第八幕 『願い』

 朝が来ました。
 ルディはいつものように、夜明けとともに目を覚ましました。体をいて、侍女服に着替えます。廊下に出ると、同じように他の使用人の起き出す音が、そこら中からしました。平時と何ら変わりのない雰囲気です。
 彼らはおそらく、昨日の騒ぎを知らないでしょう。必要であれば、兵士の口からおおやけにされます。だれかに問われる前にと、ルディは足早に使用人廊下を通り抜けました。
 ほとんど眠っていないはずでしたが、階段をのぼる足取りは軽く感じられました。窓から見る空は青く、晴れています。城内は朝の光を浴びて、宙に舞うほこりの粒まで輝いて見えました。
 銀盆と水差しなんかの一式を持って、お嬢様の寝室の前に立ちます。扉は再び閉ざされていました。
 昨日の今日だというのはだれしも同じです。あのあとすぐルディは部屋に返されましたが、他の面々は、それぞれあとの対処を言い渡されているようでした。看病をしていたエヴァも、旅から帰ったばかりのサヒヤも、疲れているでしょう。だから自分の仕事と思って、ルディは朝の支度を志願したのですが。
 当の本人は、どうでしょう。
 おそるおそる、ルディは扉を叩きました。返事を待ちます。少し間があって、昨日の夜のことは夢だったのかと疑う内に、中から声が聞こえました。ほっとして、鍵を回します。
 お嬢様のにおいがします。覗きこむと、まだ寝台で横になったままでした。
「ごめんなさい。あの、もっと休まれますか?」
「……いいや。カーテンを開けろ」
 言われるままにルディは部屋に入り、分厚いカーテンを引きました。勢いよく、朝の光が差しこみます。お嬢様は顔をしかめ、手を顔の前にかざしました。ルディがカーテンをすべて開け終えるとようやく、寝台の上に体を起こします。あくびを噛み殺し、いかにも眠たげでした。
 たしか、お嬢様は寝起きの悪い方ではなかったと思うのですが。朝はたいてい、侍女達が声をかけるまでもなく目を覚ましていて、そのあともぐずぐずとシーツにくるまっているなんてことはありませんでした。
 毎朝のことですから。寝起きの良さは、従者を持つ主人としては結構な美徳なのだと、前にルディは聞きました。声をかけただけで怒鳴り散らされたり、耳元で鐘を叩かなければいけない、なんて話を聞くと、確かにそうだろうと納得しました。
 そんなお嬢様がいまだに寝台の上でぼうっとしています。心配になって、その横顔をルディは注意深く見つめました。朝日に照らされた顔色は、悪くなさそうです。つ前より、肌は日に焼けていました。髪も、肩にかかるくらいまでのびています。
 艶やかな黒髪です。頭のうしろの、寝癖ではねたあたりをブラシですいたら、さぞ気持ちが良いだろうなと、思いました。
 その手触りとともに、一つ一つ、支度の手順を思い返します。ルディは寝台のそばに行き、棚の上に置いた銀盆に水差しの水を注ぎました。布巾を濡らし、いまだにまばたきをくり返すお嬢様に手渡します。
 それで顔をぬぐって、お嬢様は人心地ついたようでした。
「昨日の夜あたりに来るだろうと思って、待っていたからな」
 と、これは、眠気の言い訳でしょうか。
「あのとおりだ。待った甲斐があった」
「あの人達の、ことですか?」
 影――とルディは認識していました。刺客とか、暗殺者とか、言うのでしょう。
「ああ。だから鍵を開けて待っていた」
 その言葉で、この部屋の扉が難なく開かれていたことを思い出します。今見てみても、どこにもこじ開けたような箇所はありませんでした。
「あれは……僕達が見たのは、なんだったのですか?」
 幻。操り人形の舞台のような、とても奇妙で現実感の薄い、それでいて只中ただなかにいるときには現実と疑いもしなかった、幻です。
蜘蛛くもの巣のようなものだ。罠を張って、獲物がかかるのを待つ」
 あいまいな言い方に、魔法、もとい魔術のことだろうと、見当をつけます。
「急ごしらえではあったがなかなかよくできた。思った以上に多く獲物がかかったな」
 それは、影二つのことだけではなくて――自分達のことも含まれるのだと、気付いて、うすら寒くなりました。蜘蛛くも本人は、にこにこと上機嫌です。
「仕上げがまた傑作だったはずだがな。あと少しというところで、興を理解しない無粋者達に破られた。英雄の盾と露の刃にはさすがにかなわんか。そしてあの二人、どちらも並みの強者つわものではない。糸に絡まれながらも武具をふるってみせた」
 そこまで言って、お嬢様はルディを見上げました。
「そんな中、よく動けたものだ。お前は頑張ったよ」
 面映おもはゆくなって、ルディはうつむきました。あれが蜘蛛くもの巣だというなら、ルディはただもがいていただけです。計画の邪魔にさえなったのではないでしょうか。
 おまけに、あんなことまで。
 どちらも同じように恥ずかしいことで、どちらがより罪深いかを考えますが、答えが出ません。
 幻を見ながらいつの間にたどり着いたのか、座るお嬢様のひざの上に頭を乗せていました。そして幻が消えたあとだったにも関わらず、お嬢様の手をとり、泣いてしまいました。お嬢様は何も言いませんでした。ルディが泣きやむまで、もう片方の手で頭をなでてくれていました。
 大変な失礼をしたから謝ろうと思って、しかし不思議と、後悔の念は浮かんでこないのです。恥ずかしくて頬が熱くなるのですが、胸には、あたたかいものが湧いてきます。この気持ちを失いたくなくて、口先だけでも謝ろうという気が起きませんでした。
 ああやはり、悪いことを考えるようになったものです。
 お嬢様が責めないのをいいことに、ルディは自分自身の葛藤に折り合いをつけないまま、話を変えました。
「怪我は、大丈夫ですか?」
 今も、薬のにおいが部屋にただよっています。
 お嬢様は自分の体を見下ろし、胸元をなでました。一昨日、血がにじんでいた部分であり、昨日、包帯の巻かれていた部分です。中央よりは少し左よりに傷があるようでした。
 にやりと笑います。
「見てみるか?」
「いいえ、いいえ」
 とんでもないことだと、ルディは首を横に振りました。できれば、傷など見たくありません。それに、包帯を外して元に戻せなければ、エヴァに迷惑をかけてしまいます。きっと、しっかり巻いてあるでしょうから。
「心臓を狙ったのだろうな。エヴァが言うにはわずかにそれたらしい」
「よかった……」
「近衛達がよく防いだ」
「あ……ラールさんも、怪我をしたって」
 お嬢様は笑うのをやめます。
「だれから聞いた? エヴァか?」
「いえ……その……ケンニヒ様に。あの、ごめんなさい、僕が無理に聞いたんです」
 ルディは自分のうかつさを呪いましたが、幸い、お嬢様は意外そうな顔をしただけでした。
「ふうん。あいつが話すとは珍しいな」
 それから、じっと前をにらみつけます。
「ラールの方が、私よりよほど傷は深い。ケンニヒも傷つけられた。皆、私のためだ。彼らの献身にはむくいねばならん」
 遠く、何を見つめているのでしょうか。眉をきりりと引き締め、静かな決意を秘めたまなざしでした。
「だから、凱旋を?」
 無理をしてまで――と頭の中で続けます。まるでなんでもないことのように、お嬢様は答えました。
「あと数歩だったな。部屋に入るまでつと思ったが」
 口元に手をやり、考える仕草をします。
