとても難しいことだろうなと、ルディは感じました。とろくさい頭を恨めしく思います。
 彼女はとてもきびきびと働く人でした。急ぐわけではないのですが、休む間もなく、立ち止まって考えることもほとんどありません。エヴァの所作しょさはそつなく、静かで確実なものでした。一方サヒヤの動きは素早く手際よく、鋭さを含んでいます。
 この鋭さというのが、相手に有無を言わせぬ気迫のようなものにつながって、人を手配するときには大変効果的でした。ルディが「あの、すみません、お願いがあるのですが……」などと言っている間に、サヒヤは「お嬢様がお出かけです。馬車の準備を。今すぐ!」と人を焚きつけるのです。
 物事の、間合いの取り方は、絶妙なところがありました。お嬢様が口を開くのを、先んじて制したこともあります。これには、ルディは心臓が止まりそうになりました。
 物言いもまた――独特でした。
「何をグズグズしているんですか、さっさとおやりなさい」
「本当に、お考えあってのことでしょうね?」
「まったく、口を開けばろくでもないことばかり」
 と、お嬢様相手に言うのです。だれに対しても厳しい人でしたが、特にお嬢様には容赦がないように感じました。
 とうとう、ルディは聞きました。
「サヒヤさんは、お嬢様が怖くはないんですか……?」
 エヴァも、お嬢様に対して怯えた様子を見せたことはありません。しかし意見を言うことはあっても、逆らったりはしませんでした。彼女はお嬢様の指示をよく聞いて、その意図を理解し、望むとおりに叶えるのか上手でした。
 サヒヤは、時に真っ向から、お嬢様の言うことに反対します。真意を問いただし、納得しなければお嬢様の命令だとしても従いません。
 そしてルディはといえば、お嬢様の一挙一動に右往左往するのが常でした。
「何故?」
 逆に聞き返されて、ルディは答えにつまりました。
 お嬢様は、偉い人です。そして、怖い人です。何をするのか分からない人でした。笑ったまま、どんなひどいことでも平気でやりました。むしろ嬉々として。あの赤い眼で見られると、ルディは恐ろしくて何も言えなくなります。
 だというのに、サヒヤは全く動じた様子はありませんでした。そもそも質問の意味が分からないと言いたげな顔をしています。
「ただの娘です」
 それは驚くべき答えでした。確かに、サヒヤやから見れば、お嬢様は年下なのでしょう。でもそれだけでくくってしまえるような人ではないはずです。ただの娘がズボンを履いて、剣を振るうでしょうか。ただの娘が、あんなむごいことを――
 サヒヤも同じように剣を振るい、それどころかお嬢様に剣を教えるほどの腕であるのだと思い出して、ルディは半ば納得しました。この世界には強い人と弱い人がいて、サヒヤは前者の側なのです。ルディのような無力な人間の気持ちなど、分からないのかもしれません。
「偉い人で……」
 サヒヤはうなずきました。
「なるほど、生まれの貴賤きせんが人となりであるとして、身分の低い者が高い者に従うべきだというのはそのとおりでしょう。ならば貴人もまたその崇高な責務をまっとうするのが道理というものです。それは高みにあぐらをかき、卑しい者にへつらわせて満足することではありません。常に自分を律し、土地を治め、人を率い、国土を守る義務があります。それができない主君であれば、何故心から仕えることができるでしょうか」
 とても堂々として、立派な物言いでした。しかしルディは、侍女というものが分からなくなります。ルディはただ、お嬢様の身の回りの世話をしているだけです。道理だとか国だとか、考えたこともありません。
「物事の本質を見据えるよう言ったはずです。これを侍女と主人に置き換えても同じことです。主人たる資格のない者に唯々諾々いいだくだくと従うべきではありません。主人が誤れば、それを正してこそです。特にあの方は、誤ってばかりでいらっしゃる」
 また、ルディの心臓が飛び出そうなことを言います。彼女の言うことは、ルディにはほとんど理解できませんでした。サヒヤにとってお嬢様は悪い主人で、だからお嬢様のことが嫌いで、だからあんな口のきき方をするのでしょうか。
「まだしもの救いは、あの方が自分に必要な人材を心得ているということですね。意識してのことかは存じませんが。
 真に暗愚あんぐな主人であれば、耳に良い言葉を口にする者だけを重用し、意向にそぐわぬ言葉を聞こうとしないでしょう。あの方は私を侍女としてお抱えになり、今もおそばに置いていらっしゃる。私の進言が耳に触るようであれば、即刻首をはねてしまえばいい。それをなさらないということは、その点においては人の上に立つお覚悟があってのことでしょう。ならば私は侍女として、誠心誠意お仕えするのみです」
 相変わらず、ルディが理解できたのは断片でした。けれど少なくとも彼女が、彼女なりに、真剣にお嬢様と向き合っているのだと、分かりました。だからこそあんな言い方をするのだと。
 彼女の鋭さがどこから来るのかと考えたら、彼女が内に持つ正しさに行き着きます。それは彼女がしを判断する基準であり、行動する根拠であり、揺るぎない信念とでも言うべきものでした。その強さが人の心を突き動かすのです。
 とても、ルディにはかなわないものでした。


  ***


 ある日の朝、ルディは、サヒヤが剣を振るうのを目にしました。汚れ物を洗濯場に持って行くとき、二階の窓からふと中庭を見下ろすと、真ん中に立っているサヒヤの姿を見つけました。近衛兵達に囲まれ、視線を浴びながらもその姿勢はまっすぐで、目を引きました。
 手にしているのは、腰に下げた白い剣ではありません。他の人と同じ、刃のない練習用の剣です。
 相手は、近衛兵の一人でした。お嬢様に剣を教えるだけのはずが、時折他の人に稽古をつけていることもあると、本人の口から聞きました。試合ではなく、剣を交えながら何か決まった型をなぞっているようでした。
 両者とも右足を一歩引き、斜めに相対しました。両手持ちの長剣を肩の高さに掲げ、背中に向いた切っ先を斜めに、さらに高く上げます。先に動いたのは男の方でした。一歩踏みこみ、サヒヤに向かって剣を振り下ろします。サヒヤも動きました。大きく前に踏みこみながら鍔元つばもとで剣を受け、そこを支点に切っ先で男の頭に斬りつけます。
