第七幕 『帰還』

 庭園の低木に、赤い花が咲きました。冬の終わりに咲く花だと人から聞きました。黒々とした葉の中に、あざやかな赤が目立ちます。
 家にいたとき、同じ花を見たことがあります。庭に植えられたそれが、何度、咲いて散るのを見たでしょうか。一度――二度――と記憶の中で数えてみて、しかし、無駄なことでした。お母様がいなくなってから、庭に出るようになり、何回か――。数えきれないほどではなく、覚えきれるほどでもなく。悠長ゆうちょうに花を眺める時間はなく、それを書き付けるようなすべも知りませんでした。
 自分の年を数えてみようと思ったのです。ルディは自分の年を知りません。あの家では教えてくれる人もいませんでした。城に来た当初、体の具合から十四くらいだろうと見当をつけられました。しかし、ろくに食べてこなかったのだから成長していないのも当たり前で、本当はもっと年をとっているのかもしれません。
 十四というのは、手頃な年を言われたのだろうなと、次第に理解しました。周りの人々を見てみると、大人でなければ子供でもない――幼稚であることはできないものの、完全な大人ではないからとまだ許される、そんな年頃のようです。
 女であれば、もう嫁いでいてもおかしくありません。とは言え、まだ親元にいることも少なくなく。女中などに働きに出る場合、嫁ぐのはこれより遅くなることもあるようです。
 男の場合、だれかの徒弟とていになるのに十四が早すぎるということはないでしょう。近衛兵に仕える小姓こしょうの一人は、同じ年頃ですが、十になる前にはこの城にやってきたと聞きました。しかし彼らが一人前の職人や騎士として認められるのは、まだずっと先のことです。結婚が許されるのも正式な処遇を得てからでした。
 突如として現れた、子供ほどに無知な人間をどう扱うべきか、人々も考えたのでしょう。結果として、十四という、大人と子供の狭間の年を与えられました。
 冬から春へと向かう合間の季節を、ルディは自身に照らし合わせて見つめました。
 この頃、城の裏手の林から、しきりに高い鳴き声が聞こえました。獣か鳥か、どちらにせよ心の通じない相手だというのに、いかにも恋しげなその声は、聞く人の心を揺さぶりました。冬眠から目覚めた狐の仔が母狐を呼ぶ声だ、と言う人もいれば、きじの雄が雌を求めて恋鳴こいなきをしているのだ、と言う人もいました。まだ根雪の残る林を覗いてみましたが、それらしい姿は見えませんでした。
 雪がとけ出し、次第にその声も聞こえなくなりました。結局正体は分からずじまいです。春を告げる渡り鳥と共に、知らせが届きました。それはいの一番に、城主であるオブリード様の元へ伝えられました。そしてラッパの音が鳴り響きます。低く、高く、長く、長く。
 ベルスートの軍が敵を見事に打ち破ったというのです。城の中で、わっと声があがりました。ある者は涙を流し、ある者は肩を叩き合い、喜びを分け合います。ベルスートの町の、あらゆる鐘が打ち鳴らされました。公示人こうじにんが城から走り出ます。先走った人々の口に立ちのぼる言祝ことほぎと同時に、街角で声を張り上げました。
 ベルスート軍は厳しい雪中行軍を見事に成し遂げて、敵の部落を強襲。これを制圧し、敵の首長を生け捕りにした、と――
 早馬はやうまは数日ごとに、軍隊の帰路を知らせました。行ったときと同じほどの時間が経ちました。その間に、ベルスートの通りに面する家々は、ホーゼンウルズ辺境伯領の赤い旗を窓に飾りました。いよいよ軍隊が、ベルスートから半日ほどかかるヴォリカテルトの砦にたどり着き、明日にはベルスートに帰城するということになると、城内はにわかに活気づきました。ひまを出されていた者達が雇い戻され、兵士達を迎える準備をします。城内をすみずみまで掃き清め、天井のすすまで落とし、庭の木を刈りそろえ、花を飾り、たくさんのご馳走をこしらえます。
 それを手伝いながら、ルディの胸の内には複雑な思いが渦巻いていました。どんな顔をして、迎えればいいのでしょうか。他の人のように手を叩いて喜ぶほど、戦争での勝利が自分に何をもたらすか、実感はありませんでした。
 年の近い女中の一人に聞いてみると、
「難しいことはあたしも分かんないけど。でも勝ったんだから、負けるよりは良いでしょう?」
 意外と気楽な答えが返って来ました。そして彼女は頬を染め、笑います。
「兄さんが軍隊に入ったから。会えるのが楽しみ」
 そう、皆、行った人が帰って来るのを、待ちわびているのです。
 ルディにとっても同じことだろうと、彼女は言いました。曖昧に、ルディはその言葉をやり過ごします。
 胸に手を当てると、心臓がわずかに早く、脈打っていました。喧騒けんそうから取り残されたルディが抱くのは、正直に言えば、不安です。あの夜に、一人で犯した罪が、忘れようとしていた後悔が、再び重くのしかかりました。頭の中で赤い眼を思い描いて、それだけで、心臓が止まりそうになります。そのまなざしが恐ろしいのか、それともとがめられることが怖いのか、自分でも分かりません。
 そしてそれだけではないことに気がついていて、余計に心が休まりませんでした。体は、あわい期待を抱いています。頭の中にちらちらと、ろうそくの炎のようにその幻想が現れ、体に熱をもたらそうとします。他の人が指示するままに手と足を動かして、頭の外へ追いやりました。
 夜が来て、明けて、昼になり、そしてラッパの音が高らかに鳴り響きます。わっと歓声を上げた若い女中の数人が、女中頭じょちゅうがしらの苦言も聞かず、バルコニーに駆け上がりました。その一団に巻きこまれて、背中を押され、ルディもベルスートの市街を見下ろします。
「ほら、あそこ!」
 一人が指さす先で、街をぐるりと囲む壁の、正面門がのろのろと大きな体を滑らせました。その向こうから、兵士達の一行が姿を現します。先頭を、の長い旗を高々と掲げた騎馬が歩きます。遠くかすむその旗はきっと青色でしょう。軍隊を率いる人を表す色です。
 銀色の鎧を着て馬に乗った一団がそのうしろに続きます。彼らが一様に胸を張り意気揚々と行進しているのが、遠目にだって分かります。
 ちょうど降り続いていた雨がやみ、雲間から光が射しこみました。
 濡れた屋根が輝き出します。
 凱旋がいせんです。
 思わず胸の前で手を握り、きらめく露の光を自分の体の中にも取り入れるように、深く息を吸います。そうすると、急に、ルディの心にも、他の人と同じような晴れ晴れしさが舞いこんできました。息をするにもためらうほどの、凍てつく冬は去ったのです。春が来ました。
 兵士達の行列はゆっくりと大通りを進みました。決して急がず、その雄志を人々の目に焼き付けます。大通りに面した家々には、ありったけの花が飾られて、大勢の人が彼らを出迎えに出ていました。
「あんたの兄さんどこにいるかしら? あの先頭?」
「やだ、ただの民兵よ。あんなとこにいるわけないじゃない」
「分かんないわ。戦で敵を討ち取って、旗持ちくらいにはなってるかも」
 はしゃぐ女中達と一緒になって、手すりから身を乗り出します。
「お兄さんは、どんな人?」
「やあねえ、あなたまで。見えっこないわ。そう背が高い方ではないし……チビではないけど、あんなにたくさん人がいたら。でも負けん気が強くて、勇ましくて、今回の募兵にも真っ先に名乗り出たのよ」
 と彼女ははにかみつつも、誇らしげに言いました。
 背後から、手を叩く音が響きます。
「さあさあ、はしたないこと! 何ですか、騎士様達を見下ろすなんて。城主様に知られたらただじゃあすみませんよ!」
 皆いっせいに振り返り、またいっせいに胸をなで下ろしました。そこに立っていたのが気難しい女中頭ではなく、掃除女中の一人だったからです。彼女であれば、女中頭より多少は融通がきます。
 さっそく、ルディの隣の女中が小さくつぶやきました。
「街にいるんだもの。ここから見下ろすのは仕方ないじゃない、ねぇ」
 年取った女中頭と違って、まだ年若い彼女の耳が良くくことも忘れて――つまり、それほど浮かれて。
「言い訳するんじゃありませんっ」
 叱咤しったをすり抜けて、きゃあきゃあと声を上げながら、少女達は持ち場に帰りました。
 やがて、軍隊が街を抜け、坂をのぼり、城壁へと至って、再びラッパが鳴り響きます。最後の最後まで持ち場を離れられない数名――例えば、料理番など――を除いて、だれも彼もが城館の正門の両脇に並びました。これほどの人が集まるのは、彼らを見送った日以来のことです。戦争へ同行せず留守を任された家臣達がもっとも扉に近く、ついで、使用人の中でも地位の高い者、そしてその他身分の低い使用人達は外縁を囲みます。
 家臣と使用人頭達の合間あたりに居場所を見つけ、ルディはそこに立ちました。人々の肩の隙間から前を見ていたところを、うながされて、半歩、歩み出ます。 久しぶりに着た侍女服がどこかぎごちなく、気恥ずかしくも思えました。
 馬の足音が幾重にも重なって響きます。高らかに奏でられるラッパの音をかき消すほどでした。
 頭に赤い羽根飾りをかぶった馬が、二馬身ほど前を軽やかに歩きます。灰色の毛に白いぶち、、の入った、葦毛あしげの馬です。それに乗った騎士は、意気揚々と濃い青色の旗を掲げていました。続く数十頭の騎馬隊は皆、人は銀に輝く鎧を、馬は赤くたなびく馬着ばぎを身につけています。その新品の鎧や馬着が、数日前にヴォリカテルト砦に運ぶためにベルスート城から持ち出されるのを、ルディは手伝いました。その立派さ、重厚さは手に取って知っていましたが、今、こうして人と馬とでそれらをまとって並び立つさまがこれほどまでに見事であるなど、想像もしていませんでした。
 ひづめのたてる音はいよいよもって力強く、地響きのようです。
 猛々たけだけしく、彼らは城の正面扉に向けて歩を進めます。
 旗持ちのうしろ、騎馬隊の先頭。そこを行く人は。