「お前もあの場にいたか?」
「はい」
「そうか。あまり覚えていないな」
 神妙な面持おももち、と言うのでしょうか。真面目な顔です。あまり覚えのないことですが、そんな顔でお嬢様は、そのときの状況を思い出しては、反省の材料にしようとしているようでした。
「血が、たくさん出ていました」
「ああ、そうだ。縫ってはあったが、馬に揺られて傷が開いた。町に入ったあたりからだな。血が止まらなかった」
 想像するだけで、ぞっとします。
「そんな……もう、大丈夫なんですか?」
「流れ出た分にはすぐ輸血されたからな」
「輸血?」
「血を外から入れた」
 なんて恐ろしい治療だろうと、自分自身の血の気が引く気がしました。エヴァがするのだから、きっと間違いはないのでしょうが。そんなことまでしなければならなかったなんて、返す返す、とても危ない状況だったのだと理解します。それでいて目の前の人は、転んでひざをすりむいた程度にも感じていない風に見えました。
「肺に傷がついたらしい」
 と、寝台の背もたれに体を預けます。
「治るまでしばらくは大人しくしていろと」
 そればかりが無念だと言いたげでした。
 肺、というのがなんなのかルディには分かりませんでしたが、脈打つ心臓と同じように、重要な器官であるのは間違いないでしょう。思わず、ルディはどうやってお嬢様を寝台に縛りつけるか、考えました。
 もちろん、それは無理な話です。
「ああ、しかし昼には、皆の前には姿を見せるぞ。書き仕事ならできるだろう。将達の論功行賞ろんこうこうしょうもしなければな」
「痛くは、ないんですか……」
 ふるえる声でルディが聞くと、お嬢様はただ、笑ってみせるだけでした。
 弱みを見せればあなどられる――その言葉が、よみがえります。何故、無理をしてまで凱旋をしたのか、遠回しな問いが、はぐらかされたことに気付きます。無理をしなければならないのです。痛くても痛くないふりをしなければ、やはり女だとさげすまれ、その地位すら危うくなるのです。
 男々しいという言葉が、勇ましく、優れた様を表すのとは反対に、女々しいとは、弱く、劣った様を表します。生まれついての身分というものがあって、王侯貴族と平民、奴隷に別と差があるように、男と女にも違いがあるのです。正当な跡取りとして認められるのは男だけでした。
 同じ家に生まれてさえ、父親のいる子かいない子かで扱いの違うことは、ルディも身に染みて知っています。そういった生まれにまつわる様々なものは、どれも、生まれついてであるがゆえに、理不尽でした。だれしもが自分の立場を選んで生まれることはできず、また生まれたあとに変えることもできないのですから。
 この人は、そういったものに常に立ち向かってきたのでしょう。男のように馬に乗り、男のように剣を振るい、男のように戦場へ出かけます。男であっても傷つき倒れれば悲鳴をあげるというのに、女であるがために、それすら許されません。女に生まれながらに男のように生きようとするならば、男よりも男々しくなければいけないのです。
 それを気の毒だと、思うことはルディにはできません。勇ましく振る舞おうとする『意地』を――誇り高さを、引きとどめることもできません。
 ならばせめてと、同じように笑ってみせます。きっと、自分のそれはひどく気弱に見えるだろうなと自覚しながら。
「そうですね。お嬢様の姿を見たら……みんなきっと、喜びます」
 お嬢様はルディの顔を、少しのあいだじっと見つめていました。
 そしてまた前を向き、笑います。
「そうか」
 ああなんだか慣れないことをしたなと、ルディは右手で頬を押さえました。引きつってはいなかったかと心配になります。けれど、気づかいや慰めのつもりはありませんでした。
 その内に、お嬢様は自分の右手を前に出し、しげしげと眺めました。開き、閉じて、言います。
「さて、それまでどう暇をつぶすか」
 いつもなら鍛錬の時間です。剣を握る感覚を思い出していたのでしょうか。エヴァから、体を激しく動かしてはいけない、特に鍛錬はもってのほかだと、かたく禁じられました。これだけはお嬢様も守るつもりのようです。
「お昼になったら、湯浴みに行きますか?」
「ああ」
 傷を濡らしてはいけないとも言われましたが、下半身、湯に浸かるくらいならいいようです。清潔を保つようにも言われましたし、何より、ベルスートの山から湧き出る熱い水に浸かるのが、お嬢様は大好きでした。きっと、気が晴れるでしょう。
 さてそれまでのひまつぶしと言えば。
「本でも、お持ちしましょうか」
「ああ、それもいいが」
 お嬢様はルディの方を向きました。
「今はお前の話が聞きたい」
 胸が、音をたてます。その上でルディは手を握りました。
「私のいない間に、良い子にしていたか?」
 ぎごちなく、うなずきます。
「はい、その……がんばりました。あの、みんな、良くしてくれて……」
「見習いではあっても私の侍女だからな。そうそう無下むげにできるものではない」
「ええ、本当に色々なことを、教えてもらいました」
 しかしそれらはなかなか言葉になりません。あれだけあったはずなのに。部屋に置いてきた書き付けのことを思います。毎日書いたので、元からあったページを使い切ってしまい、紙を足しました。あれが今手元にあれば、と考えて、しかしきれいなものではありませんから、だれかの目に触れさせるのは気が引けました。きっと笑われるでしょう。
「たくさん……」
 もごもごと、口の中で言葉がつまって、それらは押し合いへし合いする内に、だんだんとしぼんで行ってしまいました。困って、ルディは首を傾げます。
 お嬢様は、微笑みました。
「そうか。良い子だ」
 急に胸がざわざわと苦しくなります。おかしな感情――後悔が、湧き上がりました。
 今、お嬢様は寝台の上に座り、ルディはそばに立っています。話を聞かれた際に、その場にひざをついていればよかったのに――そう考えました。ずっと見下ろしているのは失礼だし、お嬢様もいちいち顔を上げてルディを見るのが大変だろうから――というのは、後付けの理由です。
 もし、お嬢様のすぐ近くにひざをついていたら――今、頭をなでられていたかもしれません。
 かっと顔が熱くなります。なんてことを考えるのかと、情けなくなりました。泣き出したくなって、お嬢様から目をそらします。
「どうした。私がいなくて寂しかったか?」
 お嬢様には違うことを考えているように見えたのでしょうか。「いいえ」とも「はい」とも言えず、ルディはうつむきました。
「ルディ、答えろ」
 その声は笑ったまま不穏さを含み、その手が、昨日ルディの頭をなでた手が、ふとももに触れます。ストッキングを透けて、熱がぞわぞわと這いのぼりました。
「あ……」
 何か耐えがたいものがあって、ルディは声を漏らします。布一枚隔てられただけの素肌に、手の形、指の一本一本が感じられました。あたたかく優しいはずだったその手が、今は猛禽の鉤爪かぎづめのように、ルディの肉の薄いももを鷲づかみにしています。親指が、内側の敏感な部分に食い込みました。
「ひっ」
 思わず背を曲げ、両腕を体の前で縮めます。下半身が動かせないまま、それは不自然な姿勢となりました。足に力をこめて立ちます。そうしなければ倒れてしまいそうでした。
「私に、同じことを二度聞かせるな」
