第六幕

   一 『母』

 ある日の午後のことです。
「だれか、母上のご加減をうかがいに詣でて来い」
 執務室まで侍女を呼びつけて、お嬢様はそう命じました。
 お嬢様にも、お母様がいたのですね――そう言いかけて、ルディは思いとどまります。ためらわれました。今までそんなそぶりが全くなかっただけに。
 強い風の吹く、とりわけ寒い日でした。
 魔術師の塔を抜けたさらに奥、とエヴァから聞きました。魔術師の塔は城壁の中ではあるものの、本館から離れた場所に立っています。使いで人を呼びに行ったことがありました。そこよりさらに遠くとなると、容易に人の目の触れる場所ではないでしょう。
 お嬢様のお母様で、城主様の奥様ですから、「奥方様」と呼ぶようでした。奥方様は体が弱くて、直接会うことはできないそうです。門兵がいるはずだから、奥方様の様子は彼に聞くようにと。
 ローブをはおって、吹きすさぶ風の中ルディは塔に向かいました。風が何もかも吹き散らしてしまうので、空は目まぐるしく様子を変えました。たまに雲間から光が射しこむこともありましたが、それでも空気は冷たいままで、厚い雲が太陽をさえぎっているときの風ときたら、身を切るようです。まだ春は遠いのでしょうか。
 途中、魔術師の塔を通り過ぎる際、魔術師の一団に会ったので、ルディは道を聞きました。皆一様に長いローブを着ているのですぐ分かります。『得体の知れない連中』と、他の使用人が話すのを聞いたことがあります。確かにルディから見ても、独特の雰囲気を持っていました。
 この塔の魔術師達の中でも高位の、魔術技官長という人に会ったことがあります。ベルスートに来てすぐ、エヴァに身体検査だと、身長と体重を測られ、目やら口の中やらを見られる機会がありました。その場に魔術師も居合わせ、新顔が珍しかったのか色々と話しかけられました。気さく――と言うよりは、陽気――いいえ、むしろ、落ち着きがないと言うか――とにかく、変わった人でした。ちょっとした受け答えに大げさに驚いて声をあげて見せたり、ルディがその声に怯えても構わず、一方的に話し続けたりしました。今考えればおそらく悪意はなかったのでしょうが、その時はひたすら身を縮めるしかありませんでした。浮き世離れしているとでも言うのでしょうか。彼女は特別としても――魔術師達はあまり他の人と関わろうとせず、魔術師だけで集うのを好むようです。
 レントウから習いました。この国ではまだ魔術というものは歴史が浅く、今の国王様が最初の魔術師の王様だと。それまで魔術はこの国で禁止されていたから、普通の人は魔術に馴染みがなく、また魔術師達は迫害を恐れて隠れ住んでいたそうです。
 奥方様は、その国王の娘ということでした。本当のお姫様です。そしてその血を引くお嬢様もまた、優れた魔術師なのだそうです。
 魔術というのは、魔法とは違うのかしら、とルディは不思議に思います。どうもこの魔術師達は、おとぎ話の中で聞くような、空を飛んだり、モップに命を与えて一人で掃除をさせたり、猫に姿を変えたりする魔法使いとは毛色が違うようでした。あるいは、似たようなことができるのかもしれませんが。
 そのようなことをお嬢様本人に聞いたことがあります。お嬢様もまた、普段の生活では魔術師らしいことを見せることはあまりありません。たまに、ふとした瞬間思い出す程度で。
「今から『アブラカダブラ』と唱えて、お前を宙に浮かせて見せようか」
 と、お嬢様は笑いました。ルディは身構えましたが、結局なにも起こりませんでした。
「同じだと言う者もいる。違うと言う者もいる。同じ事ができると豪語する者もな」
 帰ってきたのは曖昧な答えでした。ルディは首をかしげました。
「では問うが、お前は自分の足がどうやって動いているか知っているか? 意思の話ではない、その原理だ。お前が『足よ動け』と命じたとき、お前の体の中で何が起こっている? あるいは、お前が息を吸って吐くのはどんな作用をもたらしている? 心臓が脈打つのは何故だ? 流れる血の意味するものは?」
 思いがけない問いに、ルディは胸を押さえました。考えたこともありません。答えられると思っていなかったのでしょう、お嬢様はすぐに先を続けました。
「例えば呼吸によって人は、夜の間に月から降りてくる精気が空中にただよっているのを体内に取りこむそうだ。だがそんな原理など知らなくても、お前は生きていける。魔術も似たようなものだ。私達の感覚として魔術は確かにあるが、その原理は必ずしも解明され尽くしてはいない」
 なるほど、そんなものなのかもしれません。
「あるいは魔術と呼ばれるものは、もっと細分化されるべき別個の能力だと唱える人間もいる。似非えせ魔術師の存在がまた話をややこしくしている。市井しせいにあふれる自称魔術師などは大半がこれだ。歴史に名を残した魔術師や魔法使いの内の何人かですら、偽者か、あるいは別の能力の持ち主だ。
 そうでなくとも魔術師というのは個人主義で、秘密主義者の集まりだ。この国の歴史がそうさせた。数十年前まで魔術は禁止されていたからな。仲間内でさえ自らの手の内を進んで明かそうとしない。おかげでこの国では魔術の体系的な研究は、他国と比べて二十年以上遅れている。父上は無能力者としては大変理解の深いお方だ。早くからこの城に魔術師を呼び、公庫を割り当てて研究させている」
 ふとお嬢様は自分の言葉に、笑いました。にやにやと、面白がっているような笑い方です。
