第十二幕

  一 『痛み』

 体が燃えています。内側から赤く、炭のように。
 黒く焦げた表皮は無数にひび割れ、赤い裂け目を覗かせています。全身あますところなく焼きつくされています。うめこうと息を吸うと、灼熱の空気に肺まで焼けつきます。
 痛みだけが手足を輪郭づけます。
 立っているのか横たわっているのか――真っ逆さまに、落ちていく――――どうか二度と目覚めませんように。
 すぐさま痛みが意識を揺り起こしました。頭を金槌で殴られるような衝撃が意識を粉みじんに打ち砕きます。それらが自分を完全に破壊しつくした頃、ようやく気を失います。
 ここはきっと地獄でしょう。
 同じ責め苦があと何年何百年続くのならば、早く気が狂ってしまうことだけが唯一の救いでした。
 また痛みに目を覚まします。
 指も手足もばらばらにされて最後に痛みに気を失う。地獄の車輪が自分をきつぶしながら回るのになすすべも翻弄されて、何度目でしょうか。意識が正気の域に浮上したわずかのあいだに、声が聞こえました。遠く、地底から地表を見上げます。
 調子の外れた、かん高い女の声。
「ですから侍女頭殿、彼のことです。あの方が彼を手放されたのですから、我々が彼を手に入れてもなんら問題はないでしょう?」
 答える声は冷静でした。
「彼は死にました。あのお方がそうおっしゃったのです。ならば死体を得る権利は私にございます」
「ふむ……なるほど。死体であれば貴方の管轄にあるというわけですか、屍術士殿。
 どうにも私めには合点が行きませぬ。なぜそのように彼に肩入れなさるのか。彼の存在が魔術の、ひいてはこの辺境伯領の進歩に寄与するであろうことはよくご存じでしょう。貴方は理性的な方だと存じておりましたが」
「あの方のお心のままに。ご退出願います、魔術技官長様」
 ああやはり自分は死んだのです。死んで地獄に落ちたのです。罪のために責められているのです。
 いったいどんな罪を――――
 考える内に意識は、絶え間ない痛みで千々に引き裂かれていきます。
 再び目覚めることをくり返して、だんだんに自分が何者であるかを思い出しました。
 体の芯をつかまれ、揺さぶられながら、剥落はくらくしたかけらを拾い集めます。痛みの正体をつかもうとします。これが自分のどのような言行げんこうの結果なのか。
 やがて、これが罪に見合った罰ならば、甘んじて受けるべきだろうと、思い始めました。
 あれが罪であったと言うならば。
 指先を動かすとちぎれるように痛みます。にぎりしめ、胸元までよせ、体を丸めます。骨が音をたてて砕けていきます。曲げた背中が耐えられずに裂けていく。肉が赤く露出します。
 歯を食いしばりました。


 次第に意識は、覚醒の回数を増やしました。
 そばに立っている人がいます。のどが焼けつくように乾いていました。手をのばします。
 彼、あるいは彼女は何も言わず、自分の口元に濡れたふきんをあてました。その人が手をにぎると、冷たいしずくがしたたり落ちます。舌先からのどまで伝うあいだすらももどかしく、飲み下します。
 体が熱くなりました。
 痛みによるものではなく、生への実感からです。
 生きている。生きています。
 ベッドに横になっていました。ランプに照らされながら自分の様子をうかがう人は――目だけを出して、全身を衣服におおわれた――エヴァの助手です。
 したたり落ちるしずくを何度も飲みこみます。口をすぼめて、吸いつきます。
 のどがうるみ、むせこんだ衝撃に、気を失いました。


 次に目覚めたときには、彼女がそばに立っていました。顔の上にかざされたランプの光が、目の奥に焼きつきます。
「やはり貴方は、死なないのですね」
 彼女の言葉に反して、ルディの確信はゆらぎました。目に明らかな事実を確認するような――そういう物言いを、普段しない人です。
 問いただそうと口を開き、むなしくもがかせる内に、また意識は闇に飲まれました。