「っごめんなさい……!」
 不穏さを増した声に、ルディは反射的に謝りました。
 同時に、軽やかな音が鳴りました。
 細かな金属の輪が、こすれ、お互いを弾いてたてる音です。首輪からのびる鎖がつながれた先――そこが見る間に起立するのを、ルディは絶望的な気持ちで見つめていました。
 ああやはり、ひざまづいておくべきでした。先ほどとは比べものにならない後悔が胸を襲います。床の上よりはるかに近く、お嬢様のほとんど目の前で、ルディのペニスはスカートを押し上げていました。
「ごめんなさいっ、失礼を――こんな、ごめんなさい――」
 ふとももをつかむ手をゆるめ、代わりにゆっくりと上下になでさすりながら、お嬢様は笑ってみせます。
「ああ、許せ。私は何もお前を罰したいのではない。お前が良い子にしていた褒美をやりたいだけだ」
 そしてスカート越しに、ルディのペニスの根元を握ります。
「ひゃあっ」
 弱く、形を確かめる程度の触れ方です。
「あっ、あっ、あっ――」
 しかしぞくぞくと背筋を快感が駆けのぼり、ルディはあえぎました。下腹部にどろどろとした熱が集まり、ますます高くペニスは首をもたげます。
 親指が、睾丸の裏をなぞり、あまやかな痛みを奏でました。それからお嬢様の手はじっとりと、みきを上にのぼります。すべて、あのときでさえ、自分では触れなかった場所です。
 先端、もっとも敏感な部分にその手が至り、あっけなくその瞬間は訪れました。
「あっ、あ――!」
 体の奥から熱がほとばしります。こらえるひまもありませんでした。勢いよく白濁が、スカートの中に吐き出されます。
 内から外へ、細く長い通路を、熱いものが噴き出す――実に数ヶ月ぶりの体感でした。
 呆然とする内に、熱は急速に失われていきます。
「あ…………」
 不可解な感情が胸を襲い、締めつけました。
 お嬢様の手の中でペニスが縮まっていきます。その手が、ルディから離れたとき、なおさら強く耐えがたいものを感じました。のどから、えづくような感覚がせり上がります。それを飲み下せず、ルディは痛む胸を押さえました。
 お嬢様は何も言わず、笑ってルディを見つめています。その赤い眼がけっして自分を放さないのを、ルディは知っていました。
 ひざをつきます。子供のように、床に座りこみます。
 お嬢様は悠然とルディを見下ろしました。それは、主人と従者としてあるべき姿でもあったでしょう。支配する者と、服従する者の形です。しかしルディは違うものを思っていました。
 弱く小さな自分。首を曲げて上を見ます。
 見下ろす赤い眼の女に、そうしたように。
 髪の長い女――お母様――ルディを見下ろして、優しく笑ってくれるお母様――ルディは手をのばします――
 記憶の中で断片が重なり合い、音をたてて符合ふごうしました。長らくルディには欠けていた感覚がよみがえります。それはお腹が空いたり、のどが渇いたりすることに似ています。必死に、ルディはその感覚を手元にたぐりよせました。
「お願いです、お嬢様……」
 それはしくも、許しを乞う言葉と同じでした。かろうじて、のどの奥から言葉を引き絞ります。心の中で手をのばします。
「……もっと、してください――」
 言ってしまってから、嵐のような後悔が胸を襲いました。手で口を押さえます。意識してのこととは言え、恐ろしさに体がふるえます。のどをこすりながら謝罪が這い出しました。
「ごめんなさい――ごめんなさい……」
 なんて浅ましいことを考えるのでしょう。欲するなんて。求めるなんて。与えられるとでも思ったのでしょうか! ルディに、求めるものが与えられないのは当然です。ルディはいやしくて、ばかで、まぬけで、役立たずで、ロバの子で――
 (ちがうちがうちがうちがう!)
 でもお母様は、抱き上げてくれました。ルディが手をのばせば、その手をとって、抱き上げてくれました!
 のどの奥で、懺悔ざんげの言葉を噛み潰します。
 お母様が死んで。
 求めて、得られることがなくなって。ならば、求めないでいることが、不幸にならなくてすむ唯一の方法でした。裏切られずにすみます。手をのばさなければ、振り払われることに傷つかなくてすむのです。
 だから、求めるのは恐ろしいことでした。いけないことでした。心のどこかで求めてしまう自分がいて、自分自身で、必死に踏みつけていました。だってそうでもしないと、生きていけなかったのです。
 今でさえ、どうしようもない罪の意識に、今すぐ床に頭をすりつけなければ、という衝動に駆られます。
 でも今前に座るこの人が、それで自分を許すことはないと、ルディは知っていました。歯を食いしばって耐えます。
 容赦というものを知らない人でした。慈悲はなく、情けもありませんでした。苛烈で、残酷で、人の心を踏みにじるのが好きでした。
 優しい人でした。ルディの名前を呼んでくれました。この城に居場所をくれました。本の読み方を教えてくれました。ベッドに寝かせてくれました。ほめてくれました。
 頭をなでてくれます。
 今だって。
 髪をすき、頬をなぞり、指の腹で涙をぬぐいます。
「良い子だ、ルディ」
 と、優しく笑います。
 ああ、どうして――――
 次々とこぼれる涙でその人の手を濡らしながら、ルディは思いました。
 どうして常に、この人の中に相反するものが渦巻いているのでしょう。
 優しさと残酷さ。尊いことと卑しいこと。無邪気さと計算高さ。
 お母様のようにただ無辺むべに優しくはありません。ひどいことをしておかしそうに笑っています。そして同じ顔で、こんなにも慈悲深く微笑むのです。
 月の満ち欠けよりももっと気まぐれに移り変わる様相に、振り回されるばかりでした。気軽に振りまく言葉がどこまで真摯しんしなのかをうかがわなければいけません。覗きこめば、深淵が闇をたたえています。
 その計り知れない闇の中から豊かに、この人は与えてくれるのです。すがりつけば、その手をとって救い上げてくれる――そういった確信が胸のどこかにあって、ルディは懇願したのでした。
 涙が止まる頃には、すっかりお嬢様の手の熱はルディの肌になじんでいました。これが離れるとき、また悲しくなるだろうなと考えます。
「泣き虫め」
 お嬢様が責めるでもなくそう言ったのに、頬を染めます。本当に、昨日から泣いてばかりでした。ルディは目を閉じて、お嬢様の手の方に顔を傾けます。
「あなたがいなくて、寂しかった」
 じっと、その手のあたたかさに感じ入ります。
 これが無くなるときの、喪失の痛みを思います。それがきっと、寂しいということなのでしょう。自分を照らしてきた、恐ろしくも大いなるものが失われた痛み。慣れ親しんだものが去っていったときの感覚です。
 やがて必ずそのときが来るにしても。
 そっと離れたお嬢様の手を、名残惜しくルディは見つめました。
「さて」
 とお嬢様は、濡れた手もそのままに、上掛けを払いのけます。寝台のふちから足を下ろし、ルディに向き合って腰かけました。笑います。
「それではお前はとても良い子だから、褒美をやろう」
 全身を、ぞくぞくと駆けずるものがありました。心臓が早鐘を打つのは、恐怖のためだけではありません。
 お嬢様が帰ってくると聞いて、淡く期待する自分がいたのを、もう否定できません。だってこの行為はお嬢様とルディのあいだに、いつもまつわってきたものです。