「この『無能力者』だの俗世だのといった差別意識も相当根深いぞ。その他の人々が魔術師達を毛嫌いするように、魔術師達もまた彼らを力無き者と軽蔑している。迫害を受けた歴史から、階級制度にも重きを置いていない。私でさえ彼らから見たら『半魔術師』だ。魔術師同士の間に生まれた者だけが真の魔術師だと。彼らは孤高を好み、他と交わろうとしない」
 そこで、お嬢様は笑うのをやめ、真面目な顔をしました。
「御爺様――国王陛下は、その中で革新的な大志の持ち主でおられた。政治中枢に組み入り、国令としての魔術の禁を解き、やがて王座を手にされたのだから。
 もはや時代が違う。孤高だけでは発展はない。魔術師にとっても、そうでない者にとってもな。魔術師とそうでない者の融和を進めるべきだ。このために、今は軍事への利用を重点的に研究させているが、その内のいくつかを、目に見える形で、民も恩恵を受けられるような成果にするべきだろうな」
 なるほどそれは立派なことだと、その時は思いました。しかし今になれば、結局魔術や魔法の正体については分からないままです。はぐらかされたような気さえしました。これこそが『秘密主義』ということでしょうか。魔術師達に教えられた小道を歩きながら、ルディは思い返していました。
 ほどなく、背の高い鉄柵に区切られた庭が見えました。首を振らなくても端から端まで視界の中に収まる程度、小さな空間です。視線をさえぎるようにして植えられた木立こだちの向こうに、低い建物が立っています。灰がかった白色の壁は、化粧しっくいというものでしょうか。もなくなめらかで、土色をした石がむき出しになった本館とは全く雰囲気が違いました。何と言っていいのか、飾りが少なく、重厚で、威圧感すら感じる本館と比べると、ところどころ美しく装われて、繊細で優美な印象です。かといって華美なわけではなく、上品で、落ち着いています。本城がいかめしい甲冑だとすると、ここは絹でできたすその長い寝衣しんいのようでした。
 お姫様の奥方様が身を休めるにはちょうど良い場所のように思えます。
 道から続く正面に、門扉もんぴがありました。周囲の鉄柵と同じ黒で、上の半円に盛り上がった部分には、金色に塗られた草花の装飾が絡みついています。
 しかし聞いていた、門兵はどこにもいません。
 近付いてみると、門はわずかに開いていました。中にいるのでしょうか。ルディはあたりを見回しました。風の中で耳を澄ませます。小鳥がせわしなく羽根を鳴らし、悲鳴をあげるのが、かすかに聞こえました。外の鳥ではありません。建物の中にいるようです。
 何か、起きているのでしょうか。
 不穏な空気を感じ取って、もう一度、たよれる人はいないかと首を回しますが、だれの影も見つけられませんでした。強い風は人のにおいも木のにおいも、何もかもをわやくちゃにかき乱してしまいます。
 この前の事が思い出されます。洗濯女中がお嬢様の寝室に忍びこもうとした事件です。
 会ったこともない奥方様。でも、体が弱くて外にも出られない、お姫様です。何か起こって一人でどうにかできるでしょうか。
 義務感に駆られて、ルディは一歩踏み入りました。門を抜けて、石畳の道が湾曲して建物の入り口まで続く、その上を進みます。
「だれか、いませんか……」
 木立の合間に人影を探しながら、扉まで行きます。こわごわとノブを回しても、開きません。鍵がかかっているようでした。
 小鳥の甲高い声が、右手の方から聞こえます。建物に沿ってぐるりと、ルディは回りこみました。
 小さな噴水にまず目が留まります。美しい模様の入った白い石でできていて、腰の高さほどに噴き上がる水がきらきらとしぶきをたてています。建物のこちら側はテラスになっていて、庭に降りられるようになっていました。ちょうど雲の切れ間から太陽が顔を出し、さんさんと降り注ぎます。可愛らしい、清楚な庭でした。冬だというのに、花壇に植えられた草木には花も咲いています。
 テラスに面した壁は一面がガラス張りになっていて、きっと天気がよければ、日の光をいっぱいに取り入れて、暖かでしょう。窓の向こうに金の鳥かごがぶら下がっていました。鳥の騒ぐ姿はありません。
 静かでした。水の飛び散る音ばかりが聞こえます。急に、自分が早まったことをしたのではないかと、ルディは思いました。
 何も困ったことなど起きていなくて、中で皆、お茶でも飲んでいるのではないでしょうか。だとすれば勝手に忍びこんだ不審者はルディの方です。
 元来た道を戻るべきでしょう。門の外で、だれか出てくるまで待っていればいいのです。
 ルディは振り返って、歩き出しました。ふと足元を見て凍りつきます。さっきは目に入らなかったもの――人の腕が、茂みの陰から伸びていました。力無く地面に投げ出されたそれは、籠手こてを着けています。守備兵と同じ。ここの、門番でしょうか。
 うしろから、風に紛れて小さな声がしました。はっと振り返ると、テラスへと踏み出す足と、長いすその端を見ました。
 視界がぐにゃりとゆがみます。めまい。今まで感じたこともないような。視界に白い壁が映り、木立、そして空。
 地面に倒れていました。頭が割れたように痛みます。
 梢が激しく揺れて見えるのは、風のせいか、めまいのせいか。
 何の音も聞こえません。
 胸が乱暴な脈動を始めます。息ができないことに気付いて、ルディはもがきました。指を一つ曲げるだけで、雷に打たれたような激痛が走ります。
 どれだけ喉を鳴らしても、新鮮な空気は送りこまれません。
 茨の海を泳ぐようです。指先から肩まで、動かした端から、くまなくとげに貫かれるような痛みの中、ルディは空に向かって手を伸ばし、宙をかきました。
 その先で、淡い紅色べにいろの髪が揺れます。人、女。血のような赤い眼が、ルディを覗きこみました。