 深く底で考えます。
 自分のしたこと、その結果、彼女の、彼女達の言葉。
 吐いたあぶくはまっすぐに上へと向かっていきます。


 再び目を開けて、彼女の顔を見たとき、ランプはベッドわきの台に置かれていました。
「う……」
 乾いた唇は貼りついて、うまく動きません。舌先で湿らせます。それすらも満足に濡れてはいません。何度かわななかせて。
「いったい何が……起きたのですか……」
 答える声は奇妙に冷静でした。
「貴方は死にました。お嬢様に殺されて」
「……ではなぜ、僕は今生きているのですか」
 それとも、死ぬとはこんな気分なのでしょうか。死体となって、彼女に操られているのでしょうか。彼女の助手達のように。ああでも彼らがこんな風にしゃべるのを聞いたことがありません。
 彼女の物言わぬ助手達が死体であると――知ったのはそう最近のことではありません。彼女の故郷ではよくあることだと、ことさら説明を必要とする事態ではないようでした。ただ彼らの異様な静けさに納得がいくだけで――またそれはエヴァの持つ、氷のような冷たさに通ずるところがありました。
 今同じことが、自分の身に起きているとは思えません。体の芯は熱を持っています。生きている証です。
「貴方がこのたびも死ななかったということです」
「どういうことですか……?」
 彼女は首をふると、ルディの顔を手でおおいました。
「今は眠りなさい。食事がとれるようになれば、答えましょう」
 また意識は闇に絡みとられていきます。必死でルディは手をのばしました。


 鼻から頭の奥へ、揺さぶるようなにおい。目を覚まし、体を起こします。襲いくる痛みとめまいはわきに押しやりました。差し出された粥の椀に手をのばします。手袋をはめた助手の手でした。
 ゆるい粥を、ひとさじ口に入れ、むせながら飲みこみます。もうひとさじ。次第にもどかしく、椀をかたむけて中身を口にそそぎます。
 飢えたことは何度もあります。ほとんど毎日飢えていました。それでも、ここまでむさぼりついたことはありません。
 ぐるぐると動く胃からこみ上げてきそうなのを、手で押さえて、飲み下しました。かたわらに立つ助手をにらみつけます。
 助手は空の椀を持って部屋を出ていきました。
 暗い部屋に取り残されます。ここは地下でしょう。エヴァの私室のその奥。かつては牢として使われていた場所を彼女はゆずり受けたそうです。
 壁を背に息をつきます。痛む腹をなでます。エヴァはすぐ来るでしょうか。食事がとれれば話すと言いました。
 渇望は、体ではなく心から来ています。彼女の言葉の真意を聞きたい――その思いが自分を突き動かしました。
 待つあいだに少し、眠ったでしょうか。物音に目を開けると、エヴァがランプを手に、部屋のドアを開けたところでした。
 無感動な眼差しでルディを見ています。無性にけだるく感じましたが、首を起こして彼女を見据えます。
「教えてください……あれは、どういう意味ですか」
 エヴァは台にランプを置くと、そばのイスに腰かけました。
「貴方は、自分の体の持つ特質を意識したことがありますか」
「特質? なんのこと……」
「魔術の感覚を持つ者によると、貴方は魔術に対する感応が非常に高いか、あるいは非常に鈍いか、どちらかであるそうです。しかし貴方自身が魔術の才を持つわけではない」
 まったく身に覚えのないことです。魔術については、この城に来てから知りました。それまでは物語の中で魔法使いや魔女のことを聞いたくらいで――
「貴方はその特質により、何度も死すべき定めを乗り越えてきました」
 耳を疑います。ルディの動揺を置きざりに、エヴァは話を続けていきます。
「最初は、お嬢様が貴方を見いだされた瞬間――本来ならば貴方は、あの場で、貴方の祖父と同じように死んでいたはずです。あの方はそのつもりで魔術を放ったと。しかし貴方は生き延びた。そのことであの方は関心を持たれ、貴方を城に連れ帰った。
