第十一幕

   一 『手』

 顔も、腕も足もそこら中痛くて、見ると左の中指の爪が半ばまで折れ、無くなっていました。いつの間についた傷でしょう。視界は一部、左下が暗く欠けています。目に傷がついたのだと思っていたら、殴られた頬がれて、下まぶたを押し上げているだけでした。
 腕や足は、すり傷ばかりで、目立って大きな傷がついたわけではありません。曲げたりのばしたり、力を入れたりすると、関節や筋肉がきしみましたが、一週間ほどで感じなくなりました。倒れたときに打った肩やひざは、あざになり、少し長く痛みました。頬は、れが引いてもしばらく青く跡が残っていました。目につく部分ですから、お客様の前に出るときはヴェールをかぶることが許されました。
 爪が元通りになるには、さらに長い時間がかかりました。少しずつのびて、血豆を押し出し、やがてきれいに生えそろいました。
 もうどこも、痛いところはありません。元通りです。
 それで、同じ爪をはがしました。
 痛くて、血が出て、わけが分かりませんでした。
 まずいことをしたなと思ったのは、それをエヴァに見つかったときでした。
「引っかけてしまって……」
 聞かれてもいないのに、いいわけをします。
 嘘でしょうか。
 自分でも、何か手が勝手に動いて――手がすべったように、感じるのです。あるいは、物をとろうとしたときに、見当を間違って指に当たってしまったとか――そんな気がします。
 エヴァは、地下の彼女の部屋で手当てをしてくれました。血のついた乱雑な布切れをほどき、傷をふき、薬をぬって、ていねいに包帯で巻きます。
 そしてルディの手を、両手で包みました。
「適切に食事をとっていますか」
 医術士として、たまに彼女は食事の必要性について語ることがありました。ちゃんとした食事とはどういうものか。だからその問いかけも自然なものに聞こえました。
 口の中にずっと血の味がしていました。頬の傷が治るまでは仕方のないことでしたし、その内に日差しの強い日が続くようになりました。
「暑気あたり……でしょうか」
 そういうものがあると聞いています。
「食欲が、なくて」
 今は何を食べても、味がしません。
 エヴァはルディの手をとったまま沈黙しました。彼女の手が、彼女の精神のように常に冷静なことをよく知っていました。手当てを受けた回数は一度や二度ではありません。それでも今はふれあった部分が、少し熱を帯びたように感じます。
 これは、治療の続きでしょうか。しばらく、自分の手に重ねられたエヴァの手を、見つめていました。
「傷が化膿するかもしれません。明日、また消毒に来てください」
 最後にそう言われ、うなずいて、部屋を出ました。


 夜、自分の部屋に戻り、部屋のすみに身を横たえます。
 これもきっと、昼間に暑いせいでしょう。ベッドに寝ていると、敷布や薄手の上掛けが体にまとわりつくように感じるのです。それが無性に不快で、夜中に飛び起きることが続きました。悪い夢のなごりで、たいてい胸が激しく脈打っています。気が落ち着かず、昔のように床で寝ることにしました。床も壁もかたく冷たく、ルディを放っておいてくれます。
 しかし最近はそこでも、目がさえて寝つけないことが増えました。闇の中から、蝋のにおいがただよいます。ベッドの下です。
 蝋板ろうばんをエレイザとマシアにもらいました。
 洗い物を持って洗濯場に行ったとき、二人の声はふるえていました。
「ごめんね、ルディくん。私が、一人で帰らせたから……」
「あたしが、一緒に行ってたら――頼まなきゃよかったんだ、買い物なんか」
 彼女達は何を、聞いたのでしょうか。何があったかはだれにも話していません。
 それとも召使いが一人、門限を過ぎても戻らず――遅くに帰ってきたときには服もろくに着ず、血まみれであったと、聞けば何があったかは察せるものでしょうか。あるいは今、れ上がった頬で、よたよたと歩く姿に。
 二人は背後の、他の洗濯女中達の視線を気にしながら、何度も言いよどみました。
「あの、あのね……こんなこと、ほんとに言いたくないんだけど……」
「ごめんね……言われたの。お姫様の侍女と、気安く話なんかしちゃいけないって……」
 彼女達の上役にそう言われたならば、従わなければなりません。彼女達には自分や家族の生活があります。
「でもこれ……よかったら。……本当にごめんね」
 二人で作ったという蝋板をもらいました。両手の平ほどの木枠に、蝋が流しこんであります。木ぎれをきちんと組み合わせ、表面をやすり、ていねいに作ってありました。これのために彼女達は、手持ちのろうそくを何本か使いきったことでしょう。
 その親切を、ルディは礼を言って受けとり、ベッドの下に押しやりました。
 見ると、わけもなく心が落ち着かなくなるからです。
 ――わけもなく?
 あの日のことを、思い起こさせるからです。すべて知っているぞと、物言わぬ道具に責められている気がします。
 だれにも知られたくなくて、だれにも言っていません。
 あの日何があったか――自分の身に何が起こったか――自分の体がどのように扱われたか――聞かれれば、冷静ではいられないでしょう。
 恐れているわけではありません。
 聞かせて、相手に悪いだとか、軽蔑されるのが怖いだとか。そういったいつもの理由はあとから湧いてきます。反射的に湧きあがる、それ以上に耐えがたい――ほとんど、許しがたいものを感じていました。
 聞かせない方がいいだろうとか、聞かせるのが怖いとかではなく、聞かせたくない、、、、、、、のです。
 無遠慮に聞いてくる者がいないのは幸いなことです。どうしたか分かりません。
 自分の名誉を守るために。
 大げさな言い方です。そんなたいそうなものが、自分に。今までのみじめな人生で、汚点でないときがあったでしょうか。
 ――――ありました。
 あったからこそ、つらいのです。
 今、自分を奮い立たせているものが、その源が汚点ではないわずかな時間の中にあって、だからこそその時間が途方もなく憎く思えました。
 優しい手。
 直接自分をおかしたものよりいっそう、それが憎らしく思えました。初めから知らなければ、今こんなにみじめにならずにすんだでしょうか。
 あの日の何もかもが、うとましく忌まわしく思えます。あの日をもたらした何もかもが。これまでのすべてが。


 夢の中にくりかえし現れる像があります。
 ひしゃげた赤い大きな実。ねじくれた不吉な形の枝。葉は五つにかぎ裂けて、開いたり閉じたりします。
 赤い実は脈打ち見る間にふくれ、はじけます。中から苦悶くもんにゆがんだ顔が現れます。うめき声と、悪臭が放たれます。
 ひたいから、縦に亀裂が入ります。
 やめて、と声をあげようとして、反発する手が背後から口をふさぎます。
 お前が望んだことではないか。
 当然のむくいだ。いい気味だ。自分の体をいいように扱った罰だ。お前達さえいなければ。
 いなければ――
 男の顔が裂けました。血も、つばも涙も、一緒くたとなってふりそそぎました。
 絶叫します。


 傷の治りが遅いのは、食事をとれていないからだとエヴァが言いました。爪はまだのびません。れて赤くなり、うみが出ることを化膿と言うそうです。
 以前より筋張った自分の手をルディは見つめました。やせたみっともない手。彼女の手のわずかな熱が、骨にまで届くようでした。
 味のしない食事を飲み下しました。
 日々は過ぎていきました。朝起きて、仕事をして、食事をとり、図書館で勉強をし、ときには人とたわいのない会話をして、夜は自分の部屋で寝ます。ほこりのように、平穏が少しずつ心に堆積たいせきしていきます。さびのように、鬱屈うっつくにぶらせます。
 不意に、それが簡単に払いのけられてしまうものだと気付いて、大声をあげそうになりました。奥歯をかみしめます。
 のどの奥でわめき散らしました。
 (わああああああわあああああああ)
 自分の声で頭の中がいっぱいになります。耳をふさぎ、うずくまります。頭をかきむしります。
 どうせ壊れるならいっそ自分自身でめちゃくちゃにしてやろうと思ったのです。
 大切だから、壊したくて、心がばらばらになりそう。
 日常をなぎ払う無慈悲な手。
 (許せない許せない許せない)
 自分にふれる手――――思い出さないようにします。なるべく遠くに押しやります。感触――熱――――吐き気がしました。


