第十幕 『ほこり』

 開けても閉じても深い闇。
 体を預ける壁は冷たく。
 鼻につくのはほこりのにおい。


  ***


 お金、というものをその日初めてルディは手にしました。銅貨の入った麻袋を受け取ります。
 ルディの賃金です。
 見習いというのは普通、無給で働くものです。代わりに食事や寝泊まりする場所を雇い主に提供してもらいながら、仕事を覚えます。ルディのその身分が変わったわけではありませんが、少しばかり自由に使える金銭を与えようということになったそうです。ある程度日々の仕事をこなせるようになり、町に出ることも覚えたので。
 想像もしていないことでした。執務室の、お嬢様の前で、エヴァからそれをいつも以上にこわごわと受け取ります。
 取れと言われたから取ったのであって、何も言われずに置いてあればルディは死ぬまでそのままにしていたでしょうし、だから取ったあともどうしていいのか分からず、ぼんやりと手の中の麻袋を見つめていました。
「お嬢様にお礼を申し上げなさい」
 エヴァの言葉に、あわてて頭を下げます。
「ありがとうございます」
「お前の働きに見合ったものだ。この先も良く働くがいい」
 恐れ多いことで、だからこそかえって、実感はありませんでした。しばらく濃紺の絨毯の菱形模様を目でなぞったあと、顔を上げます。
 お嬢様とエヴァは顔を見合わせました。
「金の使い方は教えたのか」
「一通りは済ませてございます」
 二人のやりとりに、ルディは頬を赤らめました。よほどおぼつかなく見えるのでしょう。手にしている物がなんなのかは知っています。
「ならば使い道も教えてやれ。ああ、お前では駄目だな。硫黄だの硝石だの、面白味のない物を買うに決まっている。ルディ、だれかほかの者に頼れ」
「お心のままに」
 エヴァはうなずくと、ルディに向かってお嬢様の言葉をかみ砕いて伝えました。
「日用品でも嗜好品でも、何に使うかはあなたの自由です。だれか信頼できる者に相談してみてはどうでしょうか」
 もう一度頭を下げて、ルディは退室しました。
 控え室に戻り、手に持つ麻袋を上げたり下げたりしてみます。そう重くはありません。覗いてみると、銅貨が二枚入っていました。大銅貨です。銅貨10枚で大銅貨、大銅貨が15枚で銀貨、銀貨が20枚で金貨。
 週に大銅貨が二枚支払われると言われました。二週で四枚、三週で六枚。
 頭の中で、教わったことをくり返してみます。あまり自信がありませんから、あとでレントウに確認してみるべきでしょう。
 さてこの大銅貨二枚をどうすべきか、ルディは思案しました。使っていいと言われました。
 城に入ってくる物の値段はいくつか知っています。しかしあれらはとてつもなく高価なものであったり、契約した商家で大量に仕入れるから一つ一つは安いものであったりと、あまりあてにできないようです。ニンジンなら買えます。しかしそれを買って、自分で料理ができるわけではありません。
 袋に手を入れ、大銅貨を直接とってみます。袋いっぱいの金貨が受け渡されるのを目にしたこともあります。それに比べればはるかに軽い、しかし手のひらの上で確かな重みを持つ不可思議な存在感を、ルディは持て余しました。
 金銭というものが今、自分の手の中にあることに大きな違和感があります。これはおそらく、皆が欲しいものです。価値のあるものです。だから、、、、ルディの手の中にあるはずがありません。
 ああ、と気付きます。
 他の多くのものと同じように、皆が当たり前に持っていてルディにだけは与えられない、そんなものの一つだと思っていたのです。
 そういった考えが往々にして自分を卑屈に見せるのだと理解していましたが、気付くのはいつもあとになってからです。お嬢様とエヴァに見せた態度を改めて恥じます。たぶん、もっと喜んでみせるべきだったのでしょう。
 むなしい気持ちでルディはしばらく宙を見つめたあと、手のひらの違和感を袋の中に押し戻しました。


「お給料? おめでとう!」
「もう一人前? すごいじゃない」
 洗濯場を訪れたとき何気なくその話をすると、年の近い洗濯女中二人は自分のことのように喜んでくれました。二人ともルディと年が近く、よく話をします。
 小遣いをもらっただけだと説明すると二人は納得しましたが、笑顔に変わりはありませんでした。
「でもよくやったってことよ。大事にしなきゃ」
 エレイザは真面目で、諭すようなことをよく言います。
「ぱーっと使っちゃおう! 何か欲しい物はないの?」
 一方マシアは明るく、子供のようなのんきさがあります。
「ちょっとマシア、今、私が大事にしなきゃって言ったじゃない」
「初めてのお給料だよ? いいじゃない、好きに使っても」
 エレイザのけわしい顔にも、マシアは笑うだけです。
「あたしの時はできなかったんだよ。父さんが怪我をして」
 城に働きに来ている者の多くは、給料をもらっても大半は家族に仕送りをしていると聞きました。それに比べればルディなど気楽なものです。自分の身一つ、ここに勤める限りはだいたいのものが与えられますから。
「記念になる物を買ったら、いい思い出になるんじゃない?」
 とマシアが言うと、エレイザは少し考えました。
「それは一理あるわね……ルディくん、何か欲しいものはあるの? 値段によるけど……」
「結局いくらもらったの?」
 気恥ずかしく思いながら、そっとルディは耳打ちしました。
 二人とも、深く、何度もうなずきます。
「最初だもの、それくらいよね」
「あたし、侍女ってもっともらえるんだと思ってた」
「マシア!」
 エレイザの怒声が響き、マシアは舌を出しました。
「ごめん」
 ルディはあいまいに笑って、その場をとりつくろいます。
 マシアは少し反省した風で、声をおさえて聞きました。
「ねえ、でも本当に、何か欲しいものないの?」
 考えてみます。彼女が言うような、記念になるようなもの。足りないもの、あったら良いと思うもの――
「あ、紙……ああそれか、蝋板ろうばんを」
 部屋で書き付けている帳面、その用紙をだれかから分けてもらってばかりでは気が引けます。
「そうか、ルディくん字が書けるものね」
 マシアは首をかしげ、エレイザに聞きます。
「紙ってどこで売ってるか知ってる?」
 エレイザも困ったように眉をひそめました。
「うーん、探したことないから……」
 ルディは慌てて首を振ります。
「いいんです。あとで、他の人に聞いてみます」
「あ、でも蝋板ろうばんなら、買うより自分で作った方が安上がりだよ。ほらこの前、庭の柵を直してたでしょ? 余った板があるのあたし知ってる」
 蝋板ろうばんは、板に蝋を張り、その表面を棒でいて字を書くもので、ならせばまた使えるので、文をレントウに添削してもらうときに便利だろうなと思っていました。
「早くしなきゃ、たきぎにされちゃう。あたしあとで言いに行ってあげるよ。ルディくん、他に欲しいものは?」
「あ……じゃあろうそくと……鏡」
 ろうそくは支給されるものですが、使いすぎると倉庫番に良い顔はされません。ルディの部屋は窓がないので、余計に他の人よりよく使う気がします。鏡は、サヒヤから借りたままです。
「鏡……」
 二人とも、黙りこみました。
「高いわ。すぐには無理ね」
 エレイザが首をふると、マシアは明るく笑い飛ばします。
「いいじゃない、じゃあこうしよう。今度、値段を見に行ってそれを目標にお金貯めよう。あれが買える! て思ったらいやな仕事もがんばれるでしょ?」
 エレイザも笑います。
「そうね。それにろうそくなら買えるわ。三本でちょうど大銅貨二枚」
「あたし、四本買えるところを知ってる!」
「安物じゃないでしょうね?」
「そんなことないよ」
 あれよあれよという間に、次の休みを合わせて、三人で町に出ようということになりました。
 そのあたりで洗濯場の他の女中達がじろりとこちらを見たので、ルディ達はそそくさと立ち話を切り上げ、それぞれの仕事に戻りました。