 二度目は、奥方様の離れへ参ったときです。奥方様を隔離する理由は、表向きはご病気のためですが、実際には非常に強力な死の呪いが、あのお方の意志に関わらず周囲に振りまかれるためです。貴方と奥方様が直接まみえたことはただの偶然ですが、貴方はまた特質を示した。奥方様の侍女からの報告によると、貴方は生身で奥方様のお声を聞いたそうですね。彼女が身につけているような魔術的な防護の手だてなく、奥方様のおそばで生き延びた人間はいません」
 侍女の、複雑な文様の入った服――垣根から見える腕だけの兵士――力なく放り出された――
「そして今ひとたび、貴方は生き延びた。今回の件です。お嬢様は貴方を殺したと、おっしゃいました。現に貴方は致命的な神経の損傷を負っていた。しかしすでに回復しようとしている。
 魔術への感応性は私の理解の範疇ではありませんが、医術士として見るならば、貴方の肉体を含めての特質のように思えます。怪我からの回復が常人より早い。どのように虐げられても次の朝には立っていられる程度に。
 死に直結するものでなくても、貴方は何度か魔術の作用を自力で打ち払っています。眠りの粉を受けたとき、幻術をかけられたとき。
 魔術師達は、貴方の特質が純白鉱石と関連するものだと主張しています。純白鉱石の産出する地では、ときおり貴方のような奇形が産まれると。貴方の父親は鉱夫として、純白鉱石の影響を受けやすい環境にあった」
「父のことを、どうして……?」
 だれにも話していません。エヴァは答えませんでした。
「貴方の母親の死体を検分しました。変化が激しく見極めは困難でしたが、形質的には異常は見られませんでした。純白鉱石と貴方の特質に関連があるとして、それは貴方の父親から影響を受けたものかもしれません」
 彼女の言うところの死すべき運命について――どれも実感はありませんでした。ここではまるで市場にあふれる売り文句のように死が並べられ、いかにも薄っぺらく聞こえます。魔術も呪いも理解できるわけではありません。死ぬほどの目に遭っても、なんとか耐えてきた――自分に残るのはその事実だけです。
 しかし今をもって、彼女の言葉を他人事のように聞くことはできなくなりました。
「お母様を……どうしたんです?」
 口調にははっきりと非難がこもりました。眉根に力がこもります。
 しかしルディを見るエヴァの美しい顔が揺らぐことはありませんでした。
「貴方の母親の死体を解剖しました」
 恐るべき一言を告げます。
「私に罪悪感がないことは以前伝えたとおりです。今まで内心に多くの秘密を抱えながら、貴方と接してなんの呵責も覚えなかった。そして今でさえ、私は平静です」
 陶器でできた人形の方がまだ生き生きと見えるでしょう。彼女の白い肌の一枚下に熱い血が流れているからこそ、この上なくおぞましい存在に思えます。
 自分の声がふるえるのは、怒りのためか恐怖のためか分かりませんでした。
「じゃあどうして……今僕に、すべてを明らかにするのですか。どうして僕を魔術師達に渡してしまわなかったのですか」
 扉の向こうから聞こえた声。自分をよこせと主張する魔術師を、彼女は追い返しました。自分の体が、特異的なものだとして、確かにそれは魔術師達にとっては研究に値することでしょう。偏屈な魔術師達が自分の体をどのように扱うか――想像したくもありません。
「私は、あの方のお心のままにお仕えするのみです」
 決まりきった文句です。
 拳をにぎりしめます。しわの一筋一筋が裂けているかのように痛みます。
 彼女がよく口にする言葉で、しかしこの上ない真実をいつも語っています。
「ではそれを理由に――お嬢様の名によって、僕は貴方を信じましょう」
 はじめから分かっていたことです。彼女が他人に見せる親切は機能的なものです。物事を円滑に運ぶために人に親切にします。彼女の心に情らしきものはなく、主人のためならだれ相手だろうと、どんな嘘でもつきます。