 少し動くと、息がきれて、体がふらつきます。窓からさしこむ朝日が目に刺さるようです。まともにまぶたを開けられず、光の中で立ちつくします。
 肩に、指先からすべるように、その人の手がふれました。息をのみます。
 引きよせ、抱きしめられました。その腕に比べてひ弱な自分。
「許さなくていい」
 耳元で声がします。
「お前をおかすものを、お前は許さなくていい」
 頬で、お互いの髪がからまりあいました。
 ああ――――
 いったいどこまで何を理解して、何を考えて言っているのでしょう。この人の考えることが分かったためしがありません。
 力強く優しい手。
 本当に分かって、言っているのでしょうか。
 ふるえる両手にルディは力をこめました。
 弱々しくその体を押し返します。
 背中からほどける手が心の表面をいていきました。
 やせた自分の手。細い腕。両腕の合間から見下ろす胸で、まるで心臓は動くのをやめたように静かです。
 顔を上げます。
「では……あなたのことも?」
 うわずりながら放った問いが、その人の湖面に小さな水音をたて、波紋を広げたでしょうか。ゆらめきながら落ちて、底に届いたでしょうか。
 怖くなりました。両手を胸の前で握ります。まだ治りきらない傷が痛みました。
 (痛い)
 血が、包帯ににじむように。宙に赤いしみが二つ。自分を見ていました。
 あとずさり、逃げ出しました。


 爪はふぞろいにのびました。途中でゆがんで、おそらくもう、まっすぐには生えないでしょう。
 パンをちぎって口に入れ、かみつぶします。かたく乾いたそれが、唾液だえきを吸って完全に形を失うまでかみ続けます。
 塩と麦の味。甘みと、わずかな苦みと、雑多な味。
 飲み下します。胃がぐるりと動いてそれを迎え入れました。
 あの人の言葉が、魔法のように。呪いのように。
 簡単に色を変える自分を、無様ぶざまだと思いました。




   二 『話』

 主人への客をとりつぐのは、侍女の重要な役目の一つです。
 正式な訪問であればかならず、先に使者がたてられます。たとえ親しい仲でも、突然の訪問は礼を欠く行為でした。身分の低い者が高い者に謁見えっけんを申し出るときには、なおさらです。たいていは書面で、ときには口頭で。まずそれを侍女が受けとり、主人の意向をうかがってから、使者に日取りを伝えます。
 公的なものから私的なものまで、毎日のように使者は、任務に忠実な門番の冷たい応対を受けながら城門をくぐり、侍女の元までやってきました。
「デーンより、ゾフィア・テグ様の使いで参りました」
 たいていの使者は、まずこのように述べます。
 彼の雇い主がどこのだれで、どのような対応をすべきかをすぐに判断しなければなりません。身分は? 主人との関係は? 幸いなことに、エヴァが彼女の仕事の中で知ったすべてを書き出し、サヒヤが書き足した名簿を、ルディも使わせてもらっていました。
 ある日、その名簿にない、真新しい、しかし聞き覚えのある名前に、ルディは耳を疑いました。
「私はトレントから参りました。ヘイム・ヒュドラーの使いです」
 ルディのいた町、ルディの家の名前です。
 あの町は、炎にまかれて跡形もなくなったのではないでしょうか。気が遠くなって、あの日の光景がまざまざと目の前に広がりました。闇をなめる炎、煙のにおい、納屋なやの倒れる音。
 一瞬のことでした。ルディはすぐに我に返ると、封書を受けとり、使者に部屋で待つよう伝えました。
 彼から、万が一にもすすのにおいはしませんでした。自分の記憶の中の最後の姿――焼け落ちていく家――は、もはや過去のものなのです。
 蝋で封印された封書を手に、廊下を歩くあいだ、考えます。
 あの町では純白鉱石が採掘されていました。魔力を帯びた鉱石で、軍備に魔術の導入を進めているホーゼンウルズにとっては戦略上、とても重要なものです。それを辺境伯様に知らせず領外と密貿易をしていたから、あの町は罰を受けました。とても貴重で、同じ重さの金より高価な石だとも聞きました。町が灰となったからといって、それを野放しにはしないでしょう。
 そして、あの町の不正を密告した者がいます。
 今、あの町の鉱山は辺境伯様の直轄ちょっかつとなっていますが、かつては、謀反人むほんにんとして処刑されたトリソニー卿の所有地だったそうです。それを接収されたことが、先の謀反むほんの理由の一つであったと噂になりました。彼の所有の元、彼と結託した町の長ヒュドラー家――ルディのいた家の人達――が、密輸から得られる富の恩恵にあずかっていました。
 片田舎に過ぎない町の中であの家がどれほど豊かであるか、自慢を聞かない日はないほどでした。それを良く思わない、なおかつ事情を知る者――密告者が、一族に名を連ねる者であったとして、何の不思議もありません。今、彼は辺境伯の後ろ盾の元、新たに町を代表する人物として、こうして使者をよこしたのでしょう。
 両手にこもった力を、ため息とともにルディは吐き出しました。
 あの町について、だれかに問うたことはありません。聞けば、答えてもらえたのかもしれません。しかしだれもルディに言いはしませんでした。そのことを責めるべきでしょうか。世の中のことが少しでも見えるようになったのは、つい最近のことです。伝えられても、混乱しただけかもしれません。
 しかしやるせない思いで、ルディは執務室の扉を叩きました。
 はたしてトレントとヒュドラーの名を伝えても、その人に動揺は見られませんでした。ガラス窓からさしこむ夏の日差しを背に、大きな執務机に座っています。よどみのない手つきで、ナイフを使って手紙の封を開けます。
 ついにルディは、自分から聞きました。
「あの町は今、どうなっているのですか」
「それがここに書いてある」
 その人はあせる自分を見て、少し笑いました。手紙に視線を落とします。
 あの日以来――どの日でしょうか――思い返せば、決定的な出来事というものは、今まで何度も起こってきました――そしてどれも、日々の積み重ねの中に埋もれ、ほこりをかぶっていきます――まるで最初からそうであったかのように――――
 しかし、あの日です。
 あの日ルディは拒絶しました。今まで戸惑いながらも受け入れてきたものを。
 弱々しい手にこめた渾身こんしんの思いは、届いたのでしょうか。届いたと期待するのはむなしいことでしょうか。
 直接的な返答はありませんでした。あの場から逃げ出したことへの罰さえも。
 しかし確かに、それまであった――あるいはあると錯覚していた――親密な空気は薄れました。夜、一日のあいだに何があったか話しに行くことはなくなりました。その人が自分にふれることも。
 手紙の最後まで目を通し、お嬢様は口を開きます。
「町の再建が進み、命じていた荷の準備ができるそうだ」
 純白鉱石のことでしょう。
「あのあと……僕がここに来たあと、町は再建されたのですね」
「そうだ」
 やはりこともなげにその人は答えました。
「そのヘイムという人が、今、町を取り仕切っているのですか」
「鉱山の運営も併せて、任せてある。このヘイムが何者か知っているか?」
 ルディは首を横にふります。
「話によると、お前の母親の兄だ」
 ぎくりとしました。
 お嬢様の前では、お母様のことは言わないようにしていました。元々、だれかれかまわず言いふらすことではないと考えていましたし、お嬢様が自分のお母様と暮らしたことがないと知ったあとはなおさら。お母様が優しくしてくれたことなど、その思い出を持たない人の前で話すのは気が引けました。
 しかし、昔はお母様とあの家で暮らしていたと、それくらいのことならば話したはずです。気まずさを押し隠して、ルディはお嬢様の言うことを聞き続けました。
「長子ではない。他にまだ兄がいる。だから本来ならば、あの家の地位や財産の相続には関わっていなかった」
 ルディはあの家にいながら、家族の構成についてはあまり理解していませんでした。あらためて説明してくれる人もいなかったので。家長であるおじい様とおばあ様、跡取りである長男。明確に理解していたのはそのくらいで、あとは他の息子や娘、妻、そして子供達をおぼろげに。
 ヘイムはその中にいたでしょうか。それともしばしば家を訪れた親戚の中に?
「その人が……おじい様達のことを、密告したのですか」
 お嬢様は笑って、答えませんでした。一瞬横目でルディを見た、そのまなざしだけが雄弁でした。
「第一陣の貨物とともに、この男もベルスートを訪れ、私に会いたいそうだ」
 半月後の日付をお嬢様は言い渡しました。ルディも頭の中で考えます。その日はまだ、なんの公務も私的な用事もお嬢様にはないはずです。都合がいいでしょう。
 退室して、ルディは使者にそれを伝えました。彼は色よい返事に顔を明るくさせ、すぐさまとって返します。
 彼の行く道、あの町までの道に、ルディは思いをせました。