 その夜サヒヤに会ったとき、ルディは小遣いをもらったことを報告しました。
「それだけの働きを、お嬢様がお認めになったということです。心してこれからもはげみなさい」
 彼女の言うことうなずいて、それからルディはあらためてお礼を言いました。町に連れて行ってもらったお礼です。そして今度は洗濯女中達と町に行くことになったと告げると、サヒヤはむしろ安心したようでした。荷が下りたと言いたげに肩をなでます。
「それは何より。私と行くよりは良いでしょう。年頃の娘らしい遊びを覚えていらっしゃい」
 言ってすぐに、彼女は誤りに気付いたようでした。少しのあいだ宙をにらんだあと、姿勢を正し、うろんなものを見る目つきでルディを眺めます。上から下まで。初めて出会った瞬間を思い出す所作しょさです。
 気まずい沈黙を打ち破ったのは彼女の方でした。
「失礼しました、と謝るべきですか」
「いいえ、その……」
 間違ってはいますが、いやな気持ちになったわけではありません。それにいちいち指摘するつもりもありませんでした。性別を間違われるのは慣れたものですし、相手がそう思うのも当然です。女の格好をしていますから。
 両手を意味もなく合わせたり絡ませたりする内に、ふと疑問がわいてきました。
「そう思うべきですか?」
 男が女に――あるいは女が男に――間違われるのは、相手に謝罪を求める程度に不愉快なことだと。
 ――――つまりこの格好が――女の服を着ているのが――着させられているのが、不服であると。
 踏みこんだことを聞いてしまいました。
「あなた自身はどう感じていますか。主人の悪趣味で女装をしていることを」
 当然、サヒヤからはより深く斬り返されます。己のうかつさを悔やみながら、ルディは言葉を選びました。
「ここに来て――すぐこの服を着るように言われたものですから、あまり考えるひまがなくて……今でも、いやではありません。あの、僕、家では服なんて持ってなくて……」
 不満など、言えるはずがありません。家で着ていたぼろとは比べ物にならない、上等な服です。
「この城において、あの方々が良しとおっしゃるならばどれほど道を外れた行為であろうと罪ではありません。しかし世間では唾棄だきされてしかるべき行為だと、知っていますか?」
 あいまいに、ルディはうなずきます。
 何とはなしに覚えがあります。今まで出会ったすべての人は、ルディが男であると知ると、大いに顔をしかめました。しかし同時にルディがお嬢様の侍女であることを知ると、それ以上何も言いません。中には同情の目を向ける人もいて、それもまた居心地の悪いことだと感じていました。
「この城の主人達が不道徳と悪趣味の顕現けんげんであるのは、この前説明したとおりです」
 数日前のことを思い出して、ルディは身を固くします。あれから、城主様は予定通りにシェーデンボレイに戻られました。不敬なことだとは分かっていても、城から影が取り払われたようにルディは感じていました。得体の知れない黒々としたものが去り、平穏が戻ったのだと。
「あなたもその一部だという自覚がありますか」
 ルディは息をのみました。ぎごちなく、首をかたむけます。サヒヤを、すがるような気持ちで見ますが、彼女の口調は厳しいままでした。
「あの方にお仕えするというのは、そういうことです」
 彼女は毅然きぜんと立ちます。
「それは私も同じこと」
「サヒヤさんが?」
 彼女について思い出せるのはいつも、今のように堂々としたふるまいです。そこからは、やましさやうしろめたさなどみじんも感じられません。しかし彼女は答えて深くうなずきます。
「あの中庭に、女が立ち入るべきではないのは知っているでしょう」
「あ……」
 いつも近衛兵とお嬢様が鍛錬をする中庭。そこに入れるのはごく限られた人々だけで、とりわけ女はお嬢様とサヒヤだけです。
「女が剣を振るうなど、あってはならないことです」
 サヒヤはスカートの隙間から見える剣のつかに触れます。
「ましてや下賤げせんの身で。私がこの剣を帯びることができるのは、あの方がお許しになったため。世の人々からは不道徳なことだと罰を受けても仕方のないことです」
 彼女がどこで剣を習い、また『露の刃』を得たのかということについて、まだ聞いたことはありませんが、おそらくはまっとうな手段ではないと彼女の口ぶりが語っています。
「あの方にお仕えする者の多くが、規格外であり異端者です。世間から爪弾きにされる者達です。娼婦や罪人、異民、片輪かたわ――何らかの業を背負ってここに身をよせています。あの方の後ろ盾がなければあっという間に、石を投げられ追われる身となるでしょう」
 その声はわずかな憐憫れんびんを帯びます。それでいてなおも決然としていました。
「そのような不徳の道を歩く覚悟が、あなたにありますか」
 その目がルディを見据えます。
 答えるべき言葉を、ルディは自分の中に見いだせませんでした。ただ身じろぎし、彼女のまなざしから逃れるすべを考えます。
 彼女がよく口にする言葉が脳裏に浮かびました。物事の本質――それがまだルディには見えていないのです。より深く知るたびに、ヴェールを一枚はぐったかと思えば、まだそれは別の一面を見せただけに過ぎないのです。
 頼りにしようと思ったものは形を変えて、つかみ所のないものとなっていきます。