 欠けた月のように、その眼は微笑んでいます。薄く開いた口元も弓なりにほころんで、あどけない子供のようでした。
 空をさまよう手の先で、笑う女の顔。
 いっそう強く風が吹いて、その長い髪を荒々しく乱しました。
 あえぐ喉がかろうじて息を吸います。それを吐き出す最中、一つの言葉が漏れ出ました。

「お母様」

 ――――あとで、思い返して。このときの、この言葉の意味は、自分でも分からないのです。
 あのとき見上げた顔は、きっとルディのお母様とは全く違うものだったでしょう。たとえ記憶の向こうにかすんだお母様の姿であっても。
 その人がだれだか、赤い眼ではっきりと確信しました。お嬢様と同じ色です。混じりけのない純粋な赤。では、お嬢様のお母様だからと、そう呼びかけようとしたわけでもなく。
 閉じこめられたお母様――
 長く伸びた髪を、わえることもできず――
 手を伸ばすルディを、笑って見下ろすその姿に――
 抱き上げてもらえるような、錯覚をしました。

「エルメイア様!」
 別の女の声が、静寂を打ち破りました。
「ああ、何てこと」
 駆けより、ルディの上半身を起こします。それから脇の下に腕を回し、その体を引きずりました。痛みを思い出して、ルディはうめきます。
 めまいの中、顔を上げると、奥方様は長い丈のドレスを風にはためかせながら、首をかしげてこちらを眺めているだけでした。
 鉄の門の外までルディを運び、すぐさま女は鍵をかけます。しばらく、ルディはその場に伏せたままでした。
 吐き気がします。ひどい痛みとめまいが続いていました。頭から胴体まで、手を差し入れられて、引っ掻き回されたようです。このまま死んでしまうのではないかと思いました。
 しかし、やがて、異変は徐々に引いていきました。指が苦なく動かせるようになり、ついで腕を、そして足を縮めると、ようやくルディは膝をつき、立ち上がりました。鉄柵を掴んで、よろよろと。
「……大丈夫、なんですか?」 
 女がためらいがちにたずねたのに、うなずきます。めまいはまだ消えていません。頭の芯を金槌かなづちで打たれるようなにぶい痛みも。しかし立つことができます。改めて、ルディは女を見ました。
 全身、細かな模様の縫われた服を着ていました。頭には目深まぶかにフードをかぶり、目や口でさえ、レースの奥に隠れています。
 奥方様にお付きの侍女だとその人は言いました。声を荒らげます。
「あんたがだれかは知っています。シェリー様の新しい侍女でしょう? 彼女に言われてここまで来たってわけですか?」
 ルディの答えを待たずに、女は先を続けます。苛々いらいらとした様子です。
「とんだ災難でしたね。今日は日柄が悪い」
「……奥方様の、お加減が?」
 『お母様』という言葉は、二度と出ませんでした。女は首を振ります。
「いいえ? 全くさっぱり、いつものとおりですよ。ここは始終こんな感じです」
 早口でまくし立て、それからルディに向かって、人差し指を振りながら迫ります。
「だから命が惜しければ、このことを絶対だれにも言うんじゃありません。だれにもっていうのは、あんたのお嬢様のことです。『奥方様はお変わりないようでした』と伝えなさい。惜しいのは私の命じゃありませんよ? あんたの命です」
 蓮っ葉な言葉づかいの中、顔をおおう微細なレースの向こうに真に迫るものを感じとり、ルディは身を固くします。まだふらつく足で、逃げるようにその場をあとにしました。


 長い小径こみちと、階段を通り、執務室に帰り着く頃には、足は、痛むものの支障なく動かせるようになっていました。報告のためにお嬢様の前に立つときも、おそらく不自然なふるまいはなかったでしょう。そうでなくても、普段だって、わけもなくおどおどとして、胸を張って立っているわけではありませんから。
「母上のお加減はどうだった?」
 しかし、いざそう問われると、ルディは口ごもりました。女の言葉を思い出します。
 お嬢様は、ルディをじっと見つめました。その眼が次第に見開かれます。一瞬、わずかに揺れました。
 初めて見る顔です。驚きと、ともすればわずかな恐怖を。あるいはうれいや恋しさを、複雑に行き来します。
 お嬢様はルディから目を離すことなく、椅子から立ち上がり、歩みよりました。
 『命が惜しければ』――――恐ろしくて、足がすくみ、ルディはへたりこみました。
「ごめんなさい」
 腰が抜けて、力が入りません。伏せた顔を両手でおおって、ただ謝ります。
 震える肩に、お嬢様の手が置かれました。はっと顔を上げた瞬間、眼が合います。もの悲しさをたたえた双眸そうぼうは、孤独に立つ子供のようでした。
 視線が絡み合ったのは一瞬で、お嬢様はルディの前に膝をつき、身を屈めました。その薄い胸に、額を当てます。
母様かあさま
 つぶやきは、窓を揺らす風の音にかき消えました。


 夜、エヴァの元へ行き、その日起こったことを話しました。すべてではありません。お嬢様に言われて奥方様を訪ね、激しいめまいに襲われたこと。そして帰ってきたとき、お嬢様の様子が普段と違ったこと。それがどんな意味を持つのか、聞きました。
 ルディが奥方様に自分のお母様を重ねて見たことや、お嬢様がルディに触れたことなどは、言うべきではないように感じられました。
 あのあと、お嬢様は少しの間ルディの胸を顔を埋めていましたが、やがて立ち上がると、何も言わずに席に戻りました。ルディの胸にだけ、とらえようのない余韻を残して。
 エヴァの顔に、わずかに動揺が走ったのは確かです。ルディを見つめる視線はそのままに、眉をひそめます。少しの間考えて、彼女は話し始めました。