 ひときわ小柄なのは、鎧を着けていないからだけではなく。
 その身にまとうのが、黒い長衣のみであるせいではなく。
 ただ一人、女であるからです。
 旗を掲げた騎馬が、待ち並ぶ人々の前を迂回うかいして脇に退しりぞくと、その人は皆の面前で馬を止まらせました。
 だからといって――女であるからといって、その姿に一つとして、臆するところを見いだせるでしょうか。馬を扱う手つきは確かです。胸を張り、赤い双眸そうぼうはわずかにも揺らぐことはなく、前を見据えていました。西に傾いた太陽に真横から照らされ、顔は陰影をより深くします。口は静かに、深く、笑っています。
 その身が馬上でひるがえると、皆いっせいに、頭を下げました。
 これまでにないほど深く、ルディも体を折りました。恐ろしいからではなく、威風堂々とした姿に何か、敬虔けいけんな気持ちが湧いてきたのです。
 地面に降り立ち、一歩、また一歩と、足音が近づきます。
 石畳を見つめながら、その音が魔法のような作用で自分の心に訴えかけるのを、ルディは感じていました。一足ひとあしごとに、木槌きづちが鐘を打つように、心の中に高らかな音楽を鳴り響かせます。胸の底に降り積もる不安をかき分けて、得体の知れない感情がこみ上がってくるのです。それがいやな気持ちではないことに気付いて、ルディはそっと胸元を押さえました。熱く脈打っています。すぐさま、顔を上げてしまいたい衝動に駆られました。
 礼儀や作法についてずいぶん学んだつもりでいて、いまだにこんな無礼な考えが浮かんでくることに、ルディは戸惑いました。
 その内に、足音は人々の間を通り過ぎます。
 待ち受けて、与えられないまま、人々の群れは揺れ動きました。目配めくばせを交わしながら、銘々顔を上げます。ルディがふりあおぐと、開け放たれた扉の向こうに黒いローブのすそが吸いこまれていきました。
 金属の鎧がこすれあう音をたてて、近衛兵達の数人が続きます。
 人々の静かなざわめきと、かき消すような、兵士の解散を告げる号令。それらを残しながら、ルディはその背中を追いかけました。
 小走りで、前を行く近衛兵達に追いつき、その横を回ります。見上げる顔は皆、けわしいものでした。戦場から遠く離れても、いまだに殺気だって感じられます。中には見知った相手もいるのですが、ルディに気をとめる人はいませんでした。近よりがたく感じられましたが、先頭を歩く人の背中をたよりに、彼らを抜き去ります。
 足を速めて、ようやく、間近まで来ました。何か指図があればすぐに応じられるほど近くです。
 きっと、寝室に向かうのでしょう。そうしたら、服を着替えて、それから湯浴みをするかもしれません。まだ、晩餐まで時間があります。今夜は祝賀会ですから、とびきり上等の服を着て――
 手順を頭の中で思いえがきます。指示を待ち、凛とした横顔を斜めうしろから見やりました。しかしそれは、あまりにかたくなではないでしょうか。
 不穏な残り香が、鼻につきます。
 さびにも似た、もっと生々しい、そのにおいは――
 喉の奥がぐるりと動きました。
「お嬢様」
 声をかけた、肩が、歩く速さのまま前にかしぎます。
 とっさにルディは手をのばしました。
 支えようと、胸元にふれ、息をのみます。次の瞬間、その体はルディの手を逃れ、宙に浮き上がりました。すぐうしろを歩くひときわ大きな近衛兵に、抱き上げられたのです。彼の腕の中に収まる体は、全く力を失っていました。
「姫様!」
 うしろの近衛兵達が駆けよるのも待たず、彼は歩を速めます。
「部屋に行く」
「ええ、早くお連れいたしましょう」
「エヴァ殿!」
 しんがりを行く近衛兵が、別の通路の向こうに声をかけます。
「早く! シェリー様が!」
 エヴァが、おそらく、通用口を使ったのでしょう。走ってやってきて、そしてルディのそばを通り過ぎていきました。
 だれ一人として、ルディに声をかける者はなく、そしてルディもまた彼らに顔を上げることなく、その場に立ちすくんでいました。
 濡れた手を、呆然ぼうぜんと見つめます。そこは赤く染まっていました。鼻をつく血のにおい。
 頭の奥深くに埋葬されていた記憶があばかれます。
 ああ、お母様――
 お母様は――優しい、ルディのお母様は――夏だというのに、ひどい咳が続いて――やがて、血が混じり――夜の間に、たくさんたくさん、血を吐いて――朝――死んでいたのです!
 声もなく、ルディは恐慌におちいりました。
 荒々しく部屋に踏みこむ足音がします。外に向かって助けを求めて、半日経ちました。すがる手を振り払い、寝床の上のお母様を見下ろすと、彼らはルディの髪をつかんで、地面にたたき伏せ、罵倒ばとうし、踏みつけました。
 喉の中が一筋の糸のように細くなって、息ができません。ののしる声が聞こえます。手足は氷のように冷たくなって、それなのに全身から汗が吹き出します。ふるえて、止まりません。今、ここに立っていられるのが、不思議なくらいで――どうして、こんな臆面おくめんもなく――今すぐにだって、だれかが、怒鳴りつけて――――
「ここで何をやってる! さっさと地下に行っちまえ!」
 あの日、世界は死にました。
 優しい世界は、お母様と共に死んでしまいました。
 代わりに引きずり出された世界は、みじめなものでした。そこでルディは人々の気分のままにいたぶられ、汚い言葉を浴びせられる、鬱屈うっくつした気持ちのはけ口でした。だというのに自分はまったく無力で、あの場所にいつくばるほかなかったのです。 あの、暗い地下室で。
 どれほどの間、立ち尽くしていたでしょうか。
 廊下の向こうに人の気配がします。
 足音、話す声、衣ずれ、階段をあがる、おりる、重たそうに、軽そうに、年より、若い女、きしむ床、戸を開ける、閉める。
 それらの一つ一つが耳になじんで、ルディを正気に戻します。
 城内くまなくから聞こえる音の、何一つとして、ルディを責めはしませんでした。
 息を絞り出して、吸います。何度もくり返します。痛いほどに握りしめていた指先に、力をこめて、開きます。もどかしいほどに遅く、しかし着実に、手のひらを解放します。血が再び臭気を放ちました。
 顔を上げます。上階へと、ルディは歩き出しました。


 お嬢様の寝室の前で、近衛兵達が厳しい顔をして立っていました。空気が張りつめています。
 エヴァの姿はありませんでした。おそらく、部屋の中でしょう。
 ひときわ背の高い、燃えるような赤毛の若者がルディに気付いて、しかし何も言いませんでした。ただ鋭いまなざしで一瞥いちべつしただけです。歩を進める勇気を失い、ルディは彼らから数歩遠くで立ち止まりました。
 それでも、問いかけます。
「お嬢様は……怪我を、したのですか」
 彼らは、口を引き結んだままでした。
 その反応こそが、答えそのものです。ルディは身ぶるいしました。
 怪我は、珍しいことではありませんでした。日々の鍛錬の中で、すり傷や打ち身、ときには切り傷だって、お嬢様はよく作りました。でも周りは慣れたもので、すぐにエヴァを呼ぶのです。彼女は必要な処置をよく知っていて、そのたびに薬を塗った湿布をあて、あるいは傷口を縫い止めて、さほどの大事という気はしませんでした。
 だからこそ、今の緊迫感がことの重大さを示しています。
 ひどい怪我、というものを想像してみます。戦場で、斬られたのでしょうか。骨を折ったか、それとも火矢で火傷を――
 頭を振ります。手を握りしめると、乾いた血がはがれて砂のようにこぼれ落ちました。触らなくても分かるほどはやる胸に、言い聞かせます。エヴァがついているなら、彼女ならばきっと、大丈夫だと。
 しかし、気を失ったお嬢様の顔が、目に焼きついています。力なく伏せたまぶたに、閉じきらない口元、そして血の気を失った肌。直前まで胸を張り、歩いていた体が、突然くずれ落ちました。あれほど強い人が。
 寝室の扉を見つめます。しかし近衛兵達が前を固め、とてもすり抜けられる状況ではありません。仮に入れたとして、自分に何ができるでしょう。エヴァの邪魔になるだけです。
 せめて自分が何をすべきか、考えました。すべきだった、、、ことなら、いくつか頭に浮かびます。しかし今はそれもむなしいことでした。
「今夜は、どうしましょう……皆、お嬢様を待って、祝賀晩餐ばんさん会を……」
 ホーゼンウルズ辺境伯領中から人が集まっています。出ないわけには、いかないのです。偉い人の立場というのは、そういうものなのです。手当てが終われば、また先ほどのように歩けるでしょうか。
 その程度の怪我ならば、とどこかで願っていました。しかし彼らの顔が一様にくもるのを見て、その願いは霧散します。
 沈黙のあとに、背の高い若者が――ケンニヒ様が、歩み出ます。
「ここは任せた」
「ケンニヒ殿、どちらへ?」
 問いかけた兵に、
「オブリード様に取り計らいを願い申し上げる」
 そう答えると、彼はルディのそばを通り過ぎました。
 ケンニヒ様は、城主様の、おいだという――つまり、お嬢様の従兄いとこであり、そして近衛兵団の長である人です。城主様に、今夜のことをお願いすると言いました。お嬢様がいないならば城主様以上の代わりはいませんし、またそれをお願いするのにケンニヒ様ほど、ふさわしい人はいないでしょう。
 その大きな背中を見送ったあとも、ルディはそこを動きませんでした。
 かたく閉ざされたままの扉を見つめる目は、恨めしいものだったのでしょう。残った近衛兵達がうとましげに手を払います。
「ここは我々が守る。お前ももう行け」
 (どこに?)と頭の中でルディは問います。
 どこに、行く場所があるというのでしょう。彼らがそうであるように、ルディのいるべき場所もまたここでした。
 しかし彼らの態度は真摯しんしなものです。ただ威圧的で、ものも言わせぬというだけではなくて。だれにもここを通させはしないと、並々ならぬ覚悟を感じさせました。お嬢様が怪我をして、その窮地きゅうちをかばうのは彼ら近衛兵の役目です。