 ルディは床に座ったまま、両ひざを開き、背中をうしろにそらせました。体をさらけ出します。手を胸に、下半身をさえぎるものが何もないように。
 お嬢様の右足が、ためらいなくスカートの下に潜りこみました。
「あ……」
 驚いて、ルディは身じろぎします。服の上から触れられるだと思っていました。
「だめです、汚れます……」
 だって、お嬢様は今足に何も履いていません。さすがにそれは、恐れ多く感じられました。スカートの中には乾く間もなく、先ほどのほとばしりがついたままです。
 もちろん、お嬢様自身がそれに気付いていないはずはありません。ルディが戸惑う内に、濡れて貼りつくシュミーズをかき分け、指先と先端が触れ合いました。
「んっ」
 ひくりとふるえます。さっきしぼんだばかりだというのに、そこはもう反応し始めていました。お嬢様の指先に、自分をこすりつけるようです。
 少しお嬢様が足先を曲げると、爪が先端の丸みに食いこみました。
「あっ!」
 ペニスが跳ねます。スカートが一瞬浮き上がりました。
 恥ずかしくて、ルディは唇を引き結びます。待ち望む心とは裏腹に、やはりこれがうしろめたい行為だという思いは消えませんでした。
 再び床に伏せたそれに、お嬢様は踏みこみます。根本から先まで、足裏全体を押しつけました。固い絨毯の毛が裏面をなでます。
「あっ、あっ」
 軽く前後に揺すられると、毛足が逆立ち、また戻る、微細な触感が波のように伝わりました。ぞわぞわとむずがゆく、もどかしい触感です。筋に開けられたピアスが鎖とこすれて、きちきちと音をたてました。ちょっとした力加減で、お嬢様のかかとがペニスの先端の方をより強く押さえると、筋の裏を通るピアスで内から外から責められます。
 何よりも、ペニスを押さえつける足が、靴底とは違う、熱を持っています。スカートの中にお互いの熱がこもり、触れ合う部分は汗ばみ始めていました。
 それを意識して、ルディのペニスは一気にふくれ上がりました。
「はっ――あぁっ――」
 お嬢様の素足の下で、形を変えます。
 そこを、さらに強く押さえこまれました。
「ひっ」
 根本を、指で挟まれ、強くしごかれます。奥から先端へ、何度も、衝動を誘い出すようでした。
「んぅ――っ」
 体の芯に力を入れ、ルディはこらえます。つばを飲みこみます。今はもうその必要もないというのに、我慢する癖がついてしまっていました。
 それに反発するように、ペニスが勢いよく跳ね回ります。
「やっ――」
 ルディは両手で顔をおおいました。
「やだ、止まって――ごめんなさいっ」
 お嬢様の足の裏を、ペニスが何度も打ちます。鎖がせわしなく音をたてました。自分では制御できません。自分で自分を打ちつけて、その刺激にますます興奮していきます。
「元気なことだ」
 お嬢様が笑います。その声に、きゅう、と体の奥が引き絞られました。とっさに唇を噛み、体の内側の別の所に力をこめて、その衝動をよそにやります。今度は意識してのことでした。まだ、始まったばかりです。
 この瞬間ができるだけ長く続けばと、願っていました。先ほどはあまりにも早く終わってしまったから。
 もう先走りがにじみ、飛び散っているのでしょう。お嬢様のかかとは濡れ、粘ついていました。自分の出すものが、じかに、この人を汚しているのだと、その自覚は痛烈にルディの神経を高ぶらせました。自分を支える唯一の倫理のように感じていた罪の意識が、今日は逆に興奮を煽るのです。
 だって、部屋はこんなに明るいのに。皆、起きたばかりで、せわしなく城内を行き交う時間であるのに。奥に秘密を隠す夜の闇ではなく、何もかもを赤裸々せきららに照らす朝の光の中で。卑しい欲望をたぎらせる、その事実もまた、頭をしびれさせるようです。
「私のいない間、一人でどうしていた」
 と、お嬢様がそう聞きました。今度は足の指の付け根の部分で、ルディのペニスの真ん中あたりを踏みつけます。左右に揺さぶられると、形容しがたい感覚が生まれました。
 ちょうど、根本にも先端にも遠い、中途半端な場所です。敏感な部分をあえて外されたもどかしさに、答えるどころではなく、ルディは腰を浮かしました。
 そこを強く押さえこまれます。
「あぁ――っ!」
 悲鳴がのどから飛び出ます。先走りが尿道の中から一気に押し出される感触がありました。それほど強く踏まれて、しかし痛みにひるむどころか、ペニスはますます張りを増したようでした。最後の瞬間を待ちかまえて、ぶるぶるとふるえます。できる限り耐えようという決意は、今にも崩れ去りそうでした。
「どうした、答えろ」
 ゆるめて、また強く踏む。断続的に与えられる痛みに、息を切らしながら、なんとかルディは答えました。
「んっ、は、い、言われたとおりに……触ってませ、ん……っ」
 嘘ではありません。勝手に触ってはいけない場所だと教えられました。だから、汚れを落とすときだけしか、自分では触れていません。
 例えふれられたところで――これほどの思いが、できたでしょうか。
 今ならばあれがどれだけ愚かで空しい行為だったか、よく分かります。意味も分からず、自分で自分の体を慰めようとしていただけでした。
「そうか。それでお前は、今これほど喜んでいるわけか」
 今は、何か言われるたびに、体が芯から火照ほてります。
「…………はい」
 消え入りそうな声で、ルディは答えました。
 だって本当のことですから。体のことだけではありません。ルディの心が、喜びに満ちているのです。
 これまでいつも、心は体に引きずられるばかりでした。罪の意識にさいなまれ、弱い自分を責め、苦しいばかりでした。けれど今日は違います。
 お嬢様から与えられるものが自分の欲するそのものだと、すでにルディは認めてしまいました。
 痛みや、恥じらいさえも。
 ルディの様子に機嫌を良くしたのか、お嬢様は足の力をゆるめました。今度は足の裏全体で、ペニスを軽く押さえます。お嬢様の足と絨毯のあいだに、包みこまれるような感覚がありました。ルディは浅く息をくり返します。
 なでるだけの愛撫でした。初めこそ息を整える余裕を得られたと思ったものの、やがて物足りなさを感じるようになり、それは切なさに変わります。すぐに終わると思っていたもどかしさが、永遠のように長く感じられるほど続きました。
「あ……あの、お嬢様……っ」
「どうした」
 意を決して呼びかけはしたものの、とてもその先が続けられませんでした。強気にお嬢様は笑います。
「言ってみろ。これは褒美だ。お前の好きなように取らせよう」
 ルディが何を求めているのか分かって、言わせようとしているのでしょう。耳まで熱くなります。のどを震わせながら、ルディは声を絞り出しました。
「……もっと、してください……さっきみたいに……強く……っ」
 一つ一つ言葉を重ねるたびに、かっと体が燃え盛ります。
 お嬢様は首を傾げました。
「ああ、これでは物足りないか。そうだな、いつもは靴を履いていたからな。素足では弱すぎるか。私は内心、お前があれを好きではないのかと心配していたが、そうでもないようだ」
 もう何度も、これ以上はないというほど追いつめられているのに、お嬢様はまったく、責める手を休める気配はありません。