 夏のさかりの、昼間は室内でもけだるく思うような日に、んだばかりの花芽を使って香茶をれます。酸味をふくんだ強い香りが、体の火照りを冷まします。
 小さな香茶室。
 いつも、どんなことがあっても、ここにいるときだけは心が落ち着きました。傷ついた日々の中ですら。
 部屋に満ちた様々な香り。棚に整然と並んだポットやカップ。手ずれのついた帳面に並ぶこまやかな文字。
 頭の中で乱雑に飛び交う思考が勢いを失い、ゆっくりと沈殿ちんでんしていきます。
 どうして自分がここにいるのか、静かに自問します。
 似たようなことを、今まで何度も考えてきました。自分はここにいてもいいのかと。だれに何を言われるまでもなく、常に自分はどこであっても場違いな感じがしたからです。無意識で反射的な、いわば思考の癖でした。
 今はより深く、意識して、ここにいる理由を考えます。あの人のために香茶をれます。女の格好をして。
 あの事件で、自分の置かれた境遇について理解しました。男達が自分に投げつけた言葉を思い返すと身ぶるいがします。城の中ではだれもが思って口にしないこと。
 男でありながら侍女として仕えるよう、言われました。ここに来た初日のことです。言われるがままに受け入れました。今はそれがいかに不道徳な行為であるか、身に染みています。人々からは奇異きいの目で見られることです。あなどられ、汚い言葉でののしられることです。
 サヒヤの言ったことを思い出します。
 石もて追われる覚悟があるかと。
 ここに来て、ここにいることを許されて、救われた気でいました。しかしそれはまた新たな茨の道を歩かされているに過ぎません。
 あの人は笑って、何度でも自分をとげの上で突き倒すでしょう。優しいふりをして、自分の望まないことを何度でも。
 首輪をつけられ――
 女の格好をすること――
 性的なこと――
 試すようなことを何度もされました。
 男達に手をかけたとき、いやだと言ってもやめてくれませんでした。確かに助けてほしいと望んだのは自分です。魔法のように、あの場から自分だけを立ち去らせる方法がなかったにしても。一番陰惨いんさんな、一番自分の傷つく方法を、あの人は知っていて選んだように思うのです。
 そういう人です。望めば与えられます。望んだものとはかけ離れた形で。
 あの男達とあの人と、何が違うのでしょう。一瞬、親しげなそぶりだけ見せて、踏みにじるのは同じです。
 だからあの日、抱きしめられたとき、あの人を拒絶しました。ルディをおかすものとは、あの人のことです。気付いてしまってからずっと、今でも許せない思いでいます。
 なのに今まだここに、女の服を着て、侍女として働いています。帰る家も、他に行くあてもないから?
 夏の、暑い日にふさわしい香茶を帳面の中に見つけました。どうして、それを探して、選んだのかは、自分でも分かりません。どこか何かを期待する心があって、あの人をいとう気持ちとせめぎ合います。
 自分の心さえままならず、何を頼りにすればいいのでしょう。
 祈るものがなくて、独りでルディは手を組み、うなだれました。