 であればこれもやはり、罪だと言うのでしょうか。
 その人の手が肩にふれて、ルディは息をひそめました。床に両膝をつき、上半身をうしろに反らしていました。
 その人はルディの肩に手をかけたまま、身をかがめます。脚のあいだにひざを割り入れられたとき、すでにルディのペニスは高く持ち上がっていました。その下に膝がもぐりこみます。
「あ…………」
 服を脱げと言われたので、何も着ていません。あらわになったペニスが、その人の膝の上でふるえました。
 ルディの膝にその人も腰を落とし、向かい合わせで、互い違いに、それぞれの片膝の上にまたがる格好になります。これから何をどのようにするのかということは知らされないので、戸惑いながら、なされるがままです。
 肩から、首輪に、そして鎖を伝って、その人の手がルディの体をなでおります。胸から、へそを通って、その下へ。ペニスの根本に至るまで、ルディはその手を見つめていました。
 先からあふれる粘液が、すでにその人のズボンにしみを作っていました。そこに手がおおいかぶさります。革の黒い手袋をつけていました。薄手の、なめらかで光沢のある手袋です。
 安堵と不安が同時に心に浮かびます。
 素手では、恐れ多すぎます。しかし代わりに手袋を汚してしまいます。すぐに汚れを落とせば、、、、、、、、しみにならないでしょうか。
 下ばかり見ている内に、その人の顔が近づき、すぐ横を通り過ぎました。耳元に、吐息がかかります。
 匂いがすぐ近くでして、ルディは思わず呼吸をとめました。だって、思いきり吸いこんでしまいそうで、そこで鼻を鳴らしでもしたら、失礼でしょう。
 すぐに苦しくなって、そろそろと、少しずつ息をします。その人の匂いが胸に少しずつたまっていって、気が変になりそうでした。ペニスがますます張りつめます。耳元で、それを指摘する声が甘く響きます。
 かっと体の芯が熱くなります。もうそれだけで、絶頂してしまいそうでした。
 その人の体温が、これまでにないほど近いのです。脚で、胸で、肩で、ふれあう所が汗ばみ始めます。次第に重くのしかかるその人の体を、床に両手をついてルディは受け止めました。
 その手があさくゆるく自分を奏でます。
「ああ――ああ――」
 まだ愛撫は始まったばかりだと知っていて、耐えられそうにありません。
「あっ」
 不意にひざがより深く突き入れられて、睾丸が押しつけられます。痛みに理性が消し飛びました。
「あっ――――」
 その人の手の中で、ルディは射精しました。肩越しに見えるのはその人の背中だけで、でもきっと勢いよく飛び出た白濁が手袋の革をすべり、ズボンも汚しているでしょう。
 これが道に外れた行為だと言うなら、そのとおりです。今達したばかりだというのに、すぐさまより激しい渇望がのどを駆け上がってきます。また同じものを、もっと深く欲しいと。羞恥しゅうちはもはやよろこびでしかなく、道理に反したことだという自覚はなおさら興奮をあおります。
 おそらく望めば得られるだろうという、浅ましい打算もありました。煽るようにその人の手がうごめきます。
 まだうまくその言葉が言えないのです。たいていのどにつかえて、ぐるぐるしています。それをこの手が解きほぐして、引きずり出すのです。
 優しく動くこの手をもっと汚したいと思うのです。
「あ――あ――」
 荒く息をして、ほとんど我を失って、哀願します。だらしなく、舌を出して、よだれをこぼします。
 それをこの人が許しているという事実に――卑しい獣のような自分の欲望が、それでも髪の毛一筋ほどもこの人を傷つけないのだという事実に、誇らしささえ覚えました。


  ***


 結局、三人の休みを合わせるまでに、三週間が必要でした。大銅貨六枚を袋に入れて腰紐に結ぶと、ルディは城門の手前まで行きました。この前外に出たのと同じ格好で、頭にはフードをかぶっています。
 しかしその場に現れたのはエレイザだけでした。
「マシアさんは?」
「すっぽかされたわ」
 同じく外出用にかぶったフードの中で、彼女は苦い顔をしていました。
「平気よ、マシアなんていなくても。二人で行きましょ。あなたがいやじゃなければ」
 もちろん、ルディに異論はありません。
 町へとくだる坂道を歩きながら、エレイザは事情を話してくれました。
「あの子、好きな人がいるのよ」
 マシアに腹を立てているそぶりを見せますが、本気で怒っているわけではないようでした。あきれながらも、どこか楽しそうに話します。
「ああ、いいわ、ばらしちゃいましょ。私達、あなたのために蝋板を作ったの。帰ってきたらあげるわ」
「本当に? いいんですか?」
「前に木材が余ってるって言ったでしょ。もらいに行ったの」
 エレイザはそこで唇の前で人差し指を立てました。内緒にしろという合図です。
「マシアはそこの大工の見習いのことが好きなのよ。あなたのためって言いながら、彼と話をする機会を探してたんだから、ちゃっかりしてるわよね。
 木材をもらいに行って、出来上がったらまたお礼を言いに行って、それから今日、彼の方から昼間に時間がとれないか聞かれたんですって。で、私達のことは捨ててそっちに行っちゃったの」
「そうだったんですか」
 マシアが来ないのは残念ですが、なんとはなしに気分のうわつく話でもありました。エレイザの憎みきれない気持ちもよく分かります。
「しかも、自分の買い物は私に頼んだのよ。本当にちゃっかりしてる!」
 声をあげて、二人で笑いました。