「魔術師には生来的に、魔力を感知する能力が備わっているそうです。魔術師とその他の人間に解剖学的な違いはまだ見つかっていませんが、おそらくは視覚や聴覚と同じ種類の、知覚の一種と考えられます」
 ルディは初めて知る事実でした。魔術師ではないエヴァにしても、自身の感覚ではないはずですが、人の体に関しては彼女の専門分野です。よく調べてあるのでしょう。何とはなしに、自分の鼻が良く利くのと同じようなものかしら、と思います。
「魔術を行使した際には、魔力の残滓ざんしが残ると聞きました。術者や術式、内容によってその痕跡の内容は変わるそうです。特に、術者の特徴は明確に残ると。…………お嬢様は貴方に、奥方様の魔力の残滓ざんしを感じ取られたのでしょう」
 ああそれで、と、お嬢様の反応に納得が行きました。お母様の面影を見て、懐かしいような、恋しいような顔をしたのです。しかしすぐにはたと気付いて、心臓が跳ね上がります。
「それじゃあ……奥方様は……僕に、魔法をかけたのですか?」
 あの激しい頭痛やめまいは奥方様の魔術だったということでしょうか。すすべもなく、体の自由が利かず、死ぬのだと思いました。ではその魔術の内容とは、目的とは、いったい何だったのでしょうか。
 エヴァは深く眼を伏せ、何も答えませんでした。


   ***


 数日後、ルディは再び奥方様の離れへと向かっていました。門の外には、今度こそ一人の兵士が立っていました。槍を持ち、背筋を伸ばしてます。
 ルディが聞くと、すぐ、中から侍女が呼ばれました。相変わらず顔は見えませんが、前と同じ女のようです。ルディを見て声をあげました。
「ああ、あんたですか。この間はあんたにあたって悪かったですね。あんなことがあったもんで、焦っていました」
 いくらか落ち着いた様子です。女は兵士に声をかけ、彼にこの場を外させました。
「それで、今日は? またエルメイア様のお加減うかがいですか?」
「いいえ……」
 お嬢様に命じられたわけではなく、ルディは自分の思いでここまで来ました。
 女が意外に思った様子はありません。疑問に思ったというより、確認するか、あるいは牽制けんせいするための問いかけだったのでしょう。すぐさま、次にルディが口を開くより早く、言いました。
「ここは、オブリード様にとってもシェリー様にとっても、いっとう重要な場所です。用もなく近よれば、首の保証はありませんよ」
「あの、聞きたいことがあって……」
 前に同じようなことを言われましたが、お嬢様は何もしませんでした。その経験がささやかな後押しとなって、ルディに先を続けさせます。
「奥方様は、ずっとここにいるのですか?」
「そのようですよ」
「いつから?」
 ルディは先日、初めて、奥方様がこの城の中にいることを知りました。それまで奥方様の姿を見たことすらありません。食卓に着くときでさえお嬢様は一人で、お客様を招いての会食にも、その隣にだれかが座ったことはありません。
 城主様は、病気で、近くのシェーデンボレイ城にいることは前から聞いていました。お嬢様も再三、そこを訪れているようです。けれど奥方様の元へは、お嬢様は侍女を使わすだけでした。離れとは言っても同じ城壁の中、歩いていける距離です。シェーデンボレイよりよほど近いというのに。
 女は、答えてよいものかどうか、考えているようでした。ややあって、言いはばかるように、声をひそめます。
「……エルメイア様は、シェリー様をお産みになったことでお体を害して……もちろん、あたしもそんな昔にはここで働いちゃいませんけどね。そのときからって話ですよ」
「お嬢様は、ここには来るんですか?」
 女は片手をひらひらと振って、突っぱねました。
「あんたをよこす意味が分かるでしょう? ここには来られません。だれもね」
 ああやはり、とルディの胸が痛みます。お嬢様の額を受けた部分です。
 独りぼっちのお母様。独りぼっちのお嬢様。
 ぐるりと取り囲む鉄柵を見上げます。手を伸ばしても、おおよそ届かないような高さまでそびえています。まるで鳥かごのようです。
 門の鍵は、外からかけるようになっていました。




   二 『不在』

 年が明けて、まだ雪の深く残る中、その人達は出かけていきました。
 大勢の人々です。
 ベルスートに本拠を置くホーゼンウルズの常備軍百人を筆頭に、徴兵八百人余り、傭兵数百人、近衛兵六十人と、魔術師十人、多数の使用人達、そして、彼らすべてを束ねる、ホーゼンウルズの姫君その人です。
 合わせれば兵士だけでも千を超え、それは一つの町を、男も女も、年よりも子供も、全くもぬけの殻にするくらいの数だそうです。町から伸びる人々の列は、長くその尾を引きました。ベルスートに集まっただけでもその数ですから、道中で各地の小隊と合流すると、従軍する人は倍までふくれ上がということでした。
 東の国境は不安定で、常に大小の戦闘が続いているそうです。国境付近の山々はいまだに雪と氷に深く埋もれていますが、それが解けると戦争が始まります。今年はことさら早く、相手の油断を狙って進軍するのだと。魔術によって、毛皮よりも温かい服が作られたと、噂に聞きました。
 春になると、農夫は種をまきますが、この人達は戦争に行くのです。
 毎朝、近衛兵が集まって訓練をしていた中庭は、とても静かになりました。いつも窓から見えていた姿がそこにはなくて、兵達のざわめきや、剣を交える音、かけ声も号令も聞こえないのは、不思議に思えます。建物に囲まれた中庭ですから、そこには元々何もないのが当たり前だというのに、ぽっかりと穴が空いてしまったように感じられました。