 だから信頼していました。
 あの人への思いだけが彼女を人らしくさせるのです。
 知らずの内に、涙が流れ、落ちていきました。
「お嬢様は……僕を、殺そうとしたんですか」
 背骨が痛みだします。頭も、手も足も。これはやはり犯した罪への罰でした。
「そのように聞いています。私が執務室に呼ばれたときには、貴方はもう倒れていた。瀕死の状態でした。いずれ死んだときの処理が私に任されました」
 体がばらばらになっていく感覚を、覚えています。実際にはそうでなかったとしても。そうなったと思えば人はたやすく死を迎えるでしょう。開いた手を見下ろすと、皮一枚をはがれたような激痛が広がります。ありとあらゆる痛みがここにあります。
 エヴァは少しのあいだ黙ってルディの様子を見ていましたが、やがて口を開きます。
「あの場で何があったのですか」
「僕は……あの人を……」
 両手でルディは顔を覆い、うつむきました。
「あの人が、僕が喜ぶと思ったと言って……僕もずっと同じ気持ちでした。あの人が怖くて、憎くて、でもどうしても……その気持ちが消せなかった」
 間違った感情だと分かっています。道理に照らしても、理屈に照らしても。
 今では、自分を喜ばせるために母親の棺を運んだはという言葉さえ嘘だったのかもしれないと、恐れています。本当は自分の出自を探るために運ばせただけで――自分の心を、もてあそぼうとあの場に行かせたのかもしれません。
 自分に見せる顔と裏に秘める陰謀が釣り合わないことはあの日から気付いていて、今新たにそれを突きつけられました。色々なことが、自分の特質を試すための策略だったのかと、問いかけの一つ一つすら疑わしく思い返されます。
 しかしどれほど裏切られても。自分を突き落としながら救いあげるあの人が。それでも。
「あの人を愛してしまいました」
 地獄と錯覚するほど痛めつけられてなお、そう口にしてしまうほどに。
 自分に言い聞かせるようでもありました。
 眉一つ動かさずに自分を見つめるエヴァに、語り続けます。
「それを、あの人に伝えて……そうしたら、僕のような女がいたと…………その人は……もう、死んでしまったのですね。だから僕も、死ぬのだと」
 どこで何を間違ったのでしょう。言わないまま胸に秘めて、城を去ればよかったのでしょうか。しかしこの思いに気付いてしまえば、言わないままではいられませんでした。では、気付く前に? もっと前、幸せだと思い違っていた頃に? どこまでさかのぼれば、間違えていないときがあるのでしょう。
 いいえ、はじめから。はじめから何もかも間違っていました。はじめから嘘だったのですから。
 顔を覆う手を、しかし最初のひと粒が落ちたきり涙は出なくて、ルディはひざの上におろしました。
「どうして、お嬢様は…………死んだ女とは、だれのことですか」
 しばらくの沈黙。エヴァが答えるのを、ルディは待ちました。
「貴方を見ていると、ときおり彼女のことを連想することがあります。私の前任者です」
 香茶の帳面をなでる手つきを思い出します。
「……リズさん……ですか」
 園丁のフレネルに、たずねたことがありました。帳面を記した者を知っているかと。少しあとに、フレネルは教えてくれました。とても懐かしそうな声で、その場にいない者を語る口調で。
 エヴァに特別驚いた様子はありませんでした。
「この城に長く仕えるものならば、覚えている者も多いでしょう。彼女は幼少期のお嬢様にお仕えしていました」
 そして死んだ。
「教えてください、その人とお嬢様のあいだに何があったのか……」
 再びの長い沈黙のあとに、エヴァは語り始めました。




  二 『侍女』

 幼い少女の声がする。
 ひっきりなしに一つの名を呼んでいる。それは当時の城内では、毎日のように聞かれる声だった。
「リズ。リズ」