 では侍女は何をすべきなのでしょうか。聞く相手は、扉の向こうです。彼女と、彼女の優秀な助手との間にとても割って入ることなどできません。
 ふがいなさを噛みしめながら、ルディはその場をあとにしました。


 その夜、城では盛大な、祝賀晩餐会が開かれました。
 城主様が、バルコニーから皆の前に姿を現します。たいまつのあかりに照らされながら、帰ってきた兵士達の労をねぎらい、功をたたえました。低く、重く、力強い声にみな、背を正し聞き入ります。
 おごそかな式典のあと、それぞれの身分に分かれて、宴になりました。
 身分の高い人々は城内の広間へ。
 下級兵は城館の前の広場へ。
 広間の人々は、客間女中の一人が言うには“ちゃんとナイフとフォークを使って”いました。つまり、節度を守って、ということでしょう。なんと言っても、城主様の前です。配膳も、ちゃんと教育された女中があたるので、ルディはそばまで行くだけです。扉の隙間からちらりと覗いたときには、晴れ晴れとした空気ではあるものの、皆かしこまって見えました。しかし宴が進み、酒の量が増えるにつれて、中から大きな声が聞こえてくるようになります。特に戦争から帰った将達は我先にと、自分の功績を披露しました。城主様も、それをとがめることはないようでした。
 一方広場は、行儀良くしていたのは最初の祝杯をあげたときだけで、すぐに雑然と、やがて大変な騒ぎになりました。
 だれかが、
「ホーゼンウルズ万歳! 辺境伯様万歳!!」
 とエールで満たされた杯を上げれば、全員が続きます。
「俺は敵の首を五つ討ち取ったぞ!」
 と、自慢する者が現れ、するとやはり皆、我先にと語り出します。
「なんの、俺は火を放って家を焼いたんだ。賢いやり方だろう?」
「見ろよこの腕輪、これは値打ちもんだぜ! 腕ごとぶんどってやったんだ」
「あの首長が連れてた女を見ただろう? へへ、蛮族にしてはいい女だったぜ」
 ルディに決まった職場というものはありませんから、あちらとこちらで頼まれたことをこなして、城中を回りました。たとえばできあがったばかりの料理を配膳室まで運んだり、帰りには空になった食器を下げたり。
 ルディに限らず、使用人達は皆、気を配り、体を使い、休むひまもありませんでした。片や、広間の偉い人達の食事に粗相そそうがあってはいけませんし、片や、広場に持って行ったエールの杯は四方から手がのびて、あっという間になくなってしまうのです。
 何度目かに厨房を訪れた際、ルディは頼みごとをしました。
「あとでやるよ!」
 料理長はほとんど怒鳴るように答えました。
「今はだめだ、ああこん畜生め、バターの壺はどこに行ったんだ?!」
 城の壁の中に入れたのは元々兵士だった人だけです。臨時に徴用ちょうようされた民兵達は町で解散していましたから、きっと町のそこかしこで、同じようなことがくり広げられているのでしょう。
 この夜、ベルスートのだれも彼もが、勝利に酔いしれました。
 ただ一人、そこにあるべき人の姿を欠いたまま。


 夜半、終わりの見えない宴を、そっとルディは抜け出しました。くたくたに疲れた体をふるい立たせて階段をのぼります。
 気付けば、城内のあちこちに近衛兵が立っていました。
 彼らの視線を受け、わけもなく居心地の悪さを感じながら、のぼりつめます。廊下の向こうが、お嬢様の部屋です。
 やはりそこでも近衛兵が見張りをしていました。広場の喧噪を遠くに、鎧を着たまま、けわしい顔を左右に向けます。
「あの……お嬢様は、食事は……」
 手に持つ銀盆を見せて、聞きます。頼んでおいたものです。つい先ほど厨房から、手の空いた人間が届けてくれたのです。
 彼は威圧的に答えました。
「だれも近づけるなと言われている。たとえ侍女であるお前であろうとな」
 と、扉をちらりと見ます。
「まだエヴァ殿が中に。どんな様子かは俺も分からん」
 侍女と、近衛兵と。どちらが偉いのかと聞かれれば、近衛兵であることは疑いようがありません。侍女は偉い人に近い立場ではあるものの、使用人であることに変わりはありません。しかし侍女であると同時にお嬢様の従医であるエヴァは、ときに近衛兵達に指図をすることがありました。もちろん彼女は分をわきまえていて、決して彼らの面目めんもくを潰さないよう、お願いという形をとるのですが。
 そのエヴァが言うのですから、本当にだれも、中には入れないのでしょう。
「そうですか……」
 手元を見下ろします。
 何か、食べられるかと思って、無理を言って作ってもらいました。薄く切った黒パンにハムとチーズを挟んだ、いつもの軽食です。怪我をした人が、どれほど何を食べられるのか、ルディには分かりませんでしたが、少なくともお嬢様は今までこれをいやがったことはありませんでした。
 また素直にこの場を退くべきか、この食事をどうするか、考えます。
 答えが出ない内に、扉の向こうで足音がしました。ルディと近衛兵、二人が見つめる前で、ゆっくりと扉が開きます。
 わずかに目ばかりを布の隙間から見せて、他はすべて白い布でおおわれた、背の高い女が出て来ました。同時に、ぞっとするようなにおいが中からがあふれます。血と、何か、刺激のあるにおい。薬でしょうか。中を見ようにも、ろうそくの火はもう消されたようです。暗闇の向こうから物言わぬ助手達が続き、再び扉はかたく閉ざされました。
 女は廊下で、全身をおおうフードやエプロン、手袋――ところどころ、血で汚れています――を脱ぎ、助手にとらせます。卵の殻をむくように、汚れた布の下からは、白磁のように美しく整い、また無機質な女の顔が現れました。深い緑色をした切れ長の目が、ルディと近衛兵を一度ずつ見ます。それから彼女は、両手を腰の前で組みました。
「エヴァ殿、姫様のご容体は?」
 先に話しかけたのは、近衛兵の方でした。しかし聞きたいことは同じで、ルディは耳をそばだてます。
「今はまだ、お答えできません。あとでご報告に参ります」
 彼女の言葉に、近衛兵は落胆したようでした。口の中でわずかにうなります。お嬢様の体調について、平時でさえ彼女はおいそれと口外しない――あるいは、できない――すべきでない――のは、おそらく彼もよく知っているのでしょうが。
 落胆したのは、ルディも同じでした。偉い人の体調というものは国の勢いに関わるものだから、気軽に部外者に知られてはならないと習っていました。
 ことさら、悪いときには。
 おそるおそる話しかけます。
「エヴァさん」
 彼女は手を組んだまま、ゆっくりとルディを見下ろしました。その仕草に、にわかに心がゆれます。長い間、目にすることのなかった、しかしよく知った光景でした。妙な感覚が生まれます。しかし違和感や、戸惑いとは違う、むしろ真逆の感覚のようでした。彼女の顔にしろ、仕草にしろ、彼女達が城を出るまで、毎日のように目にしていたものです。それが長い時を経て、再び身近にあるということに、例えようのない感慨が湧いてきました。
 こんなときにかけるべき言葉が、いくつかあったように思うのですが。どれも形にならない内に、溶けていきました。
 彼女の無感動な、氷のような視線が、ルディの手元にそそがれます。銀盆の重みをルディは思い出しました。
「あの、食事は……お嬢様は、何か食べれるでしょうか」
「いいえ」
 と、彼女は静かに首を振ります。
「今は休んでおられます」
「そうですか……」
 今度こそ、ルディは肩を落としました。
 エヴァが、ルディを見て、ルディと同じような感情の機微きびを持ったかどうかは、定かではありません。例えそうだとしても、それを逐一ちくいち口にしたりはしないでしょう。
 ただ少しの間、考えたようでした。
「貴方は、もう食事をとりましたか?」
「いいえ……」
 お嬢様のことを考えると、いそがしさも手伝って、とても手をつける気にはなりませんでした。
 エヴァは目を少し伏せて、ルディに向き直ります。
「私もまだです。では、私達二人でいただくことにしませんか。お嬢様もお許しくださるでしょう」
 その言葉に、少しルディは安堵あんどしました。エヴァの口を通して、わずかとは言えお嬢様の存在が感じられたのです。確かにそこにいる人を、語るときの口ぶりでした。
 近衛兵にあとを託し、地下の、彼女の私室に移ります。エヴァはルディを先に座らせると、助手達を奥の部屋にやり、手を清めました。
「失礼」
 そう言って、まとめていた髪をほどきます。砂のように乾いた金色の髪が、ゆるやかな弧をえがきながら宙を舞い、背中まで垂れ下がります。元々、フードを脱いだ拍子に少し崩れてしまっていたまとめ髪が、わずらわしかったのでしょう。
 顔の前にこぼれ落ちた一房ひとふさを肩のうしろになでつけると、彼女は席に着きました。
 小さなテーブルに、相対して座ります。
 先ほどの感慨の名残か、ルディは彼女の様子をしげしげと眺めていました。今さら、目の前に彼女がいることが不思議に思えて、夢を見ているのではないかと疑ってしまいます。なるほど、人と別れて再び会うとはこういうことなのかと、新鮮に感じられました。
 懐かしいという感情なのでしょう。
 この城に来たばかりの頃、いつも、彼女を手本にするために、彼女のやることを見ていました。共に食事をとるときには、食べ方や食器の扱い方を教えてもらいました。
 その中でも、髪を下ろした彼女を目にする機会は、ほとんどありませんでした。いつも几帳面に、一筋の乱れもなく髪をまとめ上げていましたから――
 何か、たが、、が外れたようにあれこれと思い出そうとしてしまうのを、ふっと気付いてルディは押しとどめました。
 手元を見れば、簡素な、パンでハムとチーズを挟んだものが二つばかり。彼女の今日の労を思うと、これではとても足りないように思えました。こうなると分かっていたら、もっと、用意できるものがたくさんあったはずです。