 この戦争は必要なものなのだそうです。領土を広げ、国境を安定させれば、ホーゼンウルズ辺境伯領やこの国はもっと豊かになります。彼らが毎朝訓練をしていたのは、戦争をするためです。だからきっとこれは、良いことなのでしょう。
 ベルスート城には、出立しゅったつの直前に、城主であるオブリード様がシェーデンボレイから戻りました。まだ病気は治っておらず、人前にほとんど出ないことと、別の侍従が仕えていることから、ルディなどは遠目にちらりと姿を見ただけで、個別に接する機会は全くありませんでした。年は五十を過ぎていると聞きましたが、黒髪は豊かで、肩を越えて伸びていました。少し痩せて見えたのは、病のせいでしょうか。だからといって眼光の鋭さには全くそうと感じさせる部分がなく、離れていても身がすくむ思いがしました。
 サヒヤは人々がって数日後、自分も旅支度をして出かけて行きました。母親の所へ行くと。母親は、今はベルスートから一山越えた町に身を落ち着けていますが、そこはサヒヤにとっても母親にとっても故郷ではなく、元々彼女達は、色々な土地を転々としてきたそうです。だから旅も慣れたものだと、前と同じように、部屋をがらんどうにして彼女は出て行きました。
 ルディは一人、城に残されました。レントウの元へ通う時間は増えました。しかし彼には彼の仕事がありますから、一日中入りびたるわけには行きません。午前は、他の部署を手伝うように、エヴァが話をつけてくれていました。
 行軍にはもちろん彼女も随伴しました。侍女としてではなく、医術士として。それこそが彼女の本来の職分でした。数人の助手と、荷馬車にいっぱいの薬や道具を詰めて行きました。
 使用人の中には、軍隊に徴用された者もたくさんいます。鍛冶職人から料理人、馬丁ばていや荷物を運ぶ雑用夫など。さらに、騎士や兵士を初めとして大勢の人が城から出て行ったわけですから、例えば彼らの食事の準備だとか、掃除、洗濯やらの仕事はぐんと減って、ひまを出された使用人も大勢います。彼らの穴を埋める――とは名ばかりで、ルディは様々な職場に行っては彼らの仕事について教えてもらったのでした。
 銀器の磨き方や、木床の拭き方、ほころびの縫い方。庭木の剪定、薪割り、馬の世話。女の仕事も男の仕事も同じように学べるのは、ちょっとした役得だなと思いました。この頃には、いくつか私服を持っていました。ルディに私服が一枚もないのに同情した他の使用人達から、着れなくなった自分や子供の服だの、お下がりを貰う機会があったのです。男の物も女の物もあって、あまり作業に向いていない侍女服の代わりにそれらを着ていました。
 仕事というほど改まったことではなくても、常識というのでしょうか、普通の人が日常の中で身につけているようなことにもまだまだ知らないことが多くて、このときの、多くの人に関わることで得られた経験はずっとあとになるまで役に立ちました。パンが何からできているかだとか、荷物のくくり方だとか、安くて良い品物の見分け方だとか、税金のことだとか、他の人にとってはなんでもないことすべて。
 物事はなんて上手くできているんだろうな、とそのたびに感心します。それは元々そうなっていたというわけではなくて、積み重ねた経験と、だれかのひらめきや発見からできあがったものです。
 本当に、分からないことが多くて、
「いったい今までどうやって暮らしてきたんだ?」
 と呆れられたこともありました。
 あれはきっと“暮らし”ではなかったのだなと思いました。
 あの家で、独りで、物陰に隠れ、足音に怯えて、ただ生きていただけです。死ななかったというだけです。暮らすとは、豊かに生きることです。それは、贅沢ぜいたくをするということではなくて、日常を工夫して、楽しみを見いだし、より良く生きるということです。身の回りをこぎれいに保ち、人と関わり、困難を分割することです。
 あの家ではとうとう得られることのなかったものです。そこを笑われて、恥ずかしい思いをしました。みじめな気分になりました。それでもくじけなかったのは、お母様のことがあったからです。
 お母様は家から出ることも許されない生活の中で、せめて心だけは豊かにと、たくさんのお話をしてくれました。笑いかけ、頭をなでて、抱き上げてくれました。愛されていたのです。記憶の向こうにかすむお母様の面影を思い出すたびに、その実感を少しずつ取り戻していました。
 今なら、何故お母様とルディが閉じこめられていたのか、想像することができます。ルディにはお父様がいませんでした。おそらく、お母様は結婚しないままルディを産んだのです。あの家は、あの町の中ではいっとう大きな家でした。おじい様もおばあ様も、その息子や娘もそれを自慢にしていました。だから、お母様のしたことは許されなかったのです。
 父親のいない子供のことを、ルディがそうとは知らずに、他の人がさげすむのを聞いて、胸が痛みました。結婚をせずに産まれた子供のことを、私生児と呼ぶそうです。思えば、あの家で言われていたのは似たような言葉でした。でもお母様は一度もルディにそんな言葉は使いませんでした。
 だから今になって、ただ想像するだけです。どうしてルディにはお父様がいないのか、昔は疑問すら持ちませんでしたから、当然、お母様に聞いたことはないのです。そして今となってはもはや、答えを知る人はだれもいません。
 日々は相変わらずせわしく、そして冬の寒さの中ですから厳しくはあるものの、穏やかに過ぎていきました。今日はどんなことを命じられるかと不安になることも、突拍子もない要求にどうやって応えればいいかと頭を悩ませることも、夜が来るのを恐れることもありません。