  ***


 彼女の視線を前にもまして鋭く感じるようになりました。確かな足取りに責められている気がして、足音におびえます。物をとろうと手をのばす、ささいな仕草しぐさにもびくついてしまいます。
 目に見えてのことでしょう。ある日、本人から問いつめられました。
「ここ最近の貴方の態度は、どうしたわけですか」
 思わず、顔を横にそらします。
 狭く逃げ場のない、控え室でのことでした。自分が答えないのを見ると、サヒヤはいったん身を引き、丸イスに腰かけました。手ぶりで、すぐ向かいのベッドを示します。彼女の有無を言わせぬ態度に、ためらいながらも、そのふちに座らざるをえませんでした。
「何かありましたか」
 しばらくルディは息をつめたままでいましたが、やがて観念し、口を開きます。あのときも、彼女の前からどうにか逃げるすべを考えていました。
「この前、話していたこと……僕に、ここにいる覚悟があるかどうか。サヒヤさんの言った意味が分かりました。この格好が――どういう意味を持つのか。
 僕は……もう。無理です、覚悟ができません。それでもいいと、そこまで思えないんです」
 言葉にすると、思考はより明確な輪郭りんかくを持ち始めます。鉛のように重く苦々しい言葉でした。舌の奥にさびの味がするようです。
「僕はここにはもう、いられません」
 告解を、サヒヤは厳粛げんしゅくに受け止めました。
「ならば、ここを去ることも考えるべきでしょうね」
 予想していた言葉に、目をかたくつむります。彼女の言うとおりです。こんな気持ちでここにいるべきではありません。彼女や、他の人が持つ高潔さを自分は持っていません。
 強くないのです。傷を負ってもまだりんと立っていられる強さが。
 ふるえながら、断罪の刃が振り下ろされるのを待ちます。
 しかし、彼女の声色こわいろ存外ぞんがいおだやかでした。
「城を出て、外でまっとうに生きる道を探すのがいいでしょう」
 ルディは目を開き、顔を上げます。
「城の、外で……?」
 まじまじと見つめる先で、彼女は首をかしげました。
「別に貴方は大きな秘密を知ってしまったわけでも、悪事に手を染めたわけでもない。ここが地獄の門であろうと、今ならばまだ出られます。女の格好をさせられていたなんて、言わなければ分かりません」
「でも……でも僕、その、家もなくて、家族も……どうやって……」
 口にするより他の理由もありました。
 汚れている気がしていました。前よりもっと。自分は汚らしくて、だれの前に出るにも恥ずかしい人間だと、そういった感覚がまとわりついて離れません。体にしみがついていて、それが容易に他人に知られるのです。
 ルディを、サヒヤは上から下までながめました。最後にまたルディの顔を見て、言います。
「貴方は若いし、健康な男子です。探せば働き口はあるでしょう。身よりがなくても、前の職場――つまりこの城が信用になります。エヴァに紹介状を書かせなさい。金で保証人を用意する手段もあります。
 家がないなら、住みこみの仕事を探すのがいいでしょう。そんな人間はたくさんいます。力仕事が得意には思えませんから――読み書きと計算ができるなら、商家か宿屋がいいかもしれません」
 まったく彼女はこういうことを得意としているようで、水が流れるように答えていきます。このまま事が進んでしまうのではないかと、不安になったほどです。
「とにかく」
 とサヒヤは話題を区切りました。
「当座、先立つものが必要になります。小遣い程度でもないよりはまし。無駄にせずに貯めなさい。ああそれから、体力をつけることですね。毎日しっかり食べていますか」
 他のどんな叱責しっせきよりも――居心地悪く思えました。思わずルディは自分の二の腕をつかみます。少し前、食事がとれずにひどくやせていた頃に比べたら、目方はだいぶ増えました。しかしまだ、だれもが感じ良く思うほど太っているわけではありません。いかにもひ弱な見た目をしています。
 なんとかルディはうなずきました。そのあと、はやる胸を押さえます。サヒヤはこの場を助言だけですませるつもりのようです。そのことに安堵あんどしました。
 不安――そう、不安でした。
 急に、他の選択肢を出されて――? 思ってもみなかったことなので……この城を出て、また別の道があるなど。
 この城にいられないならば、どこにも行き場がないのだと思っていました。自分のような人間は、のたれ死ぬしかないと。そうなりたくなければしがみつくしかありません。
 薄暗い場所につながれているのだと思っていたら、急に目の前が開けました。かえっておぼつかなく感じられます。城の高い塔から町を見渡したときのように。一歩踏み出せばあっという間に足下を失うような。鎖につながれていれば、むしろ落ちはしないでしょう。
 気付けば、サヒヤは哀れみの混じったまなざしをこちらに向けていました。
「今すぐとは言いません。この城にいる内は、食べるものと寝る場所に困ることはない。せめて、なんでも利用してやりなさい。そのような格好をさせられて、いわば負債を負わされているようなものですから」
「利用?」
「ここでしか得られないものは数多くあります。寝食以外には、知識や人脈、経験などです。なんでも、自分のかてになさい」
 おそるおそるルディはうなずきました。
 利用だなんて、大それたことです。しかし様々なものが他では得難えがたいというのは事実でしょう。本を読むこと一つとっても、一冊一冊が高価で、おいそれと手が出せるものではありません。膨大な数の書物を自由に手に取れるなど、他では考えられないことです。お嬢様の侍女だからと、大目に見られていることもたくさんありました。
 思考をめぐらせる内に、とある場所でごろりと横たわるものを見つけます。少し考えてみても、まだ正体がつかめません。今ひとたびは、腹の中にとどめておくことにしました。
 サヒヤは手でくうを払います。
「私からの話は以上です。事情は分かりました。責めはしません。びくびくするのはおやめなさい」
 ルディは大きく息をつきます。
「ごめんなさい……ありがとうございます」
 すぐには鳴り止まない胸をなでつけながら、サヒヤの顔を見上げます。もう、恐ろしいとは感じません。
「あの……僕からも聞いていいですか?」
「なんですか」
「どうして、サヒヤさんはここで……お嬢様の元で働いているのですか?」
「給金と待遇が良いからです」
 彼女は即座に答えました。
「少なくともただの女中よりは。女のける職と言ったら限られています。娼婦に比べても外聞がいぶんの良い職でしょう」
 意外で、そして、もっともな答えです。さらに考えればおかしな話だと分かります。
「でもそれは、ただの侍女の場合でしょう?」
 茨の道を歩く覚悟を必要とするのは、彼女の副次的な仕事の方です。剣をふるい、各地へ派遣される。ついこの頃だって、お嬢様の命令で十日ほど城を離れていました。女一人で旅をするなど、その先の目的も併せて、いったいどれほど危険なことでしょう。
 サヒヤは少しのあいだ答えませんでした。よそをにらみ、やがて肩をすくめます。
「それについては、私も日々自問しているところです。なぜあのような主人に使えているのか」
 声を落として。
「結局のところ、私は異端者なのです。世間でただの女として働いたこともありますが……今ここにいる方が、居心地がよいと感じてしまう。このような不徳の道でも、あの方がお与えになるものに、何か他に代えがたい性質があるせいでしょうね」
「それは……なんですか?」
 サヒヤは首をふります。
「聞いてどうします。この城を出るのでしょう?」
 なおもすがりつこうとする自分に気付いて、恥じ入りました。答えが与えられないのも当然です。
 聞いたところで、それはサヒヤの理由であって、ルディの理由にはなりません。彼女の異能に見合う舞台は、確かにここにあります。何度となくその剣技を目にしてきました。彼女ほどの人であれば、ただの女として市井しせいに暮らすよりも、たとえ危険であっても茨の道を選ぶことに、不思議はありません。
 彼女は自らの意志で歩き、自分は突き飛ばされるように、歩いています。


  ***


 その日が近づくにつれて、心が落ち着かなくなっていきました。腹の中でいくつか大きな石が群れになっていて、それらは鈍重にひしめいていますが、ふとした拍子にぶつかり合ってはざわめきます。
 いてもたってもいられず、エヴァの部屋を訪ねました。
 彼女は自室にいると言ってもひまなわけではありません。その日は席についたまま、ずいぶんと待たされました。奥のドアからようやく現れた彼女が、向かいに座り、二人は相対しました。
 彼女を前にして急に、サヒヤと話したこと――この城を出ようと算段していることを思い出して、申し訳なさを感じました。
「ごめんなさい」
 とっさに口を突いて出た言葉を、しかし切り出しとして、本題に繋げます。
「あの、いそがしいところに……。どうしても聞きたいことがあって、来ました」
「どうぞ」
 彼女の冷静な応対から生み出される空気に、自分の意識を乗せます。彼女は非常に理性的で、他人を責めることはありません。恐れず、落ち着いて話せば良いのです。
「エヴァさんは、故郷の人に会いたいと思ったことはありますか?」
 彼女は一族間の争いが元で、故郷から逃げてきたと聞いています。そのときの自身の状態を、「囚人」と彼女は表現しました。同じ血族であってもまったく容赦のない境遇に置かれていたと感じられる言葉です。
 彼女は否定も肯定もしませんでした。
「私は、貴方ほど情緒豊かな人間ではありません。貴方と同じ意味で故郷や家族を恋しいと思ったことはないでしょう。しかし必要があって、彼らとは交流を再開し、現在まで続けています」
 北方で産出されるいくつかの物品が、医術に欠かせないことを彼女は理由として挙げました。見返りとして金品と、彼女がここで得た知識を渡しているとも。
 ルディは何度か、うなずいたり、首をひねったりしました。彼女なりにルディの心境を推し量ったようですが、その返事は期待したようではありませんでした。同時にに落ちないことを見つけて、そこを糸口にしようとします。
「いいえ、僕もその、昔の家を恋しいなんて……思ったことはありません」
 『故郷』『家族』どちらも自分に使う気にはなれない言葉です。他の人にとってはなじみ深いもののようですが、ルディはあの町や家の人をそのように思ったことはありません。生まれてから十数年暮らして、あそこにいたときでさえいつまでも慣れない気持ちで、今となっては、元から自分の場所ではなかったのだと強く思います。
「なのに、会ってみたいと思うのは……おかしなことでしょうか」
「このたび、トレントから貴方の家の者がお嬢様の御許おんもとに参ると聞きました。そのことに関連してでしょうか」
 彼女の指摘に、ルディはうなずきました。
「僕の母の兄が、今はあの町を取り仕切っていると聞きました。僕はその人のことを、たぶん知りませんが……会って、話を聞いてみたいんです」
「何を聞くつもりですか」
「…………母のことを」
 腹の中の石達がくり返しつぶやくことを、口にします。
「母がどんな人であったか……僕は何も知らないんです。本当に。どうして捕らわれていたのか……どうして一人で僕を産んだのか、想像するしかなくて。もし、その人が知っていたら、教えてほしいんです」
 エヴァは沈黙しました。
 間をおいて、話し始めます。
「私の父の話をしましょう。祖国から私を脱出させたのは父です。私がベルスートでこの職務を得て間もなく、父は単身、祖国へ戻りました。家族に和解を申し入れるつもりでした。しかしその後、便りは途絶えました。
 彼らと再び関係を結んだとき、私は父の消息についてたずねました」
 もどかしく、ルディは声をあげます。
「それでお父様は……?」
「父は処刑されていました」
 ルディは言葉を失いましたが、エヴァの声はよどむことなく先を続けます。
「父の立場と犯した罪をかんがみれば、予期された事態でした。彼らに聞いたのは、事実を確認したようなものです。それでも私が聞かずにはおられなかったのは、今の貴方と同じ心境のためでしょうか」
 エヴァは、無機質な中にも意志の強さを感じさせる目でルディを見つめました。
「真実を知ろうとするのは、人間の持つ特質です。多くの者がそうします。ですから、貴方が彼に会って話を聞きたいと思うのは、おかしなことではありません。しかし、望むような答えが得られるとは限りません。それどころか、貴方にとって不都合な真実に、傷つくこともあるでしょう。その覚悟はありますか」
 またその言葉――ルディは両手を握りしめました。
 何を聞いても平気だとは、とても言えません。あの家の人が自分にこころよく接するとも思っていません。彼らがお母様をし様に言うのを思い出すと、身ぶるいがしそうです。
 しかし何を聞いても、以前ほど衝撃を受けはしないだろうと思うのです。
 あの忌まわしい日以来、お母様への思いはルディの中で変化していました。優しくて、可哀想で、そして無力だったお母様。立ち向かうことはできず、ただ祈るしかなかったお母様。ルディを置いて死んでしまいました。
 どうせ捨てるなら、なぜ産んだのか――――恨みがましい気持ちが消せなくて、石となって腹の中でうごめいています。
「貴方がそのつもりで、心を強く持てると言うならば、彼との面会の場をもうけていただくように、私からお嬢様にお願い申しあげましょう」
 この機会でもなければ、できないことです。面と向かって、対等な立場で話を聞けるのは。トレントの町はここから遠く、仮に自力で訪ねていけたとしても、ほとんど見ず知らずの自分と話をしてもらえるかは分かりません。ヘイムが城に呼ばれる立場ならば、まだ自分に利があります。サヒヤに言われたとおり――今の立場を、利用しなければ。
「お願いします」
 ルディは顔を上げ、エヴァの顔をまっすぐに見つめ返しました。


