第九幕

  一 『髪』

 ある朝、お嬢様はしげしげと、ルディを眺めました。
「私が出かける前より、背がのびたな。髪ものびた。少し太ったか」
 そうかもしれません。視線が前より近いことにはルディも気付いていました。服も、前と同じ結び目では窮屈に感じることがありました。
 お嬢様が戻って、すでに季節は春のさかりを迎えています。暗殺事件や戦争の処理が終わり、ルディの変化に目を留めるくらいの余裕が、だれの日常にも戻ったということでしょうか。
 さっそくエヴァが、地下の自室で身長と目方を測ってくれました。
「どちらも増えています。適切な栄養と休息を取れば、まだのびるかも知れません」
 こういった数字の変化を書き付けておくのが彼女は好きなようです。城中のほとんどの人について、体の記録を控えていました。
 あまり体が大きくなると服を変えなければいけませんから、ほどほどにして欲しいものだと自分の体にルディは思いました。しかし高い所に手が届くようになるのは便利なことかもしれません。
 髪は、お嬢様と同じように肩にかかるくらいになっていました。サヒヤが空いた時間に控え室で、くくってくれました。うなじの上で短くしっぽのようなふさができます。
「少し不格好ですが、そのままにしているよりは良いでしょう」
 彼女の言うとおりでした。ルディの髪はうねりが強くて、少しのびただけでも見目良く整えておくことに難儀していましたから、一つに結んでしまえばとても楽です。
 後ろ手に髪を結ぶ方法を習いながら、ルディは聞きました。
「お母様は、変わりはありませんでしたか?」
「おかげさまで。足の調子も悪くはないようです」
 彼女に父親はいないと、以前聞いています。
「今はお母様一人で……大丈夫ですか?」
「私の仕送りでなんとかなっています。侍女の給金は良い方ですし、娘が城勤めというのはそれなりに世間体の良いものですから、何くれと、人に頼むことはできるでしょう」
 お金のことについては詳しくありませんでしたが、確かにこの辺境伯領内において、ベルスートの城で、しかもお嬢様に仕えているというのは、とても希有けうで、名誉なことでしょう。
 ついでに先日のことを思い出して、それとなく、ルディは聞きました。
「お嬢様がいない間は、ずっとお母様の所へ?」
「まさか」
 と、サヒヤは首を傾げます。ほどいた銀髪が、はらはらと垂れ下がりました。
「お互い良い大人ですから。あまり長居をすると母に叱られます」
「……それで、デボラートの町に?」
「その町ばかりというわけではありませんが。城外に出たついでに、お嬢様から仰せつかったご用をいくつかこなしていました」
 別段、意外に思うことはありませんでした。彼女は自然に話しました。たぶん、彼女にとっては特別なことではないのでしょう。だからその用事がなんなのか、あえてルディは聞きませんでした。
 サヒヤのことを剣と、お嬢様は呼びました。
 彼女がいつも、今でさえ身につけている白い剣は、特別なものだと聞いています。『つゆの刃』という名前で、遠い昔の、神様の時代に作られた剣だと。なんでも斬ってしまえるそうです。厚い鎧も、岩も、そして幻も。
 彼女がそれを自在に扱うのをルディは何度か目にしました。そして単に腕が立つというだけではなくて、彼女は自分を律する強い心と、人を動かす気迫も兼ね備えています。そんな彼女ならば、単身でどこに送りこんでも心配はないでしょう。
 彼女はつゆを払う、お嬢様の切っ先なのです。


 その晩部屋に戻ると、ルディは髪を後ろ手に結ぶ練習をしました。借してもらった鏡を机に置き、その前で、やはりこれも分けてもらった紐を使い、どうにかこうにか一人でやってみます。もっとのびれば、エヴァのようにまとめ髪にもできるでしょう。
 女は髪をのばして、そして結婚すればそれをまとめて結い上げるのが普通でした。未婚であればその逆、下ろしているのが良いとされています。サヒヤが髪を三つ編みにするだけでまとめないのは、おそらくその慣習を忠実に実行しているのだろうと、ルディは見当をつけました。しかし未婚であっても、この城で女中として働いている女はたいてい、髪をまとめてしまっています。働いているのですから、その意味ではもう大人ですし、また、より単純に、長い髪が作業の邪魔になるせいでもありました。
 まだ先のことになりますが、十分な長さになれば、ルディも髪をまとめ上げるべきでしょうか。
 数日の内に、エヴァを訪ねる用事がありました。
 乾いた砂のような金髪を、彼女は一筋のもれもなく、ねじることも巻くこともなくまっすぐに後頭部に集め、白い布のおおいをかぶせています。
 偉い人の奥方達であれば、結い上げた髪の先を垂らして巻いたり、美しい宝石やレースを飾りつけたりしてとても華やかに髪を装っていますが、使用人達はそうもいきません。そういった飾り方はお金と手間がかかるものですし、使用人が偉い人と同じような格好をすることは許されていません。彼女のように一糸の乱れもなくまとめるのが模範でした。とはいえ、皆、少し前髪を巻いたり、編みこんだり、あるいは華美にならない程度の飾りをつけて、変化を楽しんでいます。
 乱れなく、非常に模範的であるというのは彼女のそのほかの振る舞いにも当てはまることですが、それ以外に、自身を美しく飾りたてることになんら興味を持っていないようでもありました。
 用を終えて、帰り際にルディは聞きました。
「エヴァさんは、いつからまとめ髪をし始めたんですか?」
 彼女もまた未婚で、年は三十を越えているはずだと聞いています。
「お嬢様にお仕えし始めてから、二年ほど経った頃です」
 お嬢様が今十七才で、エヴァは十年あまりこの城に勤めているそうですから、彼女が二十才くらいのときでしょうか。
「何かきっかけがあったんですか?」
「特別何かあったわけではありません。お仕え始めた頃は、私もあなたのように髪が短かったのです。髪をのばして、結えるようになったのが二年後でした。そのときにはもう相応の年でしたので、髪をまとめました」
「エヴァさんも、髪が短かったんですか」
 今では想像がつきません。そう言えば、彼女は遠い北の国から来たと聞いたこともあります。めったにない肌の白さや背の高さはそのためかと、納得する部分が大いにありました。土地が違えば風習も違うのだと、お母様のしてくれたお話や、レントウと読んだ本の中で知っています。
 彼女と自分とのあいだにささいな共通点を見つけたつもりで、ルディは声をはずませました。
「北の方では、女の人も髪を短く切るんですね」
 エヴァは何も答えませんでした。ルディから目をそらし、手元を見ます。ルディは思わず口元を押さえ、その拍子に浮かれている自分を自覚しました。
「あ……ごめんなさい……」
「あなたが謝る必要はありません」
 エヴァは首を振ります。
「髪ののびるのが、嬉しいですか」
 そう聞かれて、ルディは自分の心が浮つく理由に思い当たりました。気後れしながらもうなずきます。
 いまだに、初めて会う人には、髪が短いことに驚かれます。女の格好をしているから当然、ルディのことを女と思うのでしょう。女で髪を長くのばさない人はいませんから、もっともな驚きです。
 お嬢様の侍女だと言えばすぐに納得してもらえますし、お嬢様のことがあるから、女の見た目で髪の短いことをざまに言う人はいません。ただ、そういったやりとりをくり返すたびに、ああやはり自分は半端者はんぱものなのだと感じさせられました。世間から外れた、みっともない人間なのです。
 だから、髪がのびるのは望ましいことでした。もっも早く、見苦しくないほどの長さになればいいと願っていました。
 うしろに髪を結んで、少し望む姿に近づいた気がします。そしてその髪をまとめ上げることができれば。
 女達が、働き出して、やがて髪をまとめ上げるようになる気持ちがよく分かります。それは、大人であり一人の人間であると、自分で自分を吹聴する行為です。自分に言い聞かせ、他人にもそれを示すことです。
「髪が短いのは、変でしょう……?」
 かつて髪の絡まり合っていた肩のあたりを、意味もなくルディはさわりました。
「早く前みたいにのびればいいなと思って……そうすれば、人から驚かれることもなくなりますし、まとめられるようになれば…………その、ちゃんとした人間に、見てもらえる気がして……」
 ああだから、まだ先のことをわざわざ聞きに来たのです。今日明日、髪がその長さになるわけではありません。のびればそのときに聞けばいいことを、待ちきれないのです。はなはだ感情的で現実的ではない考え方を、ルディは恥じました。
 しかしエヴァは咎めることなく、うなずきます。
「私も、同じような気持ちでした」
 ルディは顔を上げ、エヴァの顔をまじまじと見つめました。表情を変えないまま、彼女は語り始めます。
「私の生家は、その地では歴史の古い名家でした。しかし私の父と、父の叔父とのあいだで継承者争いが起こり、武力をもちいた紛争になりました。父の側の陣営が敗北したため、私は囚人となり、髪を刈られました。
 そこでの扱いから逃れて、この地にやってきたのです。辺境伯様に許され、お嬢様にお仕えするようになりました。言葉を覚え、習慣を学び、この地に馴染むよう努めました。その一環として、早く髪がのびるようにと、私も思っていました」
「そうだったんですか……」
 彼女が多くを語ったことに、ルディは驚いていました。ただ、理性的で、合理的なものの考え方をする人ですから。単なる同情ではなく、必要だと思って話したのでしょう。
「髪が短いのが気になるようであれば、ヴェールをかぶっても構いません。私はそうしていました」
 親切と、合理的な考えとは、ときに似通っています。物事をうまく運ぶための親切を、彼女はよく知っていました。
 だからルディは、エヴァのことを信頼しています。
「はい……でも今は、大丈夫です」
「今後、髪を私のようにまとめるか、サヒヤのように結ぶだけにするかは、あなたの判断に任せます。どちらも礼節にかなったふるまいです。考える時間は十分にあります」
 ルディははにかんで、うなずきました。もしそのときがくれば、髪のまとめ方を教えてくれるよう約束して、エヴァの部屋をあとにします。


  ***


「ああ、良い案配あんばいだな」
 と朝一番、髪を結んだルディを見て、お嬢様は言いました。
 とっさに、束になった毛先がロバの尾の先のようだと言われる気がして、ルディは身構えます。しかし、お嬢様はそこまでは思いつかなかったようでした。身構えをときながら、それを残念に思う自分に気付きます。
 あれほど言われるのがいやだった言葉なのに。
 気恥ずかしくて、ごまかすようにルディは短い尾をなでつけました。行儀良く紐に縛られています。ようやく一人でも、人前に出て恥ずかしくない程度に結べるようなりました。
「もっとのびれば、色々な結い髪にしてみるといい」
「髪の長い方が、お好きですか?」
「なんであれ、女の着飾る姿は好きだ。特に髪が、結い方で見た目が変わるのはおもしろい」
 もっともなことです。ルディも、人が装う姿を見るのは好きでした。自分のことでなくても、お嬢様が晩餐会に出席するために、絹で上張りした黒の上着を着るときなど、心が躍ります。腕をひるがえすたびにその袖口で、銀の台座に青い宝石を埋めたカフスがきらめくのです。
 今朝はいつものように、実用一点張りの鍛錬服です。それを着終わり、お嬢様は鏡台に向かいました。
 その髪を水で少し濡らしてから、ブラシでときます。だんだんとまっすぐそろっていくのを確かめながら、聞きます。
「お嬢様はどうされるのですか?」
「どうとは?」
「髪を、長くのばすのですか」
 今でも、つかめばうしろでくくれるくらいの長さがあります。つまり、ルディと同じくらいです。元から――あまりその頃は考える余裕がありませんでしたが――二人して似たような長さだったのでしょう。
「さて、どうかな。父上は短い方がお好みのようだ」
 お嬢様は首を傾げました。
「また燃やされてはたまらない」
「燃やす?」
 手が止まります。髪を整え終わり、ブラシを置こうとしてしていました。お嬢様は振り返り、
「ああそうか、お前が知っているはずはない。お前の来る前のことだ」
 と、笑います。
「有名な話だぞ。髪をのばした私に、父上が火のついたランプを投げつけたのは」
 ルディは言葉を失いました。
 そんなことをすれば、ただではすまないでしょう。ランプの中には油が入っています。それをかぶって、燃え広がったら――
「どうして……お父様は、そんなことを……」
「私が、世の女のように髪をのばすのが父上のお気に召さなかった」
 ルディのこわばった顔がおかしかったのか、ますますお嬢様は笑みを深くしました。
「胸の傷が痛くはないかと聞いたな」
 その目は、深く暗く輝きます。
「あの程度のことは、父上のお与えになる辛苦に比べれば些末さまつなことだ」
 しばらく、ふるえが止まりませんでした。幸いにも――身支度はすんでいて、あとルディの仕事は、お嬢様を中庭まで見送るだけでした。
 その背中が近衛兵達の波間に消えると、急に寒気がしました。得体の知れない何かにまとわりつかれたようで、あたりを見回します。ふと、城主様のいる、東の棟が目に入りました。
 まだ、城主様はこの城に、残っています。春の祝祭まで滞在するそうです。相変わらずご病気ということで、人の前にはあまり姿を見せませんでした。今も、春の陽気の中でさえ窓はかたく閉ざされています。
 どうかそのままでありますように、とルディは願いました。
 見えないからこそ、考えずにすんだというだけで。一目見たときの、怖気おぞけを覚えるような妖しいまなざしを思い出します。東の棟の一画、ただそこにいるというそれだけで、城の中に底知れない闇を抱えたように感じました。