 呼んでいるのはこの城の姫君で、呼ばれているのは姫君の侍女だ。たいてい侍女はすぐに見つかる。部屋の中から、廊下の向こうから、窓の外から姫君の声を聞きつけては、こう答える。
「はい。リズはここですよ。どうしました、私のかわいいお嬢様」
 広げた両腕に姫君は転がりこんだ。
 遠い都の宮廷では、高位の子女の侍女を勤めるのはやはり高い身分の女と決まっているが、この城では城下の町娘が選ばれた。親が城に出入りの商人であることがきっかけで、体が丈夫で、病気一つしないことがもっとも高く評価されたと、本人は笑って言っていた。
 姫君の父親である城主は、一人娘を自らの後継者と目算しているようだ。娘であるにも関わらず、姫君は一度たりともスカートをはいたことはない。男のようにズボンをはき、剣を手にとり馬に乗った。同時に王族の血をひく彼女は――姫君の母親は王の娘だ――魔術の才も持っている。戦士、魔術師、そして為政者としての教育を平行して受ける姫君に自由になる時間はほとんどなかったが、合間をぬっては侍女の姿を探しに行く。
 姫君は七才、侍女は十三才。身の回りの世話もさることながら、かっこうの遊び相手でもあった。
 今は使われなくなった物見の塔の上が、彼女達の気に入りの場所だった。夜になると、毛皮のコートや毛布を背負い、温かい香茶を手に塔にのぼった。星を見るのだと。その下を通りがかるとはしゃいだ声が聞こえる。
「あれが天馬座、南の天柱の勢いに関係する。あの火星が、今日生まれた人の運命を左右する」
「まあ、そうなんですか。お嬢様は物知りですね。私の自慢です」
 たいていの遊びに侍女はこころよくつきあった。庭に出てお茶会もしたし、城中を使ったかくれんぼには称賛に値するほどの根気強さを見せた。望まれればほうきを手にちゃんばらもしたが、これはやがて成長した姫君の方から誘わなくなった。
 母という存在を知らない姫君を、侍女が哀れんでいたのは確かだ。母のような姉のような役割を自認していた。しかし彼女はそれ以上に、まっすぐな人間だった。本来侍女として求められる知識や教養、礼儀作法について、ただの町娘が身につけられる以上のものは持たなかったが、いつも姫君に正面から向き合った。
 姫君には、同じ城に育つ二つ年上の従兄がいた。姫君を主人、従兄を従士として主従の関係にはあったが、お互い非常に慣れ親しんでいた。
 その気安さが災いすることもあった。
 もともと家系として苛烈な性質が色濃い。その上加減を知らない子供が、ささいな行き違いを、文字通りに牙を剥き合うとっくみあいに発展させることがしばしばあった。うかつに手を出せば引き裂かれるから、大の男でさえためらうやり合いのあいだに、侍女は割って入る。
「いい加減になさい! まさかこんなつまらない争いに命を投げ出すつもりですか? あなた達はこの城のお姫様です。王子様です。酒場のケンカでナイフを持ち出す、つまらないよっぱらいではありませんよ!」
 猛犬のような子供二人を、その場に座らせ説教をした。
 真剣に怒り、真剣に笑った。愛想笑いはしなかった。屈託なく、大きな口を開けて笑った。香茶が好きだった。姫君をすっかり自分の趣味に巻き込むと、空いた小部屋を香茶専用の部屋にした。だれにでも気前が良く、親切だった。強い者には物怖じせず、弱い者には慈しみ深かった。異邦の者も奴隷も分け隔てなく接した。
 よく言った。
「大丈夫です」
 その言葉が気休めだったことはなかった。
 ふと、その顔を曇らせることもあった。
「お嬢様、ご機嫌をなおしてくださいな。ほら、まるで小さな赤ちゃんみたいですよ」
 いくらなだめても、甘いものを差し出しても、一度曲がった機嫌はなかなかなおらない。特にこの姫君は意固地だった。赤い頬をふくらませてそっぽを向き、一言もしゃべらない。
 いつもからして、不機嫌そうな顔をしている。笑うことはあまりなく、眉根をよせて、前をにらみつけている。大きな目は血の色をしていて、見るものを射すくめた。