  ***


 予定したとおりに、彼らはやってきました。正午の鐘が鳴ってすぐ、荷馬車を連れた一団が城門をくぐるのを、ルディは城の二階の窓から見下ろしていました。
 先頭を行く男が一人、荷車を引く馬の手綱をとる男が一人、横やうしろにさらに数人。
 荷馬車も人もきちんとした身なりで、粛々しゅくしゅくと。彼らにとってはおそらく大変重要な意味を持つ日であることがうかがいしれます。しかしベルスート城にとっては数ある来訪者の内の一人でしかありません。迎えもてなされる客人ですらなく、他の物品を納入しにきた業者と扱いはそう変わりません。それでも待機を命じられたのが裏の通用口ではなく城館の正面扉の前だったという事実は、のちの彼らの自慢になることでしょう。
 ひとえに、純白鉱石の持つ重要性によるものです。珍しいことと言えば、その場には塔の魔術師達も立ち会うとのことでした。魔術師達の長がいつにもまして浮かれた様子で、ルディの故郷と関連あるからか、わざわざ言ってきました。とはいえ彼らの立ち会いが他にまったく例のないことでもありません。
 ほどなく、お嬢様が中から現れ、男達の労をねぎらうでしょう。荷がおろされ、それを魔術師達が検分するあいだ、責任者であるヘイムは客室で待ちます。
 彼があらためて謁見の間に通されるまでの時間を使って、彼と会うことを許されました。
 城館の前に立ったまま待つ彼らを見届けて、ルディは窓から離れました。