   二 『町』

 春の祝祭を目前にして、祭事官が頻繁にお嬢様の元を訪れるようになりました。前任者の代わりに任命された彼は、新しい仕事にとまどいながらも熱心にあたっていました。
 春の祝祭は、ホーゼンウルズで行われる祝祭の中でも、いっとう大きいそうです。季節の移り変わりを伝える大切な年中行事であることに加えて、この時期にお嬢様が産まれたからです。
 木々はいっせいに芽吹き、日ごとに葉を茂らせていきます。山肌に立つ城から、ベルスートの町を越えて見渡せるかぎり、冬のあいだは白く霞んでいたはずの野や山が、いつの間にか緑におおいつくされていました。重く垂れこめた灰色の雲は去り、空は青く、遠くまで澄んでいます。
 これほど色濃く春の訪れを感じることが、今までにあったでしょうか。
 ルディにとって春とは、凍てつく冬よりはまだまし、という程度のものでした。どれだけ花が咲こうが、鳥が鳴こうが、自分には関係のないことだと思っていました。いいえむしろ、今になって初めて、この季節に花が咲き、鳥が鳴くのだと知ったような気さえします。
 廊下ですれ違うときに、ふと立ち止まり、庭の木が葉をのばすのを指さして、「ほら春が来たのだね」などとルディに言う人は、あの家ではいませんでした。ああそうか、これが春なのかと、ルディは人々の指さすものを一つ一つ目で追い、確かめました。
 次第に長くなる日、突然強く吹く風、あたたかい雨、花から花を飛ぶ蝶。
 空気を吸いこむと、春のにおいがしました。世の人が心を躍らせる春です。それが生まれて初めて、ルディにももたらされようとしています。陽気にあてられてわけもなくさわぐ胸を、ルディはもてあましていました。
 数日後に祝祭を控えたある日の午後、エヴァがお嬢様に言いました。
「ルディに、春の祝祭をベルスートの町で過ごさせてはいかがでしょうか」
 ルディは彼女と並んで、お嬢様の前に立っています。唐突な提案ではありませんでした。前から彼女は、ルディにその話をしていました。
「城内の生活にはだいぶん慣れたようです。そろそろ城の外にも見聞を広める頃合いかと」
「ああ、それはいい考えだ。祝祭の日ならばいっそう華やかで、楽しいだろう」
 二つ返事でお嬢様は了承しました。
「だが一人で歩かせるわけにはいくまい。だれか目付役がいるな。世間をよく知り、何かあれば対処できる者が」
 と、口元に手を当てます。
 それらしい話し合いがあったわけでもないのですが。その場の全員、心に浮かぶ人は同じだったのでしょう。ルディは命じられて、サヒヤを呼びに行きました。
「まあ、いいでしょう。仰せつかりました」
 彼女も話を聞いて、納得するところがあったようです。
「当日のお嬢様のお世話は私がいたします。二人とも、これが仕事だと形式張って考える必要はありません。たまには休息も必要でしょう。祝祭で十分に羽をのばしてきてください」
「休息ですか……まずは侍女頭殿に、身をもってはんを示していただきたいものですね」
 と、サヒヤは少し意地悪く言いました。およそ休むということを知らないような、エヴァの普段からの仕事ぶりのことを心配しているようです。
「違いない」
 お嬢様がそう笑うと、
「だれのせいだと思っていらっしゃるんですか」
 と、ぴしゃりと言いこめます。
 お嬢様はサヒヤから責められても平気な顔でした。エヴァも反論はせず、目を伏せるだけです。
 節度を保った、それでいて親密な沈黙が、春の日差しのように部屋に満ちました。三人が三人、お互いを深く信頼しているのだということが、こういうふとした瞬間に知れます。そのことが頼もしく、そして無性に誇らしく思うのですが。
 エヴァの配慮やサヒヤの労が申し訳ないばかりで、ただ恐縮するよりほかはありません。町に出るなんて、世の人はみんな当たり前にやっていることです。そんなことのためにわざわざ、こんな段取りや目付役が必要だなんて。
 それに、この城の中だけでもまだ知らないことが無数にあるというのに、外の世界にはいったいどれほど――――どれほど途方もないものが、待ち受けているのでしょう。
「ルディ」
 呼ばれて、顔を上げます。
「ベルスートの城下をよく見てくるといい」
 お嬢様は、微笑んでいました。
「国王陛下のおわす鉄の首都サグナバル、青き水の都フェリル、砂漠に浮かぶ金の都ラグダート、虹色の玻璃で葺かれたサンサニーサ・マグダ、雲に穴穿つ天空都市ヘス」
 物語の、あるいは歌の、噂の、人々の口から語られる町々。
「どの都に比ぶべくもないが。だがベルスートは、とても美しい町だ」
 丸めた手の平をそっと広げて、中の宝物を見せるような口ぶりでした。
 目の前に差し出されたもの――ベルスートの町が、雨で濡れたあとに、日の光を受けて光るのを思い出します。赤茶色の屋根と乳白色の壁がいくえにも連なり、組紐のように複雑な模様をえがいています。家々の合間をぬう道に馬車や人が行きかいます。中央の広場には大きな噴水があって、それが高く水を噴き上げるのを間近で見られたらどんなにかすばらしいことでしょう!
 ああ、またです。ルディは高鳴る胸をおさえました。ひょっとしてこれは、魔法でしょうか。いつもそうです。お嬢様の声や仕草で、世界は有り様を変えます。今回は良い方に。よどみは取り払われ、色あざやかに輝き出します。
「はい」
 もどかしく、ルディはうなずきました。
 あの町に行けるのだと、あらためて心の中でかみしめます。ずっと眺めるだけだったあの町へ。胸はますます熱く打ちました。


  ***


 次の日、いつものよう図書館を訪れたとき、何気なくルディはレントウに町に行くことを伝えました。真っ暗な館内で、明かりに照らされたわずかな空間の中、テーブルの角をはさんで座っています。
「ああ、それはとても良いことです。私の教えられる知識だけでは限界がありますから。貴重な体験になるでしょう」
 彼はいつにもましてほがらかに答えます。
「春の祝祭は例年、とても見事なものだそうですよ。花で飾った馬車が町を回るそうです」
 その口調に、ふと疑問が浮かびました。
「レントウ先生は、お祭には……町には、行かないのですか?」
 彼は非常に物知りではありますが、語ることはすべて伝聞の体をしています。人に聞いたとか、本に書いてあったとか。そして町どころか城の中でさえ、図書館の外で彼の姿を見たことはありません。図書館全体に根を張るような、長い髪を見れば、外出が困難であると理屈としては分かるのですが――
 好奇心旺盛で、人の話を聞いたり、本を読んだりするのが大好きな彼ですから、みずから外に出て、現物を目にしてみたいとは思わないのでしょうか。
 彼はおだやかに、否定しました。
「私はこの図書館から長く離れてはいられないのです。行けたとしてもせいぜい、この城内くらいでしょうか」
 そう言って見上げる天窓は、高く遠く、射しこむ光が直接ここまで届くことはありません。
「そうなんですか……」
 計り知れない静謐せいひつと闇が、図書館の中に滞留しています。古びた紙とインクと、木の棚のにおいに、自分の気持ちが沈みこむようにルディは感じました。
「あなたが気に病む必要はありませんよ。私はここでの生活を気に入っていますし、実のところ外に出たとしても、私一人では意味がないのです」
「どうしてですか?」
「私はあなた方の言葉を通してでなければ、見たもの、聞いたもの、感じたものを理解できないからです」
 全くぴんと来なくて、ルディは首をかしげました。
 たとえば、とレントウは続けます。
「空を見て、それが青いということを自分では理解できないのです。隣であなたが、“空が青いですね”と言って初めて、私はそうだと理解できます。自分の感覚ではなく、あなた方の話す言葉や書く文字で、私は世界を知るのです。
 そして私にとって知るとは、あなた方にとっての食事と似ています。自身を保つために必要な行為です。しかし得られる知識の形は必ず、言葉でなければならないのです。まずあなた方が見て、聞いて、そして言葉にしたものでなければ、私は咀嚼そしゃくも消化もできないのです」
 ただただ不思議な話でした。レントウが人ではないとは知っていましたが、これは、どのように理解すればいいのでしょう。だってレントウはルディよりうんと物知りなのに、同じものを見ても分からないなんて――
「あまり難しく考えずに、そういうものだと思ってください。私は知識を食べて生きているのです」
 困惑するルディに、彼は助け船を出しました。
「関係だけで言えば、鳥の子育てのようですね。親鳥は一度食べた餌を吐き戻して、雛鳥を養います。雛鳥はただ無力な存在ですが、私の場合は、あなた方から与えられた知識を最善の形で整理し、再構築する力を持っています」
 そして、本を開くように両手を広げてみせます。
「これが、私をここにとどまらせている仕組みです。私は、あなた方人間と共生するようにできています。そのように創られたのです。ずっと昔、この図書館が建てられたときに」
 ホーゼンウルズができるよりも、ずっと前の話です。レントウ自身から聞いていました。
 この図書館は、異国の遺跡だったそうです。苔むし、雨で削れた外壁と、城館とは明らかに違う建築様式が示すとおりに、古く、また異なる文化の。
 先代の辺境伯様、つまりお嬢様のおじい様の代に、はるか南方で半ば土に埋もれたところを発見されて、建物ごとベルスートに運ばれてきたそうです。中の本と、レントウもともに。
 この建物から離れられず、人を介してしか存続できないという現状を、彼はどう思っているのでしょう。そして遠い昔、打ち捨てられ、朽ちゆく図書館の中で、何を思っていたのでしょうか。
 レントウは少し困ったように首をかしげました。
「ああ、ルディくん。本当に私はこの生活が気に入っているのですよ。代々の辺境伯様は理解のあるお方ばかりで、蔵書をお増やしになりましたし、こうして人をよこしては話を聞かせてくださっています」
「あ、ごめんなさい……」
 自分が暗い顔をしていることに気付いて、ルディは片手で頬を押さえました。彼の言葉が嘘だとは思えません。ならばルディが勝手に同情してしまうのは失礼なことでしょう。
「あなた方の話を聞くのは、私の大きな喜びの一つです。また今度、春の祝祭で見たものを私に教えてください」
「はい」
 その言葉にルディは深くうなずきました。
「さて、ではちょうど良い機会ですから、辺境伯領の歴史をおさらいしましょうか」
 一筋の髪が運んできた本を、レントウは広げました。ルディはのぞきこみます。
 ホーゼンウルズは、けして住みよい土地ではないそうです。まず第一に、国の東の外れにあり、外敵に面しています。領土は内陸で海を持たず、陸路と川の一部しか交通路はありません。山がちで、わずかな平野も大半はいまだに深い森におおわれ、人の進入を拒んでいました。冬の厳しい寒さのために小麦はあまり育たず、代わりにライ麦やジャガイモが人々の主食です。比較的豊富な鉱物資源と、東西を行き交う交易の中継点であるという地理的な条件、そして外敵を蹴散らす勇猛果敢さとでホーゼンウルズは成り立っています。
 イブリール王国の東の“辺境”。“東の蛮土”。ホーゼンウルズはそう呼ばれています。お嬢様のひいおじい様である、初代の辺境伯様は、国王からこの未開の地を下賜かしされたとき、わずか百人ほどの移民とともに、この地に入植しました。そして自らの手で森を切り拓き、町を建て、畑を耕したそうです。わずかだった辺境伯領は代を重ねるごとに領土を広げ、やがて王国の東のかなめとして発展を遂げました。自らの手で開墾した土地だからこそ、辺境伯家の人々はいっそう、この地への愛情が深いそうです。
 お嬢様はベルスートで産まれ、ベルスートで育ちました。ベルスートを美しい町だと言いました。
 美しいと聞いて、ルディはお嬢様のことを思います。苦境においてなお屈しない姿のことを思います。天から与えられたものと、自ら築き上げたものが混じり合った美しさを思います。
 だからたぶん、ベルスートはとても、美しい町なのでしょう。