 二度目の町は、祭のときに比べると静かで、落ち着いていました。大通りにはいつものようにたくさんの人や荷馬車が行き来していますが、この前のような騒然そうぜんとした様子はありません。
 まず二人は、大通りに面した布屋きれやに立ちよりました。
「夏服を一着、作ろうかと思って」
 季節は、夏へと移り変わろうとしています。日中は日差しが強くなることも増えましたから、軽快な服があるといいでしょう。丸められた様々な布の中から、とりわけ明るい色のものをエレイザは探しているようでした。
 空色の布地を手にとり、ひっくり返し、広げて、子細しさいまで眺めたあと店主に聞きます。
「これはいくら?」
 店主の返した答えに彼女は考えこみました。
「ううん……あとで、古着屋によりましょ」
 自分の大銅貨六枚では端数はすうにもならなくて、ルディはうなだれました。
 それから隣の店へ。目当てのものはすでに決まっているはずでしたが、エレイザはたとえ買う気がなくても、店の品物を隅から隅まで見ないと気がすまないようでした。ルディはというと、並べられた中にはまだ知らないものがたくさんあって、たとえば編み物をするためのかぎ針だとか、肉をそぎ落とすためのナイフだとかを一つ一つ見つけては足を止めました。
 そしてまた隣の店へ。大通りを離れて、細い道にも入りました。エレイザに案内されて路地を行きます。
「マシアが言ってた、ほら、ろうそくが四本、大銅貨二枚で買える店」
 とうとう、麻袋の中の大銅貨を使うときが来ました。なるほどその店では、四本のろうそくが紐でくくられ、大銅貨二枚で売っていました。手にとってみると、いつも使うものより少し小ぶりのようです。
 ルディの代わりにエレイザが聞いてくれました。
「おじさん、このろうそくすこし小さくない? どれぐらいつの?」
「そりゃあそれなりだよ。でも手元で使うなら小さい方が便利なこともあるし、代える手間さえ惜しまなきゃ、よそで大きくて高いのを買うよりは安上がりじゃないかね」
 もっともな話に聞こえます。ルディはこれを買うことに決めました。
 紐がいいな、と思ったのです。ろうそくをくくる麻紐がついてきます。とっておけば、また何かを結ぶのに使えるでしょう。
 袋の中から二枚、店主にさしだします。
「まいど」
 店主は一度手のひらの上でそれを吟味したあと、腰の袋に突っこみました。
 あっけないものです。ルディは大きく息をつきました。ろうそくを手提てさげ袋に入れます。
 エレイザはその店で、マシアから頼まれたのだというものを買いました。おつりを受け取る動作を、自分がやってみるのを想像します。出したお金から、買った物の代金を引いて――
「ねえ、これだけ買うんだから少しまけてくれない?」
 これは――はたして言える日は来るのでしょうか。
 それから、金床かなどこ通りに行きました。大工道具や、鍋釜、農具なんかを扱う店に混じって、所々こぎれいな、細工物を並べた店があります。
 その内の一つに鏡が並べてあるのをエレイザが見つけました。外から覗くと、小さな手鏡の値札が目に入ります。
 それだけでもとても手の出ない値段です。ルディはどうにも気後きおくれして、店に入ろうとするエレイザを引きとどめました。
「なあに、あなたがいいならいいけど」
 袋の中にあるのはたった四枚の大銅貨です。それをあと何週分、何月、いいえ何年貯めればいいのでしょう。
「ばかね、一生そのお給料で働くわけじゃないのよ。がんばったらその分稼げるし、だからみんなたくさん稼ごうと思ってがんばるんじゃない」
 ルディの意気地のなさを彼女はたしなめました。
「じゃあ、あとで古物屋ふるものやに行ってみましょ。鏡ってけっこうああいう店に出てるのよ」
 金床かなどこ通りを端から端まで、やはり買う気がなくても、二人は見て歩きました。その内に正午の鐘が響きます。気付けば、店の中やそこらのちょっと腰かけられる場所では人々が昼食の包みを開けています。
「お昼はあてがあるの」
 と、エレイザは金床かなどこ通りからさらに奥に入り、一軒の家を訪ねました。例にもれず、上に長細い三階建ての家です。なるべく少ない土地でたくさんの人が住むための構造で、というのも、ベルスートの町では土地代がとても高いそうです。最初に町ができてから住民は増え続け、一度、防壁を外へと広げましたが、それでもまだ足りず、建物は軒並み上へ二階、三階と伸びています。
「姉さん」
 戸口に出迎えた女性を、エレイザはそう呼びました。
「まあ、エレイザ」
 彼女は顔をほころばせます。年はエレイザより少し年上で、でもそう離れてはいないようです。
「本当に来てくれたのね。うれしいわ」
「もちろんよ」
 二人は手をとり、頬をよせあいます。親密な挨拶です。それからルディを見ます。
「こちらがお友達?」
「うん。本当はマシアも連れてくる予定だったんだけど、一人だけ。お城で働いてる子よ」
 と二人が言うのにあわせて、頭を下げます。
「はじめまして、ルディです」
「ルディくん、この人は私の兄さんの奥さん」
「ケートリィよ。ようこそ来てくださいました」
 彼女はこころよく二人を家の中に招き入れました。上がってすぐが食堂で、テーブルとイスがあり、奥には台所が見えます。エレイザは勝手知ったるようで、フードと上着をとり壁の金具にかけました。ルディも同じようにします。
「兄さんは? お店の方?」
「ええそうよ。父さん母さんも。今日は私とこの子だけ」
 テーブルのそばにはゆりかごが置いてあって、中には赤ん坊が眠っていました。
「大きくなったわ」
 寝顔を覗きこんで、エレイザは小さく笑います。
 そのすぐ近くの壁に、祈りの場がありました。壁のくぼみにいくつか古い偶像が並び、ろうそくの火がともされています。
「さあ座って。すぐに用意できるわ」
 ケートリィにうながされて、二人は席に着きます。切り分けられたパンとチーズ、そして熱いスープが食卓に並びました。ケートリィは自分も席に着き、
「さあ、いただきましょう」
 と両手を二人に向かって差し出しました。その手をエレイザがとり、ルディにも手を伸ばしたので、ルディもためらいながら二人の手をとりました。二人は目を閉じます。
「かまどの神スティアナ。今日もあなたの恵みに感謝します」
 お祈りです。
 それぞれの家や場所には、神様がいます。特に職にまつわる神様であることが多く、ベルスートの城でも、厨房にはこの家と同じかまどの神様が、鍛冶場の炉の中には火の神様、菜園には古いぶどうの木の神様がいるそうです。人々はしばしば、神様にお祈りをします。しかしルディにとってはあまり、なじみのない行為でした。それぞれの神様にお祈りをするのはその場や職に属する人達であって、ルディがそれを求められることはありません。
 敬意をもって扱いさえすればよく、それは祈りを邪魔しないだとか、祈りの場にみだりに踏み入ったり触ったりしないだとか、汚したり壊したりしないだとか、つまりルディにとっては他の人や物すべてと同じように、恐れて接すればいいだけでした。
 ルディが見習うべき相手、つまりエヴァもサヒヤも、神様へのお祈りに熱心ではないようです。作法として、敬意を払うことと必要なときには他の人をまねるよう教わったくらいで、彼女達が個人的にどこかの神様に祈る姿は見たことがありません。彼女達の家には、また侍女には神様がいないのかもしれません。
 戦の神様だとか太陽の神様だとか、偉い人には偉い人にふさわしい、大いなる神様がいるそうです。お嬢様をはじめ偉い人々は、神様への祈りに非常に熱心で、ことあるごとに神様やそのほか偉大なものへ、大々的に捧げ物を行います。例えば先の春の祭もそうですし、神様をたたえるための大きな像を建てたりもします。ただそれは儀礼的なものであって、個人の信仰とはまた別の話のようでした。
 あの家――ルディのいた家では、家の人のために、玄関広間に立派な祭壇がありました。背の高い、両開きの扉がついた祭壇で、開くと中には金ぴかの偶像や飾り物がいくつも入って、とてもきれいでした。家の人はたびたびその前に集まって、ろうそくに火をつけ、お祈りをしていました。
 結局なんという神様だったのでしょう。その祭壇がルディのために開かれることは、一度もありませんでした。
 神様も、お祈りも、ルディにとっては縁遠いことです。他の人を見ていれば、神様というものが、尊く、偉大で、大切なものだと分かります。だからルディにそれがないのは、不思議なことではありません。
 しかし今目の前で起きているこれは、どうでしょう。
 目をつむった二人の顔をルディはじっと見つめました。それぞれの手が自分と結ばれています。
「どうか、かまどの火が消えることがありませんように」
 二人が口をそろえて唱える祈りに聞き入ります。
「家族、隣人、旅人。彼らを私達の家があたたかく迎えますように」
 最後に目を閉じて、唯一知っている祈りの言葉を口ずさみました。
「サルトゥーム」
 祈りの末尾に必ず付けられる、すべての神々に捧げる成句です。古い言葉で『まことの心をもって』というような意味だと習いました。
 二人の手がはなれ、ルディは目を開けます。何か、心に灯火ともしびのようなあたたかさを感じました。いつも遠巻きに見ているだけの輪の中に、引き入れてもらえたように思いました。
「大したものではないけれど、召し上がれ」
 とケートリィが声をかけます。エレイザがまずパンをちぎってスープに入れたのを見て、ルディは胸をなで下ろします。ルディが知っているのと同じ作法で問題ないようです。パンもチーズもかたいので、スープにひたして食べます。
 まだ熱いスープには、野菜のかたまりと豆と、ベーコンが少し入っていました。
「あら、あまり見ないで。なんだか恥ずかしくなってきたわ。お城ではもっといいものを食べてるんでしょう?」
「そうでもないわ。これでも上等なくらいよ」
 エレイザがそう言うのに、ルディもうなずきます。
「よかった。蒸し菓子もあるのよ」
「うれしい。姉さんはとっても料理上手なのよ。兄さんがうらやましいわ」
 エレイザの言葉に、ケートリィは声をあげて笑いました。
 食事をしながら、色々な話をしました。エレイザがこの町の出身ではなくて、二山越えた町から来たこと。それより先にエレイザの兄がこの町で働いていて、この町の女性、つまりケートリィと結婚したこと。そのつてでエレイザが城での奉公先を見つけたこと。
「エレイザとは本当の姉妹のように仲がいいの」
 二人のやりとりを見ていると、本当にそうだと思います。
「私の二番目の兄さんの奥さん。年が近いから何でも話せて、たよりにしてるわ」
 しっかり者のエレイザが、ケートリィには所々甘えた様子を見せるので、ほほえましい気持ちにもなります。
「ルディくんはお姫様の侍女なの」
「まあ、本当に? すごいじゃない」
「いいえ、そんな、まだ見習いで……大したことはできなくて」
「だれだって初めはそんなものよ」
 その内に赤ん坊が泣き出して、すぐにケートリィは席を立ちました。ゆりかごから抱き上げ、あやします。
「よしよし、どうしたの。大丈夫よ」
 優しいその声に、お母様のことを思い出しました。