 靴の裏の冷たさ。濡れた革の匂い。かかとの角が当たる感触。思い出して、ペニスがびくりとふるえます。
「はい――いえっ――っ、でも……っ」
 体が覚えているのは靴の感覚です。しかし今はただ、二人のあいだに通う熱に感じ入りたいと願います。
「今日は、このまま……してください……」
「いいだろう。お前の望むとおりに」
 お嬢様はうなずいて、足に力をこめます。
「あっ!」
 すでに、ルディは待ちかまえていました。のどをそらします。ペニス全体が、押しつぶされました。形が変わるほど強く、さらにそのまま押し転がされると、絨毯のかたい毛がくまなくペニスに刺さります。
「あっ、あぁんっ、う――あぁっ」
 再び体の奥が引き絞られました。ペニスが跳ねようとして、お嬢様に踏みつけられて、叶いません。
「はぁっ――は――っ」
 次にお嬢様は足の指のあいだでみきを挟み、すべらせます。汗で蒸れ、先走りで濡れたお互いの表面はまったく抵抗することなく、勢いのままにこすれ合いました。強くしごかれるだけでも息ができないほどの快感でしたが、ときどき、爪が当たって表面を掻くのもまた、たまらない感覚でした。
「はっ、ああっ、あっ」
 とうとう、お嬢様の足はペニスの先端に至りました。丸みのふちを指で挟まれ、つねられると、意識が飛びそうになるほど強い刺激が襲いました。快感と痛みがないぜになって、ルディの理性をはぎ取ります。
「あ――!」
 口の端から唾液をとばしながら、ルディは声を上げました。
「う、あっ、ああぁっ!」
 ふちへの刺激をくり返されるだけでもたまらないというのに、やがてお嬢様は、足の裏で丸みを激しくこすり出しました。鈴口の敏感な粘膜が、足の裏の皮膚とこすれ合います。先走りはますます量を増し、スカートの中で、耳を押さえたくなるほどいやらしい音をまき散らしました。
「んっ、あっ――ふあっ、あんっ」
 とろけた思考で、すぐそこまで来ている絶頂のことを思います。体の奥は十分に引き絞られていました。熱い塊が、ルディの中で沸き上がっています。いつそれが爆発してもおかしくありません。間もなく、これ以上ないくらい張りつめたペニスの中を通って、外へ。飛び出すでしょう。
 その先を想像します。
 いつも、自分で出したものは、自分で処理します。床に落ちたものも、靴にかかったものも。自分でなめて、きれいにします。
 それが、今日は――どうなるか――想像した瞬間、ルディは射精しました。
「あ――っ、あぁ――――!」
 白濁がお嬢様の足を汚します。それでも勢いを失わず、スカートの中を荒れ狂います。自分のふとももにも飛び散りました。先ほどとは比べものにならない量です。ルディの中に溜まっていたものを、すべて流しきるようでした。
 自分の中で長らくよどんでいたものを、お嬢様めがけて吐き出す――不敬なことだと、自覚すればするほど快感が増すようでした。勢いはとどまるところを知りません。
 そして、それをお嬢様が知らないはずがないのです。知っていて、受けてくれていることに気付いて――これ以上の、幸福はありませんでした。
 熱情に身も心をゆだねます。口元を、唾液が伝うのもかまわずに、いっそそれさえ得がたい快楽の一つのように感じながら、ルディは絶頂を感じ尽くしました。
 白濁を吐ききり、それでも脈動はまだ続いていました。余韻よいんの波にさらされながらも、ルディの頭は徐々に理性を取り戻していきます。
 べっとりと濡れたシュミーズが下半身に重たく巻きついていました。
「あ……ごめんなさい、こんなに……」
 まだ見ぬ、その内側がいったいどうなっているのか、不安と、そして期待が入り混じります。
 お嬢様の足が動きました。
「ひっ!」
 先端の丸みを、指で捕まれます。ルディは体を折りました。どっと汗が噴き出します。
 絶頂したばかりで、感覚は異様に鋭敏になっていました。そこを容赦なく、お嬢様は指の腹でしごきます。快感とも痛みともつかないすさまじい刺激に、目をむきます。
「あんっ、ひっ、や、ああああぁっ!」
 萎えかけたペニスを下から上まで、中にわずかに残った白濁も絞り出されました。
「だめっ、や、ゆるして……! ごめんなさ――っ! ひあぁ!」
 これまでにないほどあられもなく、ルディは泣き叫びました。
「ごめんなさいっ、むりです、もっ……ごめんなざいっ!!」
 涙と唾液を散らしながら、懇願します。それを見下ろして、お嬢様は目を細めました。
「お前はよく学んでいるが、まだ言葉の使い方を知らないようだ」
 身をかがめます。ルディの首輪をつかみ、手元に引きよせました。眼前で言い聞かせます。
「私が褒美をやったのだ。こんなときなんと言う?」
 赤い眼に見据えられ、ルディは息をのみました。ああ、やはり恐ろしい人です。首輪をはなされ、床に力なく手をつきます。
 見上げると、挑むような、試すようなお嬢様の視線とぶつかります。
 気付けば、お嬢様の足はルディのペニスを軽くなでるだけになっていました。お嬢様の体温にくるまれ、ほとんど萎えているはずのペニスが薄く脈動します。のどの奥、胸、背筋、体中がきゅう、と締まりました。体がふるえるのは、恐怖と、そして――――
 これを言ってしまうのは大変なことだと、思いました。今さらのことです。しかし口にするのとしないのとでは、大きな差があるように感じられました。つまり、口に出して、認めてしまうことになります。
 望むとおりに与えられた、喜びを。この、ふしだらで、苦痛に満ちた行為を、望んでいるのだと。
「あ――……」
 それを口に出すことさえ、ぞくぞくと、喜びが背中を駆け上ります。その衝動に抗えず、だからこの言葉は半ばのあきらめと、しかし半ばの決心によるものでした。
 胸の前で祈るように手を組みます。
「ありがとうございます……」
 ルディはふるえる唇で、笑いました。


「砦で襲われたとき、強襲者を生け捕りにできなかった。全員殺してしまったからな」
 と、腰から下を湯につけながら、お嬢様は言いました。
「だから私自身をおとりにして罠を仕掛けた。相手にしてみれば、報告する者が帰ってこないから、砦での強襲が成功したのか失敗したのか分からない。私は何事もなく凱旋に出ている。だが何らかの事情で、すぐに自室にこもってしまった」
 朗々と語るお嬢様の背中を、石の床の上にひざをつきながら、ルディは見つめます。
「さあ、気になって仕方がない。はかりごとが成果を出したのか? ただの偶然か? 私の容態を確かめようにも面会謝絶、だれに聞いたところでらちもあかない。いずれにしろ好機だ。城内は勝利に浮つき、大勢の人間が出入りしている。今までの経験からして、私が伏せったとしてもせいぜい五日だ。
 だから二、三日の内にだれか訪ねてくるだろうと、蜘蛛の巣を張っていたわけだ」
 お嬢様は窓から天を仰ぎました。
「さて、せっかく生け捕りにした刺客はどうしているかな。尋問は任せてあるが……あとであちらにも行ってくるか」
 日は昇りきっておらず、時間はたくさんあります。朝早く起きて、昼前まで鍛錬をし、湯浴みで汗を流してから昼餉ひるげ。それが、つ前のお嬢様の日課でした。しかし今日のこれは、まだ朝と言って差し支えのない時間帯です。
 水面から絶え間なく湯気が立ちます。南向きの湯殿は、斜めの天井に開けられた明かりとりから春の日差しをいっぱいに受けていますが、それでもまだ少し肌寒く感じられました。