  ***


「楽しんでおいで」
 と言い残して、お嬢様は出かけていきました。
 祝祭の当日、朝早くからお嬢様はお仕事です。黒い礼服の上に、暗緑色の、つややかな質感のマントをはおったお嬢様を筆頭として、重臣や司祭で構成された一団は馬に乗り、からの馬車を従えて、森へと向かいました。
 それを見送ったあと、ルディは自分も出かける準備をしました。エヴァが、昼には帰ってくるお嬢様を迎える準備でいそがしい中、外出用の服を見つくろってくれました。城の中ならともかく、外では丈の短いスカートはあまりに人目を引くから、履いてはいけないそうです。足下まである薄茶色の地味なワンピースに、萌葱もえぎ色のケープをはおります。
 そして最後にエヴァは、フードをかぶせてくれました。生成色で薄手の、綿のフードです。頭のうしろをおおうように丸く布地が張られ、顔の周りで前にせり出す形で広いつばがついています。耳の横に垂れ下がったリボンを、エヴァはルディのあごの下で花結びにしました。
 サヒヤと落ち合い、城館を出て、前庭を抜け、通用門にたどり着きます。そこから外を見たとき、急にルディの足はふるえ出しました。
 来たばかりの頃、ここから迷い出て、見咎められたことがあります。今日は違います、外出の許可をとりました。それでもいざ門を前にすると、足がすくみます。
 非常に簡単な一歩ながら、ルディにとってはおそろしく重大な一歩でした。
 今日、生まれて初めて、自分の意志で外に踏み出すのです。お母様が死んであの部屋から連れ出されたときも、あの家が燃えてここに来たときも、ただなされるがままでした。
 不意に、帰る場所はちゃんと残っているかしらと、不安がかま首をもたげます。ルディの人生で、出口とは一方通行であるのが常でした。一度出てしまえばそこには二度と帰れないのです。
 まるで崖の上から一歩を踏み出すような。そんな心地になりました。
 隣の人を見上げます。まっすぐ前を向いた目。
 彼女と一緒なら、この上なく力強いことです。
 サヒヤが見張りの兵に一言かけて門をくぐるのに、ルディは間髪入れずにならいました。ほとんど同時に、踏み出します。
 あっけなく、ルディは町へと下る坂道に降り立ちました。
 数歩進んで、振り返ります。高い城壁の向こうに、城の塔が見えました。歩いて、また振り返るたびに、それは遠くなって行きます。やがて、城壁すら、木々に紛れて見えなくなりました。
 ベルスートという町は、山の中腹にある城を頂点に、そのすそ野に丸く、いびつなしずくの形に広がっています。城から町へと山肌をななめにくだる坂道は一度大きく曲がり、町の手前で、ちょっとした広場に行き着きました。
 普段は人や馬車の待機場で、城に運ばれる荷物や訪れる人をあらためたり、荷降ろしなんかをするそうです。今日は天幕が張られていました。昼、ここで祝いの席が設けられるのです。
 さらに坂道をくだるごとに、町並みが近づきます。いつの間にか城を振り返ることも忘れて、目の前の光景にルディは見入りました。
 赤茶色の屋根が、視線と同じ高さに並びます。と思うと、歩を進める内にそれらは見上げるほどになり、やがて乳白色の壁の頭に、わずかに見えるだけになりました。
 気付けば、ルディは両脇を建物に挟まれ、町の中に立っていました。
 ため息をつきます。心臓がどくどくと鳴っています。急な坂道をおりたせいです。そして町を今、面前にしているためです。昨日までは眼下に見るだけだったものが。
 大通りに面した建物の多くは二階か三階建てで、所狭しと天に伸びています。戸口にはすべて花輪が飾られていました。出窓、あるいは軒先の鉢植えにも花が植えられ、同じようにそこかしこに張られた緑の布と相まって、とても華やかです。
 通りには大勢の人があふれていました。家族や、夫婦、仲間同士、だれも楽しげに行きいます。わけもなくやましい気持ちが起こって、ルディはフードを目深まぶかにかぶりなおしました。
「さて」
 と、サヒヤが通りの向こうへ首を回します。彼女もやはり、フードをかぶっていました。女が外出するときにはたいてい、ヴェールやフードで頭を隠すのが通例です。
「春の祝祭のあらましは、習いましたか」
「森の偉人を、お迎えするんですよね」
 お嬢様をはじめ偉い人たちは、早朝、森へと向かいました。“森の偉人”を探すためです。彼は神秘的な大樹の下にたたずんでいて、厳しい冬のあいだには死んでいたものが、春になってよみがえっているはずです。人々は彼を町に連れ帰り、もてなします。彼は草木の芽吹きそのもの、彼が来て、町に春の恵みが満ちるのです。
 ホーゼンウルズに限らず、イブリール王国全体で似たような祝祭が行われているらしくて、ルディのいた町も例外ではありませんでした。このくらいの時期に、ルディのいた家の中庭に人が集まり、楽器を演奏して舞い踊るのを、格子ごしに見た覚えがあります。
 森の偉人を歓迎するために、家という家に、緑の垂れ幕を飾ります。人々もまた、どこかに緑色の入った服を着ます。ルディは萌葱もえぎ色の肩掛けを、サヒヤは首もとに深緑色のリボンを結んでいました。
「そのとおりです。そしてそれを口実に、ありとあらゆる欲望が形をとります」
 その言い方に不穏なものを感じて、ルディはサヒヤの顔色をうかがいます。しかし彼女にそのつもりはないようでした。手のひらで町を示します。
「欲は悪いことではありません。禁欲主義よりはよほど人間社会の発展に貢献します。良かれ悪しかれ、この世の中というものは欲と欲のせめぎ合いでできています」
 ルディは眉をひそめ、首をかしげました。サヒヤもそれ以上を言葉で説明する気はないようで、歩き出します。
「噴水広場に行ってみましょう。いちが立っているはずです」
 そのうしろにルディは続きました。次々と現れる建物や道のいくつかを、サヒヤは歩きながら示していきます。
「ここは大通りですから、店を出しているのはたいてい大きな商家です。これはローズソン商店、城にも食料品をおろしています。このマジェッタ馬車は、首都に本店と王国の各地にこんな支店があります」
「どの建物も、通りに面した部分は漆喰しっくいで化粧してありますが、そこ、裏は石がむきだしのままでしょう。見栄みばえのためですから、見えない所は少しでも節約しようというわけです。漆喰を少し黄色くするのは、石の色に合わせてです。ホーゼンウルズでは建物は石造りが主です。石切場は、レナンド川の上流にあります。町から少し行けば船着き場です」
金床かなとこの看板があるでしょう。ここから向こうが金床かなとこ通り。鍛冶屋や金属の細工師が集まる一画です。比較的安価な物から、城へ献上されるような物も作られています」
「あの塀が見えますか。あの中の一段高くなっているのは琥珀地区、官僚や金持ちの居住区です。一般市民の立ち入りは制限されますので、むやみに近づかないように。お嬢様の使いであれば別ですが」
 ほとんどよどみなく色々なものを説明していく様は、まるで水が流れるようでした。そしてそれが乾いた大地にしみこむように、ルディは新鮮な喜びとして受け止めていました。
 何か指し示されるたびに、「へえ」とか「わあ」とか声を上げて立ち止まるから、普通に歩くより何倍も、時間がかかったでしょう。目的地にたどり着くまで、サヒヤが急かすことはありませんでした。
 ようやくたどり着いた広場は、ルディの思っていたのと全く様子を変えていました。屋台がいくつも、数え切れないくらい立ち、噴水はその屋根の向こうにおおい隠されています。水のしぶきの代わりに、商人たちの売り口上が飛びっていました。
「お嬢さん、スミレの化粧水はどうかね。今朝森で集めたばかりの朝露を入れてあるよ。肌がぴかぴかになるよ」
「さあ見てきな、あたし達はウェルザー村から来たんだ。木工の村だよ。この美しい細工をごらん。幸運のお守りだ」
「豚の丸焼きだよ! たんと肥えてるよ。どこから切る? ハラかい? モモかい? 早い者勝ちだ!」
「だれか力自慢はいないかい? この大男に勝てたら、賞品はエールを樽いっぱい!」
 ルディはぽかんと口を開けたまま、その場に立ち尽くします。戦のためにたくさんの兵士が集まったのを見て、あれほど多くの人がこの世にいるのに驚きました。しかし武器を手にした兵士の意気揚々さとはまた違う、日々の生活の中にある活力が広場にあふれています。
 商人だけではありません、それを買い求めに多くの人が出歩いています。大人も子供も、男も女も銘々、楽しげに声を交わしながら、市場に並べられた商品をのぞきこみ、飴を手にしてはしゃいで、駆け回り、楽器のそばで輪になって踊っています。同じ目線で等身大に見る人々の活気に、ルディは圧倒されました。
 ふと隣を見ると、サヒヤの姿がありません。あわててルディは人混みの中から彼女を探そうと、かかとを上げます。だれもが我関せずすれ違う中、男が一人、ルディに向かって歩いてきました。ずんぐりとした体型で、フードで顔を隠し、その隙間から鋭い目つきがのぞいています。
 男は全く勢いを落とさず、ルディにぶつかりました。
「あっ」
「いてぇ!」
 よろめいたルディよりも大仰おおぎょうに、男はうずくまり、腕を押さえました。
「てめえ、どこ見てやがる!」
「ごめんなさい――」
 しわがれた怒号に、足がふるえ出します。
「くそっいてぇ! どうしてくれるんだ! これじゃ明日から仕事ができねえ!」
 ルディはもつれる足をなんとか制して、ひざをつき、男に手をのばしました。
「手当てを……」
「さわんじゃねえ!」
 荒々しく払いのけられた手を、胸元で手をにぎりしめます。
「ごめんなさ」
「謝るだけじゃすまねえだろ!」
 そのとおりです。だからって、ルディには差し出せるものなどありませんでした。ただ勇気をふりしぼります。
「手当てに……お医者様に、行きましょう」
 男の不揃いな歯の隙間から、不快な臭いが噴き出ました。
「なあ嬢ちゃん、そんな問題じゃねえだろ? 俺を医者に見せてる間に逃げようってのか」
「そんな……」
「何をしているんですか」
 頭の上から、聞き慣れた声が降ります。見上げると、黄土色の眼が冷ややかにルディを見下ろしていました。
 彼女は男に目もくれることなく、ルディを立ち上がらせます。
「行きますよ」
「おい、待てよ姉ちゃん。お前の連れがこの男にぶつかったんだよ。可哀想に、ケガしてるじゃねえか」
 気がつけば、見知らぬ男がもう一人そばに立っていました。ひょろりと背が高く、やせた顔の中で目ばかりがぎょろぎょろしています。彼が肩をつかもうとするのを、サヒヤは身をそらしてかわしました。首をかしげます。
「怪我?」
「ああ、いてえよぅ」
 地面にうずくまった男は、まだ腕をおさえています。サヒヤはその男に初めて気付いたかのように視線をやり、近づきました。えり首をつかんで立たせます。いとも簡単に、男一人を。
「おいっやめろ――」
 彼の抗議の声もかまわず、その腕を背中の方にひねります。
「ぎゃっ」
「怪我ってのは」
 あかく、薄い唇から、低い声がにじみます。
「鼻が折れただとか、肩が外れただとかを言うんだよ」
 そして怒涛どとうとなりました。
「今から望み通りにしてやるさ! どっちがいいんだ選びな!」
 ルディはすくみ上がります。自分に言われたわけではないのに、心臓をわしづかみにされたようでした。
「ぐぅ――」
 男は歯を食いしばり、うめき声をもらします。額には脂汗が浮かんでいました。身を折り曲げ、数回、口をむなしく動かしたあと、か細い声をあげます。
「ごめんなさい――ゆるしてください……」
 舌打ちを一つ、サヒヤは男の体を地面に放り出しました。
「行きましょう」
 ひぃ、と息をする男を振り返りもせず、歩き出します。気付けば、背の高い男はどこかへ消えていました。ルディは彼女の隣に駆けよります。
「あの、ごめんなさい……僕が、ぶつかってしまって……」
「ぶつかったのはどちらからです?」
「…………あの人が」
「よくある手口です。怪我をしただとか、品物が壊れただとか、難癖なんくせをつけて金を脅し取る。あの背の高い男もぐる、、でしょう」
 ああそうだろうなと、半ば理解していたことをルディは自覚します。男は怪我なんかしていませんでした。彼らの風貌や態度も、普通の人とは違っています。しかし、目の前でそれが起こっているあいだは、恐ろしいばかりでした。
「このとおり、この世の中は、欲と欲のせめぎ合いです。だれもがより良く生きたいと思っている。そのためにまっとうな手段をとるか、悪行に手を染めるかは人それぞれです。そしてたいていの場合、普通の、善良な、まっとうな人間というものは、悪に対して無力です」
 もう一度同じ目にあっても、恐ろしくて、金を出せと言われれば、そうするでしょう。
「まず重要なのは、問題を起こさないことです。立ち止まらない、一人で行動しない、人気のない時間や場所を避ける。その上で問題に巻きこまれたなら、とにかく逃げなさい。それが無理ならおとなしく金銭を渡してもいいでしょう。自力で立ち向かうなどとは考えないことです」
 なるほど、とルディはその言葉の半分に納得し、もう半分に首をひねりました。サヒヤはその視線にすぐ気付いたようです。
「今の私の行動は、悪い例です」
 と白状しました。
「あの場合、あなたを連れてさっさと立ち去るべきでした。あちらに非のあることですから、だいたいは追ってまで来ません。くれぐれも、私と同じ方法で対処しようとは思わないでください」
「まさか」
 ルディは少し、笑いました。
「僕には無理です」
 あんな風に啖呵たんかを切るなんて。
「そうでしょうね」
 サヒヤは少し、視線を落とします。
「私一人ならどうとでもあしらいますが、他人が絡むとどうも調子が狂います。あなたのように、非力な人間であればなおさら」
 ルディは笑うのをやめました。
「……ごめんなさい」
「むやみに謝るのはおやめなさい。相手に付け入る隙を与えます」
 ぴしゃりと、彼女は言い切ります。
「堂々と歩いていなさい。それだけでもずいぶん違います」