「あ……何か、別に持ってきましょうか……足りませんよね」
 彼女は首を横に振りました。
「今はこれで十分です。明日がありますから、私もすぐ休みます。どうぞ、いただきましょう」
 うなされるままに、ルディは一つを手に取りました。
 たまに、お嬢様の軽食の時間に、相伴しょうばんすることがありました。あるいは、知り合いの、どこぞのご夫人からいただいた珍しい食べ物だとか、飲み物だとか、だいたいお嬢様は気前よく皆に分けるのでした。
 そういったことをまたしみじみと思い出しながら、口に運びます。
 一口かじりとろうと、その直前で、ルディは手を止めました。
「何か……変なにおいが、しますね……」
 見苦しくない程度に、鼻をかせます。
 冷たく乾いたものばかりですから、どれもそうにおいが強いわけではありません。薄く切った黒パンと、その表面にたっぷりと塗られたバター、塩漬けした豚のハムに、羊のチーズ。重なり合ったにおいのどこかに異変が紛れこんでいるようです。材料のどれかが悪くなっているのでしょうか。多少いたんだものなら気にせず食べてしまいますが、何か、腐敗とは違うにおいのようで、鼻の奥に引っかかります。
 エヴァは無言で、ルディの手を取りました。パンをつかんだままの手を、テーブルの上に下ろさせます。
 ゆっくりとした、しかし余計な問答を許さない動作です。
「あ……」
 ルディが、パンを皿の上に置いたことを見届けて、彼女は手を引きました。両手を自分の前で重ねると、口を開きます。
「私に、罪悪感という感情がないことを詫びます」
 唐突な話し出しでした。
「貴方を疑ったことも、貴方を試したことも、貴方の身をあえて危険にさらしたことも、私は申し訳なかったとは思いません」
 ルディが理解するのを待つこともなく、言葉を重ねます。
「ですから、貴方に対して罪悪感を持たないことだけを今、詫びます」
 背中がざわざわとしました。
 今、そこに座っている人は、本当に、自分の知っている人でしょうか。こんな風に、彼女は、一方的に話したでしょうか。理解できないように、話したでしょうか。
 戦場から帰ると、人が変わると聞いたことがあります。あるいは、髪を下ろしているから、普段と違って見えるのでしょうか。それとも、長い間、会っていなかったせいで――違うと思うこと自体が、間違いなのでしょうか。
「毒が含まれているのかもしれません」
 湖面に、石を投げこむような一言でした。どぶんと音をたてて、まっすぐに沈んでいきます。寒気がして、ルディは背筋を丸めました。
「詳しくは、調べてみないと分かりません。これは貴方が作ったものですか?」
 必死に首を横に振ります。
「厨房の人に、頼んで……」
 いつもそうしています。けれど今日は、特別いそがしい日ですから、臨時で雇われた者もいたでしょうか。用意した、かなりの量の食材の中に、素性の分からないものがあっても不思議ではありません。嵐のようにせわしない最中さなかで、だれかが紛れこんでも、気付かないかも知れません。
 疑っていたと、試したと、彼女は言いました。それは自分のことです。ルディがそうと知っていて毒の入った食事を持ってきたのかと、彼女は考えたのです。
「ごめんなさい、僕、何も……」
 ルディはうつむいて、両手を握りしめました。
「考えていなくて……」
 歯がゆさを噛みしめます。
 何も知らなかったでは、すまされないのです。もっと考えて立ち回るべきでした。
「仕方のないことです。このような事態について、私からは何も教えていません」
「……いいえ」
 自分で考えるように、言われたではないですか。
 お嬢様の命を狙う人間がいると、知らされたのはこれが初めてではありません。彼らにとって、今回のことは好機ではないでしょうか。何が起こったのかは、ルディでさえ知りません。しかし、何かが起こったことは確かです。祝賀会にも出られないような、重大なことが。それでいて、他の人は皆、勝利に浮かれています。人も大勢出入りします。ならば、今こそ隙を突くことができるでしょう。
「貴方が気に病む必要はありません」
 気付けば、彼女の話し方はなじんだものに戻っていました。遠慮や気づかいというものがなく、それゆえに、実直で、信じられる言葉です。
「この件に関して、貴方が特別な対応をする必要もありません。皿を返して、何か聞かれれば、そのままを答えてください。お嬢様は口にしておらず、私が取り上げたと。厨房の調査は私が手配します」
 的確で冷静。しかしぬぐいきれない違和感にルディは息をひそめました。上目で、エヴァの顔を見つめます。
 かすかにうれいを帯びた、細い眉。光に透ける長いまつげ。それにふち取られた切れ長の目。ろうそくの炎に照らされてもほとんど赤みの映らない、白い肌。よどみない声色。
 どれも、ルディの記憶の中のものと変わりありません。しかしそれぞれがわずかずつきしんで、怖気おぞけをもよおす表情を作り出しています。
 氷のような彼女の心が、ますますてついて、肌を刺すようでした。
 白磁のように美しく、無機質であるからこそ。
 恐ろしく、冷たい顔をしていました。


  ***


 夜が明けて、朝が来ました。それは昨日と同じ朝であり、来るはずのなかった朝、仕える人のいない朝です。お嬢様の部屋を訪れても、昨日と何も変わらず見張りの近衛兵に追い返されるだけでした。
 エヴァを頼るのは――彼女の疲労を考え、また、昨日の出来事を思い出し――ためらわれました。ろうそくに照らされてなお、えとした顔つきが脳裏に浮かびます。
 うっすらと、彼女のいだく感情には察しがついていました。長年ルディが身に受け続けてきたものです。
 怒り。
 美しく、常人離れしたその容貌が、人間らしい感情が宿すとき、かえって際立って恐ろしいものに見えました。それを前にして、ルディが我を失い、床に這いつくばって許しを乞わずにすんだのは、それが自分に向けられたものではなかったからです。それが、だれのためなのか、ルディは知っています。
 何が彼女をそうさせたのか――いったい何が彼女の仕える人を陥れたのか、まだ真相は闇の向こうでした。
 相変わらず、ルディは女中頭の監督の元に置かれました。宴の一夜が過ぎて、城内はまるで嵐のあとのように荒れ果てていましたから、仕事に困ることはありません。
 この頃になると、お嬢様の異変に皆が気付いていました。
「姫様に何かあったのかい? 昨日はあれっきりお姿を見せなかったけど」
 そう聞かれて、しかしルディ自身も知らないことでしたから、ただ黙ってうなだれるほかありません。
「ああ、でも気にすることはないさ。こういうことはたまにあるけど、いつもすぐお元気になられるから」
 ルディを気づかってか、あるいは不敬を恐れてか、そう付け加えられました。
「ああ、姫様も相当無茶をなさるけど、エヴァがついてるから安心だ」
「そうだ、そうだな」
 一人が、ため息をつきます。
「お気の毒に……やっぱり無理だよ、女の身で戦争なんて」
「城主様のご意向だ、仕方がないさ」
「この城に王子様がいればな……」
「しっ」
 一人が口をすぼめると、皆、押し黙ります。普段は語られることのない真実に、ルディは身をかたくしていました。
 口に出すのは、不敬にあたります。
 初めて目にしたときの驚き以降、いつの間にか慣れて、忘れてしまっていました。強く、雄々しい人ですから。髪を短く切って、ズボンをき、軍隊をひきい、辺境伯領を背負って立つのは、自然なことに思えました。
 しかし、やはりそれは、特別なことなのです。
 男の腕に抱き抱えられたときの、弱々しさが目に焼き付いています。


 汚れたクロスを抱えて、ルディは廊下を歩いていました。向かう先は洗濯室です。洗濯女中達の奮闘ぶりを頭に思い描いていると、ふと、曲がり角の向こうで話す声がしました。
 使用人とそうでない人達の使う通路は分かたれるべきものでしたが、必ずしもそうなっていない部分は多く存在します。そんな一角でした。
 偉い人達が同じ廊下にいるとき、使用人は素知らぬふりで通り過ぎることはできません。なるべく彼らの目にふれないよう、可能であれば姿を隠して待つべきでしたし、そうでなければ頭を下げ、彼らが通り過ぎるのを待つことになっていました。ですから、使用人同士がその共用部分で立ち話をすることは滅多にありません。話す声がするということは、偉い人がいるということです。
 しかしルディが足を止めたのは、そのためばかりではありません。耳に飛びこむ声の激しさに、思わず、立ち止まったのです。
 ひときわ大きな男の声が、一つ。そしてかたわらにもう一人。残る一人に向かって言葉を浴びせかける――そのげんの厳しさは、糾弾きゅうだんといって差し支えないものでした。
「お目通りもかなわぬとは、どういうわけだ!」
 自分に向けられたものではないと分かっていても、足がふるえ出します。ここにとどまり、話を聞いていることもとがめられてしかるべきことでした。かと言って彼らの合間をすり抜けることなど、きっとできないでしょう。
 かどから様子をうかがうと、やはり男が三人立っていました。皆、ルディですらその立場を知っているような人々です。
「ええい、貴様のような若造ではらちが明かん!」
 そう声を張り上げる人は、百人隊の三つを束ねる大隊長のセド様です。勇猛果敢な戦いぶりから、若い頃に城主様に取り立てられ、この戦争でも戦果を挙げたと聞きました。その頬には大きな傷跡があります。戦場で、手にした斧を払い落とされ、頭に向かって剣を突き立てられるも、それが頬を裂き、狙いを外したと見るや構わず相手に組みつき、素手でその首を締め落としたと、剛胆ごうたんに語ってみせる人です。
「セド殿、あまり声を荒げられるな」