 姫君のこの子供らしからぬ無愛想さについて、彼女の複雑な立場を考えれば無理のないことだった。
 母は出産により幽居の身となり、母と娘はふれ合うどころか、あいまみえたことすらない。姫君は母親の愛情を知らない。
 その母から魔術師の血をひいているが、父は辺境伯といえども魔術の才はない。姫君を教授する魔術師達は、純血を尊び、混血を蔑視していた。
 そして辺境伯位の女子への継承は認められていない。父である辺境伯が姫君を後継者と名指したことはないから、表だって反発する者はいなかったが、そうでなくとも姫君を男のように育てることへは、堂々と苦言を呈する者もいた。
 姫君は哀れまれ、さげすまれた。
「かわいそうな姫様。お母様があれではね……」
「いくらご母堂の血をひいても所詮は混じり物。魔術の真髄など学べるはずがない。いくら辺境伯に取り入るためとはいえ、大魔術師殿も無益なことをなさる」
「辺境伯様も酔狂なことだ。女児にあのように男の格好をさせるなど」
「なに、いつものお気まぐれさ。まさか本気で辺境伯位を継がせようなど、いくらあの方でもそこまで道理知らずではないだろう」
 だれもが上辺だけは従順にとりつくろい、姫君の預かり知らぬところでそしりあっている。城中に渦巻く嘘と陰謀を姫君が感じとっていたとしても、不思議はない。
 何者にも気を許すまいと目を見張り、意固地さは身を守る盾だった。
「姫よ、ここにいるのかね」
 しかしその一声で、姫君は顔を輝かせる。
「父上!」
 両腕を広げて、声の主めがけて駆けていく。
 年の半分以上は遠征と外交のために不在である父親が、不意に帰ってきたのだ。跳びつき、望み通りに抱き上げられると頬をよせる。
「おかえりなさい父上」
「愛しい姫よ、息災で何よりだ。しかしわしがいないからといって、侍女を困らせていけないよ」
「いいえ、いいえ……」
 もどかしげに姫君は首をふり、しかし最後には殊勝にうなずいた。
「はい」
「いい子だ」
 娘の頬に父親は口づける。
 その様子をながめながら、侍女は不安そうに呟いた。
「やはり、親子の愛情に勝るものなどないのでしょうね。でも、城主様は……本当にお嬢様を……」
 残りの言葉を彼女は呑みこむ。
 辺境伯が一人娘にかける愛情は非常に深いものであったが、同時に父としての厳しさに満ちたものでもあり、そしてときに、容赦のないものであった。
「お嬢様を見ませんでしたか、朝からずっと、見つからないんです」
 息を切らせて、侍女は城中を探し回っていた。最後に姿を見たのは女中の一人で、辺境伯と彼の侍従数人と、連れ立って庭を歩いていたと。
 庭の一角に、掘り返された跡があった。
 すぐさま庭師を呼んで掘り起こさせると、ふたの閉められた樽と、中に姫君が両手足を縛られて入っていた。
 姫君は青い唇を引き結び、前をにらみ続けていた。
 手当てが終わり血色が戻ると、姫君は語った。遊びと言われたと。
 この家の者達は深く愛しあい、深く憎しみあう。血によるものか慣習によるものか。それがどこから始まったかは定かではない。呪いだと言う者もいる。代々王家に仕える将として鬼神のごとく戦い、流した血の報いだと。幼い身にも例外ではなかった。矛盾は深く降りつもる。
 姫君の運命は過酷だった。凶事は数え切れないほどふりかかった。辺境伯領はイブリール王国の最東端として外敵にさらされていたし、国内では国王派と諸侯派の争いが絶えなかった。
 十歳になると、姫君は父に付き従って、小規模な戦闘に随行するようになった。近衛兵に守られ前線に出ることはないはずだったが、不意に敵の斥候と接触し、打ち払ったものの、負傷した。
「なんてこと……」
 帰還した姫君の頬の傷を見て、侍女は涙を流した。その涙をすくいながら、姫君は首をかしげる。
「どうしてリズが泣くんだ」
「痛いでしょう……?」
「痛いのは私なのに」
 侍女はのどをつまらせながら答えた。
「悲しいからです……くやしいからです。自分の大切な人が、こんな目にあって……」