「はい」
 つとめて大きな声で、ルディは答えました。
 あらためて二人は、市場に目を向けます。売り物を置く台があって屋根のついた立派な屋台から、石畳の上に布を広げただけの店まで、売っているものは食べ物から日用品、装飾品まで様々です。
 それらの中を歩いて回りながら、ルディはため息をつきました。
 これまで、ベルスートの城を世界の中心のように思ってきました。つまり、もっとも良いものが集まる場所です。献上されたり、買い求めたり、あるいは生み出したり、あらゆる知識と技術と富の中心だと。生家ではとても考えられなかったような、優れたもの、最先端のもの、すばらしいものを居ながらにして目にしてきたからです。たとえば分厚い大事典や小さな懐中時計、螺鈿らでんの宝石箱なんかのことです。
 しかしこの市場の中にあるものはどうでしょう。小さな木彫りのフクロウ一つとっても、木目に刃の跡の残る素朴なたたずまいを城で見たことはありません。だからといって――それは確かに一番上等で一番価値のあるものではないかもしれませんが――城にあるものと比べて、劣っていると言えるでしょうか。道行く人々の服が絹でなくても。町には、城の中とはまた違った形の豊かさが満ちています。
 とある屋台の前で、サヒヤが足を止めました。すぐさま店主らしい、壮年の男が声をかけます。
「お嬢さんどうだい、セインクレスのリンゴだよ。甘くておいしいよ」
 木の箱に、真っ赤なリンゴが山積みにされていました。新鮮なもののほかに、干したリンゴやアンズ、ブドウなんかも並んでいます。
「ああ、セインクレス。昔、少しだけ住んでいたことがあります。あそこは果物がよくできますね」
「ああそうさ」
 主人は大きくうなずいて、親しげに身を乗り出しました。
「へえ、あんた知ってる名前はあるかい? 小さな町だからな、知り合いかも」
「子供の頃の話ですから、あまりよくは覚えていませんね……。でも懐かしい。母が果物をよく買ってくれました」
 と、サヒヤは干した果物のいくつかを手にとり、店主に銅貨を渡します。
「今は、あのあたりはどんな風ですか?」
 店主は銅貨を受け取りながら、同郷というのもあって大いに気を良くしたようでした。
「相変わらずさ。いいところだよ」
「景気は?」
「そうだな、悪くはないけど……最近は外国からもこういったものが入ってくる。商売がたきだな」
「ああ、今度の戦争で道が開けたとなると、また輸入が増えるかもしれませんね」
「そうなんだ。庶民には手の届かない、珍しい高級品の内はまだいいがね」
 そんな世間話をしたあと、二人はその屋台を立ち去りました。
 サヒヤは、麻の手提てさげ袋の口を開いてルディに見せます。
「食べますか」
 干しアンズを一つ、ルディは手にとりました。かじると、酸味とともに甘味がじわりと広がります。城でときたま口にする、砂糖の入った菓子のような華々しい甘さはありません。しかし好きな味です。
「おいしいですか?」
 うなずくと、サヒヤは手提てさげ袋ごとルディによこしました。
「一人で食べるなり、人と分けるなり、好きにしなさい」
 好きで買ったわけではないようです。ルディは口の中のものを咀嚼そしゃくの途中で飲み下しました。
「サヒヤさんは、さっきの、セ……セイ……」
「セインクレス」
「その町に、住んでいたことがあるんですか?」
「辺境伯領内では有名な、リンゴの産地ですよ」
 今一歩、ルディは踏みこんで聞きました。
「デボラートでも、こういう風に? その、人から話を聞くのに」
「さあ。それぞれです」
 サヒヤはルディを見もしません。前をにらむ、厳しい横顔でした。余計な詮索だったのだとルディは顔を伏せます。その内に、ため息が聞こえました。
「今日は休暇だと言われましたが……癖のようなものですね。私も侍女頭殿のことは言えない」
 見上げると、サヒヤはフードを脱ぐところでした。そよ風を受けた銀髪を、うしろになでつけます。
「サヒヤさんの――特別な仕事は、このようなことなんですか?」
 彼女は肩をすくめました。
「どうでしょう。少なくとも今回は、自主的な行動です。たまに、あの町でこれを探ってこいだとか、まるで密偵のような仕事を与えられることもありますがね。
 あの方へ土産話の一つでも、と思ったのです」
 と、雑踏を見つめます。ルディも同じものを見ようとかかとを上げ、二人は並んで人々を眺めました。
「町が、世間が、民がどのような有り様であるのか、城に居ながらにしてすべてを知ることはできません。だからといって、あの方の身分で自ら市井しせいにおもむくわけにはいかない。ならあの方の眼となり耳となり、人々の暮らしを見て、人々の声を聞く、それが侍女の――あの方にお仕えする者の役目だと私は思っています」
 行きう人々は、彼女の目にはどのように映っているのでしょう。春の日差しを受けてなお、金と呼べるほど明るくもなく、茶ほど滋味深くもない、濡れた砂のような色の眼は、静かな、冷めた光をたたえていました。やがてそれを閉じ、彼女は少し首を振りました。
「欲望に良い面と悪い面があるのは確かですが、荒事あらごとへの対処だの、人のあざむき方だの……さっきから私があなたに教えているのは悪い面ばかりですね」
 フードを深くかぶりなおします。わずかに見える口元だけが笑いました。
「あなたに私と同じようにしろと言うわけではありません。忘れてください。私はうたぐり深く、嘘をつき、その分、相手の言葉の裏ばかりを考えてしまう。今までの人生で余計なことを知りすぎたのでしょう」
 自嘲でした。
「そんな……いいえ」
 ルディは頭を横に振ります。
「色々、教えてください。僕も同じようなことを感じていたんです。城にいるだけでは、世の中のことは分からないんだって。
 あの、僕はこの城に来て、色々すばらしいものを見て、それが、それだけが一番良いものだと思っていたんです。でも世の中にはこんなにたくさんのものがあって……みんな、楽しそうで。
 だから、世の中のことを、もっと知りたいんです。良いことも……悪いことも。知らないまま、閉じこもっているのは、いやです。どちらも分かっていれば、どんな見方をするか選べるでしょう?」
 サヒヤはルディを見つめました。
「ものの見方を――自身の行く道を選べるほど、人は器用にできていないのですよ。たいていの場合、迫られて選ばざるをえない」
 彼女自身を言うような口調です。そして、ルディの生そのものでもありました。常に、後戻りのできない道を――引きずられて――歩きもせず、ここまで来ました。
「でも」
 口を突いて出たのは、反論の切っ先でした。
「でも……」
 その先に続くべき討論を思いついていたわけではありません。サヒヤは拳を作ると、ルディの頭を小突きました。
「生意気を言うようになりましたね」
「ご……」
 謝りかけて、飲みこみます。うつむくのはいやで、しかし顔を上げるには勇気が足りず、上目遣いのおそらく恨めしげな目で、ルディはサヒヤを見ました。サヒヤは意地悪く笑います。
「いいことです。少しは自分で考えるようになりましたか」
 ルディから視線をそらし、前を向いたときには、その目元はゆるんでいました。
「そうですね、この世の中も悪いことばかりではない。私もそういったことに目を向けるべきですね」
 そのとき、高らかなラッパの音が遠くから聞こえました。おそらく町の入り口の方から。
花車はなぐるまが帰ってきたよ」
「姫様達が森の偉人を連れてきたんだ!」
 人々はそう言って、次々と広場から歩き出します。
「行ってみましょう」
 サヒヤのうしろにルディも続きました。
 広場から大通りへと、建物の合間の狭い道を通るために人の密度が急に高まります。お互いの長いスカートのすそがふれあうほどの近さに、ルディの足はまごつきました。
 サヒヤが振り向き、ルディの手をとります。導かれて、ルディの体はするすると人混みの中を進みました。
 その手の質感とあたたかさに、不思議な事態だと気付いたのは、大通りに出てからでした。沿道にはすでにたくさんの人が並んでいて、またあとから人が流れこみます。それに押されて建物のふちを進み、真ん中あたりで二人は居場所を定めました。サヒヤの手が離れます。ようやくそのとき、手をつなぎあっていたことをルディは意識しました。
 たぶん、彼女のの取り方には絶妙なところがあって、こちらの動きに合わせて実に自然な形で働きかけるのです。同時になんら気負いを見せないものだから、その働きかけを当然のことのように受けてしまいます。
 何か、彼女が剣を振るう様に似ています。歩いたり物をとったりするのと同じくらい何気ないのです。動作は十分に慎重で丁寧であるのに、さりげなく、無造作でした。
 サヒヤの持つ、ある種の強引さ、つまりうまく人の隙を突くとかいう手腕に関して、お嬢様と似ているようにも思えます。悪く言えば無遠慮に、人の間合いに立ち入ります。なるほど二人は剣の道において師であり弟子でもあるから、納得のいくことでした。
 そんなことを考えているあいだに、またラッパの音が聞こえました。一行が、町の門を抜けたということでしょう。町の中程に位置するここから直接それを見ることはできませんが、人々は期待のこもったまなざしで、馬車の来る方を見つめます。
 通りを、さあっと風が通り抜けました。
「この良き日に」
 低く芯のある声とともに。
「森の偉大なる者をベルスートに迎え、今、私の心には喜びが満ちている。私の名前はシェリー・エデルカイト・フォン・ホーゼンウルズ」
 人々はあたりを見回しました。顔をつきあわせたはしから、雨に打たれる水面みなものように絶え間なく散発的に、ざわめきが生まれます。
「お嬢様」
 思わずルディが口にした言葉は、幸いだれの耳にも届かなかったでしょう。声をひそめながら、隣に立つサヒヤに聞きます。
「魔術でしょうか?」
「そうでしょうね」
 彼女とて魔術師ではありませんから、はっきりと分かることではありません。じっと空をにらんでいます。あっという間にざわめきが市内を満たしました。
「シェリー様だって?」
「これが姫様の声? 初めて聞いた」
「不思議だねえ」
「これが魔術かい? 便利なもんだ」
「しっ、聞こえないじゃないか」
 ルディ達にとってはお嬢様の声は慣れたものですが、ほとんどの人々は直接呼びかけられることなどありません。風とともに運ばれてくる声に皆、耳を澄ませました。
「十九年前、父である辺境伯オブリードと母である王女エルメイアとが神聖なちぎりをわしたのは、この時節であった。そして次の春に、契りの証として私が産まれ落ちた」
産声うぶごえをあげた私を迎えたのは、父と、母と、そしてこのホーゼンウルズの大地だった。緑は深く、水は澄み、けわしくも恵み豊かな我らの大地。大地は死の冬を越え、輝いていた。まさにこの日、このときと同じように」
「我らの大地が余すところなく、これほどまで輝くのは、いととうとき御方の与えたもうところによるものだけだろうか」
「私はそうは考えない」
「天地を開闢かいびゃくしたのがいととうとき御方の御業みわざであれば、このホーゼンウルズの地を開拓したのは、我らの祖先の、血と、汗と、魂である。私の曾祖父カルゾス辺境伯は、百人の大志ある者達とともにこの地へやってきた。蔓延はびこる蛮族どもを蹴散らし、木を切り、道を通し、町を建てた。それは今日までなんら変わることはない」
「我々は今、彼らの屍の上に立っている。この地を富ますのは、彼らの屍であり、そして我々の屍である。先の戦果は、この地にますますの栄えをもたらすだろう。勝利と、そのための犠牲はともに等しく賞賛される」
「約束しよう。私もやがて偉大なる祖先達に列し、この地の肥沃ひよくの一部となると。むろん、心から、喜んで」
「冬のあいだに、森の偉大なる者が死のとこにつくとして、それは春に再びよみがえるためである。我々の死も同じ。我々の屍がこの大地にさらなる豊かさを与えるだろう」
「我々の魂は、常にここにある。ホーゼンウルズ、我らが愛しき故郷に」
 静寂のあと。
「辺境伯様万歳!」
「ホーゼンウルズに栄えを!」
 瞬く間に、通りが歓喜に満たされました。
「相変わらず、派手好きだこと」
 サヒヤのつぶやきは、ほとんどかき消されます。
 おそらくお嬢様の声は、町中、すみずみまで届いたのでしょう。閉ざされた家の中からでさえ、たたえる言葉が響くようでした。町は今、喜びに身をふるわします。
 そのただ中を、馬車を率いた騎馬の一団が進んできました。金の糸で刺繍された緑色の馬着と式服をまとった彼らの様子が、いかにすばらしいものであるか、言うまでもありません。
 そしてそのうしろに続くものをルディは食い入るように見つめました。
 屋根のない馬車は、出て行ったときの簡素な姿から一転して、色とりどりの花で飾られています。一頭の馬と、それを操る御者ぎょしゃのうしろ、からであったはずのそこに、一人分の影が見えました。緑の服を着ているようです。
 不思議なことに、どれだけ目をこらしても、その正体を見定めることができません。どうにもその輪郭はぼやけていました。遠目だからというだけではなくて、ふれようと手をのばせばかき消えるのではないかと、そう思わせる存在感です。
 まわりの騎馬達のような宝石や貴金属のまばゆさはなく、代わりに、みずみずしい葉が日を照り返すおだやかな光に包まれています。清涼な芽吹きのにおいがここまでただよってくるようでした。
 彼こそが森の偉人に他ならないでしょう。
 建物の二階から、人々が花をまきます。
 歓声がこだまし、花びらがひらひらと降る中を、馬車は通り過ぎていきました。
 馬車に付き従うように、馬に乗ったその人の姿がありました。道の向こう側に手を上げ、それから、こちら側へも。振り向いた瞬間、目が合いました。
 おそらく気のせいです。
 これだけたくさんの人がいる中、ルディが分かるはずはありません。そうと頭では分かっているのに。どうしようもなく熱くなる頬を、ルディはうつむいて隠しました。