 もう一人は、文官のトリソニー様です。立派な軍人であったお父様の代から、親子で城主様に仕えているとのことでした。武勇がもっともとうとばれるホーゼンウルズにおいても、あえて文官の道を選び、王都の大学で学問を修めたあと、今では辺境伯領の徴税と祭事とで重要な役職を兼任しています。今回の凱旋でも統括を任され、十分な段取りでもって、あのように見事な式となりました。
「しかし昨日の今日で、姫殿ひめどののご気分が変わられたというのもおかしな話だ。せめて何があったか教えてはもらえないだろうか」
 共に、領主様に代わってホーゼンウルズを治めるお嬢様に、関わりの深い人物です。
 そして彼らの前に立つのは、ケンニヒ様です。燃えるような赤毛は言うまでもなく人目を引きますが、まわりから常に頭一つ抜きん出た背丈と、鍛えられたたくましい体格はさらに、兵士とはこのようにあるべきだと、見る人を感嘆させるものでした。
 生まれついての身分も高く、とても華やかな容姿を持つ人ではありましたが、普段から非常に寡黙かもくであるのはルディもよく知っていました。質実剛健しつじつごうけんを絵に描いたような、近衛兵団の副長であるラールとはおよそ反対で、気さくさやほがらかさとは無縁の人です。
「やれ、まただんまりか!」
 山のように堂々として、セド様が責めるのにも動じる様子はありません。
「貴殿らにお答えすることは何もないと、先ほどから申し上げております」
「それが姫殿ひめどののご意向か?」
 姫殿ひめどの――一部の人々は、お嬢様のことをこう呼びます。姫であり、主君となる人だからです。
 答える必要のないことだと言わんばかりに、またケンニヒ様はかたく口を閉ざしました。
武勲ぶくんを軽んじては国のためにならんぞ!」
「セド殿のおっしゃるとおりだ。戦が終わればすぐにでも論功行賞ろんこうこうしょうの議を開かれるのがすじ。すでに私のところにも多数の訴えが出ております」
 戦争が終われば、戦果を挙げた兵に、恩賞を与えなければなりません。それは、奪い取った土地そのものであったり、金や価値のある品物であったり、あるいは何かしらの利権であったりするそうです。
 戦争に参加するのは、臣民の義務であり、また非常に名誉なことだとされていますが、その一方で、何の見返りもなしに人々は命を賭けるわけではありません。得るところのない戦いに進んで身を投じる者はいないのです。
 ホーゼンウルズは、戦でたてた功を元にできた領邦りょうほうですから、その成り立ちからして、軍事に重点を置いていました。民の気質は血気盛んで勇猛、またイブリール王国の中でも最強とうたわれる、質の良い職業兵を多数かかえています。彼らの士気は辺境伯領の力と同義です。それを維持する資金を得るためにも、外征が、そして東の通商路の確保が欠かせないのだと、習いました。
 そして今、彼らは自分の労力に見合った取り分を求めているのです。
「それについては我があるじも重々承知しておられる」
「では何故! まさか、姫殿の御身に何かあったのではないだろうな?」
 またも、ケンニヒ様は押し黙りました。その態度にセド様は察するところがあったようで、口早に言い立てます。
「やはりか。貴様常々つねづね、あの魔女達や屍使かばねつかいと組んでよからぬことを画策しておるのは皆が知っておる! 姫殿の直属であるからと言って傍若無人ぼうじゃくぶじんな振る舞いは許されんぞ」
「しかし、姫殿が戦で負傷されたとは聞き及んでおりませんが」
「なればこそだ。何かこやつらが隠し立てしておるに違いない」
 お嬢様の身に、何かがあったと――彼らのその主張はただの憶測に過ぎませんが、ルディはそれが事実であると知っています。壁に身をよせ、ルディは身をかたくしました。息をひそめます。
「答えろ!」
 片やケンニヒ様は、いくら背はケンニヒ様の方が高いとはいえ、自分よりうんと年上で、経験を積んだセド様の激しい怒りを前にしても、少しも恐れる風はありませんでした。眉一つ動かさず、その怒声を受けています。その様子がさらに、火に油を注いだようでした。セド様はいよいよ、声を大きく張り上げます。
「ええい、それでも騎士か! 恥を知れ! 主君をさしおいておめおめと貴様等ばかりが立っておるとは何事だ! 御身おんみを守れずしてなんのための近衛だ!?」
 一瞬、ケンニヒ様は動揺したようでした。唇を横に引き結びます。それを開き、押し殺した声で、しかし確固たる意志を持って、告げます。
「主君に恥じるところがあれば、御前おんまえですでに首を斬り、果てている。我々の口が忠誠を誓うのはただ御一人。貴殿らにへつらうのがつとめではない」
 ふん、とセド様は鼻を鳴らしました。
「よくぞ言った。威勢ばかりの若造が。口だけではないところを見せてみろ」
 と、言い捨てて、身をひるがえします。ルディはあわてて、影の中に隠れました。
「どう思われますか、セド殿」
 とトリソニー様が聞くと、セド様は首を振ります。
「分からん。だが見ろ、あの心酔ぶりを。人をきつける才は辺境伯様と似たりとはいえ――あれでは女にうつつを抜かすさまとまるで同じではないか」
 足早に通り過ぎる、重臣達の残す言葉が。
「やはり女にまつりごとを任せてはならん。国が乱れる」
 胸に刺さりました。


 夕方、日が暮れ始める頃に、ルディは近衛兵の兵舎を訪れました。着替えが足りないと聞いて運んできたのです。
 近衛兵は、常に三十人ほどがこの城に勤めています。ホーゼンウルズ辺境伯領の軍隊とはまた別の、お嬢様の直属の兵達です。精鋭で構成され、平時の身辺警護にあたると共に、戦争では兵を増員し五十人ほどが直接お嬢様の指揮する部隊となります。
 扉を叩いてもだれも出ません。中はしんとしていました。普段なら雑事を取り次ぐ小姓こしょうがいるのですが、彼らですら見張りに立っているのでしょうか。
 そう言えば、ラールの姿も見ていません。帰ってきた一団の中にはいなかったようです。人の良い彼なら何か教えてくれるでしょうか。
 見張りは時折交代しているようで、中にだれかいたとしても、休んでいるのかもしれません。勝手に入るのは気が引けました。戸口に荷物を置いて帰ろうとしたちょうどそのとき、中から戸が開きます。
 現れた人に、ルディはぎくりとしました。
 見上げるほど大きな男――ケンニヒ様です。
 彼はルディを見下ろし、そしてさらに視線を下げて、足元のかごを見つけます。
「あ……」
 ことのあらましを説明しようとして、言葉に詰まりました。平生へいぜいから、気安く言葉をわす仲ではありません。ましてや今は、近衛兵全体が神経をとがらせ、近よりがたい雰囲気をかもし出しています。そして昼間、廊下でケンニヒ様達が話すのを聞いてしまいました。
 ルディはまともにその顔を見れませんでした。
 休んでいたのでしょうか。服こそ、寝衣しんいではなくて近衛兵達がよく着る分厚い深緑色の鎧下よろいしたでしたが、首元をゆるめ、ところどころしわがより、寝乱れています。
 ちらりと顔色をうかがうと、それはやはり非常にけわしいものでした。眉根をよせて前を見据え、他者の視線をはねつけるようです。
 お嬢様と従兄妹いとこ同士といっても、あまり似たところはありません。お嬢様は黒髪であるのに対して、ケンニヒ様は目の覚めるようなあざやかな赤毛で、顔立ちも、どこか艶めかしさのあるお嬢様とは違って、男らしく、精悍せいかんです。あの、小柄で華奢きゃしゃなアイメテ様の兄君だと聞いて、とても驚いた覚えがあります。
 女と男であるという以上に、気質も違うようです。華やかで、思わせぶりで、良くも悪くも人を惹きつけるお嬢様の言動の一方、ケンニヒ様はいつも余計なことを口にせず、どっしりと構えて見えます。
 今も、ルディを目にとめて、ケンニヒ様が特に何か言うわけではありませんでした。足元のかごに、身をかがめます。お互いの顔が近づいた瞬間、耳元で低い音がしました。
「昼に聞いたことは忘れろ」
 他の何かに気を取られて、言われた意味がルディは分かりませんでした。ケンニヒ様がかごを拾い、身を起こすまで見届けて、はっと思い当たります。
「あ、ごめ……」
 必死で頭を下げました。
「失礼いたしました、申し訳ありません……っ」
 声がふるえます。盗み聞いたことに、気付かれていたのです。スカートのふちふちを握りしめ、罰を待ちます。しかし視界に映るケンニヒ様の足は、それ以上踏みこむことなく、さっとそのきびすを返しました。
 思わず顔を上げ、あとを追います。
 閉じられかけた戸から、兵舎の中に割り入りました。中はすぐ広間で、テーブルとイスが並ぶ食堂になっています。食事でなくともたいていそこにだれかしらいるのですが、今は無人でした。
「着替えを、お持ちしたんです」
 怪訝けげんそうに振り返るケンニヒ様に言います。自分の大胆さに、ルディですら驚いていました。ケンニヒ様の持つかごに手をのばします。
「あの、僕がやります。運びましょう」
「構わん」
「でも」
 ルディは鼻をかせました。兵舎に染みついた雑多な生活のにおいの中に、わずかに異質なにおいが混じっています。今まではきっと、鎧の中に封じこめられていた。
 血と体液のにおい。
「怪我を、していらっしゃるのでしょう?」
 ケンニヒ様はルディを見つめ、わずかに眉をひそめました。
 戦いが終わって、半月は経ったでしょうか。しかし今鼻につくそれは、つけられたばかりの、まだうみもわかないような生々しいにおいです。
 相手は偉い人で、しかも怪我をしています。とてもそんな人に荷物を持たせるなどしてはいけないと、義務感に駆られていました。同時に、今しかないという考えが体を動かしたのです。相手の、虚を突くような、あるいはおそらく、誉められた行動ではないとはいえ――
 意を決して、ルディは聞きました。
「何が、あったのですか? 戦場で受けた傷ではないような……お嬢様もケンニヒ様も、まるで新しい怪我を……それに、ラールさんは?」