 男の反応は迅速でした。防がれたと知るや、サヒヤを狙うのをやめ、剣を横に打ちこみます。サヒヤの剣は大きく弾かれました。と思うと、勢いそのままに、体ごと大きく剣を旋回させます。今度は逆から男の首に斬りこみます。男は半歩引いて、剣の腹でこれを受けようとしました。サヒヤの見切りもまた迅速でした。横に斬る動きを、男の剣にふれるやいなや、突く動きに変えます。無防備なわき腹をめがけて、素早く突きこみ――直前で、刃を止めました。
 ルディはため息をつきました。
 サヒヤは、見本を見せているのでしょう。ルディはもちろん剣術など習ったことがありませんが、その目からしても、彼女の動きはとても洗練されて見えました。まるで舞うようです。ゆるやかに動いたかと思えば鋭く突き、またさっと引きます。力や勢いでは男にかなわないものの、逆に相手の動きを利用して、受け流し、より深く斬りこみました。長いスカートがはためくのでさえ、目算もくさんの内にあるようです。
 遠目でしたが、まぶしく、大きく感じられて、ルディは顔をそらしました。手元の仕事を思い出します。窓の外の輝かしさに背を向け、暗い廊下に足を進めます。胸の底にとぐろを巻く思いが、ゆらりと頭をもたげました。


 その日の夜、ルディはエヴァの元を訪れました。地下にある彼女の部屋です。サヒヤが城に帰って、彼女がお嬢様にお仕えする時間は短くなりました。何もないときであれば、お嬢様の体調を見るか、特別に頼まれた仕事を報告する以外、ほとんど地下の自分の部屋にこもっているようでした。いずれは侍女の職を完全に退くつもりであると、いつか話したとおりにするつもりのようです。
 格子の付いた厳重な造りの扉の向こうから、やや間をおいて、エヴァが現れ、ルディを招き入れました。机を挟み、向かい合って座ります。彼女が患者を診療するときと同じ体勢でした。この小部屋は彼女の私室であり、仕事の場でもあります。
 エヴァの顔色をうかがいながら――彼女が感情を見せたことはないので、ほとんど意味はないのですが――これはもう、染み着いた癖でした――ルディは重たい口を開きました。
「あの……聞きたいことがあって……エヴァさんは、知っていますか? どうして、僕なんかがお嬢様の侍女に……なったのか」
 サヒヤが問うまで、ルディは何故自分がここに連れてこられたのか、考えたことがありませんでした。命じられるままに、目の前の仕事をこなしてきました。
 最初こそ勢いに流されるだけでしたが、今になって、周りが見えるようになった分、自分がここにいるのは場違いではないかという思いが強くなっていきました。物事の真意を見るように、とサヒヤに言われました。しかし見ようとすればするほど、ルディには分からなくなるのです。
「僕は、何のもなくて……エヴァさんや、サヒヤさんを見てると、どうして……僕なのか……」
 特に優れたところがあるわけではありません。侍女の仕事どころか、皆が知っていて当たり前のようなことも知りません。仕事に勉強に、与えられる課題の多さに押しつぶされそうになっています。
 口にしてみると、さらに自分が情けなく感じられました。最後は喉に言葉がつかえて、上手くしゃべれませんでした。せめてもっと、エヴァのように落ち着いて、サヒヤのように自信を持って、しゃべれるようになればいいのですが。
 エヴァは、それ以上ルディが続けられないのを見ると、口を開きました。彼女は、問われない限り自分から口を開くことは滅多にありませんでしたが、必要なことに関しては非常に雄弁でした。
「あの方のお考えは私には分かりかねます」
 予想通りの答えです。ここに来てすぐ、エヴァはそう言っていました。
「ですがあの方が新しい侍女を迎えられた、その原因が私とサヒヤにあることは明らかです」
 しかしあとには、意外な事実が続きました。どういうことでしょうか。二人の特別な侍女がいれば、それで十二分に思えます。
「私が元々、お嬢様に侍女としてお仕えしているわけではないと、すでに説明しましたね」
 ルディはうなずきます。
 彼女は侍女の仕事を完璧にこなしますが、彼女の本職は医術士です。むしろこの部屋で怪我をした人の手当てをしたり、病気の人に薬を与えたりするのが本来の仕事でした。
「お嬢様には、ご幼少の頃から身の回りのお世話をする侍女がいました。私がこの土地にやってきたのは十年以上前ですが、そのときにはもう彼女がおそばについていました。五年前に、彼女がそれ以上お仕えできなくなり――彼女の穴を埋めるために、そのとき一番おそばでお仕えしていた私が、侍女の役割を担うことになったのです。
 しかし、従医と侍女の職務を兼任するというのは、望ましい事態ではありません。私の本分は医術の研究にあり、侍女の仕事のためにそれをおろそかにはできないためです。
 そこで、三年前に雇われたのがサヒヤです。サヒヤは他国の城で女中をしており、使用人としての経験がありました。きっかけはお嬢様が、彼女の剣の技能を偶然見出されたことですが、正式に侍女として雇われました。
 しかし彼女もすぐに、鍛錬の場での指南役を仰せつかることになりました。お嬢様の侍女はまた兼業の状態になってしまったのです。そして今は、城を空けることも多くなってしまいました」
 それはルディの知らない歴史でした。お嬢様に関わった侍女達の話です。
 最初にまず一人の侍女がいて――十年以上前と言いますから、まだお嬢様が四つや五つの子供だった頃からということでしょう。エヴァの口から聞いた、前任者の話を思い出しました。もしかするとその人のことなのかもしれません。
 五年前に彼女がいなくなり、エヴァがそのあとを継ぎました。しかしエヴァは元々侍女ではありません。別の、しかも医術という高等な作業をしながら、毎日朝から晩まで続く侍女の仕事を担うのは大変な困難です。それを成し遂げたのは、彼女の驚くべき処理能力と忍耐力のためでしょう。
 三年前、サヒヤが侍女として雇われました。ところがその特別な能力のために、午前はお嬢様に剣を教えることになりました。それでは、侍女の仕事をすべてこなすことは難しいでしょう。朝の内にやっておくべきこともたくさんあるからです。おそらくエヴァとサヒヤ、二人で分担しながら侍女の役目を果たしたのでしょう。