 湯気で曇る室内は白く輝いていて、ルディは所在なさを感じずにいられません。隅の、日の当たらない場所に体をちぢこめていました。
 本来なら、湯殿での仕事はルディの好きな仕事の一つでもありました。手元だけとはいえ湯に触れるのは心地の良いことですし、香草袋を浮かべると良い香りがします。石の湯船になみなみと熱い水が満ちているだけでも物珍しく、不思議で、心が浮き立ちますし、お嬢様の体についた汗や土埃が石鹸の泡とともに洗い流されるのも気持ちが良いものです。
 では何故、今日はこんなにも居心地が悪いかと言えば、先ほどの行為のせいであることは間違いありません。
 お嬢様の足を汚した自身の白濁をなめ落とすとき、いまだかつてない興奮を覚えて、ほとんどルディは正気を失ってしまいました。這いつくばって口づけ、指をしゃぶり、指のあいだに舌を差し入れる内に息が上がり、体は熱く、舌さえまともに動かせなくなりました。唾液が次から次へとあふれ、ろくにものも言えず、犬のように音をたててあえぐだけでした。
 そしてそれをお嬢様がつぶさに見ていました。
 一日の区切りどころか、ほとんど間もおかない先ほどの出来事です。お嬢様はなんということのない顔をしています。だからルディもなんとか平静を保っていられました。仕事をしなければいけません。
 一通り話し終えたらしく、黙ったお嬢様に声をかけます。
「髪を、洗いましょうか」
「そうだな」
 湯殿の中でできることはあまりありません。お嬢様はたいてい自分で好きなようにするので、せいぜい言われたら物をとったり、背中を流すくらいです。
 しかし胸の包帯を濡らさないようにと考えると、今日は一人で頭を洗うのは難しいでしょう。湯船の段差を使えば上手くいく気がしました。今お嬢様は、湯船の中の一段浅い所に腰かけています。そのまま、ふちに厚手の布を敷いて、仰向けに背中を乗せてもらいます。頭だけがふちからはみ出ます。首の下にも一枚、布を丸めてみました。首が楽になるし、首から下が濡れません。
 お嬢様はルディを見上げながら、少し感心した風でした。
「よく考えるな」
「どうでしょう……」
「傷はともかく、包帯のことならあまり考えるな。濡れれば喜んで換えに来るだろう」
 きっとエヴァのことです。だから余計に慎重に、ルディはお嬢様の髪の毛を濡らしました。盆に湯をすくい、少しずつかけます。
 十分に濡れたら、石鹸を手にとり、泡立てます。石鹸は木の実から絞った油でできていて、そこにさらに香油を混ぜていますから、とても良い匂いがします。シダーというよく香る木の油です。
 ルディが慣れない手つきで髪を洗い始めると、お嬢様は眼を閉じました。独り言のように言います。
「戦場というのは、不便な場所だ。湯はもとより、水差し一杯の水ですらままならない」
 そうだろうな、と想像します。町を離れれば、井戸もありません。水辺を行くならともかく、抱えていける水には限りがあるでしょう。
「せっかく帰って来たのだから、早く自由に湯につかれる身体になりたいものだ」
 と、腕を前にのばします。それがしなやかに動く様に、ルディは見入りました。
 だから、湯殿の仕事が好きです。
 お嬢様の引き締まった体は、太陽の光の下に惜しげもなくさらされます。日々の鍛錬の賜物たまものでしょう、腕も脚も胴体も、剣を振るうために鍛えられていて、光に当たるとくっきりとした陰影が浮かび上がります。
 とはいえやはり、その体は女のものです。世の人が好むようなふくよかさこそないものの、小振りな胸にほど良くふくらんだ腰と、全体としてゆるやかな曲線を描いています。
 濡れた肌はみずみずしさを増します。手にも足にも、一挙一動に生きる力がみなぎり、有り余ってこぼれるようです。ルディなどは自分の貧相な体を思って余計に、ほれぼれとしてしまうところがありました。
 自らの確固たる意志と、生まれついて天から与えられたものから形作られたその体は、とても美しいなと思うのです。
 こんなに美しいものを前にして、最初に脱衣場で失敗してしまったのが、思い返すたびに恥ずかしくなります。慣れていなかったせいでしょう。
「ああ」
 お嬢様が目を開けました。驚いて、手を止めたルディを見上げて、笑います。
「せっかく帰って来たんだ、お前のれた香茶が飲みたい」
「あ…………はい」
 ルディは頬を染め、うなずきました。
 お嬢様が再び眼を閉じたので、手元の作業に集中します。ほどなくして、一通り髪を洗い終えました。泡を流し、布巾でしっかりと水気をふき取ります。さあなんとかこれで、包帯を濡らさずにすんだのではないでしょうか。
 お嬢様は背中を起こすと、そのまま立ち上がりました。
「上がりますか?」
「ああ」
 お嬢様の先を歩き、ルディは脱衣場への戸を開けました。冷たい空気が吹きこみます。
 背後で、お嬢様の足音が止まりました。わずかに、息をのむ音がします。
 振り返ると、お嬢様は自分の体を見下ろしていました。赤い血が一筋、脚のあいだを伝います。
 一瞬、また胸の傷口が開いたのかと恐れ、すぐにそうではないことに気付きます。
「あ……少し、ここで待っていてください。当て布を準備してきます。すぐですから」
 脱衣場へ、ルディは上がりました。視界のすみで、お嬢様は肩をすくめたようでした。
「不便な体だ」
 小さくつぶやかれた言葉が、耳に残りました。


 お嬢様が軍服を着て、皆の前に姿を現したとき、やはり皆驚き、そしてその無事を喜びました。
「ああ姫様、よくぞお戻りになられました」
「戦では大変なご活躍だったんですってね」
「昨日はちっとも見えないから、お怪我でもなさったんじゃないかって心配してましたよ」
 口々に、ほめそやします。料理人は、たった一人のために腕を振るいました。晩餐会のように豪勢ではないけれど、温かい食事です。
 午後、さっそく重臣達を集めた十人議会が開かれました。その中で行われていることを、ルディは垣間見ることすらできません。おそらく不在のあいだの報告と、戦の功績と恩賞について話し合われているのでしょう。いつもの時間に香茶を出す準備をしていましたが、広間から人が出てくる様子はありませんでした。
 議会が終わってからもしばらく、お嬢様は腹心と呼ばれる数人の人々と、話し合っていました。
 結局、お嬢様が一息つくことができたのは、遅い夕餉ゆうげを終えて、自分の部屋に帰ってきてからでした。
「香茶を。熱いのがいい」
 そう言って、ソファに体を投げ出します。
 もう香茶の小部屋に湯を準備してありました。しかしルディはすぐには動きません。
「どうした」
 お嬢様は怪訝けげんそうな顔をします。
 昼間、お嬢様のいないあいだに、エヴァが寝室までやってきました。ルディはお嬢様が脱いだものを片づけている最中でした。エヴァにとってお嬢様の不在は目算の内だったようで、ルディにたずねます。
「お嬢様のご様子は、いかがでしたか」
「あ、月のものが始まってしまって……」
 お嬢様はそれがあってもあまりさわりのない方だと、聞いていました。それを理由に鍛錬や執務を休んだこともありません。
「でも、お元気そうです。湯浴みもなさって、今は十人議会に」