 食事を終えてからもしばらくおしゃべりをし、夕方にさしかかってようやく二人は席を立ちました。
「とても楽しかったわ」
 帰り際に、ケートリィとエレイザはまた頬をよせあいます。それからケートリィはルディにも、にこにこと笑って何かを期待しているようなので、恥ずかしく思いながらルディは首を伸ばしました。お互いの頬がふれあいます。
 そのあたたかさは、少しルディを混乱させました。なにか一気に、たくさんの思いがおしよせたので。記憶の中から似たようなことをすべて呼び起こして、それぞれにまつわる感情の残像を残しながら、その熱ははなれていきました。
「また来てね」
 ケートリィの顔をまともに見られなくて、黙ってうなずき、その場をあとにします。
「いい人でしょう」
 とエレイザが言うのにも、頬を赤くしてうつむくだけでした。
 城へと帰る道の途中、古物屋を覗いてみましたが、あいにく鏡はたった今売り切れたばかりとのことでした。エレイザが、その鏡がどんなものでいくらで売ったか聞いてくれ、めどは立ちました。金床通りで見た新品よりはまだ現実的な額でした。
 先ほどの布屋きれやの前を通るとき、エレイザは立ち止まりました。
「少しよっていい? やっぱり夏用のケープを作ることにしたの」
 それならワンピースを作るより、布は少なくてすむでしょう。それでもいざ目当ての布を前にすると、エレイザは考えこみました。やがて、店員を呼び止め、必要な分だけってもらいます。店を出る際、荷物を抱きしめながらエレイザはつぶやきました。
「がんばらなくちゃ」
「きっと、素敵なものができますよ」
 本格的な夏が来る頃には、きっと完成しているでしょう。それを着て、また一緒に出かけてくれるかしらと、ルディは考えました。
 城への坂道にさしかかったとき、
「いけない」
 とエレイザは急に立ち止まりました。
「兄さんの家に、マシアから頼まれたものを置いて来ちゃった。取ってくる」
「時間は大丈夫ですか?」
 夕刻の鐘が鳴ると、城の門が閉められます。門番に頼めば出入りはさせてくれると聞きましたが、上役うわやくに報告されるかもしれません。特に若い娘が夜遅くとなると、非常に外聞がいぶんの悪いことです。
「ううん……でもしょうがないわね、頼まれたものだし。あなたは先に帰ってて、私一人で行ってくる。この道を行けばいいだけから、大丈夫よね?」
 前にも通った道なので、ルディはうなずきました。もう本当に、道なりに歩くだけです。
「いっそ遅くなったら、兄さんに送ってもらって事情を説明してもらうわ」
「気をつけて」
「うん、あなたもね」
 小走りにエレイザは去っていきました。少し離れた場所で一度振り返り、声を張り上げます。
「帰ったらマシアから蝋板をもらって! とてもうまくできたのよ!」
 笑って、ルディは手をふりました。