 さらに今は、サヒヤもこの城にいないことが増えてしまいました。お母様が病気になって。不在の間はやはり、エヴァが侍女を勤めていたのでしょう。
「私もサヒヤも、異能の身です。侍女としてお仕えする以上に、私もサヒヤも、それぞれの力を尽くしてお助けしなければいけません。あの方がやがて、辺境伯の地位を継がれるために」
 有能であったり、頭が良かったり、特別な技術を持っているというだけではなくて――サヒヤのように、態度や言葉で明らかにそうと見せることこそないものの、エヴァもまた、内に強さを秘めていました。サヒヤの掲げる正義や道理といったような、広く世間に認められている考え方の代わりに、エヴァのより所になるのは、彼女個人のお嬢様への思いでした。それをなんと呼ぶのかルディは知りません。エヴァはお嬢様を大切に思って、死なせたくないと、どんな怪我も病気も自分の力で治してあげようとしていました。
 心の強さがあるから、彼女達はあるいは鋭く、あるいは静かでいられるのでしょうか。何か一つ信じられるものがあれば、動じずにいられるのでしょうか。他人の顔色をうかがって、身を縮めなくてもすむのでしょうか。
「同時に、日常のお世話をとどこおりなく行う者も不可欠なのです。私から、あの方に申し上げました。新しい侍女をお雇いになるようにと。するとあの日、あの方は貴方をこの城にお連れになった。
 何故貴方でなければならなかったのか、という説明にはなりませんが。少なくとも今あの方に必要なのは、ただの侍女なのです。私やサヒヤの持つ技能は、侍女の仕事とは無関係です。貴方が同じようになる必要はありません。
 貴方に経験や知識が無いのは、貴方を含めだれにとっても不都合なことですが、そうと知ってお選びになったのはあの方ご自身です。貴方に何かを見出されたのでしょう。たとえそれがお気まぐれであったとしても、貴方にはあの方のご寛容を受ける資格があります」
 礼を言って、ルディはエヴァの部屋を出ました。去り際にも彼女は寝支度をする様子はありませんでしたから、まだ作業を続けるのでしょう。部屋の奥の扉の向こう、彼女の実験室で。
 手に持つろうそくのあかりをたよりに階段を上がり、部屋まで戻ります。もう夜もふけていました。明日の朝はルディの当番ですから、早く寝て、早く起きなければいけません。
 ろうそくを吹き消し、書き物机の上に置き、手探りでベッドまで進みます。指先に毛布がふれて、ルディはその下に潜りこみました。いつの間にか、ここで寝るのも慣れてしまいました。床の上で眠る内は、だれかに怒鳴られる夢を見て目覚めることもあったのですが、不思議と、ベッドの上ではそういうことはありませんでした。
 初めてこの上で眠ったあの夜、その心地良さが夢ではないようにと願いました。そして、叶いました。当たり前の話です。ばかな願いでした。今さらこの生活が夢だなんてことはないでしょう。それでも、いまだに分からなくなるのです。ここがどこで、自分が何で、何のためにいるのか。
 何もかもが不確かなのは、心が弱いせいです。
 エヴァは、ルディが、彼女やサヒヤのようになる必要はないと言いました。けれどルディには、彼女たちがうらやましく思えました。動じず、屈しない彼女たちが。
 どうか、強くあれますように――
 初めて、そうと意識して。初めて、自分のために願いながら、ルディは目を閉じました。


  ***


 その日、お嬢様は朝早くに出かけて行きました。泊まりの外出です。ケーンドット伯爵から招きを受け、晩餐会に出席するのだそうです。お嬢様が出かけるときは、必ずエヴァがついて行きました。何かあったときのためだそうです。
 前日の内に、彼女は旅行の荷物をまとめました。もちろん、お嬢様の荷物です。大半は服でした。この城の中よりもずっと着るものには気を配らなければいけません。大勢の人の前で恥ずかしい思いをしてしまいますから。ルディがとりわけ少ないにしても、それ以外の使用人達だって、そう何着も服を持ってはいませんから、同じ服を何日も着るのは当たり前でした。しかし偉い人たちは、一日の間でさえ何度も服を着替えるのです。朝の部屋着、昼の服、外出着、午後の服、夜会の服、そして寝衣しんい。お嬢様の外出はたった二日でしたが、それでもかなりの量になりました。一つ一つルディに説明しつつ、エヴァは手早く必要なものを選びました。ルディが侍女として一人前になったら――ルディも、お嬢様の外出について行くのだそうです。
 晩餐会ですから、ヤスリンという恋人も、お嬢様は連れて行きました。「花を携える」とお嬢様は言いました。お嬢様のお気に入りで、普段から美しい人ですが、今日はとびきり豪華なドレスを着て、高く髪を結い上げていました。ふと、サヒヤの帰ってきた夜のことを思い出して――立派な馬車に一緒に乗りこんだお嬢様とエヴァ、そしてヤスリンがいったいどんな会話をするのか、想像すると何やらルディの胸には不穏な予感がしました。
 ともあれ、残されたルディの心には束の間の平穏が訪れました。サヒヤも、その日ばかりは鍛錬用の服に着替えることもなく、今の内にと、お嬢様の部屋の大掃除を提案しました。どっしりと重い、天蓋の付いたベッドやワードローブをどかして、すみからすみまでほこりを掃いて、拭いてしまおうと言うのです。お嬢様がいる内にはなかなかできない大仕事ですから、良い考えに思えました。
 家具を動かすためには、男手が必要です。少し考えたあとに、サヒヤが足を向けたのは、あろうことか――中庭でした。そこを鍛錬場とする近衛兵の面々に、声をかけます。
「お嬢様のお部屋を掃除するのに、どなたかお力を貸してはいただけませんか」
「サヒヤ殿……」
 彼らは、サヒヤのことをこう呼びます。騎士でもなく、男でもないというのに。当然、ルディのことをそんな風に呼ぶ人はいません。お嬢様にお付きの侍女であると言っても、ただの使用人にすぎないのですから。サヒヤの普段の指導の様子が、なんとはなしにうかがえます。ある若い兵が、いくらか緊張した面もちで、しかし憮然ぶぜんと、抗議の声をあげました。
「いくらお嬢様の御為とはいえ、我々は騎士や兵士です。戦いのためにいるのです。そんな仕事はそこらの人足にんそくに任せれば良いではないですか」
 サヒヤは少し首をかしげます。別に気を悪くした風はありませんでした。単純に、に落ちないようです。