 その理屈が理解できないと、姫君はわずかに首をかしげた。物事の道理については、おそらくそこらの大人以上にわきまえている。しかし同情心についてはおおよそ無知だった。鈍感な眼差しで、侍女が泣くのをただ見ていた。
 彼女は、姫君が十二才になる直前まで侍女を続けた。
 苦難にもかかわらず、姫君はすこやかに成長した。手足はのびやかに力強く、背丈は侍女と変わらないほどになった。
「私のお嬢様が、いつの間にかこんなに大きくなってしまって。もうごっこ遊びのお相手はいりませんね」
 近付いた顔をよせあっては、二人で笑った。
 姫君が成長するにつれ、喜びは増し、不穏もさらに深く渦巻いていった。
 姫君は正しいものとゆがんだものとを内包して成長した。何も無力な犠牲者であり続けたわけではない。敵対者には過酷な報いを与えた。家臣の一人がふともらした侮辱を罰し、舌を切らせたこともあった。家風にならって、たやすく他人に体をゆだねた。異性のみならず、同性、血縁とも交じりあった。
 特に父とは。激しく執着し、互いを求め続けた。
 まっすぐな侍女は、物憂げにうつむくことが増えた。
 姫君は、十二才になれば王都へ留学することになっていた。二年のあいだ城を空ける。それを目前に控えた夜のことだった。
 部屋の中から二人の言い争う声が聞こえた。女が悲鳴のような声をあげている。かん高く、何を言っているかは聞き取れない。
「お前もそうやって、私から奪っていくのか」
 答える少女の声もまた衝動をはらんでいた。
「違います――」
 金切り声。
「私はあなたを――」
「黙れ」
 その言葉は力を持つ。
「お前など死んでしまえばいい」
 扉がゆがんだ。それきり音がしない。開けると、中は血の海だった。
 真ん中に姫君が力なく座りこんでいる。ひざに侍女の体を抱いている。それはぴくりとも動かない。
 脈をとろうとかがみこむと、濡れた声が制した。
「さわるな」
 うわずりながら、強い声だった。
「リズにさわるな」
 真っ二つに裂けた侍女の体を、姫君は抱きよせた。
 侍女は家族の墓に埋葬された。
 噂は様々流れた。特に相手が慣れ親しんだ侍女だっただけに、人々に与えた衝撃は大きかった。侍女が何か姫君の機嫌を損ねることをしたのは確かだ。この城の主人達の凶行は今に始まったことではない。どれほどなじみであろうと、言葉を間違えれば命すら危ういと、おびえる者は多かった。暇乞いとまごいをしに行ったのだという憶測もあった。自分から去っていくのが惜しくて、姫君は侍女を手にかけた。中には、姫君の暗殺に侍女が関わっていたという誇大なものまであった。
 他の人が、うかがいしれぬ事実として。侍女は妊娠の兆候を示していた。相談を受けたのは、まだ腹もふくらむ前だった。
 決めた相手がいたという話はない。いたとして、生真面目な彼女が婚前の関係を許したとは思えない。本人は事情を語ろうとせず、思いつめた顔で診断の結果を聞いていた。
 あの夜、それを打ち明けに行ったのだろうか。彼女達のあいだに、もはやいかんともしがたいひずみが生じていたとはいえ、それだけであの凶行が引き起こされたとは思えない。侍女が妊娠を契機に退職を申し出たとしても。
 ならば理由となるのは、腹の子の父親だろうか。姫君をあれほどまでに激昂げっこうさせたのは。他にだれがいるだろう。
 かの人を前に、この城ではだれもがこうべれる。
 姫君の前で、その名を問うていいのは死を恐れぬ者だけだった。
 女は命が惜しかった。
 侍女がいなくて、だれがこの姫君を支えるのだろうと思った。
 折り悪く、兄妹のように育った従兄は前年の事件により不在だった。いつ帰ってくるともしれない。王都への留学は、女子としては前例がなかった。侮蔑と好奇の視線にさらされる、針のむしろとなるだろう。
 帰ってくる姫君を、だれが迎えるのだろう。
 そう考えると、命が惜しかった。