 夕刻の鐘が鳴るのをルディは遠くで聞きました。城の門が閉じられるのを想像します。人の倍以上ある大きな、鉄板で補強された木の門が、音をたてて閉まっていきます。城壁の上には、侵入者を一人たりとも逃すまいと目を光らせる射手しゃしゅの姿。
 ルディはいまだに、町の中にとどまっていました。
「ああ、あれは夕の鐘かい? 本当に申し訳ないねえ」
 しわがれた声の老婆の、手をとりながら。
 道ばたで荷物を抱え、うずくまっているのを見つけたのでした。片手には杖を持っていました。
「お嬢さん、この哀れな婆を助けてはくれないかね。急にこの足が言うことを聞かなくなっちまったんだ。家まで手を貸してほしいんだよ」
 とていねいに老婆は頼みました。
 老婆の手をとり、荷物を持って、言うとおりに道を歩きます。大通りから裏路地へ。道すがら何度も老婆は謝りました。
「遅くなっちまったね。若いお嬢さんなのに」
「いいえ、大丈夫です」
 腰が曲がり足下のふらつく老婆の手を、ルディはしっかりと握りました。
「ああ、やわらかい手だ。きっといい所のお嬢さんに違いないよ」
「そんなことは……ただの召使いです」
「じゃあおつかいの途中かい? ますます悪かったねえ」
「いいえ、今日はお休みです」
「そうかい、じゃあ町まで買い物に?」
「ええ。ろうそくと……鏡を探してるんです」
「ああ、ああ、若いお嬢さんだものね。鏡を見るのも楽しいだろうよ。あたしなんかはしわが映るだけだけれど。でもね、若い頃は村一番と評判でね……そう言えばあんたはこの町の生まれかい?」
「いいえ、ここからずいぶん遠い所です」
「そうかい、じゃああたしと同じだね。親御さんは? 離れて暮らしてるのかい?」
「いえ……僕一人で、家族はだれもいません」
「ああ、可哀想なことを聞いた。許しておくれ」
「構いません」
 一つ一つに、はっきりと答えるようルディは努力しました。以前と比べてずいぶん、きちんとした受け答えができるようになったと自分で思います。うぬぼれかしら、とすぐに自分を責める声がして、少しくらいはいいじゃないか、と反論しました。
 さいわい、夕刻をすぎても初夏の日はそれより長く、まだ空は綺麗な青色をしていました。老婆をここからそう遠くないという家まで送り届けて、急いで帰れば日の沈む前に城に帰れるでしょう。門番の苦い顔が怖くはありましたが。
 何度か角を曲がり、細い路地を抜けた所に、老婆の家はありました。草葺くさぶきの屋根の下に灰色のレンガが乱雑に組み合わさった、大通りの立派な建物はもとより、ケートリィの家と比べても小さな、みすぼらしいものです。周りを見ると同じように一部が崩れていたり扉がついていなかったりする家ばかりで、なんとなく薄暗い通りでした。
 老婆は傾いた戸を開け、そこに垂れ下がった紐を揺らします。がらんがらんと、金属のぶつかり合う乱雑な音が鳴り響きました。なにか鐘のようなものです。
「主人は耳が悪くてねえ。こうでもしないと聞こえないんだ」
 奥から返事はありませんでしたが、老婆はルディから自分の荷物を受け取ると、家の中に入りました。戸口で振り返り、言います。
「お嬢さん、親切にしてくれたお礼に良いことを教えてあげるよ。あそこの角を曲がった所に古物屋ふるものやがあるんだ」
 老婆がさす方をルディは見ました。なんの変哲もない角です。そこを曲がった先。
「ついこの前、そこで鏡を見たよ。きっとまだあるに違いない。行って見てみてごらん。あたしに紹介されたと言えば安くしてくれるよ」
 その指先が、くるくると回り、ルディの鼻をつつきました。しわだらけの顔が笑います。
「あんたは器量良しだし、べっぴんさんだ。幸せが訪れますように」
 まるでおとぎ話の中の、魔女か妖精のよう、とルディは笑いました。その指先で魔法をかけるのです。
 別れの挨拶をして、帰り道でもあるその方向に、ルディは歩いていきました。うしろで、老婆がまたがらがらと鐘を鳴らす大きな音が聞こえます。
 見るだけにしよう、とルディは考えました。どうせお金は足りませんが、老婆の親切を無下むげにするわけにもいきません。あちらとこちらで値段を見比べるのは、皆よくやることです。そう、“買い物上手”とほめられることではありませんか。
 角を曲がり、古物屋の看板のある建物へルディは入りました。たてつけの悪い戸がいやな音をさせます。
 中は暗く、よく見えません。雑多に置かれた木箱の向こうに、男が一人座っていました。立ち上がり、
「あんた、婆さんのつてかい」
 ルディが言うより早く聞きます。ルディがまごつきながらうなずくあいだに、男は近くまで歩いてきました。じろりとルディを上から下まで見ます。
 半歩、ルディはあとずさりました。男がさっと腕をのばします。
「こっちへ来な」
 手首をつかみ、引く、強い力。
 のどがきゅうと締まりました。


 男達はいらいらと声をあげました。お互いを、あるいは別のものをののしりあいます。いつその矛先が自分に向かうか、ルディは息を殺したまま立ち、微動だにしませんでした。
 男は二人。先にいた方と、あとから出てきた方。男達が息巻くたびに、ろうそくの炎はゆれ、濃い影を床に壁に投げつけます。
「余計なことしやがって、こいつをどうするんだ」
「俺じゃない、ばあさんのせいだ。合図があったのを聞いただろう。お前だったら分かったのか?」
「分かるわけねえだろ、こんな、こんな――」
「くそ、久々の稼ぎだと思ったのに」
「……なあ、そろそろ別の町に移った方がいいんじゃねえか。最近は噂が立ってやりにくくて仕方がねえ。兵士もこのあたりを見回ってやがる」
「おい、その話はまたにしよう。今はこいつをどうするかだ」
 男達の視線に、ルディは身をすくませます。
 地下へ、引きずりこまれました。狭い部屋です。燭台と、小さなイスとテーブルしかない。すぐにうしろから別の大きな男がやってきて、彼らは最初、ルディを捕らえたことに喜んでいたようでした。服を脱ぐよう言われました。逃げる気を起こさないようにと。そのとおりにしました。
 もつれる手でフードとケープを外し、ワンピースを脱ぎます。最後のシュミーズを脱ぎ去ったところで、男達はろうそくをかざしました。そしてすぐにルディが男であることに気付き、ひどく落胆したのです。
 男達の苛立ちにさらされる肌は粟立ちました。謝罪と言い訳、懇願の言葉が次々と頭の中をめぐりますが、形になりません。喉は糸のように細くなっていて、息をするのがやっとでした。
 何もかも――何もかもが、出来の悪い冗談のようです。急にルディは、自分が何者であるかを思い出しました。つい一年前にはどこで何をしていたかを。
 暗い地下室。着るものもろくに与えられず――いつ、その拳が振り下ろされるか、ただおびえて待つ存在です。そのときが来ないということはなくて、それが今かあとかというだけで、ではどうやってそれを可能な限り先送りにするかを考えます。そのためにはだれの目にも触れないようにすることです。石ころみたいに。
 なお壁にすがって、彼らの目から少しでも逃れられるよう願います。その姿を男達はじろじろとながめました。
「よく見たらなんだ、あの鎖……あんな所につながってやがる。あれは穴が開いてるんだよな? それに女の格好まで」
「俺達が売った女を買うやつと似たようなもんだ。そういう趣味があるのさ。どこかの好きもんの金持ちの奴隷だろうよ」
「そりゃあちょっとまずいな。放り出しちまうか」
「だめだ、俺達のことを話すに違いない」
 先にいた方の男は、少し考えました。
「どうせ商売はあがったりなんだ。どこか別の町に行く。その途中でこいつは捨ててしまおう。山の中なら、熊か狼にでも食われるだろう」
 彼らは自分達のことばかりで、ルディのことは半分どうでもいいようでした。それはたぶん、幸いなことです。一秒でも長く、彼らの注目から外れていられる時間を願います。
「いつ?」
「早い方がいい。荷物なんかないんだ、残りの金を持って明日にでも出るぞ」
「じゃあ明日の朝一番に馬を借りなきゃいけねえ。ああ面倒なことになっちまった」
 大柄な男はもぞもぞと体をゆさぶりました。
「今夜の内にあいつのとこ行ってもいいだろ?」
「ばか、おまえ酒飲んだら全部忘れちまうだろう。今日は大人しくここにいろ。あいつはただの商売女だよ。次の町にはもっといい女がいるさ」
「でもよう」
 なおも男は体を揺らし、せわしなく両手をこすりあわせます。
 その内に、再びルディに目を留めました。よどんだ目で、ルディの頭から下半身までを見ます。怖気おぞけがしました。
「じゃあ、ここですましちまうか」
 笑った口のあいだから、不ぞろいな歯がむき出しになります。
 もう一方の男はすぐさま顔をしかめました。
「正気か? 男だぞ?」
「ああ。よく見りゃ女みてえな顔してるじゃねえか。細っこいし。ガキの女だと思えばいいんだよ」
 男のねばつくような視線を少しでも避けようと、ルディは背中を壁にこすりつけます。
「しばらくやってねえんだ。おまえ相手じゃなきゃ、だれでもかまわねえよ」
「くそったれめ。勝手にしな」
 男の一人はイスに座って両足を投げ出し、もう一人はルディに向かって歩みよりました。
「へへへ、あんた大人しいな。それともしゃべれねえのか? あんたみたいなばかりなら俺たちも楽なんだがな。おっと、これは言葉のあやってもんだ。気を悪くしないでくれよ」
 言いながら、ズボンの留め紐を外します。
 何が起こるのか理解して、ルディは背中を丸めました。腕を体の前に縮めます。足がふるえて、壁がなければ今にも倒れそうでした。
「いい子だ、いい子だ」
 男が手をのばします。とっさに頭を下げ、そこをなでられます。あやすような手つきに、逆に寒気がしました。
「あんたのご主人様はあんたでずいぶん楽しんだんだろ? 俺がちょっとくらい分け前をもらったっていいじゃねえか」
 首に、男の吐く息がかかります。
 (ごめんなさい)
 (ゆるしてください)
 (もうしません)
 万が一にも、相手の容赦を引き出せるかもしれない言葉を、なんとかルディは声にしようとしました。口を開けて、息を吸い、のどに力をこめます。
 男の手が肩をつかみます。ざらついて節くれだった荒々しい男の手。
 あの人がふれたのと同じ場所に。
 血が、激しく沸きました。
「いやだ」
 声を張り上げます。
「いやだ! いやだ! いやだ! いやだ!!」
 男の手を振り払い、戸口へ駆け出します。すぐに二の腕をつかまれました。
「離せ! 触るな! 離せ! いやだ!」
 あらん限りの力で腕を振り回します。拳で相手の腕を叩き、足で蹴りつけます。体が燃えるように熱くて、目の前の男がどうなろうとかまわないと思いました。
 許せませんでした。相手のしたことも、しようとしていることも。
「いやだ!!」
 激しい――身を裂くような――爆発に、ルディは身を任せました。
「この野郎、静かにしろ!」
 男が手を振り上げます。次の瞬間、視界が大きく揺れました。自分の体を支えきれず、ルディは倒れこみます。床に肩を打ちつけ、頬から血の味が広がりました。
「おい、顔を傷つけるなよ!」
「待てよ、こいつはいつもの売り物じゃねえんだぞ」
「ああ、それもそうだな」
 男達は笑いました。
 笑いました。