「他の者をあたっても構いませんが――わざわざ城外から人を雇うほどのことには思えませんし。では今この城の中で、となると、貴方方が一番の適職に思えるものですから」
 そう言い放たれたとき、彼らの顔は引きつりました。近衛兵の内の何人かは、お嬢様について行きました。道中を警護するためです。近衛兵団の団長であり、お嬢様の従兄でもあるケンニヒ様をはじめ、数人が選ばれました。残された兵達もけっして遊んでいるわけではないのですが――守るべき人もなく、いくらか気をゆるませているように見えるのは事実です。
「いやはや。侍女殿には敵いませんな」
 人垣の向こうから、ラールが笑い声と共に現れました。ラールは近衛兵の副団長です。しかし騎士ではあっても貴族ではないから、公式の場にはついていけないそうです。騎士というのは生まれついての地位ではなくて、偉い人に取り立てられて与えられるものでした。近衛兵団には色々な人がいました。貴族の出、平民の出、外国の人もいました。その中から特別働きの認められた兵士が、騎士として叙勲を受けるのだそうです。
「私は腰を痛めておりますのであいにくですが、若い衆を行かせましょう」
「ありがとうございます。人選はラール様にお任せいたします」
 サヒヤは礼を言って、その場をあとにしました。
 まったく、小気味良いとさえ思えるようなやりとりです。方やルディは一言も発せず、サヒヤのうしろで、痛む胸をなでつけていました。


 ルディとサヒヤが掃除道具を携えてお嬢様の部屋に戻ると、ちょうど男三人もそこまで来たところでした。いかにも雑用を押しつけられそうな、まだ年若い兵達です。体つきはさすがにがっしりとしていました。小柄でひ弱なルディが隣に並ぶと別の存在のように感じてしまいますが、年はそんなに変わらないでしょう。顔は見覚えがありました。よく、お嬢様と親しげにしているのを見かけます。
 サヒヤは部屋の鍵を開けました。この部屋の鍵の管理は、侍女の大切な役目の一つでした。お嬢様のいない間はドアを閉めて、侍女のだれかが鍵を持ち歩いています。
「さあまずは、家具をすべて廊下に出していただけますか」
 サヒヤの指示は素早く、的確でした。彼女の持つ刃のような鋭さは、今は敬意の鞘に納められていますが、だからといって失われたわけではありません。それを知っているのでしょう、男達も従順でした。
 彼らが部屋に踏み入り、一瞬物珍しげに中を見渡したとき、ルディは思いがけず、頬が熱くなるのを感じました。昨日の夜のことを思い出したのです。男達の踏む絨毯じゅうたんの上で行われたことを。
 出かけてしまうからと、寂しがるといけないからと、お嬢様はルディの体を、相当苛めたのです。おかしなことに、そういう言い訳を与えられると、いつもより反応してしまうようでした。それでますますお嬢様は機嫌を良くし、何度も、責められました。
 寝室ですから、あまり、他人が入る所ではありません。だからといって、全くだれも入れないというわけでも、お嬢様のルディへの仕打ちをだれ一人として知らないというわけでもないのですが――少なくとも、きっと、彼らは知らないでしょう。秘密を気取られはしないかと、ルディは視線を泳がせました。
 そうでなくとも、ここは女の人の部屋でした。本人のいないあいだに他人、しかも男の人を入れるのはよろしくないことでしょう。サヒヤはそういうつもりでも、近衛兵に声をかけたのかもしれません。淑女の部屋で何を見ても言いふらしたりはしないと、信頼をおける人たちでしたから。
「ああ、これは相当古いものだなあ」
「城主様の姉君が使われていたそうですよ」
「さすがしっかりした造りだ」
「その分重いぞ。気をつけろ。それっ」
 そんなことを言い合いながら、男達は次々と、家具を廊下に出しました。ソファや机は簡単でしたが、中身の詰まったワードローブや鏡台は一苦労でしたし、天蓋の付いたベッドともなると、彼らでさえ大変な苦労を必要としました。
「オリーブの木に造り付けられていないだけましだな」
 一人が手の甲で汗を拭いながらそう軽口を叩き、他の男達も笑います。ルディだけが呆けた顔をしているのを見て、サヒヤがそっと教えてくれました。
「大昔の英雄譚の一節です。興味があれば、あとでレントウにでも聞くと良いでしょう」
 また頬を赤くする場面でした。今度は自分の無知さにです。
「教養のたぐいですから、知っていて自慢にはなりますが、知らなくても恥ではありません」
 と、サヒヤは付け加えました。逐一ちくいちルディが人の言葉に赤くなったり青くなったりするのが、気になるのでしょうか。もしかすると、気に障るのかもしれません。しかし一刀両断とばかりに、迷いもなくきっぱりと言い切るので、ルディは恐縮するのも忘れ、そんなものかと深く納得するのでした。
 やがて、お嬢様の部屋はすっかり空っぽになりました。カーテンを外すべきか、サヒヤは思案していました。分厚い生地でできた重たい物で、頭より高い位置に取り付けてありますから、取り外すなら男手がある内がいいでしょう。
「あのう」
 石鹸のにおいがしました。振り返ると、一人の女が寝室を覗きこんでいました。ルディの知らない人でしたが、元は生成色きなりいろをしていたであろう、薄汚れた厚手のエプロンは洗濯女中のものです。
 ほこりや泥やすす、食べこぼしを汚れたままにしてあるというわけではなくて、それらを洗い落としたあとにわずかに染みが残るのを、何度も、何年も重ねたような、複雑な汚れです。自分たちの服の汚れは二の次に、しかし捨て置くのは専門家としての自負が許さないと、仕事の大変さを示しつつ、洗濯の腕を見せつける、洗濯女中のささやかな抵抗と誇りの象徴、と聞いたことがあります。洗濯女中の間で代を重ねて引き継がれている物だそうです。
 お嬢様の洗い物を持って、侍女もよく洗濯場には出入りします。彼女達とは馴染みでした。確かに洗濯場はこの城の中でも大変な職場の一つとして知られていました。この城で扱われるほとんどすべての布の潔白さに責任を負っていましたから。繁忙期――たとえば大勢のお客様が来て、晩餐会が行われたときなど――の洗濯場は、アイロンの蒸気と刺激的な薬品のにおいが飛び交う、戦場のような場所でした。専門的な設備が必要なためでしょう、使用人が使う部屋はだいたい一階や半地下にありますが、洗濯場はさらに本館から離れた所にあります。その分、偉い人達の目にふれることはほとんどなく、どこか自由な空気もありました。しみのついたエプロンを“抵抗”などと言えるのも、そのためです。結局、恐ろしい雇い主達の目にふれることはないわけですから。