 行くときには、彼もケンニヒ様と共にお嬢様の隣で、壮行を受けていました。凱旋の一団にその姿がないのはおかしな話です。
 しばらく、ケンニヒ様は黙って、ルディをにらんでいました。
 恐ろしくてふるえる足に、力をこめます。顔を伏せてこの場から逃げ出せたら、きっとらくでしょう。
 しかし胸にともるほのかな使命感が逃げを自分に許しませんでした。
 何ができるでしょうか。
 何かできるでしょうか。
 何にも、思いつきません。
 それでも何も知らずにおびえているのは、いやなのです。
 腕をつかんで引きずり出された、あの日のように。
 重苦しい沈黙でした。ケンニヒ様の目は少しもまどうことがなく、次第にルディの決心を揺るがし始めます。の悪い賭だったとルディは悟りました。彼のようにの居心地悪さをものともしない人であれば、たとえ一度、気構えを崩されたとしても、十分な時間をかけてそれを立て直すことができるでしょう。
 追い打ちをかけられるほど、自分の決心に自信があるわけでもありませんでした。ただできることは、退かないでいることだけです。一喝いっかつで自分など払いのけられるであろう人の前で、ふるえながら、ルディは待ち続けます。
 やがて、ケンニヒ様は静かに口を開きました。
「砦で強襲を受けた」
「砦? ヴォリカテルトですか?」
 急には信じがたい出来事でした。ケンニヒ様が答えたということも、その内容も。
 ヴォリカテルトは、ベルスートから目と鼻の先と聞きました。ですから、軍隊はベルスートに帰城する前に一旦そこで体制を整え、凱旋にのぞんだのです。まさか、そんな近い距離で襲われるとは、敵が、戦地から追いかけてきたというわけでもないでしょう。
「だれが……」
「分からん」
 短く言い捨てたあと、ケンニヒ様は初めて、ルディから目をそらしました。
「不意打ちだった」
 と、苦々にがにがしげにつぶやきます。
「そうでなければ俺もシェリーも、ああまで深手を負うことはなかっただろうな」
 ケンニヒ様が手をやったのは、昨日、ルディがふれた場所でもありました。胸元。そこを刺されたのだと、ルディは直感します。あのときの触感さえ、脳裏によみがえります。
 ケンニヒ様自身のことではありません。彼が守るはずだった人のことです。
 お嬢様のすぐうしろを歩くのはいつも、ケンニヒ様でした。昨日、気を失ったお嬢様をとっさの判断で抱き抱えたのもケンニヒ様です。
 お嬢様とケンニヒ様は、主君と近衛であると同時に、従兄妹いとこ同士であり、そしてそれ以上に近しい間柄でした。ケンニヒ様は幼い頃からお嬢様に仕え、この城で兄妹のように育ったそうです。二人が、ときに主従の関係を越えて、友人のように、兄妹のように言葉を交わすのをルディは知っていました。
 だからこその、苦々しさでしょうか。
 どのような状況であったか、彼の不名誉までを、聞き出す気はありませんでした。お嬢様をかばいきれず、二人とも負傷したようです。
「ラールもだ。しばらくは動けん。まだヴォリカテルトにとどまっている」
「そんな……」
 ルディは息をのみました。
 事態が逼迫ひっぱくしていることを理解します。未遂に終わったこの前の事件よりも、もっと深く、死は斬りこんできたのです。
「お嬢様は、怪我は、ひどいのですか?」
「刃がに達した」
 いくら、それが戸を叩くのを恐れないと言っても。
「どうして、そんなにひどい怪我で、お嬢様はベルスートまで……」
「凱旋を終えるまで倒れなかったのは、彼奴あいつの意地だ」
 再びケンニヒ様は、ルディを見ました。
「少しでも弱みを見せれば、やはりたかが女とあなどられる。王家は比較的寛大だが――他の諸侯は元より、ホーゼンウルズの家臣も、女の爵位継承を認めていない。兵や民でさえ、不満や不安を持つ者は多いだろうな」
 ルディにとっては当たり前だと思っていた話が、急におぼつかないものになりました。最初に、お嬢様はこの城とホーゼンウルズ辺境伯領を継ぐのだと教えられました。それを疑ったこともありません。しかし、今日聞いたことのすべては、それが不確かなものであると証明しています。
彼奴あいつの立場は複雑だ。女であることに加えて、魔術師への反発も強い。伯父上おじうえは、本気でご自分の跡目を継がせるおつもりらしいが――」
 そこで、ケンニヒ様は口をつぐみました。腕を組もうとして、途中でやめます。そこに怪我をしているのでしょうか。左の腕がさわったようでした。
 それから先を続ける様子がないのを見て、ルディはすがるように、聞きます。
「……ケンニヒ様は? どう、思うのですか?」
 話しすぎたと、彼は考えたのでしょうか。その問いに答えが返ってくることはありませんでした。最初こそ失望したものの、ルディもまた、差し出がましく聞いたことを反省します。問い正すこと自体が不敬にあたります。ましてやその答えなど、立場のある人が、たやすく口にできることではないでしょう。
 ケンニヒ様の顔つきは、また元のようにけわしいものに変わっていました。同時に、山のように揺るぎなく、頼もしくも感じられるのです。
「あまり騒ぎ立てるな。近い内に沙汰さたがある」
 それが、きっと快方の知らせであるようにとルディは願いました。
 頭を下げます。
「お邪魔しました、ごめんなさい。……昼のことも。お許しください。どうか、ケンニヒ様もお大事に……」
 戸口をくぐりながら、一度、ルディは振り返りました。まだケンニヒ様はそこに立ったままです。ルディが出るまで見届けるつもりのようでした。
 彼のまとう、見る者を威圧する空気はルディがこれまで知っていたものと、なんら変わりないように思えます。
「ケンニヒ様」
 しかし、重ねて不躾ぶしつけだとは分かっていても、最後に聞かずにはいられませんでした。相づちを打つほどの気さくさも相手にはないというのに。
「どうして、僕に、答えてくださったのですか?」
「お前が聞くからだ」
 拍子抜けするような返事でした。しかしルディが納得できずにいても、それはケンニヒ様が配慮すべきことではありません。外へと押しやるように歩みより、戸口に手をかけました。
 身を退いたルディに、低い声で続けます。
「ふるえながら聞くほど、あの女が大切か」
 それは先ほどの自分のことに違いありません。目に見えてびくついていたのでしょう。ルディは頬を赤くして、うつむきました。
 大切? あの人が? それは、恐れ多い考えではないでしょうか。自分が近衛兵達のように、強く、あの人を守る立場であるならともかく。相手は身分の高い人ですから。侍女として、気づかいするのは当然に思えます。
 しかし胸の内の使命感が、職務的なものとして、理屈だけで説明のつくことではないようにも感じました。
「分かりません」
 情けなく、首を振ります。
「俺もそうだ」
 ケンニヒ様はそう言って、戸を閉めました。
 少しの間、ルディはその場にとどまったままでいました。
 ケンニヒ様の言葉を反芻します。あの短い言葉がどこまでの意味を含むのでしょう。たくましく力強い彼と、小さく非力な自分との間に、似通っているところがあると言うのでしょうか。
 考えれば考えるほど、それはぼやけて、つかみ所のないものになっていきました。いくら兵舎の戸を見つめても、それが再び開かれることはありません。湖面が小石を投じられてざわめくように、ゆれる胸をきながら、ルディはその場を離れました。
 さてまた、何か用事はあるかと、女中頭にたずねなければなりません。
 門を守る近衛兵の前を通るとき、無意識にルディは彼らの顔を見つめていました。皆、どこか思いつめた顔をしています。
 何があったか知った今では、彼らの思いが理解できました。
 想像します。
 ヴォリカテルトの砦に、彼らはたどり着きます。勝利を手に、城は目前です。危険な敵地を遠く離れ、明日には故郷というその日に。気のゆるみもあったのでしょう。
 油断をついて、ひそんでいた何者かが、彼らの目の前で、あの人を傷つけたのです。
 深く。
 近衛兵の、本質を問われる事態であることは間違いありません。彼らは近衛兵です。己の命に代えても主君を守るのが責務です。だから、皆、神経を尖らせ、警備にあたっています。
 しかし――と、ケンニヒ様の顔を思い出します。彼のけわしい顔つきの内側に秘めたものは、大なり小なり、他の近衛兵達にも見て取れました。
 彼らの顔に浮かぶ苦悶くもんは、敵への怒りばかりではないようです。エヴァの、美しくも恐ろしい怒りが向く先は純粋に他者であるのに比べて、彼らのそれは、自分自身に向けられたものでもあるのでしょう。守るべき人を守れなかった自責の念です。
 この献身が、職務にまつわる義務感だけで成し得ることでしょうか。あるいは保身や、功名心のためだけに。いくら、戦争でさえ名誉のためだけではなく、実利を求めてのことだとしても。彼らの忠誠心もまた本当のものでしょう。
 そこには感情があるのです。
 あの人が大切かと、ケンニヒ様は聞きました。
 分からないと答えると、自分もそうだと。
(それでもあなたは命を捧げるのですね)
 彼らが胸に抱く覚悟の大きさに、押しつぶされそうになります。
 同じものが、この胸にもあると――
 祈るような気持ちで、ルディは先へ急ぎました。


 そして夜になる頃、彼らが戸口を叩きました。
 正門ではなく、裏手の通用門から。
 それは、思わぬ形で。
 負傷した兵士達が、列をなして、帰還したのです。
 彼らは闇に紛れて、栄光のかげに隠れるように。
 最初は立って歩ける者達が、次に馬車の荷台に乗って、歩けない者達が、そして、横たわる者達の中には、故郷を前にすでに息絶えた者もいました。
 死体があればまだまし、、で、たいていの死人は、戦地で打ち捨てられたまま、訃報ふほうばかりが届けられました。あるいは、それすらない者は、行方も知れないと。