 城内では身分によって廊下が違うように、客間にもまたいくつかの別がありました。身分の低い者のための簡素な客間の前で、ルディは息を深く吸いました。
 今日は男の服を着ています。城で働く女中の一人が、昔息子が着ていた服だと、ゆずってくれた服です。首元の首輪を隠し、髪をうしろにしばり、おそらくは、普通の少年に見えるでしょう。
 ゆっくりとドアをノックをします。返事を待って、ドアを開く。男がイスから腰を上げかけていました。そう若くもなければ年をとっているわけでもない、働き盛りの、中肉中背の男です。その顔に見覚えがあると思ったのは、本当にそうなのか、それとも知った顔に似ているからなのか、判別がつきませんでした。おじい様を思い出します。
 足がふるえ始める前に、中に進みました。
「はじめまして」
 そう挨拶をします。男は困惑を隠せないようでした。中腰のまま、声をあげます。
「君はだれだ? 私に会いたい人がいるとは聞いたが、いったいなぜ?」
「僕は、この城の召使いです。どうぞかけてください」
 釈然しゃくぜんとしない様子ながらも、男――ヘイムは座り直しました。テーブルを挟んで向かいのイスに、ルディも腰かけます。
「時間をとってくださってありがとうございます、ヘイムさん」
 ルディを疑わしげに見る目つきは、やはりおじい様と似ています。おじい様の一番上の息子にも。顔だけではなく、居住まいからも。
 その顔と正面から向き合って、急に用意していたのとは違う質問が飛び出ました。
「あなたはあの日、どこで何をしていたんですか? 町が――燃えた日に」
 一瞬、彼は鼻白はなじろみました。
「お前もあそこにいたのか? 私は――元はと言えば親父や兄貴が悪いのだ。町の者もそれを知らなかったはずがない。私は間違ったことはしていない」
 語気を荒くします。
「なんだ、あのときの生き残りか? 恨み言を言いに来たのか? 恥知らずめ!」
 今にも席を立ちそうな彼に手をかざして制します。自分のうかつな口を後悔しました。しかし、おじい様と似た顔はあの夜を連想させ、真相を確かめずにはおられなかったのです。彼が関わっていたことは、この態度で確信が持てます。
「たしかに僕は、あの場にいました……ああ、でも、違うんです」
 今度こそ慎重に、本題ににじりよります。
「あなたは、ヒュドラーの家で昔、閉じこめられていた娘がいたことを知っていますか? あなたの妹だと聞いています」
 ヘイムは目を見開きました。
「ローテのことか」
 意識が遠のきます。
 重たいものがひきずられる音。粗末なくせにやけに重く、のろのろと、きしみながら、しかし止まることなく。記憶の扉が開かれます。
 ――――どうして忘れていられたのでしょう。お母様の名前です。ルディが呼ぶことはなくても、おじい様やおばあ様がたびたび――
「ローテ!」
「ローテ!」
「ローテ! 部屋を出るなと言っただろう、何度言ったら――」
「ローテ! このあばずれめ、おまえのせいで私達がどれほど――」
 その名に、怒りといらだちがこめられていないことはありませんでした。聞くだけでふるえ上がるものです。だから、だから、忘れていたのです。
 ヘイムがうなる声で、我に帰ります。
「だが妹はあれよりずっと前に死んだはず――――そうだ、子供がいた」
 ヘイムはルディの顔を食い入るように見つめます。
「お前は、まさかその子供か? 名前は…………」
「ルディです」
 彼は口元に手をやり、何度も、思い出そうとしました。
「…………いや、やはり、聞いた覚えはない。私はあの家にはめったに行かなかった。違う町に住んでいたんだ。親父や兄貴からは家を継がせる気はないと言われていたから。親父達がローテにつらく当たっていたのは知っているが――私にはどうしようもなかった。私を責めるのはお門違いだ!」
 話す内に、彼をけわしい口調にさせるものの正体を、よく知っている気がします。
「違うんですヘイムさん。ただ話を聞きたいだけなんです。あなたを責めるつもりはありません、本当に」
 首をふります。
「あの家は、もうないのですから」
 彼は青ざめて、言葉を失いました。前のめりになっていた体を反らし、背もたれに深くうずめます。
 彼を解放するつもりだった言葉は、同時に彼をひどく突き放したのかもしれません。湧きあがる同情の念を押さえ、彼が体裁ていさいを整える前に先を続けます。
「ヘイムさん、母のことを教えてください。僕は知りたいのは、それだけです」
 ヘイムはひたいに手をやり、あごの下までなでおろしました。重苦しい声を唇の隙間から吐き出します。
「そうか、だからあの荷か――」
「荷?」
「辺境伯様のご息女に――いいや、なんでもない」
 彼は頭を振って話題を打ち切りました。
「それでローテの、何を聞きたい」
「あ……母は、どうして僕を産んだのですか? 父に会ったことはありません。聞いたことすら……。きっとそのことを、家の人達からいつも責められていました」
「ああ、ローテ……」
 ヘイムは目玉を天井に向け、記憶の糸をたぐります。
「父――お前の祖父は、ローテを近隣の下級貴族の息子と結婚させようとしていた。父は商売の規模をもっと大きくしようとしていたし、相手にとっては父の持たせる持参金が魅力的だった。だが――よくある話だ――ローテは親の決めた婚約者とは別の男を好きになった。ローテがたしか十三才のときだ。
 すべては、あとに家族から聞いた話だ。私はもう家を出て、一緒に住んではいなかった。相手は家に出入りしていた鉱夫の一人らしい。の者ではない、出稼ぎの労働者だ。素性すじょうも知れない。
 二人は関係を持ち――ある日、それが父の知るところとなった。貴族の息子との結婚の直前、二人はかけおちの計画をたてていたらしい。しかし約束の場所に男は来なかった。自分達の関係が悟られたと知って、ローテを置いて逃げたと聞いた。
 ローテ一人を捕まえ、父はひどく怒ったが、ともかくローテは手元に残った。何事もなかったように結婚を進めようとした。しかし、そのときにはもうローテは子供――お前を身ごもっていた。当然、結婚はおじゃんになった。父も母も、ローテを許さなかった」
 長く、ため息をつきます。
「ローテの子供が無事産まれたと、聞いたことはあったかも知れない。しかし両親も兄も、ローテやお前を人前に出そうとはしなかった。たまに私が家によったときでも、見かけることすらなかった。……ローテと、あの家にいたのか?」
「……はい、ずっと。母が生きていたときは、あれは、離れのどこかでしょうか。部屋の中に閉じこめられていました。母が死んだあとは――僕は一人、地下の物置部屋に」
 ヘイムは両手で顔をおおいました。
「なんてことだ……ローテが死んだと聞いたのは、二年ほど前だ。兄が酔ったときに話した。実際にはそれより四年も前に死んでいた」
 六年前――――
 長いでしょうか、短いでしょうか。過酷な日々にあっては、途方もない時間に思えます。しかし、忘れるのに十分な時間と言えるでしょうか。
 記憶の奥にかすむお母様。
「母は、どんな人でしたか?」
「私より四つ年下で、父のお気に入りだった。物心つくときにはもう貴族との縁談の話があったから、父はローテに教師を雇っていろいろ習わせていた。自分を『お父様』なんて呼ばせてな。あんな言葉を知ってる娘はあのあたりじゃほかにいなかった。
 賢い、従順な子だったよ。親に逆らってかけおちなどするとは思えなかった。だから余計に、父は腹が立っただろう」
「僕の父親のことは? 行方ゆくえは?」
「私では何も分からない」
 ヘイムは言い切ります。
「きっと父達も知らなかっただろう。知っていれば、ただではすまさなかっただろうし」
「僕は、父に似ていますか。あの、たとえばこういった耳が……」
 ロバとあざ笑われた長い耳を見せます。今では、うまく髪で隠すこともできるようになっていました。ヘイムは戸惑いながら、ルディの顔や耳を見つめました。
「いや、どうだっただろう……。確かにお前は、ローテにはあまり似ていない……家族のだれにも。父親似だろうか。出稼ぎは色々な所から来るから、父親は異民族だったかもしれない……だが私は本当に何も聞かされていない。ローテの話題は家の中で禁忌だった」
「そうですか……」
 失われたものの多さに、お互いうなだれるほかありませんでした。床をながめます。用意していた質問は底をつきましたし、これ以上何を聞いても甲斐かいはないでしょう。沈痛な空気の底で、ヘイムも口を閉じたきりでした。
 エヴァの言葉を思います。覚悟してここに来ました。だから平気だと、言えるわけではなくても。
 顔を上げます。
「ありがとうございました」
 うなだれたままのヘイムに、礼を述べます。彼はうめきました。のろのろともたげる顔が、この一瞬で奇妙にやつれたようで、ルディは我が目を疑います。力なく開いた口から、亡霊のようなかすれた声が這い出ます。
「私を……恨んでいるか」
「……何をです?」
「お前を、助けなかったこと――家族を――裏切ったことを」
 なぜそれを今、自分に問うのでしょう。むちゃくちゃな問いでした。
「僕のことは、あなたには関わりようのないことでした。恨むも恨まないも……なんとも思っていません」
 彼は自分自身でそう言ったではありませんか。
「あの家のことは……」
 あの、炎に焼け尽くされた夜がなければ、今もまだ家の地下で、痛みと恐怖にふるえていたでしょうか。あるいは先の冬に耐えられず、死んでいたかもしれません。お母様のことも忘れて、その日一日どうやって食べるかを考えるのが精一杯の内に。
 ヘイムはすがるような目をしました。おじい様を思い出します。あの夜、初めてふれあったとき、こんな顔を――? 血の色に塗り替えられて、思い出せません。しかしきっと、こんな顔だったのでしょう。
「助けてくれ」
 と、おじい様は言いました。同じことをヘイムは目線で訴えてきます。
 彼は救いを求めているのです。家族を裏切った罪悪感に押しつぶされそうになっています。家族の悪徳を密告し、正義の鉄槌てっついを下させた――自分は正しいことをしたのだと、胸を張れるようなふてぶてしさが彼になかったのは、不幸なことでしょう。
 ただ一言ここで自分が「いいえ」と答えれば、彼の心は救われるのでしょうか。
 何を根拠に?
 自分の返事が、死んだ彼らの代弁となるのでしょうか。一度たりとも、家族の一員であったことなどない自分が。それとも、哀れな子供があの家から救われたことに、一筋の光を、あるいはなぐさめを見いだすのでしょうか。
 どちらだろうと、彼はルディの答えを切望していました。彼の期待を満たすのは、簡単なことでした。
 言ってやればいいではないですか。
 考える必要もないことです。今の暮らしと、あの家での扱いを並べて。今の方が、比べものにならないほど良いものだと。
 あの夜の出来事で、自分は救われたと。
「分かりません」
 ヘイムの顔がゆがみます。
 ルディは唇を引き結びました。立ち上がります。
「本当にありがとうございました。どうか、お元気で」
 言いおいて、二度と振り返らず、部屋を出ました。廊下を早足で歩きます。逃げるように。
 自分はなんて薄情な人間でしょう。
 でもたとえ嘘だって、あの日救われたと、今はもう、言えないのです。
 こみ上げてくるものを、それがなんであれ、ルディは飲みこみました。