「何の用です?」
 サヒヤがすっとその前に立ちます。片足を一歩うしろに引き、斜めに人と相対するのが彼女の癖でしたが、それは剣を構えるときとよく似ていると、ルディは気付きました。鋭いまなざしに女はたじろぎます。
「姫様の部屋が大掃除だって聞いて……汚れ物が出るんじゃないかって。そしたら今取りに行った方が、あたし達は仕事が早くすみますから……」
 もっともな理由でした。ろうそくやランプのあかりで汚れを見分けるのは困難です。日の高い内に済ませてしまいたいでしょう。
「だれからその話を?」
「だれって……」
 サヒヤは肩をすくめて見せます。
「別に深い意味はありませんよ。貴方がその名を言ったところで、告げ口だと責めるつもりもありません」
「はあ……ほら、エルクトって人がいるでしょう、あの人よく中庭に出入りするから、騎士様に聞いたって……」
 おそらく、エルクトとは下男でしょう。名前を聞いて、兵の一人が声をあげました。
「ああ、そう言えばここにだれが来るか決めるってときに、あいつもいたな。いつもあいつに、汚れた物を持って行かせてる」
「そうですか」
 うなずいたあと、サヒヤは部屋を振り返りました。
「色々取り替えるつもりではありますが、あいにくまだ準備ができていません。でもちょうど良かった。カーテンを洗うべきかどうか、専門家の意見を聞きたかったんです」
 女は緊張を解き、少し表情を明るくします。
「あたしもまだここ入ったばっかりですから、専門家なんて……ああ、でもカーテンですからね。そう汚れることもないでしょう。大がかりなことになりますよ。このまま模様替えしますか。そんならしまう前に洗っちまいますが」
「春物に取り替えるのはまだ早いでしょうね」
「ええ、せめて新年にならないと。そんな気にはならないでしょう」
 二人は、お嬢様の部屋のカーテンを見上げました。金色の糸で大ぶりの草花の模様が縫い取られた、深い赤茶色のカーテンです。落ち着いた、しかしあたたかみも感じられる、冬の色です。日の光さえさえぎるほど分厚い生地は、外の寒さが忍びこんでくるのを防ぐための物でもありました。
「そうですね……こちらはまたの機会にしましょう。助かりました。昼にまた来てもらえますか。それまでには終わらせますから」
 女はほっと胸をなで下ろし、帰って行きました。男達も一旦帰らせて、二人で、部屋をすみからすみまで掃いて、拭きました。やはり普段手の届かない場所にはほこりがたまっていました。家具の裏も、意外と汚れるものでした。絨毯じゅうたんを外へ持って行って、はたいたりもしました。やがてすっかり、部屋はきれいになりました。
 もう一度男達を呼びに行き、家具を入れてもらいました。そしてすべて元通りになると、何とも言えないすがすがしさがルディの胸を吹き抜けました。外はどんよりと曇っていましたが、心は晴れ晴れとしています。サヒヤも男達も、同じ思いのようでした。力を合わせて物事を成し遂げた、達成感です。
 洗濯女中が、また顔を覗かせました。彼女が手に持ったかごに、サヒヤはいくつか洗い物をつっこみました。
「鍵を、今夜は貴方に預けて良いですか」
 その中で、サヒヤはふとルディに言いました。お嬢様の部屋の鍵を差し出します。
「今夜は用事があって街まで出るものですから」
 昼間はともかく、夜の間に鍵を持つのは初めてです。ルディはためらいました。
「無くさないようにちゃんと――あの部屋の入ってすぐの壁に、金具があるでしょう。あそこにかけておけばいい。できますね?」
 すぐにルディは思い当たります。サヒヤは元々あの部屋の持ち主ですから、よく知っていました。「はあ」と仕方なくうなずいて、鍵を受け取ります。ずっしりと重く感じられました。


 昼食を終えると、ルディは図書館を訪れました。レントウにオリーブの木のことを聞きます。すぐに彼は見当がついたようで、大きな本を持ち出しました。
 大昔、オリーブの大木が地面に生えたまま幹を切り抜き、ベッドにした王様がいたそうです。そのベッドを中心に寝室を作り、王宮を建てました。王様には愛するお妃様がいて、ベッドのことは二人だけの秘密でした。
 あるとき王様は海を渡り、大きな戦争に出かけて行きました。天を味方につけて戦争で勝利した王様でしたが、国に帰る途中に船が流されてしまいました。様々な試練の末に、王様が帰ったのは数十年もあとでした。
 その間に様々な男に求婚されても、お妃様は断り続けていました。みんな王様の座を奪おうとたくらんでいたからです。苦労の末に帰ってきた王様は敵に見つからないよう変装していましたから、お妃様はわざと言いました。
「お疲れでしょうから、今夜は貴方のベッドをここに持ってきましょう」
 王様は不思議そうに聞きました。
「あのベッドは地面に直接生えているのだよ。どうやって運ぶつもりなのだね?」
 二人だけの秘密で、お妃様は本物の王様を確かめたのです。そして王位を狙う敵を倒し、王様は国を治めました。
 男達がお嬢様のベッドがまだましだと言ったのは、このお話からです。とても壮大な話でした。王様は長くさまよい続け、それでも自分の国に帰るのをあきらめず、どんな難事にも立ち向かっていくのです。時に力で、時に賢さで。
 どれも、ルディには無いものです。帰る所すら。あの家は焼け落ちてしまいました。今、仮に海へ放り出されたとしても、呆然と流されるだけだろうなと思うのです。


 夜遅くになり、雪が降り始めました。街まで出たというサヒヤのことや、遠くにいるお嬢様達のことが心配でしたが、どうすることもできません。部屋の空気はどんどんと冷えていきます。早く寝床に入るべきかもしれません。寝てしまえば、たいていの寒さは気になりませんから。
 もう一度、鍵を確認します。ちゃんとかけてあります。もう何度もくり返していました。気になって、今夜は眠れないかもしれません。