 城に帰ってからも、どこかルディは心ここにあらずで、ぼんやりと、夕暮れを眺めていました。冬よりだいぶ日は長くなっています。レントウに町の様子を話しに行こうかしら、仲の良い洗濯女中達にみやげを分けに行こうかしら、と考える内に、太陽は完全に山の向こうに隠れてしまいました。松明たいまつともされます。
 花馬車の行列を見送ったあと、散会する人々とともにサヒヤとルディは噴水広場に戻りました。屋台で昼食をすませ、また町の中をぶらぶらと歩いて回りました。
 昼過ぎには、市場では店じまいするところが出始め、だんだんと客足もまばらになる代わりに、楽団の周りに人が集まり、演奏に合わせて踊る姿が増えました。年よりも若者も、手をとり、かかとを打ち鳴らし、緑のストールを振って、仲間同士で、また恋人同士で、そして子供も大人を見て、上手に、陽気に踊るのでした。
 それをもっと見ていたいという気持ちはあったのですが、ルディはくたくたに疲れていました。門限もありますからあまり遅くならない内に城に帰ろうということになりました。城への坂をのぼるのに、城に用のある荷馬車をサヒヤは探そうとしてくれましたが、ルディはそれを断り、なんとか自分の力で上がってきました。
 サヒヤと別れ、すぐさま自分の部屋に戻る気にもなれず、ルディは城の中をうろうろとしていました。町に出ている人が多いのか、衛兵や厨房を除いて、いつもより城内は閑散としていました。バルコニーに出て町を眺めると、広場にはかがり火が赤々と燃えています。きっといまだにリュートと笛の音が響いているのでしょう。
 城の中でも、まだ宴は続いていました。日の高い内、森の偉人は城と町をつなぐ道の中途にある広場でもてなしを受けていたはずです。捧げ物をしに、町の人が坂をのぼるのが見えました。
 夜になり、その席は城内へと移りました。やがて宴たけなわになる頃、彼は人知れず姿を消し、森に帰るのだそうです。彼を囲んで宴会をしながら、だれも彼が退出するのを見たことはないと。
 昼間に見た、あの不可思議な存在を思い出して、ルディは思考を巡らせました。彼がいるのであろう、大広間の方を意味もなく眺めます。
 日が落ちると風は冷たく、ルディのうなじをなでました。それが頭の芯まですべりこむような感覚に、ルディは背中を丸くします。
「ああ、こんな所にいたのか」
 それとともに足音もなく、ただ声だけがしました。驚いて、振り返ります。
「お嬢様」
 バルコニーの入り口に、その人の姿がありました。朝見たときとは違う衣装で、おそらく城に帰ったときに着替えたのでしょう。春の祝祭は昔から伝わる祭で、そして森の恵みを賛美する日であるためか、この日の衣装は古風でより自然な、つまり体の線にそって紐で縛り上げたり、前開きを金具やリボンでとめるものではなくて、大きな一枚の布地の真ん中に穴を開けてそこから頭を通すものでした。お嬢様は足元まである長袖のチュニックと、その上にさらに長い、袖無しのサーコートを着ています。
 お嬢様がこの手の服で、すそを引きずって歩くのを嫌うと知っていたため、ルディは自分から近くによりました。
「どうしてここに……宴は? 終わったのですか?」
「抜け出してきた」
「そんな……」
「すぐに戻るさ」
 言葉を失うルディに笑いながら手を振ります。
 それから、
「ついて来い、ルディ。いいものを見せてやろう」
 ときびすを返しました。
 こうなってはもはや、ルディにできることありません。答えを待たずに歩き出したその背中を追います。だれかに咎められはしないかとルディはおびえていましたが、階段をおりるときも、玄関広間を通り抜けるときも、不思議と見張りの兵士でさえ、だれも何も言いませんでした。
「今日はどうだった」
 城館の外に出て、お嬢様は口を開きます。ルディはお互いの声が届きやすい距離まで歩を速めました。
「とても……良かったです」
 エヴァがフードをかぶせてくれたこと、サヒヤがとても物知りだったこと、町にたくさんの人がいたこと、花馬車が見事だったこと。とつとつと、ルディは語りました。
「ふうん」
「ああ」
「そうか」
 町のことを話すとき、今まで以上にお嬢様の声色が優しく感じられたのは、きっと聞き違いではないでしょう。
 サヒヤの言葉を思い出して、なるべくこまかく、見たこと聞いたことを伝えます。
「お嬢様の声が聞こえたとき、皆驚いていました」
「お前にも聞こえたか?」
「ええ、はっきりと。すごい魔術ですね。とても便利です」
 その内に二人がたどり着いたのは、古い塔でした。
 今は使われていない物見の塔です。存在だけはルディも知っていました。普段人の出入りしない場所ですから、鉄格子の扉には錠前がかけられています。しかし今お嬢様がふれるや、なんの抵抗もなくその扉は外に開きました。
 ルディはたぶん人より夜目が利く方ですが、それでもためらうほどの闇の中へ、お嬢様の背中がするりとのみこまれます。壁を手で伝いながら、ルディは続きました。
 中の空気は静まりかえり、古びたレンガにいくらか苔のからみつく様子がにおいで分かります。目をこらしてわずかに見えるばかりの螺旋階段を、お嬢様はするするとのぼりました。長くすそ引く服で、たたらを踏むこともなく、ずれの音さえさせず。
 その頃には、ルディは目の前の人が現実ではないと確信していました。だから、足をもたつかせた自分にその手が差し出されたとき、思い切ってとることができたのです。
 幻にも質感があるのだとルディは意外に思いました。あたたかくも冷たくもなく、重みがあるような、ないような、不確かな感触です。昼間のサヒヤの手と比べてどうでしょう。幻のつもりで、実在するその人であったらどうしよう、それともやはりこれは幻だから、外から見たら自分で自分の手をとってぐるぐるその場を回っていたりするのかしらと、考える内に階段をのぼりつめていました。
 うながされて、もう板すら張られていない吹きさらしの窓に、並んで立ちます。
「私が産まれた頃は、ここが一番高い塔だったらしい。七才のときだったか、あの塔ができた」
 と、お嬢様はもっと外側にある、新しい物見の塔を指さします。
「それ以来、ここに兵が立つことはなくなり、私の遊び場になった」
 昔を懐かしむ口調に、ルディは城の一画に飾られている、お嬢様の小さい頃の肖像画を思い出しました。その絵の中では、まだ七、八才でしょうか、小さな子供が、短く切りそろえた前髪の下できりりと眉を引き締め、こちらをにらんでいます。頬はどこか不服そうに赤くふくらんでいましたが、子供であれはそれもかわいらしいものでした。当然ズボンを履いて、まだ男女の体の特徴もないので、知らなければ、男の子だと思うでしょう。
 お嬢様が七つだった頃の、ルディの知らない時代を想像してみます。エヴァはもうこの城に来ていたでしょう。サヒヤが来たのはもっとあとです。レントウはずっと前からこの城にいました。ケンニヒ様は幼い頃からと聞いています。もっぱらお嬢様の遊び相手であったと。
「ケンニヒ様も一緒ですか?」
「ん? ああ……そうだな。ケンニヒも時折、来たな」
 お嬢様は笑って首をかたむけます。曖昧な言い方でした。ではほかにだれと来たのか、ルディが考えつくより早く、お嬢様は夜空を示します。
「あの梯子はしごが見えるか」
 そう言われて、指さされた方にいくら目をこらしても、それらしいものは見えませんでした。薄くたなびく雲が月に照らされ、その合間に星々が輝いているばかりです。
 ルディは困ってお嬢様を見ました。
「ああ、ふうん。お前には見えないのか」
 ルディが目をしばたたかせていると、お嬢様は口先で小さく何事かを唱えます。ぱちん、とルディに向かって指を鳴らすと、どうでしょう。
 急に世界が色彩を変えました。月明かりの届かない奥の壁さえあざやかに見えます。いいえ、実際には何もかもが重たい夜のとばりの向こうに身をひそめたままだというのに、それらの一つ一つが異彩をはなって感じられるのです。身の回りのものすべての色形や質感や存在感が勝手に頭の中に流れこんできます。見えるはずのない塔の屋根の、鉄でできた風見鶏が風にゆれる様から、塔の窓の下、遠く離れた地面の草葉の下で、虫が羽をふるわせるのでさえ一気に目の前にあるようで、ルディは恐ろしくなりました。
 同時に、今まで自分が頼りにしてきた感覚、つまり、暗闇の中であっても空気の微細な流れの中にもののにおいをかぎとり、だいたいの方向や位置を把握する能力が失われていることに気付きます。
 急に足元がおぼつかなくなるような感覚に、ルディは身をふるわせました。それでいて強い風に全身絶え間なくさらされているようなものです。ああほら、遠い林の中のあの木で、ふくろうが鳴いている――
 背中にお嬢様の手がふれました。耳元で落ち着いた声がします。
「私と同じ感覚をお前に入れた。安心しろ、一時的なものだ」
 つまり、魔術師の、ということでしょうか。とうてい、同じ人間の感覚とは思えません。
「いつも、お嬢様はこんな風にものが見えているのですか?」
「さあ、どれのことだ? 私はこの見え方しか知らない」
 何気なくお嬢様が首をかしげた拍子に、ゆれた髪の無数の一筋一筋がちり、、とともに空気をかき乱し、月明かりを乱反射させました。気が遠くなるほど、繊細な感覚です。
「ああ、だがそうだな、知っているぞ。お前たちには夜空は黒に見えるのだろう」
 その言葉に再び窓から空を見上げて、ルディは息をのみました。
 大気が虹色に輝いています。赤、緑、黄、紫、青――とても人の言葉で表現しきれるものではありません。様々な色の薄い布をいくえにも重ねて、たなびかせるように、空全体に不規則な色の層が、あるいは渦が広がっていました。その中でさえ星々はかすむどころか、いっそう白く輝きを増しています。そして不思議なことに、月は光の渦の中で全く姿を失っていました。
 本当に同じものを見つめているのでしょう、お嬢様は大気の輝く理由を語り出しました。
「虹色に見えるのは月の精気だ。前に呼吸が、夜のあいだに降り注いだ月の精気を体内に取り入れるためだと言ったな。魔術師も同じものを吸い、そして魔術の力の源はこの月の精気だとされている」
 ルディが驚いてその顔を見ると、お嬢様はうなずき返します。
「魔術師もそうでない人間も、同じものを吸っている。だが違いは、それを知覚し、自らの意志で行使できるかどうかだ」
 その説明に、近くて遠いものを、ルディは感じました。魔術師とそうでない人の違いというものを今まで、魔術が扱えるという点以外で意識したことはありません。排他的だとか秘密主義だとかは、かつての彼らの扱いを考えれば納得のいくものでした。同じものを食べ、同じように眠り、同じように血を流します。その一方でこれほど遠い感覚を持っているとは、思いもよりませんでした。埋めようのない溝に感じられました。それは別に、不特定多数のいまだ社会から排斥の憂き目に会う魔術師達のことではなくて、目の前の人にまつわるものです。隣にいてもこんなに見るものが違うなんて知ったら、自分などはさておいても、もっと近しい人々は、どれほど歯がゆい思いをするでしょうか。あるいは、お嬢様自身は。
 しかし驚くべき秘密を明かしても、お嬢様はさしたる気負いはないようでした。
「ほらあそこだ、梯子はしごが見えるか」
 先ほどと同じ方を指さします。今度こそルディは、その正体を見定めました。森からのびる金色の光が一筋、天頂をまたいで城に降り注いでいます。これが梯子はしごでしょうか。
「今からそこを、森の者が通る。魔術の感覚のある者にはちょっとした見物みものだ。ほら、あそこで塔の魔術師達も見ている」
 見下ろせば、城の敷地の端に魔術師の塔が見えました。浅黒い褐色のレンガで組まれて華やかさなどないはずの塔が、今はより黒々と、それでいて異様な存在感を持って光っています。数人の魔術師が連れ立って、その塔の上階から同じように空を眺めていました。
 そしてその向こう、木立に囲まれた中に、白い屋根を見つけてルディは思わず目をそらしました。
 奥方様の離れ屋です。
 あれ以来何度も、ルディはそこに遣わされました。最初のようなことは二度となくて、訪ねるたびに、門前で愛想の悪い侍女から変わりはないと伝えられるだけでした。それでも、お嬢様がご機嫌うかがいを欠かしたことはありません。
 お嬢様が自身であの離れ屋を訪れたことは、今も昔もないと聞いています。代わりに、幼いお嬢様がここにのぼり、地上の白い離れ屋を見下ろしていた――と想像するのは、的外れなことでしょうか。
 今ならば、およそ十年近く前の息吹いぶきも、感じ取れるようでした。
「来たぞ」
 空想は、はずんだ声に引き戻されます。
 はっとルディは目の前のことに意識を向けました。
 光の梯子はしごが城にさしかかるあたりに、白く輝くもやが見えます。
「あれが、森の……?」
「そうだ」
 もはやそれは、人の形をしていませんでした。細かな光の粒がめいめい好きな風に宙をただよいながら、かろうじて一つの意志を持ったもやとしてまとまっているという体です。
 そこから、丸まったシダの葉が広がるように、光がほどけながら前に伸びました。それは見る間に枝分かれし、光の梯子にからみつきます。枝から葉の、芽吹いて生い茂り散る様が、一瞬で過ぎました。
 光のもやはいまや梯子はしごに手をかけ、身を乗り上がらせ、すべるように駆けていきます。渦巻きながら小さく野兎になったかと思うと、ふくれ上がり、分厚い毛並みを風にはためたせる勇ましい狼として四肢をのばし、やがて優美な雄鹿が長い首をもたげます。堂々と掲げた枝角えだづのは、最後は鷹となって、遠く――
 瞬きする間もないほどでした。
 光の梯子はしごが音もなく消えてから、ようやくルディの心臓が音をたて始めます。
「今のは――」
 胸をおさえ、ルディはお嬢様の方へ向き直ります。微笑む唇が銀色の輪郭をえがいていました。
 開けた口を、何度かルディは意味もなく動かしました。言葉が飛び出す直前で、もどかしく勢いを失います。この思いを伝えるのに、いったいどう表せば足りるでしょうか。はやる気持ちを抑えて、慎重にルディは言葉を選びました。
「ありがとうございます、お嬢様。こんな……すばらしいものを見せてくださって」
「気に入ったか?」
「ええ、とても、本当に。あんなものは見たことがありません。すごくきれいで、不思議で、夢みたいです」
 言葉を重ねるたびに自分の声がはずんでいくのを意識して、ルディは口に手をやりました。気恥ずかしさを感じて、でも自分の反応はきっと、お嬢様が期待したとおりだったのではないでしょうか。お嬢様は満足そうに笑っていましたから。
「どうして、僕にこれを見せてくれたのですか」
「お前が喜ぶだろうと思った」
 答えは簡潔でした。あとから、お嬢様自身が物足りなく感じたのか、首をひねりながら付け加えるほどに。
「さあ。今日お前は初めて町に出たから、その祝いかな。それに以前、魔術がどういうものか聞いただろう」
 胸が何かあたたかいもので満たされていって、ルディは言葉につまりました。何も言えないのを見て、お嬢様は優しくルディの肩にふれます。
「ああ、もっと聞いてやりたいが、彼が帰ったからにはもう戻らなければならん」
 広間のある方に視線を向けます。
「私はこのまま帰るが、お前に一人でここをおりさせるのは可哀想だ」
 言うやいなや、お嬢様はルディの体を抱いて、窓から身を投げました。
 虹色の空に放り出されます。その瞬間、塔も地面もまったく存在を失い、ただ虹色の光だけが自分達を包んだように錯覚しました。鼻を押し当てたサーコートからは、少し古びたにおいがしました。
 そして落下します。
 ルディの悲鳴に、お嬢様の笑い声がおおい被さり、絡まり合います。その螺旋階段をまっさかさまに――
 気付けば、地面にへたりこんでいました。
 一人です。横を見やれば、塔の門扉はかたく閉ざされています。どこからが幻で――いいえ、何もかもが幻だったのかしらと空を見上げると、そこはまだ、虹色に輝いていました。ゆらめきながら、次第にちぎれ、ほどけ、色彩を失います。
 あとには小さく輝く星々が残されました。
「もう……」
 虚空に向けて、ルディはつぶやきます。精一杯の非難をこめていました。
 どうしていつも、最後には台無しにしないと気がすまないのでしょう。
 優しくしたあとは脅しつけるものとでも思っているのでしょうか。
 それでも胸の高鳴りにいやな感じがしなくて、ルディは一人笑いました。その胸にたっぷりと、夜の空気を吸いこみます。
 月のにおいがしました。