 夜は自分の部屋で、ろうそくをともして机に向かい、その日一日教えられたことをじっくりと思い返します。小さな帳面を手に入れたので、覚えたばかりの文字で、書きつけてみたりもしました。そうでなくとも安くて質の悪い、ざらついた紙の上に、さらにたどたどしい筆致ひっちが並びます。
 チシャ――緑と茶色の葉――食べる
 ていてつ――馬のはき物――ひづめ――かじ屋
 毎日、それは少しずつ増えていきました。単語ばかりの書付かきつけを見返すとき、頭の中で文章にしてみます。
 チシャとは――緑と茶色の葉っぱの植物です――食べることができます
 蹄鉄ていてつは――ひづめに着ける馬の履き物です――鍛冶屋がこしらえます
 今日は、染み抜きの仕方を習いました――染みの種類で、使う洗剤を変えるんです――中には強い薬もあって、扱いが難しいんです――
 ワインの樽を見せてもらいました――地下に置いておくんですね――赤いワインと白いワインがあって――赤いワインは、外国から来たものだって――
 気付けば、今日起こったことを、胸の中で語ってみせる自分がいました。何のためかと考えて、ああそれはだれのためだと、思い当たって、ルディは帳面から顔を上げました。目の前の壁を、通り抜けてその向こうを見つめます。
 毎晩、ルディの経験したことを聞いてくれる人がいました。
 胸に手をやります。ろうそくの灯が揺れました。
 長い長い不在になると聞いています。
 戻る頃には、春が終わっているでしょうか。


  ***


 夜になって、ルディはその部屋を訪れました。鍵を使って、扉を開けます。使う人のいないそこは、冷え切っていました。
 手には、その部屋の主の上着を持っています。出立しゅったつの前日、城内ではおごそかな壮行の席が設けられました。そのときに着ていたものでしたが、夜脱いだときにはもう、前のボタンが一つ外れていました。小さい物で、どこで落としたか分かりませんから、そうそう見つかるものではないでしょう。しかし銀の台座に虹色の七宝焼きエナメルが散りばめられた、ため息の出るような出来のそれを、簡単にあきらめる気にはなれませんでした。
 執務室と食堂と廊下と、歩いて、掃除女中達にもたずねてみました。しかし、こんな物です、と上着に残ったボタンを見せても皆、首を横に振りました。軍隊が出発した前後はだれもが何くれとなくいそがしくしていましたから、今さらになって覚えのある人はいないようです。ルディも上着を洗いに出そうとして思い出すくらいでした。ひまを出されただれかが、拾って、くすねているとしたら、それはもう分からないことです。
 ふと、その疑いは自分にも当てはまることだなと思い至ります。この小さな七宝焼きエナメルのボタンに限らず、衣装室から上等な毛皮の外套がいとうやら絹のシャツやらを持って逃げ出すことが、ルディにはできました。さすがに、とりわけ価値のありそうな、金の鎖の付いた懐中時計やら、宝石の付いた短杖やらの入った宝石箱の鍵は、使用人頭に預けられているのですが。
 エヴァはサヒヤに、サヒヤはルディに、衣装室や寝室の鍵を託しました。鍵を預かることに、不安はありました。しかし同時に認められたようにも感じて、ひそかに心が浮き立ったのは事実です。信頼、などと都合のいい言葉が、自分に値するとは思いません。悪さをする風ではないと見てもらえたなら、それで十分でした。たとえあなどられていたとしても、仕方のないことです。
 ルディには行き場がありませんから、逃げる心配もないと思われたのでしょうか。その通りでした。いまだに物を一つ上げ下げするにも人の顔色をうかがうほど小心ですから、大それたことをしでかす勇気もないと判断されたのでしょう。
 しかし、いやしいことを考えるようにはなったな、と自省します。だれかがボタンを盗んだのかもしれないだなんて。以前なら思い付きもしなかったことでしょう。
 知るとはそういうことのようです。良いことばかりを選んで知ることはできません。悪いことも同様に、耳に眼に、入るのです。だれそれの持っていた菓子を一つ失敬してやっただとか、だれそれの家族が女に騙され金を巻き上げられただとか、ちまたの若い娘をねらった誘拐事件だとか、人の口からは次々にそんな話題が出てきます。
 だれかを思い浮かべて疑っているというわけではないのですが、そんなことをする人間がいるかもしれないと、発想する程度には、世の中の悪事について聞き知っていました。何となく暗い気持ちがします。
 ともあれ、これでしまいにしようと、ルディは寝室を訪れました。休むほかに、着替えをしたり、特に親しい人を招き入れてくつろぐ部屋です。ベッドと鏡台、クローゼットと書き物机、ソファに低いテーブル。手にしていた上着はひとまずベッドの上に置きます。部屋の中は、主人が不在となったその日に掃除してありました。サヒヤも一緒でしたから、すみずみまでちり一つ落ちることなく、と言い切れますが、それでも念のためにと。もう一度、ろうそくをかざして見て回ります。暗闇の中で、きらりと照り返すものはないでしょうか。
 ソファの下も鏡台の足下も、時間をかけて入念にあちこち調べましたが、どこにも見当たりませんでした。最後に、ルディは天蓋の付いたベッドに目をやりました。
 以前、その下に手袋の片方が落ちていたことがあります。体ごと入りこむことは無理でも、腕が入るほどの隙間が空いていました。ろうそくを床に置きます。床すれすれまで垂れ下がったカバーをめくって、覗きこんでみます。目をこらしても、何も落ちていないようでした。