 しかし不意に、めまいを感じました。しんしんと降り積もる雪のような眠気に襲われます。朝の大掃除が体に応えたのでしょうか。それともあの人がいなくて、気がゆるんでいるせいでしょうか。頭の奥がきしみます。
 大掃除とは言っても、重たい家具を運んだのは近衛兵達です。ルディ達は、床を掃いて拭くほかに、ベッドからマットやシーツをはがして干したり、引き出しの中身を整理したり――ああやはり、よく体を動かしたなと思います。大変でしたが、やりがいのある仕事でした。無くなったと思っていた絹の手袋の片方が出てきたのは、大きな収穫でしょう。――手袋で良かったな、と頭の片隅で考えました。もし下着なんかが出て来たら、さすがに近衛兵でも気まずい思いをしたでしょうから。
 学ぶこともたくさんありましたし、合間のちょっとした会話も心がなごむものでした。そこで知った英雄譚の一節、オリーブの木でできたベッドを想像します。大きな大きな木です。見たこともない大きな木。実際ルディはオリーブの木というものを見たことがありませんから、すべて想像でいいのです。幹の色は薄い青緑をしています。それよりは色の濃い、硬く大きな葉が茂っています。くり抜いた幹にマットを置きます。新品のワラがいっぱいに詰められて、とても良いにおいがします。それから毛布を敷きます。厚手で、とてもあたたかい、上等の毛布です。最後に、それらを木綿のシーツでおおいます。ふち飾りのついたシーツです。その上にお嬢様が腰かけています。ルディを見て、笑います。ルディは膝をつきます。こわごわと頭を下げ、その靴に口をつけます。皮と土ぼこりのにおいがします。舌をはわせると、奇妙な味がしました。


 ルディは目を覚ましました。暗闇です。ろうそくは燃え尽きていました。机に突っ伏して、寝ていたのです。痛む体が悲鳴をあげるのも構わず、イスを蹴倒すほどの勢いで立ち上がります。何故か、ひどくうろたえていました。まさか朝が来たのでしょうか。手探りで廊下に出て、あたりを見回します。廊下は、ところどころにともされたろうそくに照らされ、ぼんやりと浮かび上がっています。窓を見ると、外はまだ真っ暗でした。吹雪ふぶいているようです。ほっと息をついて、同時に底知れない寒さが襲ってきました。体が冷え切っています。
 自分の二の腕を抱いて、ルディは部屋に戻りました。ふと違和感に、ドアのすぐ横を見ます。金具が壁に取り付けてあって、鍵がかけてあります。お嬢様の部屋の鍵です。頭の芯が凍りつきました。影の中に目をこらします。
 鍵の形は、こんなだったでしょうか。光の届かない闇の中で、判別はつきません。しかし、ルディにとっては見るよりも明らかでした。物には必ずにおいがあります。そのもののにおいと、それを手にした人のにおいです。今、目の前にぶら下がっている鍵からは、昼間手に取ったときとは違うにおいがしました。違う金属、そして、違う人のにおい――
 ルディは再び、廊下に飛び出しました。走ります。お嬢様の部屋へ。
 何が起こっているのか、分かりませんでした。良いことなのか悪いことなのか、普通のことなのかおかしいことなのか。しかし頭の中で警鐘は鳴り響き、ルディの足を急がせました。
 階段を登り、廊下を走り、お嬢様の部屋の前に、一人の女が立っています。昼間の、洗濯女中でした。
「あ――」
 なんと呼びかけていいのか、とにかく、声を出します。女が振り返ります。肩がうしろへ引き戻されました。たたらを踏むルディの隣をすり抜けて、人影が前に出ます。サヒヤです。
「何の用です」
 サヒヤは斜めに、女と対峙たいじしました。もはやそれが剣術の構えであると隠そうともしません。腰の剣に手をかけています。
「どうして――」
 女は、そう口にしたあと、慌てて抱えたかごの中から、布を広げて見せました。白く、四角く折り畳まれた、シーツでしょうか。
「あの、あたし、洗った物を持ってきたんです……」
 とん、と音がしました。
 何の音かと、ルディも女も目をやりました。つま先で床を打った音です。
 女の体がよろめきました。何かが、硬い音をたてて床の上に落ちます。鍵かと思えば、それはナイフでした。には、枝が絡みついています。いいえ、切り口から赤い飛沫ひまつをとばすそれは、枝ではなく――
 ルディは目をそらそうとしました。しかし意志に反して、眼球はその正体をつぶさに確かめようと微動だにしませんでした。
 指です。
 二つは、ナイフのに巻き付いたまま、二つ、床に落ちていました。
 女は手元を押さえて体を折りました。白いシーツに血がにじんでいきます。
 その前に立つサヒヤの右手から、光が一筋ひとすじ、薄闇の中に伸びていました。白く、えとした光です。その刃から光の粒がこぼれ落ちます。雪のようです。剣はサヒヤの手の内でひるがえり、腰のさやに吸いこまれていきました。
 いつの間に歩みより、いつの間に剣を抜いたのでしょう。
 目にもまらぬあざやかさで、サヒヤが女をったのです。
 サヒヤはその胸ぐらをつかみ、壁に叩きつけました。女の手からかごが落ちます。サヒヤは女を押さえたまま、それを蹴飛ばしました。かごの中から、大工仕事に使うような道具がいくつも転がります。
「今つなげば、見た目だけはまだ元通りになるでしょうね」
 と、サヒヤは口を開きました。
「貴方の指のことです」
 女は顔をゆがませます。目を見開き、歯を食いしばり、視線はそらせず、しかしできる限り逃れようと、顔をそむけます。サヒヤは手をゆるめたようでした。
生憎あいにくと、私はただの侍女です。騎士のように荒事あらごと生業なりわいとしているわけでも、貴族や官吏かんりのように拷問を趣味にしているわけでもない」
 女の頬を拳で殴りつけます。続けて二度、三度。
「いや――やめて――」
 女は頭を押さえ、しゃがみこむように体を曲げました。その腹を、サヒヤの膝が蹴り上げます。宙に散ったのは、血でしょうか、つばでしょうか――女の体は力なく床に崩れ落ちました。一瞬の間をおいて、女は体を波立たせ、胃の中身を吐き出しました。
「こういったことには手慣れていませんから……その分、長くかかるでしょうね」
 女はくぐもった悲鳴をあげました。


  ***


 次の日、太陽が西の山に沈み始めた頃、見張り台からラッパの音が響きました。お嬢様の帰城をしらせるラッパです。ルディ達は作業の手を止めました。