  ***


 祝祭の夜が明けて、その日は朝から、お小言で始まりました。幸いだったのは、その対象がルディではなかったことで、不幸だったのはそれを目の前で見ていなければならなかったことです。
「聞きましたよ、お嬢様。少し目を離すとこれです」
 腕組みをしながら、サヒヤはお嬢様にらみつけました。着替えの最中です。すでに鍛錬用の服に着替えたサヒヤが、突然お嬢様の部屋に入ってきたのでした。もちろん、丁重なノックのあとに、ではありましたが。
「なんのことだ」
「知らばっくれるんじゃありません。昨日の晩は宴の最中に、居眠りをしていらしたそうではありませんか」
 時分を聞けば、ちょうど、二人が塔にのぼっていた頃の話です。すぐさまそれは自分のせいだとルディは自首しようとしました。しかしお嬢様はサヒヤに見えないところで笑って、唇に人差し指を当ててみせました。黙っていろという合図のようです。
「なんだ、そのことか。そろそろ森の偉人の帰る頃だから、出るのを見るのも無粋ぶすいだろうと、目をつむっていただけだ」
 それから、おそろしくきれいに笑いました。
 たぶん、嘘をつくときの顔です。
「私はてっきりあのことがばれたのかと思った」
「なんですって?」
「おっと。さあ、何かな」
「包み隠さずおっしゃい!」
 とうとうサヒヤはお嬢様の服の胸ぐらをつかみました。
「だ、だめです、サヒヤさん……」
 ルディはその腕を押し止めようと、しかしつかむわけにもいかず、かなうわけもなく、手を弱々しく宙にさまよわせました。普段サヒヤは、たとえルディ相手でさえ暴力をふるったりはしないのに、どうしてお嬢様にだけはこう、まるでならず者に対峙するときのように、攻撃的なのでしょう。
 まさか剣に手をかけはしないだろうと思いながらも、ルディは固唾かたずをのんで二人を見つめました。
 ややあって、サヒヤは手をはなします。息を大きく吐いたあと、吸って、押し殺した声を発します。
「あのことだろうがこのことだろうが、同じことです。あら粗相そそうもキリがない」
 目の前で拳をにぎりしめ、
「覚悟なさい。今日という今日は、その性根を叩き直してさしあげます」
 重々しく宣言しました。
 待っていたように、お嬢様は笑います。
 言葉なんてどれほどか、雄弁なものでしょう。
 その笑顔に比べれば。
 子供のような、満面の笑みです。嬉しくて仕方がないと、開いた唇から覗く牙さえ魅力的でした。
 一瞬の間のあと――それがサヒヤに対して、なんら効果を持たないとは思わないのですが――彼女は容赦なく、怒声を浴びせました。
「笑っているひまがあれば、さっさと着替えなさい!」
 ルディは跳び上がって、お嬢様の服の留め紐に手をかけました。