   三 『死人』

 棺が一つ、城の門をくぐりました。ロバの引く荷車に乗せられて。墓守りが先導します。
 乾いた木のにおい。暗く、自分の吐く息が跳ね返ってくるほど狭い箱の中で、ひたすら車輪が地面をかく音を聞く――正気であればむしろ、すみやかにそれを失っていたでしょう。中からふたをこじ開けようと、爪をたてたでしょう。小石をひいたのか、棺全体が大きく揺れたときでさえ、悲鳴一つ跳びだしませんでした。棺に入る前に、黒くどろりとした薬を一さじ、エヴァから飲まされていました。気を沈める作用があると。
 遠くトレントから運ばれた母親のことを思い出して――母もこんな気持ちだったのかと想像します。薬のせいか、思考は鈍重で、その死体が冷たい手で引き裂かれたことを思っても、心がわずかに動揺するだけでした。母の棺はもう、トレントに帰ったはずです。伯父のヘイムが迎えたでしょう。
 車輪のたてる音は時折変わります。土の上――石畳の上――煉瓦の上――それ以外なんの音もしません。
 やがて荷車がとまり、斜めに傾いた棺は大きく引きずられました。土の上に置かれたのでしょうか。静止します。一つ、二つ、三つと釘が抜かれて、棺のふたが外されます。
 空はもうほの暗く、群青と薄紅色が混じりあっていました。
 ルディは解放されました。まったく解放されていました。首輪も、鎖も、下半身のピアスももうありません。男物の簡素な服を着ています。手にした荷物はわずかです。最低限のもの。
 体を起こすと、めまいがしました。のろのろと棺から出るのを、墓守りがにごった片目で見ていました。年が近く、彼が城を訪れたときには何度か言葉を交わしたことのある墓守りです。何も聞かず、何も言いませんでした。ルディが棺から出ると、またふたを閉め、用意してあった穴へとからの棺を埋めました。二度と視線は合いませんでした。
 その背中におざなりな礼を言うと、ルディは荷物を持って立ち去りました。
 町の外周にある墓場、と聞いています。来たのは初めてです。右手に高い壁があります。町をぐるりと囲む壁です。いつもは中から見ていた壁の向こう側。城から見て陰に隠れた部分です。
 聞いていた方へ、ルディは歩きました。まだ空が明るく、あたりが見える内に。墓場は延々と続いています。死はとぎれなく続きます。壁づたいにそのもっとも端、垣根の向こう。
 女が一人、ランプを手に立っていました。
 力なくその名を呼びます。
「サヒヤさん……」
 長いローブをはおった旅装束。ルディの姿を認めると、彼女はきびすを返しました。そのあとを追いかけます。足がふらつきました。
 痛みにさいなまれながら、眠っていたのは五日だそうです。目覚めて二日で立てるようになってすぐ、城から出るよう言われました。自分の居場所がもうないのはよく理解していました。自分は死んだと、エヴァは報告したそうです。
 それはおそらく事実となるのでしょう。かつてと同じ――そしていつもと変わらぬ――凶行が再びくり返されたと、人々は認識するでしょう。だから死体として自分は城を出ました。
 サヒヤのあとを追って山道に入ります。日はおおかた暮れました。前を行くランプの灯りと、油の燃えるにおいだけが頼りです。
 今こうして歩いているのは、死人です。殺された人間です。
 一度ならず、二度、三度と。何度も、死ぬはずだった。
 自分は何者かしらと自問します。夜道をさまよう亡霊でしょうか。前を歩く足取りの確かさに比べて、地面をなくしたよう。
 一度、ルディはうしろを振り向きました。あるいは、それまでも無意識に振り返っていて、そのとき初めて。町が見えました。木々の梢の向こう、壁と、町と、城が見えます。
 闇の中に城の輪郭が浮かび上がります。城の、夜をこうこうと照らすかがり火を思い出します。頼もしく思った大きな灯り。
 もうそこに自分の居場所はありません。
 涙は出ませんでした。
 ただ、胸に穴が空いたようでした。