 鋭く長く二回。一団が街壁までやってきたという合図です。先頭を走る騎馬が高く掲げた旗は、青色をしているのでしょう。お嬢様の旗の色です。
 それからしばらくして、ラッパが短く、長く、二回鳴りました。一団が街を抜けて、城壁の表門まで至った合図です。出迎えるべき人々が建物の外に出ました。ラールを初めとした近衛兵の数人、女中頭や使用人頭などの使用人の中でも地位の高い者が数人、そして侍女が、正面玄関の前に並びます。ほどなく、騎馬に率いられた馬車が到着する頃には、あたりは暗くなっていました。
 薪をくべられてこうこうと燃えさかる松明たいまつに照らされ、その人は昨夜の間に降った雪の上に降り立ちました。
 白地に黒いぶちが規則的に入った毛皮のマントをはおり、頭には羽根飾りの付いた帽子をかぶっています。
 女は決まって膝を折り、男はそれぞれの身分に合わせて、胸に手を当てて片足を引いたり、腰を曲げたり、とにかく全員が頭を下げました。
「ご苦労」
 いつかと同じように、お嬢様は声をかけました。人々のそばを通り過ぎる、そのあとを追いかけたのは、侍女だけでした。ちょうど、遅れて馬車から出てきたエヴァとも合流します。
 廊下を歩きながら、お嬢様が外した帽子を、ルディは駆けよって受け取りました。次に、ずっしりと重たいマントも。
 その拍子に、お嬢様はルディに目を留めました。
「ああ、下手な魔術をかけられたな」
 笑って、ルディに向かって指をはじきます。ぱちん、と音がしました。目の前がぱっと明るくなります。ルディは眼をしばたたかせました。
 頭が、ぼんやりとしているのはいつものことですし、結局昨日はよく眠れませんでしたから、重くて痛いのも仕方のないことだと思っていました。しかし今この瞬間に視界が晴れたことからすると、それだけが原因ではなかったようです。
「魔術ですか?」
「妖精の、眠りの砂のようなものだ」
 サヒヤの問いに、お嬢様は目を細めます。
「さて、私のいない間にどんな面白いことがあった?」


 お嬢様の部屋に入り、サヒヤはお嬢様とエヴァに、昨日起こったことを聞かせました。女がお嬢様の寝室に忍びこもうとしたことです。
「女がこの部屋の前にいるのを、彼が見つけました」
 とわざわざサヒヤが言ったので、ルディは面映おもはゆく思いました。
「この寝台に細工をほどこす気でいたそうです。ふとした拍子に天蓋が落ちて下の人間を押しつぶすか、それが無理なら毒の付いた刃物を仕込むか」
「ああ、それは困る。これは伯母上の寝台だ。何かあったら父上がお嘆きになるだろうな」
 ベッドの天蓋を仰ぎ見ながら、お嬢様は冗談とも本気ともとれない口調で言いました。今はソファに腰かけています。
「女の名はデレンドール。親戚のつてで洗濯場に雇われたそうですが、この親戚とやらは行方知れず、人物紹介状は偽物でした」
「エルクトという男は?」
「デレンドールの“話”によると無関係のようですが……」
 廊下の汚れはもう残っていませんが、何が行われたかを思い出して、ルディは青ざめました。胃がむかむかしてきます。
 サヒヤは全く容赦しませんでした。女を打ち据えながら問い詰めました。女が手に巻いたシーツをはぎ取り、傷口を見せつけ、斬り落とした指を踏みにじりもしました。「あとあと不便かと思って残しておきましたが、親指も落としましょうか」そう脅されて、女は吐物にまみれながらむせび泣きました。
「拷問で得た情報が、必ずしも正確とは思えません」
「人は目先の苦痛から逃れるためならばどんな嘘でも吐くからな」
 かたわらに立つエヴァの言葉に、お嬢様は軽くうなずきました。
「だが、良い見せしめにはなる」
 不穏な一言にも動じず、サヒヤは続けます。
「いくつか魔法の品も所持していたようです。ルディにかけたのもその一つですか。足音を消す作用のものもあったと、塔の魔術師が」
「ああそれは、魔術師達の良い玩具おもちゃになっただろう」
「まだ調べさせている途中ですが、手掛かりになりますか?」
「おそらくな」
 昨日の夜、あの寒さの中でも机に向かったまま寝てしまうような、強い眠気に襲われたのは、その魔法のせいだったのです。いったいいつの間に魔法をかけられたのでしょう。壁を一枚隔てて、女が潜んでいたことを想像して、背筋がひやりとします。
「結構。エルクトから目を離さないよう、近衛兵に知らせてあります。女中の採用は女中頭の責任ですが――まだ、デレンドールのことは伏せています。洗濯場には彼女が戻らないことだけを伝え、口止めもしておきました。今は地下室にいます」
「いいだろう。エヴァ、行って傷を手当てしてやれ。私もあとで顔を見に行こう」
 深くうなずくと、お嬢様は前に立つルディとサヒヤに笑いかけました。
「二人ともご苦労だった。良く対処した」
勿体もったいないお言葉です」
 膝を折るサヒヤの隣で、ルディは恐縮するばかりでしたが、今回ばかりは「全く何の役にも立っていません」とは言いませんでした。ルディにだって分かります。サヒヤが自分を利用したのだと。わざとあの場でルディに鍵を預けたのです。しかもドアを開けてすぐの金具にかけろだなんて、今考えれば不用心なことでした。女の様子が不審なのに、サヒヤは早くから気付いていたのでしょう。呼んでもいないのに女はここまで来ました。部屋を覗きこんで、何か好機がないかとうかがっていました。だからサヒヤはあえてもう一度女を呼びつけて、部屋の様子を見せたあと、さらに鍵の在処ありかを教えたのです。そして街まで出ると嘘をついて、おそらくどこかに隠れて、様子をうかがっていたのでしょう。
 何か仕掛けるなら、お嬢様が帰る前、昨日の夜しかありません。いかにもルディなら、鍵をすり替えるのも容易たやすいことだと思われたのでしょう。たよりさそうな様子が役に立ったのだと、言ってしまえばそういうことになります。実際、異変に気付いたのは偶然のようなものでした。あの時目が覚めなければきっと、朝起きて、サヒヤから事の顛末てんまつを聞かされるだけだったでしょう。
「“鬼の居ぬ間に”とは言いますが、思わぬほこり叩きとなりました。お心当たりは?」
 聞いてすぐ、サヒヤは苦々しく言い捨てました。
「と聞いても、無駄なことでしょうね」
「何が無駄なものか」