 ため息をつきます。
 その拍子に、絨毯じゅうたんのにおいが鼻をくすぐりました。毛のにおい、土、砂、泥のにおい。
 ああ、とルディは思います。
 頬がほのかに熱くなります。眼を閉じて、自分の体の変化に感じ入りました。動揺はなく、どこかで、こうなることは分かっていたようです。そうでなければ、夜中ほどさがし物に向かない時間はないでしょう。
 しばらくのためらいがあったのは、行為の是非を考えたからではなく、どのように先を進めるか迷ったからでした。ろうそくに背を向けて、絨毯じゅうたんの上に横向きに寝転びます。体の動きに合わせて、首から下半身につながった鎖が揺れました。
「ん――」
 喉が鳴ります。
 すり合わせたふとももの間で、ペニスはゆるく隆起りゅうきしていました。わざわざスカートをめくって、目で確かめなくても分かります。スカートの内側にこすれる感触が、頭の中をかき乱しました。
 両手を、そろそろと下半身に伸ばします。スカートのすそをつかんで、押さえつけます。するといっそう、こすれ合う部分は大きくなりました。
 いまだにそこは、勝手に触ってはいけない場所でした。触るのは、浴室できれいにするときだけ。
 スカートでそこを包みこむようにしながら、体を内側に丸めます。ふとももに睾丸が当たりました。わざと腰を沈めて、その刺激をより深く受けようとします。
 まだここに来て間もない頃、ある朝、目が覚めたその瞬間に――射精をしたことがあります。何か激しい感覚に突き上げられて、はっと目を開いたときにはもう始まっていて、射精しているのだと自覚したのは、終わりかけた頃でした。何かとても生々しい夢を見た感触だけが頭に残っていて、ことはすべて夢の中、ほとんど無意識の内に起こったようです。
 味わったのはまさにその瞬間と、あとに続く余韻だけでした。余韻にひたる少しの間、夢の内容を思い浮かべていました。しかし濡れた寝間着ねまぎが肌にべっとりと張り付くのを意識した瞬間、それは霧散むさんしました。
 あとには激しい罪悪感に襲われ、だれにも気付かれないように、寝間着ねまぎを洗いました。
 そのときと同じ姿勢をとります。
 刺激のせいか、それともその出来事を思い出したせいか、ペニスはほとんど真上まで起きあがっていました。あのとき見た夢はどんなだろうか、と考えます。覚えていなくていいのです。たいてい夢の中ではすべてがめちゃくちゃで、あとから思えばなんて荒唐無稽こうとうむけい厚顔無恥こうがんむちなのだと呆れるようなことばかりですから。ただ、今、空想にふけるための口実が必要なのです。
 きっとこうしていただろうと、頭を絨毯じゅうたんにこすりつけます。よく知った感触でした。折り曲げた体とふとももの間でペニスが揺れます。
 絨毯じゅうたんのにおいを確かめて、ルディは舌を出しました。いつも、汚した分だけ自分できれいにするよう言われます。短く固い毛が密集した表面をなめます。思いがけない量の唾液があふれて、しみを作りました。口をつけて、吸い取ろうとします。
「あっ」
 ペニスが跳ねて、再び、開いた唇の間から唾液がこぼれ落ちました。夢中で、吸いつきます。
 不手際を責められるでしょうか。だらしがないと言われて、靴の裏で口をふさがれるでしょうか。
 こういったことの行われた、最後、、の夜を思い出します。それは出立しゅったつの前夜ではありません。少し前です。
 つ前の夜に呼ばれたのは、ルディではありませんでした。それはきっと、だれにとっても大した問題ではありません。むしろ痛めつけられなくて済んだのですから、喜ばしいことではないですか。そう思うのに何故か、喉からせり上がるような思いがありました。
 それに応えるように、あるいは押さえこむように、右手の人差し指を舌の上に当てます。あちこち触った指はほこりと汗の味がしました。すぐに中指と、いで薬指を足します。口の中は自分の指でいっぱいになりました。
 ペニスの下に、普段はぶら下がっている睾丸が――射精の直前には、根本に向かって縮み上がる仕組みになっている、らしいのです。逆に言えば、そこが縮まらなければ射精できないということで――最後、、の夜に、そうされました。
 あお向けに寝転がった状態で、かかとでペニスの根本を押さえられたのです。さえぎられて、睾丸は上がることがでません。足先はみきを踏んで、先端をねじりつけていますから、たまったものではありませんでした。筋の裏を通るピアスが、踏みつけられると、直接内側の一番敏感な部分をこすります。ルディは喉を反らして悲鳴を上げました。
 何度も、体の奥は精を放とうと引き絞られるのですが、最後の一打が来ないのです。もどかしくて、切なくて、気が狂うかと思いました。先から出るのは色のない粘液だけで、それはほとんど飛び散るような勢いでしたが、絶頂の瞬間にはとてもかないません。
 喉を枯らすほど声をあげて、やめてほしいとルディは懇願こんがんし続けましたが、それが叶えられないと悟ると、ただ歯を食いしばって耐えました。地獄のような一時ひとときでした。
 やがて、飽きられたのか、責め苦は唐突に終わりました。汗ばむ肌も、らした背中も、跳ね上がろうとする下半身も、すべてを押さえこむ力は一瞬で消え去り、そのままで宙に放り捨てられるように、解放されたのです。限界まで引き絞られた体は空気を求めて、大きく口を開けました。その瞬間、口の中に固い物を突きこまれました。