   三 『父』

 その日は朝から雨が降っていました。昼になっても太陽は分厚い雲に隠され、薄暗く、湿った空気がじっとりと肌に張りつくような、そんな日でした。
 夜になってようやく雨はやみましたが、今さら日もないのに乾くわけはなく、相変わらず空気は重く冷たく垂れこめています。
 湿気のせいか、ろうそくの光はいつもより心細く見えました。控え室で、サヒヤからほつれたレースのかがり方を習っていました。細い糸で編まれたレースが、ろうそくの火がゆれるたびに、複雑な影をひざの上に落とします。
 まずサヒヤが顔を上げ、その注視する先でドアがノックされます。出迎えようと立ち上がったルディを彼女は身振りで制し、自らドアに向かいました。慎重に問います。
「どなたですか」
「トートヒルです。城主様の使いにございます」
 あどけない少女の声でした。しかしルディはぎくりと体をこわばらせます。
「城主様のご用で参りました。ここを開けてはいただけませんか」
 再度の丁寧な受け答えに、開けないわけにはいきません。サヒヤは半歩引くと、ゆっくりとドアを引きました。
 その向こうに現れたのは、ルディも知った人物でした。城主様に仕える侍従の一人、獣のような耳と大きな黒い目を持つ、異邦の少女です。背はルディよりも低く、人なつこそうな笑顔を浮かべていました。
 入り口で軽くひざを折り、それから部屋の奥のルディに目を留めます。
「城主様のご命令で、あなたをお迎えに参りました」
 ルディは息をのみました。サヒヤがその黒い視線をさえぎって立ちます。
「まだ見習いですから城主様に不作法があってはいけません。私が参ります」
「それはいけません。ルディさんをお迎えせよとのご命令なのですから」
 すぐさまトートヒルは否定し、それから明らかな侮蔑ぶべつを声ににじませました。
「だいたいあなたは城主様の御許みもとには出入り禁止でしょう。またあのときのように厄介を起こされては困ります」
 サヒヤは半身をずらします。
「では、今ここで?」
 剣を携えた左半身を奥に。トートヒルは彼女の隣を難なくすり抜け、片手で張りつめた空気を打ち払いました。
「おやめなさい。今度こそただではすみませんよ。今なら、あなた方の主人もね」
 その言葉の後半はルディにも向けられていました。
「お嬢様が……?」
「ええ、城主様さまのお部屋においでです。あなたをお呼びですよ」
 春の祝祭が無事に終わり、明日になれば城主様はシェーデンボレイへ静養に戻られます。お嬢様はお父様と食事をとり、まだ戻っていません。
 お嬢様がお呼びとなればなおさら、行かないわけにはいきません。決心して、ルディは彼女のそばまで進み出ました。サヒヤのもの言いたげな視線にうなずいてから、トートヒルに続いて部屋を出ます。
 部屋を出て数歩、トートヒルは一度こちらを振り向きました。ルディではなく、そのうしろ、控え室のドアが閉ざされたままなのを確認したようです。前を向き、
「ああ、やれやれ」
 と、両腕をまっすぐ上にのばします。
「やあね、あの女。一人で殺気立っちゃって」
 聞こえると分かっての独り言でしょう。しかしルディは何も答えませんでした。目の前を歩く少女の背中をじっと見つめます。
 年は、十かそこらにしか見えません。ロドピック族といって、人間より成熟が早い種族なのだと、聞いたことがあります。だから彼女も子供のように見えて、すでに成人しているそうです。物怖じしない態度には、真実味がありました。
 あらためてはっきりとした発声で、トートヒルはルディに笑顔を向けます。
「あなたはおとなしい良い子のようね。嬉しいわ」
 それはつまり、“非力な”ということでしょう。ルディはおうむ返しに聞きました。
「“あなた”……?」
「あの女のことよ。サヒヤ・シェリト。あの女が何をしたか知ってる? 城主様の側仕えを斬り殺したのよ。しかも三人。城主様への反逆よ。とんでもないことだわ」
 と、トートヒルは大げさに両腕を開いてみせます。
 ふるえるのどでルディは息を吸い、吐き出しました。
「でもそれは……城主様がお嬢様を、傷つけたからでしょう」
 彼女は足を止め、笑ったままルディをにらみつけました。
「いやな子」
 その手からのびるかぎ爪に切り裂かれる気がして、足がすくみました。トートヒルは歩みより、ルディの顔を見上げます。
「ねえ、喧嘩をしに来たわけじゃないのよ」
 言葉ではそう言いながら、声では敵対心を隠そうともしません。
 彼女達と自分達の不仲について、すでにルディは聞き知っていました。そしてそれが何に由来するかも。
 祝祭の日、城へと続く坂道の途中で、ルディは胸にいつまでもわだかまる疑問を口にしました。町の活気を背後に、春ののどかな空気の中で全く似つかわしくない話題だと分かってはいても。
 だれに聞いても知っていることだと言われました。しかしだれに聞いてもいい話題だとはとても思えず、また人目をはばかるべき話題だというのも容易に想像がつきました。ならばこの相手に、今しかないと。
「サヒヤさんは、知っていますか。お嬢様が……城主様に、ランプで……ランプを、投げられたのを」
 一瞬の間のあと。
「あれは事故です」
 強く、サヒヤは答えました。……そうであれば、まだましです。ほかでもないサヒヤ自身の曇った顔が、それが建前にすぎないと示していました。
「だれからそれを?」
「……お嬢様から」
 他のだれかであれば、サヒヤは咎めたでしょうか。しかし半ば予想された答えだったのか、彼女は表情を変えず、代わりに短く息を吐きました。
「三年前、私がお嬢様にお仕えするようになって間もなくに、起きたことです。
 その場にはお嬢様と――城主様しか、おられませんでした。だから、実際に何が起こったかは知りません。最初に発見したのはエヴァでした。お嬢様が城主様の寝室でランプの油をかぶり、火だるまになっていたと」
 直接的な表現に、想像するだけで息がつまります。
「私がお目見えしたのは手当てが終わったあとですが、ひどい怪我でした。半身焼けただれ、顔まで。今、何事もなく立っているのが不気味なぐらい」
 いったん、サヒヤは言葉を切りました。顔を上げ、強い意志のこもった目で前を見ます。
「私は直後、ある行動を起こしました。私自身はそれを後悔していません。しかし軽率な行動ではありました。是非は第三者に判断させるべきでしょう」
 エヴァの名を、サヒヤは挙げました。彼女にも事の次第を聞くべきだと。それはすでにルディの中でも、とるべき選択の一つに入っていました。
「そして私も、あなたと同じようなことを考えました。何が起きたのか、原因は何なのか。……調べてみれば、この城に長く勤める者であれば、だれでも知っていることでした。お嬢様はたびたび死んでもおかしくないほどの大怪我をされて……その原因が城主様であるのは、珍しくないことだと」
 ルディは耳を疑います。ある程度まで覚悟していたことでしたが、彼女の口から打ち明けられる事実はそれを超えるものでした。
「探せばいくらでも出てきます。鞭打ちくらいならかわいいものです。生き埋めにされたり、首を絞められたり、雪の中に置き去りにされたり」
「どうして、そんな……」
 サヒヤは首をふります。
「狂人に理由を問うて、何になります」
 彼女は言いはばかりませんでした。
「狂人?」
「この町であなたを前にそう口にする人間はいないでしょうね。しかしこれもまた、だれに聞いても知っている話です。外に出ればなおさら。私がこの城に仕える前にも、すでに聞き及んでいました。
 東の辺境、ホーゼンウルズの領主は狂人である。戦における苛烈さは平時においてもゆるむことはなく、抜き身の剣のごとく血を欲し、たがもなく悪徳にふけっていると。噂は嘘ではないと、私はここで確信しました。
 なにも今の領主様に限った話ではない。『拷問王』『千の死体の丘に立つ者』『悪魔』『八つ裂き姫』すべてエデルカイトの血に連なる者の二つ名。あなたが、私達が仕えているのは『百禍狂乱』とそしられる一族です」
 トートヒルは、肩をすくめて見せました。再び歩き出し、そのあとをルディはおいます。
「なんだあなたも知っていたの。そうね、有名な話だもの」
「どうして、城主様はお嬢様に、そんなことを……」
 何度目の問いでしょう。
「あら、分からないの? 城主様は、お嬢様を憎んでいらっしゃるのだわ」
 答えは様々に姿を変えます。
「お嬢様をお産みになって、奥方様は病んでしまわれたから。城主様は奥方様を、それはそれは大事になさって、心から愛していらっしゃったの。でもお嬢様のせいで今はものも言えず、あんなに近くにいるのにそばにいることさえできない。
 だからこれは罰なのよ。当然の報いだわ。それにあなた達は楯突くなんて。逆恨みというものではなくって?」
 自分自身の体をかきむしられるような錯覚に、知らず、ルディの顔はひきつりました。
 どこかで聞いたような話ではありませんか。生まれに罪を着せられて、それを責められるなんて。
 ほとんど考える間もなく口が動きました。
「それは、お嬢様には罪のないことです」
 エヴァに事のあらましを聞いたとき、彼女ですら話し出すまでに――つまりおそらくは、何を話し、何を話さないべきかを判断するまでに――しばしの時間を要しました。
「そのときの様子については、サヒヤの話したとおりです。私もそれ以上のことは知りません」
「どうして城主様は……お嬢様は、髪が長かったせいだと……」
「城主様がそのようにおっしゃったのでしょう」
「そんなことで……それじゃあまるで、城主様はお嬢様を――――憎んで、いるみたい」
 口にしてから恐ろしくなって、ルディは胸の前で両手をにぎりしめました。城主様への不遜ふそんさを咎められるのはもとより、口にしてしまうことで、頭の中でもやのようだったその疑いがはっきりとした形を持ちます。
 反応をうかがう中、エヴァは首を縦にも横にも動かしませんでした。
「城主様のお嬢様に対する処遇を見れば、そのように考えるのも無理はありません。しかし私には、そればかりとは思えないのです。
 サヒヤはこの事件の直後に、報復として城主様の侍従三人を殺害しました。
 本来ならば当然、罰せられるべき行為です。城主様への反逆として、どれほど過酷な刑を受けたとしてもおかしくありません。彼女の独断であっても、お嬢様まで責が及んだでしょう。しかし城主様からお咎めはありませんでした」
 この城の中で起きたことについて――それがどれほどのことであっても――城主様が不問とされるなら、それは罪ではないということです。
「サヒヤは、城主様の目の前で、事を起こしました。詳しくは話したがりませんが、城主様はお怒りにはならなかったと。それどころか満足されたようですらあったと。この反応は、サヒヤからお嬢様への忠心を見届けてのことのように思えるのです。