 夏特有の長い日差しが、夕刻になってもこうこうと大地を照らしました。季節は、もっとも輝かしい時期を迎えています。毎日のように空はすみずみまで晴れわたり、見上げる人々の心を躍らせます。樹々はいっそう力強く枝葉をのばし、花は色とりどりに咲きみだれます。
 廊下を一人、歩きます。侍女服、つまりすその短いワンピースとエプロン、ストッキングに頭飾りといういつもの服装に着替えていました。首輪がむき出しになります。この格好をいやだと思いながらも、すでに肌になじんでいます。
 執務室に向かっていました。ヘイム達が帰ったのを確認して、お嬢様に礼を言いに行こうと思ったのです。結果がどうであれ、あの場を持てるよう、とりなしてくれたのですから。
 頭の中ではヘイムとの対話が、断片的に、何度もくり返し響いています。
 お母様のこと、父親のこと、最後の問いかけ――
 分かりません。
 なんにも、分かりません。
 お母様のことも、ほとんど分かりませんでした。ヘイムの言ったように、よくある話です。世間知らずの娘と、血気盛んな若者の恋物語。おとぎ話であれば、幸せな結末になったでしょう。しかしおとぎ話の住人達は、何も語ってくれません。ましてや不幸な結末であっては。
 何を思ってルディを産んだのでしょう。おじい様達に逆らってまで――結局、信じて約束した人には裏切られ――何を得たのでしょう。
 お母様がまだ生きている内に、六年前に、もっと色々聞いてみるべきでした。しかし自分は今より幼く、無知でした。おびえながらの暮らしを、それでもお母様のあたたかさに包まれて、永遠に続く安寧あんねいだとあまんじていました。
 腹の中の石はほどけるどころか、ますますり固まり、代わりにささやくのをやめました。ただ重く、もはやそこを動こうとしません。しくしくと痛みます。
 ヘイムの顔が脳裏に焼きついています。
 ここに来て救われたと、ほんの少し前の自分なら、そう答えられたでしょうか。でももうこれが救いではないことに、気付いてしまいました。
 比べて、ここにいる方がましだからと、自分を納得させれば、この苦しい思いは消えるでしょうか。
 分かりません。
 日にさらされた廊下がいつもより長く思えました。遠く、かすんで見える向こうに、知った姿を見つけます。背の高い女。
「エヴァさん」
 彼女はルディの姿を認めると、こちらまで歩いてきました。前に立ち、言います。
「お嬢様から、貴方をお連れするよううけたまわりました」
「お嬢様の所にですか? 今、お礼を言いに行こうと」
「いいえ、別の場所です」
 彼女のあとに従いながら聞きます。
「何があるのですか?」
「トレントからの荷の一つを、貴方に見せるようにと」
 連れていかれたのは、祈りの間でした。城館とは別棟の、大きな聖堂です。まつられているのは国や辺境伯家を守護する偉大な神様達で、祈るためだけではなくて、偉い人達の集会をするときなどにも利用されます。
 分厚い石の壁に囲まれた室内は、夏の日差しを一日中浴びたあとでも冷たく、しんとしていました。
 祭壇の火だけがゆらめいています。火をともし続ける役の老人は、今は姿が見えません。がらんとした建物の中、床の上に、長細い大きな箱が置いてありました。
 土のにおいがします。一度ていねいにふいて、それでも木目にしみこんで落としきれない土のにおい。箱を構成する板は、半ばちかけていました。
 大きさ、形――それがなんであるか理解して、まさかと思います。本能的に恐ろしいと感じ、しかし目がそらせませんでした。エヴァが自分をここに連れてきた理由はこの箱に違いありません。一歩、二歩と近よって、箱の表面に目をこらします。焼き入れられた文字はかすんで――しかしきっと、こう読むのでしょう。
「ローテ」
 女の名前。
「貴方のお母様のひつぎです」
 静かにエヴァが告げました。
「お嬢様がヘイムに命じて探させ、この城まで運ばせました。報告では、貴方の生家の墓地の、片隅にあったと」
 彼女がしゃべるのも、半ばは耳を通り過ぎていきます。
「中は――変化、、が進んでいます。心得こころえがなければ見るべきではないでしょう」
 ひつぎのふたは、釘が外されていました。見なくとも分かります。土とちた木のにおいの中に、乾ききった肌のにおいがしています。
「お母様――――」
 その場に、ルディは崩れ落ちました。ひつぎのふちにとりすがります。
「お母様――お母様――お母様――」
 言葉にするたびに、涙がこぼれ落ちます。
 もう一度会えたら訴えたであろうこと――つのらせていた思いは、今、霧散むさんしました。そのひつぎを見て。
 名前と並んで、日付――六年前の――それから、昔あの家の祭壇で見たしるしが、焼き入れられていました。家の神様のしるし
 自分のためには決して開かれなかった祭壇。お母様が毎日のように祈っていたもの。それが、お母様のひつぎに。
 許されたのです。
 お母様は許されました。最後は、あの家の一人として、おじい様やおばあ様は許してくれたのです。野ざらしにされることもなく、ひつぎに名前を刻まれ、家の墓地に、ちゃんと名誉ある死者として葬られたのです。
 可哀想なお母様。幸せなことだと、良かったとは、とても思えません。不幸な結末でした。しかし彼女の祈りは本当の最後にむくわれたのだと、思ってはいけないでしょうか。
 それが、それが、あまりに遅いことでも。


 長いこと、ひつぎのそばでルディは泣いていました。エヴァは立ち去り、西日もいつの間にか姿を消していました。
 祭壇の炎だけが部屋を照らしています。
 手足が石のように冷たくなって、ようやく顔を上げます。手のひらで、ひつぎをなでます。
「お母様……」
 お城の話をしてくれました。
「おかあさまは、お城に行ったことがあるの?」
 幼い自分は聞きました。見上げる先で母は、少し困ったような顔をします。
「いいえ、お母様はないわ。行ってみたい?」
「すてきなところなんでしょう?」
 母は優しく笑い、なぐさめるように頭をなでます。
「あなたならきっと行けるわ」
「そうなの?」
「そうよ」
 自分が手をのばすと、抱き上げてくれます。
「いつかここを出たら、ルディは好きな所に行けるのよ」
 明かりとりから二人で空を見ます。わずかに見える空に映るものをなんでも、母は教えてくれました。雲、虹、渡り鳥、木々のこずえ。それらを一つ一つ、思い出します。
「お母様」
 呼びます。
「ここがお城だよ……僕達は、お城に来たんだ……」
 答える声がなくても、語り続けました。


 夜はとっぷりとふけました。
 何度もうしろを振り返りながら、祈りの間を出ます。どうか祭壇の炎が、ひつぎを見守ってくれますように。
 城館の階段をのぼり、奥まった部屋へと向かいます。扉をノックすると、返事がありました。名乗ってから、ゆっくりと開けます。
 お嬢様はソファに座り、ランプのあかりで本を読んでいました。部屋着を着てくつろいだ様子で、手元にあるのは見慣れない文字と図の入った、魔術の本でしょうか。夜を共にする人は、今日はいないようです。
「今日は本当に、ありがとうございました」
 その前に立ち、頭を下げます。さんざん泣いた目がれていることは、ランプのあかりでは分からないかもしれません。しかし、かすれた声はごまかしようがありませんでした。
伯父おじと話をすることができました。それから……母のこと……」
 口にすると、またこみ上げてくるものがあります。
「……ありがとうございます」
 なんとかそれだけ伝えました。
 お嬢様は微笑みます。
「あのひつぎをどうしたい? お前が望むなら、この町のあるべき所にえてやろう」
 恐ろしいほど慈悲深い提案です。
 ルディ自身も考えていたことでした。あの場所にあのままにしておくことはできません。町の墓地に墓ができれば、いつでも行けるでしょう。そばにずっといたいという思いはありました。
「もし、許されるなら……」
 複雑な思いで、答えを口にします。
「今すぐでなくても、トレントへ戻していただけませんか」
 少しお嬢様を眉をひそめます。あの家で自分達が受けた扱いを思ってのことでしょう。
 ルディは頭を振ります。
「いいんです。母は、家族を愛していました。家族もきっと……最後には、母を許したのでしょう。だから、そばにいさせてやってください」
「お前はそれでいいのか」
「はい」
「そうか」
 お嬢様は納得したようにうなずきました。
「ではそうしよう」
 微笑んで、なんでもないことのように言います。
 静かな夜ふけの空気の中であっても、自分の心に強く響くものがあって、ルディは胸を押さえました。
 こうして、向き合って会話するのは、あの日以来のことです。それまでは夜が来るたびにこの部屋を訪れ、日中の出来事を報告していました。何を習ったか、何を見聞きしたか、感じたか――。そのときと同じ気持ちで、今さらいることはできません。どこか距離を置こうとする自分がいます。
 それでも、聞かざるをえませんでした。
「どうして、母のひつぎをここまで持ってきてくださったのですか」
 聞かなければよかった、と言ったはしから後悔します。答えがどうであれ、聞けばおそらく平静ではいられないでしょうから。
 ほら、その人が口を開きます。
 笑うのをやめ、ルディをじっと見ます。唇をわずかに開き、しかし言葉にはできず、沈黙します。
 珍しいこともあるものです。どうにかそのままとどめておくことはできないかしらと、考える内に。
 あるいはたぶん、その答えを知っているので。
「お前が喜ぶと思った」
 また、突き倒されるように感じました。