 男はルディを床に這いつくばらせ、腰を上げさせます。
 自分の、もっとも秘めた部分を侵されたとき、痛みよりもまずおぞましさに吐き気がしました。のどからせり上がってくるものを、すべてルディは自分の意志で押しとどめました。
 懇願も、悲鳴も。
 歯を食いしばり、のどの奥で噛み殺します。むだに痛がれば、もっとひどいことをされるから――? いいえ、聞かせたくないと、聞かせてなるものかと、自分の心の内の何かが言うからです。
 最初の一度でそこは傷つき、男が出入りするたびにますます深く裂けました。血がぬめって、男は気分をよくしたようです。
「おい、なかなか悪くねえぞ。ふっ、へへえ、男相手もたまには……俺もこれではくがつくな」
「いかれてやがる」
「腰抜けめ。黙って見てろ」
 額を床にこすりつけ、小さな石の粒が皮膚に食いこんで、それでもルディは顔を上げませんでした。苦痛にゆがんだ顔があかりに照らされないように。
 それがどれほどのあいだ続いたでしょうか。握りしめた手に感覚がなくなって久しい頃、男はいっそう深く突き入りました。
 男のうめき声とともに、熱いものが中にそそがれます。それが体をはいのぼり、心にしみをつけていくのを感じました。小さな穴をいくつも空けて、深く染み入り、一生消えないような――
 引き抜かれ、解放されて、ルディの体は力を失いました。その場に崩れ落ちます。
 男はルディの脱いだ服をあさりました。
「わりといい服じゃねえか。こいつを明日森の中に置いたら、服は売っちまおうぜ」
 腰につけていた袋がかすかに音をたてます。
「おっと、金か?」
「そいつももらってしまおう。どうせこいつには必要ない」
 逆さまにされた袋から、大銅貨が四枚こぼれ落ちます。
「なんだ、はした金じゃねえか」
 手のひらを眺めて、男は肩をすくめました。