 湯浴みをしたお嬢様はさっぱりとした様子で、精力的に執務にあたっていました。まるで、怪我などないかのようです。服を着れば包帯も見えませんから、今日出会った人でそうと分かった人は少ないでしょう。
 エヴァは、ルディの気のゆるみを指摘しました。
「お元気そうに見えても、お怪我をなさっていますから、ご無理をなさらないよう注意し、十分お休みになっていただいてください」
「あ……」
 ルディは、事態を都合の良い方向に考えようとする自分に気付きました。彼女の言うとおりです。お嬢様は重い怪我をしているのです。
「お嬢様は、お怪我やご病気のときにはことさら、お元気なように振る舞われます。しかし少なくとも昨日までは命に関わる事態でした」
 淡々と語られる事実に息をのみます。
「刺されたのは三日前のことです。大きな血管を傷つけられ、その時点で相当な出血がありました。翌日の凱旋を延期なさるようお願い申し上げましたが、聞き入れられませんでした。傷を縫ってあっても、直後にあれほど長距離、馬に揺られては意味がありません。出血が続き、一時は昏睡状態に陥られました。意識が戻られたのは昨日の朝です」
 そう語る彼女の顔には、疲労が色濃くにじんでいました。代わりに、二日前に見たてつくような恐ろしさは消えています。あのとき、お嬢様は意識がなく、それほど切羽詰まった状況であったならば、彼女の鬼気迫る顔も納得がいきました。
 湯殿で、お嬢様が語った言葉を思い出します。すべてが敵をおびき出すための罠だったと言うよりは――怪我をした状況をどうにか、利用したということでしょうか。
「ごめんなさい……僕、気をつけます」
 ルディは深く恥じ入りました。
「あのお方のおっしゃることに、惑わされることはあるでしょう。しかし先ほども言ったように、窮地にあっても他者にはそう見えないよう取り繕われるのがあのお方の悪癖です。それを心得て、お仕えしてください」
 “悪癖”――彼女にしてはめずらしく、主人をはっきりと責める言葉でした。
 寝室の中を見回すと、いまだに無数のろうそくが置かれています。これらは、闇の中で少しでも明るく、お嬢様の様子を見るためにエヴァがけていたものでしょう。暗殺者の襲撃を待ちながらでさえ、最後までそばで、彼女は見守っていたのです。
「何か少しでも異変があれば、ためらいなく私を呼んでください」
 そう言い置いて、彼女は去っていきました。
 今、ルディは彼女の代わりにお嬢様に相対あいたいしています。手を胸の前で組み、握りしめました。
「傷を、見せてください」
 お嬢様はゆっくりとソファの上で体を起こしました。
「エヴァさんが、お嬢様が戻ってきたら、様子を診に来ると……」
 自分の唐突な願いにそう説明をつけます。
「今からエヴァさんを、呼びに行って、そうしたら香茶もお持ちします……だから、その前に、僕に傷を見せてください」
 お嬢様は、ルディの心変わりを問いただしはしませんでした。わらいもせず、首もとに手をやり、えりをとめるリボンをゆるめます。
 ルディはそばまで行って、それを手伝いました。肌着まで脱ぎ去ると、包帯が現れます。ふるえる手で、ルディはかたく結ばれた包帯のはしをほどきました。
 城の隅に設けられた野営で、今もまだ起こっているであろうことについて思います。
 包帯には血と体液がにじんでいました。傷があらわになります。心臓を外れ、乳房のふくらみを真横に切り裂いています。糸で縫い止められた傷口は盛り上がり、その周囲は赤黒く腫れ上がっていました。燃えるような熱を持っています。
 声が出ず、ルディは口元を手でおおいました。目頭が熱くなります。傷を見れば自分も覚悟を忘れることはないだろうと、思いました。素知らぬふりに、惑わされなくなるだろうと。
「なぜ泣く」
 ルディの目ににじむ涙をじっと見ながら、お嬢様が聞きました。ほどけた眉頭は感情らしい感情を表さず、まなじりのきつさが際立ちます。
 だって、とルディはのどをつまらせます。
「痛いでしょう……?」
「痛いのは私なのに、どうしてお前が泣くんだ」
 お嬢様の赤い目はまっすぐルディをとらえ、その考えを見定めるようです。同時に、まだ道理を知らない子供のようでもありました。
 こうまで自分ばかりが動揺する理由を、ルディもまだ理解していません。しかし胸に手をやれば、昨日と同じ感情が湧き上がっていました。寝台に土足で踏み入る影を見たとき、それを許せませんでした。尊ぶべきものが無体むたいに荒らされる様を、ただ見ていることはできませんでした。
 それが何故かと言葉にするならば。
「……あなたが大切だからです」
 ケンニヒ様に問われたことに、今なら答えられます。
「大切な人が傷ついて……悲しいからです」
 彼らほど激しくもなく、高潔でもなく。ただ弱々しいばかりです。しかし無力でありながらも、この思いだけは消せませんでした。
「前にも、似たようなことを言った女がいた」
 無表情のまま、お嬢様は小さく言いました。すぐに、両手でルディの頬を挟みます。
「ああそうだ、その涙はそのままこらえていろ。あまり気安く涙を見せるものではない。私の侍女なら少しふてぶてしいくらいがちょうどいい」
 顔を近づけて、笑います。
「笑っておいで。おびえる顔も良いが、お前は笑っている方が愛らしい」
 その言葉と手のあたたかさにまた惑わされそうになる自分を、ルディは引き留めました。お嬢様の手と顔が離れたあと、考えて、ありったけのふてぶてしさを振り絞ります。
「なら、お嬢様もどうか……無理をしないでください……」
 お嬢様は答えず、ただ微笑むだけでした。
 また目頭が熱くなるのを振り払うように、ルディは立ち上がりました。部屋を出ます。エヴァを呼び、香茶をれるために。


   ***


 それから半月ほどの内に、様々なことが過ぎていきました。
 議会は連日召集されました。
 それ以外にもたくさんの人がお嬢様の元を訪れ、色々な報告をしているようでした。エヴァもサヒヤも必要なときにはやってきて、用が終わるとすぐ戻っていきました。
 だれもがせわしなくしていて、お嬢様の日常の世話をしているだけの自分が、申し訳なく思えます。
 お嬢様の怪我は、日に日にえていきました。腫れが引くと共に熱が去り、かさぶたが傷口をおおいます。驚くべき早さなのは、やはりエヴァの尽力のためでしょうか。
 怪我人のための城内の野営は取り払われました。町外れに救護院を設けるということです。
 ラールが、あの気のいい近衛兵の副長が、城に戻ってきました。同胞とお嬢様の出迎えを受け、しかし彼はまだ歩くこともままならない様子でした。もう剣を振るうことはできないかもしれないと聞きました。
 戦果の分配が公表されました。新しく獲得した土地や、戦利品、通商路の優先権など、それぞれの将達に、それなりに満足のいく結果になったようでした。
 その中で、恐るべき事実もまた明らかにされました。ホーゼンウルズの徴税官と祭事官を兼ねるトリソニー様が、辺境伯への反逆を計画したとして名指しされたのです。
 お嬢様の元に次々と届く報告が、それを裏付けていきました。
「あの凶徒きょうとどもは『六本指』の一員のようですな。さすがに名の知れた暗殺集団、なかなか強情でした。なに、我々の優秀な拷問には敵いません」
 と、血のにおいをさせた審問官が言いました。