 夜、自分の部屋で、ベッドのふちに腰かけます。久しぶりの感触です。その上で寝られなくなってから、もうずいぶんと経ちました。夏用の上掛けをなでます。
 今日は様々なことがありました。伯父おじという立場の人に初めて会いました。話をしました。彼の語る、お母様のこと。彼の背負う罪悪感。家の人々。お母様のひつぎ。ちゃんと、埋葬されていたこと。家のしるしを刻んでもらっていたこと。
 そういったことを以前だったならば、あの人に語って聞かせたのかなと思います。たどたどしく自分が話すのを、あの人は笑って聞いています。
 ベッドに、放り出されるようにルディは倒れこみました。
 やわらかく自分を受け止める感触に、目頭が熱くなりました。


  ***


 帳面をめくって、香茶のれ方を探します。これはと思うものを見つけて、蝋板に書き写します。
 城の裏手にある菜園では、今とばかりに様々な香草が生い茂っていました。香茶にするのに適当な芽を、園丁のフレネルに聞きながらみます。
「お嬢様は、小さい頃から香茶をよく飲んでおられたのですか?」
 無口な老人は黙ってうなずくだけでした。
 香草の入ったかごを持って、厨房によります。湯を分けてもらってから香茶室に戻ると、北向きの部屋の静かな空気が迎えました。
 帳面に書いてあったとおりの配分で、ポットに若芽を入れます。湯をそそぐと、とたんに鮮やかな赤に染まりました。甘酸っぱい香りが広がります。
 試しにカップに入れて、口にふくむと、熱くて味どころではありませんでした。
 あの人は、とびきり熱い香茶が好きです。よく火傷やけどをしないものだと驚くくらい。だから香茶が冷めないように、ポットに羊毛の編み物をはかせます。“靴下”と帳面にならって、呼んでいます。
 ああ、最初はこの作業は慣れないものだったと、不意に思い出します。
 連れてこられてすぐのことです。きれいなポットや飲み物にさわるのは自分にとっていけないことでした。怒られるのではないかと、手がふるえました。いつ怒鳴られるかおびえていました。
 あの人のことを、恐ろしいと思っていました。
 あの人の肌にふれるのが恐れ多くもありました。
 先になじんだのは手の方だと思うのです。毎日のことですから。上着を広げ、そでを通して、紐を留める。いつの間にか、あの人にふれるのが平気になっていました。
 手がなじんで、心がなじんだのはあとのことでしょうか。とにかく自分で自覚したのはそうです。あの人がいないのを寂しく思って、それに気付かず、戻ってきたときに初めて思い知りました。
 体を、ふれられるのをとうとう受け入れたとき、それを幸せだと感じていました。
 そうやって積み重なった思いが、あの日打ち砕かれて、すべてが最初から裏切りだったと理解して、今ここにいます。
 いきどおりと、ややかな気持ちとが、あの人を見る目に加わりました。
 侍女になると、何度か口にしたことを覚えています。自分の口で、しかし自分の意志だったかどうかは――必要にせまられて、と言うほかありません。他に道はなかったのですから。
 力強く、恐ろしい太陽。逆らうことはできませんでした。その栄光の道は、血と暴力でいろどられています。照らす光の強さに目がくらみました。
 それをあたたかく感じるようになった頃、月のように、一人で夜に浮かぶ姿が見えました。大きな母月ははづきと、小さな子月こづき母月ははづきのようだと思うこともあれば、子月こづきのようだと思うこともありました。
 雲でかげり、かすむこともありました。傷つき血を流し、地に伏しても、また昇り、輝き始めます。
 心が通ったと思える夜を越えて。
 どんなときでも。初めて香茶をほめられた日以来ずっと。
 この香茶であの人が喜ぶといいなと、思います。
 日々のせわしさから、荒々しさから、心ないそしり、、、から離れて、いこう時間になればと思います。
 それだけは変わらなくて、だからこんなに苦しいのでしょう。
 ひどい人です。
 すべてを与えてすべてを奪っていきます。追いつめて、わざと作った逃げ道に誘いこみます。
 優しいふりをします。もったいぶって、人の気持ちをゆさぶって、最後に手をさしのべて、それがただ一つの正しい道だと思わせて、笑います。


  ***


 短い夏が終わろうとしていました。冷たい風が吹き、秋のにおいを運んできます。春きの小麦は金色に輝き、刈り入れのときを迎えています。
 いっときの勢いを失った朝の光の中で、その人にふれます。腕を回して胸当てを留めます。シュミーズを引っ張り、ズボンにたくしこみます。手のひらで上着によったしわを払います。指先でえり元を直します。
 自分の手は前と違う意味を持っています。
 許さなくていいとその人は言いました。何度もその言葉をくり返し考えています。許されず、彼らは死にました。死んだあとに、お母様は許されました。
 どうしてそう言った人間の手に、体を許すのでしょう。あなどられているのなら、不思議はありません。何をしようとしても、簡単にひねりとられるでしょうから。
 許さなくていいと、言いました。
 心はずっとちぐはぐなままです。深いところで相反するものがせめぎ合い、表面はなぎのように平坦です。上辺うわべだけのそつのないやりとりでを埋めようとします。むなしいことです。
 再び日々は、何事もなく過ぎようとしていました。ゆるやかに自分を取り巻き、足元をすくおうとする流れを、手をのばして押しとどめます。
「お嬢様」
 呼びます。
 執務室には、夕日が赤くさしこんでいました。長引いた会議のせいで、いつもより遅い時間に香茶を運びました。ポットに靴下をはかせて、とびきり熱く。えるのは、薄切りの黒パンでハムをはさんだもの。
 その人はカップを手にとり、口元に運びます。
「良い香りだ」
 わずかにほころぶ口元に、いだく思いがいつまで経っても変わらないので。
 こんな気持ちのまま、ここにはいたくありません。
「お嬢様」
 座るその人に近づき、顔を覗きこみます。赤い眼が自分を見上げます。
 胸の内を明かすその言葉は、半ばのあきらめと、半ばの決心でできていました。
「あなたを、愛してしまっていいですか?」
 その目が見開かれます。血の色をした双眸そうぼうを、ルディは見つめ続けました。
 答えを待ちます。
 先に視線をそらしたのは、相手の方でした。おかしそうに笑って、まだ香茶でなみなみと満たされたカップをテーブルに置きなおします。
「似たようなことを言った女がいた」
 それからまた、ルディを見上げます。尖った牙のあいだから、赤い舌が覗きます。
「その女はもう死んでしまったから、可哀想に、お前も死んでしまうのだね」
 世界がきしみました。音をたてずに。
 何もないところが斜めに裂けて、ずれていきます。目が半分、かたむきます。体がどんどん落ちていきます。足がないから。のばした手の先で指先だけが離れて宙を舞います。とても静かです。
 心臓は動くのをやめました。
 その人は笑っています。
 どうして笑うのかしら、と不思議に思います。おかしいでしょうか。そうかもしれません。自分はあまりに非力ですから。
 あのときと同じに笑います。あのときも笑っていました。抱きしめる手を押し返したとき。優しく笑っていました。
 (この人の悪い癖だ)
 笑ってみせるのです。
 手をのばします。
 今度こそ今度こそ
 その人にふれます。ふれた先から砕けて、血の飛沫ひまつが泡となって浮かびます。手のひら、手首、ひじまで、崩れるより早く――その人を抱きしめました。