 当時、お嬢様は成人され、辺境伯領直下の一領邦であるトニエールの子爵となられました。同時に精力的に人材の収集を始められ、特にご自身の直属となる配下を次々と雇い入れられました。しかし契約はお嬢様と配下のあいだで個々に結ばれ、統制を欠いた状態でした。その中で、この件により城主様の配下とお嬢様の配下とのあいだで対立が生まれ、間近に明白な敵対者を得たことで私達は結束しました。お嬢様への忠誠もより堅固なものとなったように思えます。
 このように、必ずしも城主様のお嬢様への危害が、ただそれだけを目的としたものだとは思えないことが、何度か起きているのです。
 そしてその後、城主様はシェーデンボレイに移られました」
「ご病気で……?」
 ルディが疑問に思うのと同時に、エヴァが驚くべき事実を告げます。
「城主様はご病気ではありません。
 ご静養のためというのは表向きの理由で、実際にはベルスートにおけるご自身の影響力をおもんばかってのことではないかと、推察されます。城主様がいらっしゃる内は、家臣の中にお嬢様を軽んじる向きがあったのを私も感じていました。ご自身が離れることで、否応なく彼らの関心をお嬢様に向けさせたようです。
 そして女性の辺境伯位の継承は、現在のところ内外から多数の反発が予想されています。不満の表面化を恐れてか、いまだに城主様は辺境伯位のお嬢様への継承を、明言されたことはありません。しかしご自身の不在をお嬢様に預け、積極的に戦績を上げさせることにより、辺境伯位継承に向けた既成事実を作り上げようとお考えなのではないかと、私達は考えています。
 城主様がお嬢様を自身の後継者として大切に思われているのは、確かなのです。
 あるいは、娘として――あなたにはおそらく馴染みのないことでしょうが、普段、城主様はお嬢様に非常に情け深く接され、可愛がっておられるのです」
 一瞬、苦々しくエヴァは顔をゆがめました。
「であればこれは――一連の暴虐は――お父上様からお嬢様への、愛情なのかもしれません」
 ふるえる足は、今にももつれて倒れそうでした。トートヒルは表情を変えませんでしたが、不愉快に感じていることは確かです。それ以上何も言わずに前を向くと、歩を早めました。
 これほどまでに人に反発したことはありません。自分の心証を都合よく操ろうとする彼女のたくらみを、すべて打ち砕いたように思えました。
 しかしそれとてどれほど意味のあることだったでしょうか。
 通された室内は暗く、わずかに棚の上に置かれた燭台によって、赤く照らされていました。
 寝台の上に重なる影が、その輪郭だけを闇の中に浮かび上がらせます。入ってきた自分に、それは動揺したようでした。声を押し殺します。
 だれであるかは、見なくとも分かります。
 そしてもう一人。数度見かけただけの影形。壮年の、さほど大柄ではなく、しかし相応の隆起をそなえた体――
 病気ではないと――だからその手は弱々しくしわがれた病人のそれではなくて、たくましく、力強く、そして荒々しい、男の手なのです。
 女の体を、蹂躙する手。
 一糸まとわずあらわになった肌が絡み合います。小さな影は懇願しました。その声は、今まで聞いたことのない高さで、湿り気を帯びています。目の前で拳をかざされたときの自分のような。もがく手足は男の一声でこわばり、力を失いました。
 我が目をルディは疑います。
 その行為を知らないわけではありません。男女の体がどのようにできているか。子を成す仕組みだとも。
 だからといって、これ以上罪深いことがこの世にあるでしょうか。
 父と娘が――――
 本能的な忌避が、けたたましい警鐘を鳴らします。
 しかしルディが胸元で手をにぎったのは、むしろ、他の衝撃によるものでした。なんて、弱々しい声。恐ろしくも大いなる太陽が急に色あせ、自分の世界が壊れていく音がします。
 その太陽も傷つき血を流すことがあると、知っていました。ときに地にひざをつくことがあると。しかし今まさに見せつけられるのは、心折られ、抵抗する気概もなく、どれほどなじられてもすがりつく、幼い子供のような姿です。
 立っていられず、ルディはその場に座りこみました。逃げようと、背後の扉に爪を立てますが、むなしく木の表面をかくだけです。
 それでいて目は食い入るように、ひとときももらさず、二つの影の織りなす複雑でみだらな輪郭をなぞっています。
 乳房をつかむ、蜘蛛くもの五本足。二匹のひるがいとおしげに優しげに、くりかえしうなじに吸いつき、そのあいだを割れ出る蛞蝓なめくじが馴れ馴れしい粘液の跡を残していきます。体中を我が物顔に這い回り締め上げるのは、ふしくれだった蛇達。
 何もかもがおぞましいものです。
 そして赤い秘裂をぬめりながら出入りする、冒涜ぼうとく的なそれ。
 スカートのすそをにぎりしめ、床に押さえつけます。その下で、全く同じように自分の一部がふくれ上がり、張りつめていました。
 どうかどうか一言ももらしませんように――
 歯を食いしばります。その願いは自分に向けたものでしょうか、影に向けたものでしょうか。
 どちらでもありました。
 世界が壊れるのを恐れていました。同時にそれを跡形もなく踏み砕こうとしているのが自分だとも気付いていました。自分の中の下劣な、血のたけりが。
 男と女の体がどのようにできていて、己のそれが何のためのものであるのか。痛烈な自覚がルディをおそいます。いまだかつてない欲望が体を突き上げていました。
 同じように――――同じように?――その体に――手をかけ――――――
 今すぐこの手で顔を、耳を、目を、鼻を、ふさいでそのまま死んでしまえばいいのに!
 どれほど叱りつけても手はふるえるばかりで、床から離れませんでした。
 部屋の空気が、鼻を抜けて頭を侵すせいです。暗闇の中で、むせかえるほどのにおいが惰弱な理性を浸食していました。汗と粘液と吐息の混じる、いやらしく濃密で甘美なにおい。
 気付けば、ルディはあえいでいました。呼吸のたびに腹の奥から鬱屈うっくつの塊がせり上がり、のどをこすり、不快な音をひびかせます。犬のように、嗚咽のように、悲鳴のように。意味もなく混じる言葉の羅列は、おそらくは許しを乞うものでした。
 それは耳から侵入する音をかき消そうとする試みでもありました。くぐもった嬌声きょうせい、出入りのたびに飛び散る粘液の音、男と女の吐息が重なる音。
 ほとんど気が狂ったように肩で息をしながら、一部始終をルディは見ていました。いっそ狂ってしまえば、せめてこの場で今すぐ自分を慰められたでしょうか。
 長い長い地獄のような時間。
 終わりはしかるべきものでした。引き絞られるような長い吐息とともに女の体がこわばり、男が達したのだと、女の中に精を放ったのだと知れます。しばしの余韻よいんのあとに、男が手をはなすと、女の体は力を失いました。
 重なっていた影が離れ、間をおかず、退出が命じられます。影は寝台から立ち上がり、踏み出したその一瞬足取りがゆらぎ、次の一歩をくり出すときにはいつもと変わらず確かなものになっていました。
 ルディは顔をそらします。体の火照ほてりは一気に冷めていきました。ああ何もかもが、今の行動さえも、取り返しのつかない醜態しゅうたいです。体がふるえ出します。
 湿った足音は、ルディに注意を向けることすらなく隣を通り過ぎていきました。
 扉の開く音がします。取り残される恐怖が、ルディの体を律しました。かろうじて閉じかけた扉をつかみ、それを支えに立ち上がり、転がるように部屋を出ます。
 廊下の先に闇にとけゆくような背中を見つけ、跡をたどります。全くおおう物のない肌が闇から闇へと、燭台のそばを通るときだけ生々しい輪郭をあらわにしながら、渡っていきます。
 素足で向かう先は、湯殿でした。
 ろうそく一つが、立ちこめる湯気にまかれて頼りなく照らす中、その背中は半ばまで湯に沈みます。
 ルディは壁ぎわの床にひざをつき、息を殺しました。うなだれる背中を凝視します。流れこむ湯と、あふれ出し排出される湯のたてる水音がせわしなく反響し、それがこの場で耳に入るすべてでした。
 ルディの心に満ちた不安のたてる音のようでもありました。湖面は激しくゆれ、今にも正気の土手を決壊させそうです。
 胸の激しい脈動が止まりません。
 常に内からあふれ続ける、不安、恐怖、罪悪感、そのようなものが心臓をわしづかみにしていました。怖くてたまりません。無残に砕けた世界を前にただひたすら、おびえていました。
 踏み砕いたのはほかでもない、ルディ自身です。
 尊いものをみずからの卑しさで汚してしまったのです。
 罪はすすがなければいけません。代償としてなにを差し出せばいいでしょう。自分に中にかなうものなど、苦痛しか思いつきません。それがどれほど耐えがたいものであるかを思って、恐怖にふるえます。しかしだからこそ、罰として価値のあることでしょう。
 そのときをルディは身じろぎもせず、待ちました。
 流れた時間はおそらくそう長くはないでしょう。
 湯をかいて、その人が立ち上がりました。天窓から、空を見上げます。月が見えるでしょうか。虹色の空を思いました。
 息をのむ音がします。ルディは目を見張りました。何が起きたのかと視線を下ろし、理解します。
 脚のあいだから、白い、汚濁がにじりおりていました。いやらしいほど時間をかけて肌を這います。
 その人は首をかたむけたまま、振り返りました。赤い眼がルディをとらえます。
 おそらくは様々な感情が、その顔に一瞬で浮かんでは沈んでいきました。とまどいも、怒りも、恐れも、悲しみも。
 そしてなんの感情も、その顔には残りませんでした。ただじっとルディを見ます。なく、一人で立つ子供のように。
 強い衝動に突き動かされてルディは立ち上がりました。湯船に歩みよります。
「お嬢様」
 うわずる声で。
「体を、洗いましょう」
 その赤い目が半ば伏せられるのから、ルディは顔をそむけませんでした。
 お嬢様は体をルディに向けると、手を差し出します。それを可能な限りうやうやしくルディはとりました。
 湯船の外まで誘い、手のひらでシャボンを泡立てます。まずは肩にふれます。のびた髪が手の甲をなでます。
 腕から、手の先まで。
 鎖骨から、下、乳房を通り、さらに下へ。
 ルディの好きな時間です。
 あの日以来、ときに洗髪を任されるようになって、もっと好きになりました。
 美しい体。美しい手足。
 このとき初めて、悲しさが雨となって心に降り注ぎました。それはきっと、願わくば、この人のために。
 ふとももにふれようとするとき、わずかにためらいました。しかしつぐないとして示せるものでこれ以外なにがあるでしょう。
 ルディは唇を引き結んで、脚のあいだに手を差し入れました。ふとももにからみつく汚濁をぬぐい、すすぎ落とします。
 お嬢様の唇が、頬にふれました。涙の通る道を。
 嗚咽をルディはこらえました。のどの奥を閉じ、押しとどめます。
 お互いの体温がお互いから離れ、水音だけが響く中、二人、吐息がかかるほど近く、立っていました。