「依頼人に関しては詮索せぬのが奴らの流儀ですか、今回は姫様が伏せられたのを見て、ことをきましたかな。あまり入念に策を練る時間はなかったようです。ブント家の馬車に身を隠して、城内に侵入したと白状しました」
 ブントとは、トリソニー様の姓です。
「ヴォリカテルトの砦で凱旋の準備を行ったのは、祭事官であるトリソニー卿の指示でした。下調べにトリソニー卿みずから砦を訪れていますから、第一の襲撃の用意はたやすかったでしょう」
 と、近衛兵。
「トリソニー卿の生家のあるデボラートの町を訪れた際、不穏な動きがありました。トリソニー卿が密かに兵を集めていると。暗殺に直接結びつくものではありませんが、辺境伯様の許可なき私兵の募集は、家臣令の明らかな違反です。ましてや正規軍不在の間に」
 と、サヒヤ。
「毒の種類が判別できました。鉱毒の一種です。バターに含まれていました。脂になじませればほぼ無味無臭になり、即効性も高い、有用な毒です。料理長の話では、晩餐の準備の具合を見に、トリソニー卿の小姓が厨房に出入りする機会が何度かあったと」
 と、エヴァ。
「ブント家は所領にいくつか鉱山を持っていますな。同じ種の鉱毒が出て、労働者に被害が出たこともあるようです」
 と、監査官。
「トリソニーか」
 と、お嬢様は首を傾げました。執務机のいすに片肘をつき、頬に手をあてて、少し考えたようです。
「あれの父の忠義には私も覚えがある。だがそうだな、あれとのあいだにはそれらしい因縁がいくつかあることだ」
 唇の端を上げます。
「トリソニーに連なる者すべて、私の前に連れてこい」
 細めた眼は、残忍な光に満ちていました。
「一族郎党に至るまで、すべてだ」
 捕らえられた人は、トリソニー様の妻や子供をはじめ、兄弟、親、親族、また彼らの使用人と、五十人を越えました。
 他の臣下も居並ぶ中で罪を告発されたトリソニー様は、最初、疑いを否定したそうです。しかし次々と明らかにされる証拠に、やがて己の罪を認めざるをえませんでした。その場で、お嬢様から死刑が言い渡されました。
 彼を凶行に走らせた理由について、様々な人が、様々なことを言いました。
 曰く、文官として得られる処遇に不満を抱いていただとか。
 北の大伯爵と呼ばれる、ホーゼンウルズの敵対勢力とつながっていただとか。
 かつて不正をおこなって財産の一部を没収されたことを、恨んでいただとか。
 トリソニー様は、城の正面門の前で、はりつけにされました。数日うめき続け、ある夜、耳をふさぐような悲鳴をあげたあとに、事切れました。
 トリソニー様の父は高名な武将であり、辺境伯様やお嬢様からの信頼も厚く、死刑はまぬがれました。しかし彼の与えられた罰が死刑より軽いと、どうして言えるでしょうか。公開で、彼は宮刑に処せられました。男性器を切り落とされたのです。
 トリソニー様の妻や兄弟など、身分の高い人々は、城内の処刑場で首を切り落とされました。
 配下や使用人など、身分の低い者は、町外れの丘で縛り首にされました。稜線りょうせんに沿って背の高い柱が並ぶのが、城からも見えました。
 山一つ越えたデボラートの町でも同様に、多くの者が処刑されたということです。


   ***


 その朝、ルディはお嬢様の衣装戸棚から、胸当てを出しました。
 ヤギの革を柔らかくなめしてできた胸当てです。
 女の下着というものはもっぱら、体の線を整えて見目を良くするために用いられます。しかしお嬢様のものは、体の動きを邪魔しないことに重きを置いて作られていました。ドレスの大きく開いたえりぐりから、美しく、そして魅力的な盛り上がりをのぞかせるためのものではなくて、剣を振り、身をひるがえすのを阻害させないためのものです。
 そのため、生地は鎖骨から胸元までをおおうようにつなぎ合わされていました。内側には、革が肌に張り付かないよう、汗を吸うための綿の詰め物を張ります。
 ルディにとってこれを支度するのは、お嬢様が戦争に向かって以来のことでした。
 昨日、お嬢様の怪我の包帯がとれたのです。糸を抜いた傷口はまだ赤く、肉の色をしていましたが、毎日軟膏をすりこめばやがて跡形もなく治ってしまうということでした。
 鍛錬に出ても支障がないだろうと、エヴァが判断しました。
 お嬢様の体に胸当てをぴったりと沿わせ、背中のうしろで結びます。きつすぎず、緩すぎず。その加減をルディはすっかり忘れてしまっていて、何度かやり直しました。
 亜麻の糸でできたシュミーズも、どちらかと言えば男物のようです。つまり丈は短く、肩の部分は幅広で、飾りは少なく、しっかりとしています。亜麻は肌触りがよいことに加えて汗をよく吸い、また洗いやすい、上等である上に実用的な素材でした。同じ素材でできたショーツを、シュミーズの裾とボタンで留めます。
 深緑色の鎧下よろいしたは、近衛兵達に支給されているものと同じです。綿と毛を混ぜた、非常に分厚い生地で作られていて、胴から首、手首までをすっぽりとおおいます。伸縮性のある素材で、動きやすく、鎧を上に重ねたときに肌とこすれるのを防ぎます。またいざというときには、受けた刃をすべらせる働きもあるそうです。背中から首まで、ある程度余裕を持たせつつ、革の紐でしっかりと結びます。
 ひざ下までの黒いズボンもやはり、綿と毛で織られた丈夫な生地から作られました。鍛錬用ですから、刺繍や飾りはまったくなく、簡素です。ズボンというものはすべからく男のために意匠されたものですが、この世に唯一の例外であるお嬢様のものには、男物のような前開きはありませんでした。
 靴下は、羊毛を編んだものです。織物でできたものと違って自由に糸が伸びて足の形になじむので、動きやすいそうです。
 ブーツを履き、ズボンの裾を中にたくしこみます。牛や豚の革、木の靴底などを複雑に組み合わせでできたブーツを、脚の形に合わせて結い上げます。
 さあこれで、上から下まで、すっかり準備が整いました。
 ルディは立ち上がり、お嬢様を見つめました。朝日に照らされて、その顔は凛としています。それでいて、ルディに微笑んでみせるその様子に、気負いは見えませんでした。
 日常が始まります。
 ルディは寝室の扉を開けました。背後から、お嬢様の足音がルディを追い越します。その数歩うしろをルディは歩きました。
 朝の空気を勇ましくこぐ背中を見つめます。
 不意に、傷つき倒れるたびに再び立ち上がる様は、傷つくために立ち上がることとどれほど違うのかと、考えました。奇妙で、おそらく答えの出ない問いです。
 久しぶりに胸当てを見たとき、複雑な気持ちになりました。お嬢様の傷が癒えたことを喜ぶ気持ちと、そしてまたこの人は戦いに身を投じるのだという失意が、入り交じった。服も靴も、案配よく着せられたか不安になるのは、叱責を恐れるからではなくて、もしそれらが邪魔になればその人の身を危うくさせるからです。
 きっとまた傷つくのでしょう。勇ましさがもたらすのは、華々しいものばかりではありません。それどころか、目の前の人は傷つくことを望んでさえいるのではないかと。そういった考えがまとまりなく浮かんでくるのを、ルディは止められませんでした。
 階段を下り、中庭に続く扉を開けます。外は晴れていました。
 鍛錬に向かうお嬢様の背中を、それが人垣の向こうに消えるまで、ルディは見つめていました。