 その衝撃で、射精しました。精液は音がたつかと思うほど勢いよくほとばしり、あたり構わず飛び散ります。長く押しとどめられた分だけ、脈動はくり返し、果てしないかと思えるほど続きました。床に打ちつけられた頭は、しかしとろけるほどの快楽にさらされて、痛みすら甘く感じられるほどでした。その中で、無遠慮に口を侵す物が、革と土と汗と、その他大概たいがいの不浄なものを混ぜ合わせた味とにおいで、靴のかかとだと理解し、必死で舌をあてがいました。喉にせまるのではないかという恐れの中で、最初はそれを押しとどめようと、次第に、下半身の絶え間ない脈動に浮かされて、むしゃぶりついていました。
 それと同じように、自分の指に吸いつきます。ああ、なんてことをしているのだろうと、思えば思うほど体の芯に力が入りました。
 ここへ来て、色々なことを知って、その中には良いことも悪いこともあったはずだけれど、覚えたのは悪いことばかりではないでしょうか。いけないことだと、無様ぶざまだと、止めようとする理性を頭のすみに追いやります。
 夜が来たから仕方のないことだと、罰を与えるのだ、と自分に言い聞かせる言葉は次々と変わりました。
 ああそうだ、これは罰だから。
 怖々こわごわと、左手を体のうしろに回します。
 あの、、三晩が終わって、忘れようとした感覚です。スカートの上から尻の丸みをなでさすります。やがて左手は、体幹の真下に行き当たりました。スカートをたぐりよせて、しかし直接触れるのはためらわれ、シュミーズ越しに、そこの穴に触れました。ぞくぞくと、違和感が背筋を駆け上がります。
 ぴんと、胴体と脚の間でペニスが張りつめるのが分かりました。
 ああこれだ、と察して、シュミーズすら取り払い、中指の先を穴に押し入れます。
「ぁふ――っ」
 痛みとおぞましさに、口に入れたままの右手を噛みます。全く別の生き物であるかのように、左手は素早く指の数を増やして、奥まで侵入しました。するのもされるのも自分自身と言えど、両方にとって初めての感触でした。人差し指と薬指を足して三本の指が、穴を押し広げ、内壁をかき回します。布越しにも、ひどい臭いが鼻につき、吐き気がしました。こらえていると、涙がこぼれます。それをかき消そうと、ルディは夢中で右手を吸いました。
 自分の手で届く範囲には限りがあります。左手は穴の内の、入り口あたりをかき回す程度でした。せめてとばかりに思い切り爪を立てると、予想以上の痛みが身の芯を切り裂きます。ペニスが激しく前後に振れました。下腹部とふとももに自身を打ちつけます。
「は、あっ……!」
 いっぱいに頬張った指の隙間から、思いがけず大きな声があがりました。
 聞く人はだれもいないから――でももしだれかに聞かれたら――
 二つの相反する感情の間を揺れ動きながら、ルディは指を唇でくわえこみます。口を閉ざしながら、喉を鳴らしました。
「んっ、んぅ……んっ……んっ」
 声をあげるたびに、ペニスの振れ幅は大きくなるようでした。勢いをつけて、腹や脚に打ち当たるたびに、粘液がこぼれ落ちます。
 もう一度、穴の中に爪をたてます。
「ん――――っ!」
 全身が鞭打たれたように跳ね上がります。穴は、指をきつく締めつけました。
 そんなことを何度、どれくらいの間、くり返したでしょうか。
 いつまで待ってもそのときは訪れず、やがてルディは指を動かすのをやめました。疲れた指を、上からも下からも引き抜きます。
 どれほど自分で自分を埋めようとしても無駄なことでした。けっして満たされることはありません。
 ぐったりと身を横たえる内に、熱は去り、てつく寒さが這いよりました。
 のろのろと起き上がります。まず、部屋を出て、手近な水場で手を洗いました。朝の内に井戸からくみ置いた水は冷たく、針のようにルディを責めます。
 それからまた寝室へ戻ると、にわかに罪悪感が湧き立ちました。手を清めたところで自分のしたことが洗い流せるわけではありません。だれも知らなくても、跡が残らなくても、他でもない、自分自身が知っています。なんて浅ましいことをしたのかと、今さら悔いて見せても、罪の意識は心の中で黒く厚い雲となって、ひたすら重く垂れこめていました。
 しかし、と思います。
 だれもいない部屋で――涙が、あふれて来たのは、そのせいでしょうか。犯した罪の重さに、恐れおののいているのでしょうか。
 では、ベッドの脇に力なく膝をついたとき、脳裏に浮かぶ言葉は、謝罪であるべきでしょう。頭をこすりつけて、だれともなく許しを請うべきでした。
 そうしなかったのは、涙の理由が、この上なく自分がみじめで、哀れだったからでしょうか。情けなさに泣けてくるのは、今まで何度もあることでした。
 その涙はこんなにも、心の奥深い所からあふれてくるものでしたでしょうか。
「う――ふっ……」
 嗚咽が喉からせり上がりました。
 胸にぽっかりと穴が空いていて、そこからとめどなく涙が湧き出し、止まらないのです。
 中庭のように、元々空いていた穴でしょうか。それとも新しく空けられた穴でしょうか。この城に来てから、いくつも空けられた穴の内の一つでしょうか。どれにせよ、埋まっていたはずの場所でした。それが退いて初めて、穴が空いていると、気付きました。いびつなまま、固まっていて、あばかれた今は痛むのです。
「うっ……うぁっ……あっ……」
 嗚咽に混じって、喉から突いて出ようとする言葉がありました。卑しい空想の中でさえ、わざと浮かべないようにしていた言葉です。そして今もまた、喉から出ようとするたびに押しとどめます。
 叶うはずのない願いのようなものですから。口にすれば余計にむなしくなるだけでしょう。
 すがるように、ルディはベッドの上に置いたままの上着に手を伸ばしました。知った匂いがします。
 胸の穴をふさぐように、かたく握りしめました。