 城の片隅に仮の野営が張られ、医者が呼ばれました。ろくに手当てもできない旅路の中で、傷口にはうじがわき、腐り始めています。うみの臭いのこもる中を、ルディは求められるままに立ち回りました。水差しをとり、湯を沸かし、シーツを裂いて包帯を作ります。
 華々しい戦果の裏は、悲惨なものでした。
 快勝とは言っても、血を流さずに終わったわけではありません。こちらの流す血が、あちらの流す血よりいくぶんか少なかったという、それだけの話です。
 ルディも何度か言葉を交わしたことのある、近衛兵の一人は腕を失っていました。毒矢に当たり、手のほどこしようがなく、切断したそうです。
 兵士にも、戦闘に巻きこまれた使用人にも、犠牲は尽きませんでした。
 女中仲間の一人が、帰りを待っていた兄は――――戦地で死んだらしいと、聞きました。
 昨日、彼女が兄について話すとき、すでに彼は死んでいたのだと――奇妙な感覚におそわれました。彼が生きていると、信じるどころか、疑いすらしなかった無邪気さが急に、うすら寒いものに感じられました。
 それは昨日、気付かずに毒を運んでいた自分にも重なります。無知で、無邪気で、考えないというのはおおよそ、無様で、不適当で、罪深いことだと痛感します。
 野営の布越しに聞こえるうめき声が、胸をさらに責め立てます。
「痛い」
「助けてくれ」
「母さん」
 中の人々の苦痛を思い、そして、閉ざされた扉の向こうを思います。
 気付けば、ルディの目から涙があふれていました。
 布を洗う手の止まったルディに気付いて、医者の助手が叱責しっせきを飛ばします。
「しっかりしろよ。男だろう」
 ルディは男の格好をしていました。
 では、あの人は?
 女のように泣くことが許されず、男のように強くあっても認められない、あの人は? 男よりも強くなければならない、あの人は?
 扉の向こうでどのように、独り、痛みに耐えているのでしょうか。
 しかし、今ここで弱々しく涙をこぼす自分と対比したとき、思い浮かんだのは気を失ったあの人の姿ではありませんでした。
 馬上で毅然きぜんと前を見据えるまなざし。倒れるまで歩き続けた誇り高さ。
 まざまざと脳裏によみがえります。
 それを哀れむべきでしょうか。
 舌先をルディは噛みしめました。手の甲で涙をぬぐいます。再び手を動かします。布の汚れをこすり落とし、かたくしぼります。手が痛くなるまで。


  ***


 暗闇の中で、ルディは目を覚ましました。人の声がしたようで、部屋から廊下に出て、しかし見渡す限りだれもいませんでした。ひどく混乱して、自分の手を見下ろし、血にもうみにも汚れていないことに安心します。そのような夢を見て、うなされていたということでしょうか。
 負傷兵達の手当ては、夜半やはんが過ぎるまで続きました。それから休みましたが、簡単に寝つけるような状況ではありません。
 春とは言っても、日が沈めば冷えます。ルディは肩をよせました。
 窓から外を見ると、二つある月の内、子月こづきが西の空に傾いていました。この時期、母月ははづきは子月と同じ時間には姿を見せません。一人で夜に浮かぶ子月は小さく、しかし今夜は丸々とふくらんで、懸命けんめいに空をこぐようにも見えました。
 あと数時間で夜が明けるでしょうか。
 月明かりで照らされた廊下を眺めます。喉が乾いていました。部屋にあるろうそくが残り少ないのを思います。所々の燭台しょくだいには火がつけられていますし、一つとは言え今日は満月です。夜の廊下を手探りで歩くのには慣れています。 あかりを持たずにルディは歩き出しました。
 昨日井戸から汲みおいた水が、厨房にまだ残っているかもしれません。
 だれも起きない内に、家中のかめを満たしておくのは、ルディの仕事でした。――昔――とは言ってもそう遠くない過去――の話です。窓のない部屋から廊下に出て、外をうかがう、その習慣だけは今も変わりません。壁を伝い歩く廊下の暗さに、一瞬、ルディは自分がどこにいるのか見失いそうになりました。ここに来て何度も経験した錯覚です。
 頭を振り、地図を思い浮かべます。ベルスートの、城館の北側の使用人区画。ルディの部屋はその一角にあります。厨房に行くには、使用人廊下を抜け、正面広間にある主階段のかげを通ります。
 寝静まっていますから、足音を立てないように。正面広間にさしかかったところで、そこに立つ衛兵のことを思い出しました。今は城中で近衛兵が見張りをしていますが、普段からも、要所では衛兵が寝ずの番をしています。彼らもきっと、ただならぬ空気に気付いているでしょう。物陰に隠れてこそこそしていては、余計な心配をさせるかも知れません。
 正面広間に出ると、彼らに声をかけておこうとルディはあたりを見回しました。いつも、燭台に照らされた主階段の下に衛兵が二人が立っています。
 ふと、思いがけない方向に人の気配を感じます。
 正確には、人のたてる様々なにおいが入り交じったものの残り香です。目の前を通り過ぎ、右手にある、雑々とした物が置いてある小部屋へ。
 いやな予感がしました。
 酒を飲んだ衛兵が居眠りをしていて、問題になったことがあります。ときには夜の物陰で、恋仲にある男女が逢瀬おうせをしていることも、あるそうです。しかしその気配からは、そういった心をうわつかせるような元素は少しも感じられません。
 ルディは小部屋に立ち入りました。無造作に置かれた、ほうき、おけ、壷、木箱――――大きな棚のかげに男が二人、折り重なるように倒れています。
 駆けよります。血のにおいはしません。揺さぶると、声すらあげないものの、ちゃんと熱を持っていました。気を失っているだけでしょうか。生きています。たくましい体は、おそらく兵士のものです。
 助けを呼ぼうと広間に戻ると、剣のぶつかる音が聞こえました。
 上――
 考えるより早く、ルディは走り出していました。
 主階段を二階にのぼり、左に折れます。廊下の向こう、多数の人影がもみ合っていました。燭台しょくだいの炎に照らされて、光と影がめまぐるしく入り乱れます。
 鎧を着ているのが兵士、四人、襲いかかる者が――五人? 黒い服を着て、影そのもののようです。
 影の一つが手を振り上げ、きらめく粒子が宙を舞いました。それを正面からかぶった兵士の一人が、声もなく崩れ落ちます。
 眠りの粉!
「ケンニヒ様!」
 ひときわ大きな背中に、叫びます。彼の真うしろで、再び影が粉を放っていました。
 振り向きざまに、ケンニヒ様は左手で自身をかばいます。金色に光る籠手こてが、あっと思うに、大きな盾に姿を変えていました。巨体の持つ勢いのままに、影を壁に押しつけます。続けざまに、剣のつかで殴りつけ、影が力を失います。
 聞いたことがあります。ケンニヒ様の持つ、盾とやりの話を。古代の英雄が使っていた武具で、普段は籠手の姿をして、使用者がひとたび命じれば、盾と鎗の姿を取り戻すのです。魔法の粉の効果も打ち払ってしまうようでした。今も、一呼吸とおかず、盾は籠手に変わっていました。
 もう一つ、影が兵士の剣で横に跳ばされました。
 兵士も影も残るは三人。かなわないと見たのか、影達がこちらに身をひるがえします。
 ルディが逃げるひまはありませんでした。肩をつかまれ、背後に回りこんだ影に首を押さえこまれます。
「近よるな!」
 その男が何を目的としていたのか、ルディは理解できませんでした。目の前にちらつく刃が、ふるえているのを認識したくらいで。その一瞬が、ひどく冗長に感じられました。
 ああもしかすると、彼らがためらうことを期待したのでしょうか。
 闇の中で、ケンニヒ様の金色の眼が見えます。間髪もなく、それは眼前がんぜんにありました。
 大きな手が、男の短刀を持つ手をつかみ、横に引き倒します。怪我をしているはずの左手で、すさまじい力でした。男の口から息が漏れます。男の手に絡められたまま、ルディも足を払われます。二人分の体が、ほとんど苦もなく宙に浮きました。ケンニヒ様がなおも腕を引き、ひねります。
 ちょうどルディの頭のうしろで、にぶい音がしました。
 地面に倒れ、男が悲鳴をあげて体を折り曲げます。弾かれるように、ルディは必死で手をのばし、ケンニヒ様の足元にい出ました。
 床に腰をつき、振り返ると、男は肩を押さえてのたうち回っています。その向こう、もはや遠くに離れた影が二つ、闇に溶けこむようでした。
「俺が行きます! ケンニヒ殿はシェリー様の所へ!」
 兵士の一人が、追おうと、駆け出した瞬間、闇の中に銀光がひらめきます。
 二つの影が形を崩します。人の形から人ではないものへ。切りはなされた紙がくうを舞うように。むっとしたにおいが飛び散ります。
 その合間から、女が現れました。どうっと重たい物が落ちる音がそのあとに続きます。窓から差しこむ月の光を受けて、闇にゆれる銀色の髪。決然とした足取り。
「サヒヤさん!」
 もつれる足で、ルディは立ちました。
 再び銀の光が闇にひらめき、ひとすじ、サヒヤの手元に吸いこまれます。剣をさやに収めたのです。彼女は燭台のあかりの照らす中に歩み出ました。出会ったときと、そして別れたときと同じ、旅装束でした。血しぶき一つ浴びず。
 床の上に倒れる人々を見て、彼女は顔をしかめました。
「馬鹿者! 殺してどうする!」
 殺気だった兵士の怒声にもまったくひるむことなく、口を開きます。
「お嬢様は?」
「寝室だ。ケンニヒ殿が向かわれた」
 振り返れば、彼の姿はどこにもありませんでした。とうに走り去ったようです。残った兵士の二人は、抜かりなく、気を失った影を後ろ手に拘束していきます。
「衛兵達も先に行っているはずだ」
「衛兵?」
 激しい違和感に、ルディは口を挟まずにはいられませんでした。
 階段の裏で、気を失った兵士を見つけました。何故、生きているとすぐ分かったのか――ふれれば温かく――鎧を、着ていなかったからです!