「方々で気前良く振る舞っていらっしゃるから、どこで恨みを買ったかなど覚えていらっしゃらないでしょう?」
「心外だな」
 お嬢様は首をかしげ、笑いました。
「楽しいひとときを分かち合った相手のことは、だれであろうとよく覚えているさ。どれもこれも忘れられん顔だ」
「情が深くていらっしゃること」
 これもやはり、言葉通りに受け取ってはいけないやりとりなのでしょう。内容については、考えるのも恐ろしいことでした。あの――ルディの家の出来事でさえ、お嬢様にとってはきっと、『楽しいひととき』だったのです。
 お嬢様はソファに体を預け、天井を眺めました。
「さて、くだんの暗殺者は、どこの手の者だろうな」
 暗殺――
 異質な言葉でした。おおよそ、日常にはそぐいません。
 女がシーツの下に隠し持っていたナイフを思い出します。サヒヤがいたからこそ、今ルディはここに無事で立っていられますが、もし一人だったならば――あそこで、刺されていたのでしょうか。冷たい、ナイフの感触を想像して、ぞっとします。
 ルディには見当もつかないことでした。お嬢様を恨む人がいて、殺してしまいたいと思うほど憎む人がいて、だれかに頼んで殺してしまおうと、そういうことでしょうか。
 こんなことが、よくあることだとして――だからあまり城の奥まで、洗濯女中や掃除女中を入れず、代わってルディ達侍女が洗い物を持って行ったり、部屋をきれいにするのだと、ようやくルディは理解しました。近衛兵達も、そういうつもりでサヒヤが声をかけ、ラールはお嬢様と親しい顔を選んだのです。
「ヴィッセンダッハ家とはもう何十年来、暗殺者を送りあう仲だ。そうだ、女はどこの出だ? フーリ人ということはないだろうな? 彼処あそこは先の大戦で殲滅せんめつしたはずだが、生き残りがいてもおかしくはない」
 しかしお嬢様は、この上なく上機嫌でした。まるで今から、お気に入りの相手を招いて茶会を開くようです。使い慣れたティーテーブルの上に真新しいクロスを敷き、外国から取りよせたお菓子と、上等の茶葉を用意して。
 得体の知れなさに耐えかね、ルディは聞きました。
「お嬢様は、怖くはないのですか……?」
「何故?」
 またも、問い返されました。自分の恐れるものが、他の人にとっては何でもないことだと、今回ばかりは思えません。言葉につまりながら、ルディは聞き直しました。
「死んでしまうかも、しれないのでしょう?」
「ああ――」
 お嬢様は少し笑い、語り始めます。
「祖国を守るために命をかけた者を知っている。死を恐れず、国を、民を、愛する家族を守るために、敵陣に乗りこみ一騎当千の戦いぶりを見せた。最期にその命は戦いの中で散ったが、祖国では今でも英雄とたたえられている」
 懐かしむような声でした。ルディの知る英雄は物語の中でしたが、お嬢様にとってはもっと近くにいる存在なのです。あるいは目の前にいるその人こそが。お嬢様はすでに何度も戦場に行ったことがあると、習いました。ルディにとって死とはできる限り遠ざけておきたいものでしたが、この人達は自ら出向いていくのです。物語の英雄のように、守るものがあれば怖くないのでしょうか。
 サヒヤやエヴァのような、一筋の強さを思います。荒波にも苦難にもくじけず、海を渡りきった英雄は、きっとそれを持っていたでしょう。ではこの人も同じなのでしょうか。
 お嬢様は、静かに言いました。
「その英雄の首をはねたのは私だ」
 笑みは深さを増します。
「命をかけて正義を説き、その代償を支払った者もいた。死してこの世の地獄から救われるのだと言った者もいる。凛として断首台に向かった者もいた。大抵の者は泣き叫ぶ。矜持きょうじも忘れ、這いつくばって命乞いをし、糞尿を垂れ流しながら引きずられていった者もいる。呪詛じゅそを吐いて息絶えた者もいた。死後にはまた蘇ると信じた者もいたな」
 『楽しいひととき』の話です。一つ一つは遠い絵空事ではありません。この人の記憶であり経験です。顔を覚えていると言いました。いったい、どれほどの――
「私の体はそういうもので出来ている」
 と、手のひらを胸元に当てます。指し示すようでも、差し出すようでもありました。
「“死を忘れるな”。我らは常に死と共に歩いている。死神は馴染みの客だ。今さら奴が門を叩くのを締め出したりはしない」
 心臓が早鐘を打ちます。
 これは強さでしょうか。
 だとしたらこの強さは、いびつにねじれ、渦巻いています。中心に何もかもを引きずりこむ逆しまの嵐です。
 時に荒々しく引き裂くように。
 時に静かに忍びよるように。
 この人は、恐怖そのものなのです。
「先ほどの言葉を借りるなら、我らは死を売って歩いている。恨みつらみと引き換えにな」
 やがてその声は浮き立ち出しました。
「そうだ、その成果だ。考えてもみろ。心が躍るぞ。この世に私を殺したいと思うほど憎む人間がどれほどいるのか? 死の恐怖と人は言うが、ならばこれこそが生きる喜びでは? 私の首にいくらつけた? 幾晩、私のことが憎くて眠れない夜を過ごした? 幾日の間、“朗報”を心待ちにした? 今度こそはと思ったか? だがあいにく今も私は生きている。実に愉快だな」
 饒舌じょうぜつです。もはやルディは何も言えませんでした。はやる心臓を収めようと、胸に手を当てます。この人の前では天と地がひっくり返るようです。
 代わりのように、サヒヤが口をききます。
「お話になりませんね。快が不快に、不快は快に。聞いているこちらの頭がおかしくなりそうです」
「そうか? まあ楽しみは人それぞれだ」
 首をかしげたあと、お嬢様はソファに深く座り直しました。
「だがきっとこれだけは、だれしも同じ事を考えるぞ」
 細めた眼が赤く光ります。
「最も愉快なのは、その腹の中の企みを暴き、白日の下に引きずり出すことだと」


 二日後のことです。
 城の前に磔台はりつけだいが立てられました。
 そこに女の体が吊るされたとき、女はまだ生きていました。
 腹は切り裂かれ、そこから飛び出た内臓を、腐肉を漁る鳥達がついばみました。
 女の悲鳴は丸一日。
 むっとするような臭いは、それから数週間、腐った死体が片づけられるまで続きました。
 そして恐怖は、人の心の奥底に泥炭のように積もり、消えることはありませんでした。
 火を投げ入れられたら、激しく燃えさかるでしょう。