 男達がろうそくを持って出て行くと、地下室はまったくの闇におおわれました。目を開けても閉じても変わりません。手探りで、男達が唯一残していったシュミーズをたぐりよせ、着ます。壁にもたれかかると、かたく冷たい感触が布越しに迎えます。
 血のにおいと、男達のにおい、汚物、それからほこりのにおいがしました。上階でときおり、歩く音や、ものを動かす音が聞こえます。
 頭がぼうっとします。殴られた頬が熱を持っていました。脈打ちながら神経をゆさぶる、よく知った感覚です。肌になじんでいる気さえする――それについてなるべく考えないようにします。あの家で、そういうやり方を学んでいました。
 痛いとか、つらいとか、どうせ考えても仕方のないことです。やりすごせばいい。
 その内に、それ見たことかと声がします。余計なことをするからだと。
 何が? ――何もかも。服を着て、町を歩き、人の手をとって――人間のようなふりをしていたから悪いのです。
 (でも――僕は人間だ)
 「そうだ」という声と「そうじゃない」という声がします。
 (間抜けなロバの子)
 (ちがう)
 身じろぎもせず、闇を見つめながら、自分を責める声に反論し続けます。こっけいな、死にものぐるいの闘争でした。
 次第に布一枚に守られた肌がこごえ始め、腕を体に回します。砂ぼこりで汚れた手が自分の肌にふれて、わずかにあたたかくなります。それにすがりつきたくなって、腹が立ちました。
「う――」
 吐き気がします。
「わあああああっ」
 腹の中によどんだ空気をルディは吐き出しました。
「うわあああああぁっ! わあああああっ!」
 涙は出ません。苦しくて、胸が張り裂けそうです。上階に聞こえたら、きっと怒られる――口を押さえようとする手を、直前で握りしめます。かまうことではありません。また怒鳴られて、殴られたとして、だからなんだというのでしょう。今さら、この身などどうとでもなってしまえ!
 何もかも嘘です。人に親切にしてやれたと得意になっていたことも、頬をよせあったことも、祈りの場に招き入れてもらったことも、働いてお金を稼いだことも――全部、拳一つで消し飛ぶちりのようなものです。
 人間になった気でいました。
 全部嘘です。
「あああああああああ」
 ルディはわめき続けました。答える声はありません。ずっとそうです。
 かつていたとして、それは――
 お母様――
 思い出せるのは、悲しげに笑う口元です。
 あの家で――お母様とルディのいた部屋には、祈りのための場所がなくて。いつもお母様は、わずかに空の見える窓からお祈りをしていました。
 何を祈っていたのでしょう。ここから出られるように? おじい様に許してもらえるように? 神様守ってくださいと?
 それがなんになったでしょう。お母様は結局あの部屋から出られず――死んだのですから。
 優しいお母様――
 可哀想なお母様――
 無力なお母様!!!
 石の床に、ルディは拳を打ちつけました。手がしびれるだけで、なんにもなりません。
 やがて、感情の嵐は激しさを失い、たれこめる雲とひたすらに降り続ける雨を残しました。
 寒くてたまりません。自分で自分の体を抱いて、抱きしめてもちっともあたたかくなりません。
 喉の奥が鳴りました。自分を見下ろす女に手をのばすように。
 お母様はもういません。神様もルディにはいません。
「助けて」
 それは恥じるべき言葉です。だって無駄なことですから。あの家で早々に忘れてしまった言葉です。お母様でさえ。ルディをかばうだけで精一杯でした。だれが救いあげてくれるというのでしょう。
「お嬢様」
 両手を組んで、身をかがめます。のどの奥から絞り出すように。祈りのように。
「助けて」
 耳元で声がしました。
「どうした」
 ルディはあたりを見回します。もがくように闇に問いかけます。
「お嬢様?」
「ああそうだ」
「どうして――」
 まるですぐそばにいるように思えて、しかし空気は冷たいままで、困惑しました。いるはずないと。ならばこの声も幻なのかと。都合のいい幻――
「今お前のその耳飾りが、私とつながっている。常にではないがな。お前が助けを求めたときに、私に届くように」
 耳たぶに手をやると、丸い石がふれます。普段ほとんど意識しないほどになじんで、おそらくは赤い。
「何かあったら呼べと言っただろう」
 その言葉を忘れてしまっていたことに気付き、うなだれます。
「ごめんなさい――」
「次はもう少し早く呼べ」
 頬をさすり、頭をなでるような声でした。ルディは目を閉じます。涙がこぼれ、頬を伝います。
「お嬢様……お嬢様……」
 のどがうるみ、うまくしゃべれません。なんと説明したらいいのでしょう。すがりつきたい気持ちとは裏腹に、この身に起こったことを知られたくありませんでした。シュミーズのすそをかたく握りしめます。
「私が知ったからには、何も恐れる必要はない」
 優しい声に闇の中で一人、肩をふるわせました。
 不意に、階段をおりる音が聞こえます。顔を上げ、耳をそばだてます。鍵を開ける音。戸がきしみながら開きます。
 壁を背にしながらルディは立ち上がりました。
 ろうそくを手に、男が現れます。
「わめいたと思ったら次は一人で、何をぶつぶつ言っているんだ」
 先ほどの男達の片割れ、ルディを地下に引きこんだ方の男です。ルディがそこから動かないのを見て、部屋の中まで入り、ろうそくをテーブルに置きました。
 ルディは身構えます。
 男は鋭い目つきでにらんできました。しばらくルディをまじまじと見つめ、口を開きます。
「なあ、お前の穴はずいぶん具合がいいんだってな。あいつ、今は気持ちよさそうに寝てるぜ」
 ひきつったような笑みを浮かべながら。
 男が何をしに来たか理解して――体の芯は凍りつき、同時に目の奥が真っ白に熱くなりました。
「さあ」
 お嬢様の声がします。
「私の侍女に手を出したのだ。相応のむくいを受けなければならん」
 急に、手足の感覚が遠くなりました。壁も床も離れていくような。しかし倒れずに、その場に立っています。ろうそくの炎が妙に大きく、渦を巻くように感じられました。ちりの粒が浮き立ちます。
 ルディが戸惑うあいだにも男は近づいてきます。あと一歩までせまった瞬間、ルディの右足が床を蹴り、男の股間をしたたかに蹴り上げました。
 男は悲鳴をあげてうずくまります。
「ちくしょう!」
 悪態あくたいをつく男の頭を、ルディの両手が掴みました。汗とほこりと垢で汚れた男の頭。
「私が曲がれと命じれば」
 ルディの口が言います。
「世界は曲がる」
 その通りになりました。
 脂汗が浮いた額に、亀裂が入ります。男は目をむきました。そして皮膚が裂け、黄色い脂肪の粒が押し出され、血がにじみ青い血管と神経の下に白い骨が見えたかと思うとひび割れ、内からねばつく膜が飛び出し広がり、白いぶにぶにとしたものが――――
 目玉が飛び出ます。
 男の頭は縦に裂けました。
 なおも勢いは止まらず、顎を割りのどを破いて背骨を砕き、胸の下まで、ようやく赤い地割れの行進はとどまります。
 不快な空気が男の中からあふれました。手をはなすと、かつて男だったものは横にかしぎ、ゆっくりと床に倒れます。ぐちゃりと、湿った音がしました。
 ゆれるろうそくの光で様々に形を変える断面を見下ろしながら、心臓が早鐘を打ち出します。ひどい悪臭で息もできません。新鮮な空気を求めて、戸口を見やります。
 そこに向けて踏み出しました。ルディの意志とは無関係に。
「やだ――やめて、やめてください! お嬢様!」
 階段をのぼりながら、叫びます。
 三日月が赤く裂けました。
 上の部屋では、大男がいびきをかいていました。窓は戸板が下げられ、一筋の光もありません。
 右手が宙を払います。
「やめて……やめて……」
 男の下半身がふくれあがりました。肉色の花が咲きます。白くねじれる骨の枝。
 男は目を開け、何か言いました。あぶくを散らすだけで言葉にならない。のどの奥から血の果実がせり上がり、男の顔を暗く照らしました。
 はじけ飛ぶ。
 ルディは悲鳴をあげました。


 いつの間にか、その声はしなくなっていました。なんの音もしません。
 ひどく暗くて寒い。
 あかりを求めて、ルディは立ち上がりました。


 こうこうと燃えるたいまつの元に出ると、自分がなんて――――場違いな格好をしているのだろうと思いました。
 着ているのはシュミーズだけで、しかもどす黒く染まっています。手も腕も足もそこら中。汚れています。
 だから出会う人は皆、目をそらしました。知った顔でさえ。城館の大きな正面扉をルディは見上げます。
 上のバルコニーに、その人がいました。
「おかえり、ルディ」
 と、笑います。
 ルディも薄く笑います。その人の姿がゆがみました。遠くかすんでいきます。
 手をのばす間もないまま、ルディは意識を失いました。