「違う! 衛兵じゃない! さっき見ました、階段の裏に本物の衛兵が――」
 サヒヤが駆け出します。
「ここは任せます!」
 と、声を張り上げた彼女の背中を、ルディは追いかけました。
 何故、そうしたのか、だって、サヒヤは侍女です。ルディも侍女です。
 光り輝く盾も、剣も、なくても。
 瞬く間に、サヒヤとのあいだに距離が開き、見失います。それでも、階段を駆け上がり、廊下を走ります。もみ合ったあとか、うずくまる人の影にも目もくれず、もっとも奥まった部分、西の――
 扉は開け放たれていました。
 息を切らしながら、踏み入った、そこでは奇妙な殺陣がくり広げられていました。
 衛兵の皮をかぶった影が一つ、それに組みかかる大きな男、女が剣を抜こうとし、部屋のすみには横たわる女の体。
 そして舞台の中央、寝台に、もう一つの影が足をかけ、おおい被さっていました。
 すべてを月の光がこうこうと照らしていました。窓の外で、はちきれんばかりの子月。
 何一つ身動きしない世界の中で、丸い物が一つ、跳ねました。
 回転し、黒い筋をいくつも散らしながら、跳ねる球は、ああ――
 首。
 寝台の影が斬り払った方向に、弧をえがいて飛んでいきます。見る間に勢いを失い、地面に落ちる直前で、それは赤い三日月の形に裂けました。中に、白い牙が光り、ゆがむ。
「私は血とけがれの子」
 と三日月が
「私はあがないの娘」
 地に落ちるまでの
「私はいびつの魔女」
 永遠のような時間の中で
「私が曲がれと命じたら、世界は曲がる」
 そしてそのとおりになりました。
 寝台の、天蓋を支える柱がゆらめきます。見れば、衣装棚も、壁の角も、窓も、ありとあらゆる直線は波打ち、折れ、曲がり、好き勝手に形を変えていました。とても天井など支え切れません。
 寝台に乗った影が、背を反らせます。ぶるぶるとふるえて、両腕をてんでばらばらの方向に、ぴんとのばします。首がねじれて、一つ回り、どんどんねじれて、ぱっと弾け飛びます。
 できの悪い、操り人形の見せ物のようでした。ほらだっていつか格子の隙間から盗み見た、車のついた小さな舞台のように、人も物も厚みを失っています。操り師の口上に従って、かくかくと動くのです。
 外の子月はますますふくれあがり、窓という窓を飲みこもうとしていました。白く、大きく、それなのに、なんて暗い!
 寝台から闇がこんこんと湧いていました。影よりもなお深く、あふれ、流れ出て、水かさを増し、部屋の中はまったく闇に沈んでいました。
 足元が大きくかしぎます。倒れそうになり、ルディは踏みとどまりました。頭が割れそうなほどの痛みに、かすかな正気をたぐりよせます。
 ひどいめまいがしました。数歩、なんとか前に進んで、しかしそこでひざから崩れ落ちます。壁のように直立する床に手をつき、這って、進みました。なおも寝台に足をかけている影に手をのばします。ほとんど自分が何をしているかの自覚もなしに、その背中にルディはすがりつきました。服をつかんで、引きます。
 (だめ)
 (だめ)
 (だめ)
 それ以上させてはいけない、と自分自身がルディを突き動かします。この場所を侵させてはいけない。そこを踏み荒らす無法者の存在をこれ以上許しておけませんでした。
 そこはとても恐ろしいと同時にとても尊い所です。
 大切な場所です。
 (離れて――!)
 渾身こんしんの力を、ルディは両手にこめました。
 鳴り響いていた、騒がしい音楽が止まりました。耳に痛いほどの静寂の中、もはやルディに顔を上げる気力もありません。
 しかし気がつけば、寝台の上の闇は人の形をとっていました。見えているわけでもないのに分かります。
 闇は、寝台の上で体を起こし、影のねじ切れた首を抱いていました。はっとして見れ、、ば、床に落ちかけた首はもうありません。
 闇が、影の首に頬をよせます。母親が赤子を抱くようでした。闇が三日月に裂けて、声もなく笑います。
 いつの間にか、その人が手に持つのは自分の首に変わっていました。自分がゆっくりとまぶたを閉じます。床にうつ伏せになったままそれを、見ました。
 刹那、光がひらめきます。
 金の光。銀の光。闇をぎ払います。闇は裂け、ちぎれ、やがて跡形もなく霧散します。
 目を開けると、おだやかなあかりが目に入りました。そこら中に置かれたたくさんの燭台に、ろうそくがゆらめいています。寝台も、床も壁も、戸棚も、あるべき姿であるべき場所に、室内は正常に戻っていました。窓から見える西の空には、小さな子月。
 見上げれば、赤い星が二つ。ルディを見下ろしています。
 それが何であるか気付いて、ルディは目を見張りました。体をこわばらせ、狼ににらまれた兎のように、息をひそめます。
 音を立てずに、今すぐ、この場から逃げ去れればいいのですが。頬をさする手が、それを許しませんでした。
 かちりと金属が合わさる音がしました。サヒヤが剣を納めたのです。
「ただいま帰城いたしました、お嬢様」
 と、彼女はひざを折りました。
「おかえり、私の剣」
 赤い眼がルディから離れて、彼女を見ます。
 サヒヤは忌々いまいましげに顔をしかめ、乱れた三つ編みを背中に払いました。
「着いて早々、胸の悪くなるようなものを見せていただきました」
「お前達が、良いところに入ってくるからだ。せっかく趣向をこらしたもてなしが、あと少しというところで台無しだ」
「それが悪趣味だと言っているのです」
 彼女は、自然な動作で、ルディを助け起こしました。ほっと息をつくと同時に、頭にふれていた熱が急速に失われるのに、何故か胸が締めつけられるようでした。
 振り返れば、さっきまで自分がいた場所、ひざの上を、その人は見つめていました。それからまた口を開きます。
「私の盾」
 ケンニヒ様はわずかにうなずきました。
「このたびも、よく働いた。何人生け捕りにできた?」
「ここを含めて四人だ」
「上出来だ」
 影――に見えていたもの、刺客が、完全に気を失ったのか、ぴくりとも動かず床に突っ伏しています。一人は自分のすぐ足元で、ルディはあわてて身を引きました。首は、ねじ切れたはずの首は、ちゃんと胴体につながっています。ただ意識を失っているだけのようでした。
 部屋のすみで倒れていた女が、のろのろと顔を上げます。エヴァでした。歩みよったサヒヤの手を借りて、立ち上がります。
「お体に、さわりはございませんか」
 倒れた拍子に打ったのか、それとも幻を見た後遺症か、頭を押さえながら、しかしエヴァが最初に気づかったのは、その人のことでした。
「あの程度、何でもないさ。お前こそ怪我はないか?」
「ご心配には及びません」
 最後に、その人はシーツを払いのけ、寝台のふちに腰掛けました。素足で床に降り立ちます。怪我などみじんも感じさせない身のこなしでしたが、ゆったりと作られた寝衣のえり元からは、包帯が見えました。右腕を前にのばし、手を開き、また閉じます。
「やれやれ、すっかり体がなまった」
「たった一日だ」
「一日もだ。馬車の中より退屈だな。一日中、寝室で寝たきりとは」
「どうかご無理をなさらないでください。また傷が開きます」
「その前に、靴をお履きなさい」
 侍女達の忠告を、おかしそうに笑います。
 ああこれで、何もかも、元通りです。 帰ってきました。みんな帰ってきました。
 彼らから一歩離れて、ルディは胸のつまる思いでいました。
「ああ、ルディ」
 その口が、声が、自分を呼びます。
 なんの気負いもなしに、その人はルディの間合いに踏み入りました。その足取りは確かです。それを見て、とうとう涙が溢れ出しました。あとからあとから、舌先を噛んでも止まりません。
「可哀想に。怖かっただろう」
 その手が、ルディの頭にふれ、なでさすりました。
 いいえ、いいえ、と頭の中でくり返します。
 額から、頬に下り、涙をぬぐうその手をそっと握ります。
 その人がルディの手をとり、汚くないと言ったように。
 真冬の朝に、冷えた手をあたためてくれたように。
「あなたが……無事で、良かった」
 その手のあたたかさを深くまで感じながら、ルディは微笑みました。