最終幕
月と星亭は、今日も人でごった返していました。
泊まる人、食事をしに来た人、家から鍋を持ってきてかまどを借りるだけの人――ともあれみんな酒を頼みます。
「エールをもう三杯」
「去年のリンゴ酒はまだある?」
「ワインを頼むよ。スパイス入りで」
注文を客の手元に運ぶたびに、一杯いくらの銅貨や大銅貨が音をたてます。めいっぱいに開いた窓からさんさんと射しこむ光。町でも二番目に大きい自慢の食堂は、肉の焼けるにおい、エールからはじけた泡のにおい、客の人いきれで満ちていました。
泊まる人のほとんどは商人で、もともと連れだって来ていた人達が固まっていることもあれば、他の地方の話を聞こうと見知らぬ者同士が言葉を交わすこともありました。特にこの頃は、冬が終わって山道の雪がとけたので、町を通る人の往来はなおさら盛んでした。
ソリヌは王都から国の四方にのびる大街道の内の一つ、東西街道の途中にある宿場町です。通り道となるだけでなく、周辺の産物がここに集まるので、商品を買い足したり、あるいは売ったりする商人も多くいました。
正午を過ぎると、昼食をすませた人々はぞろぞろと出て行き、食堂はいくらか静かになりました。
「レト、あんたは先に休みな。そろそろあの子が帰ってくるし、この子にもごはんを食べさせておくれよ」
カウンターの向こうからおかみさんが声をかけてくれます。汚れた皿をまとめて水場に入れると、言われたとおりにしました。
「じょうちゃん、行きましょう」
おかみさんの足下にひっついていた女の子を抱き上げ、厨房の片隅にある食卓に座らせます。今日の昼食は――目星をつけていた豆とキャベツのスープがまだ鍋の中に残っていました。木の椀によそいます。パンのはしきれとはんぱなチーズのかたまりを見つけると、それも持って行きます。残り物にしては、今日の昼食は豪勢です。最近は客が多くて、分け前も増えているようです。ときにはあまりに客が多くて、鍋の底まですっからかんになってしまうこともありましたが。
このところの繁盛ぶりにも満足せず、この宿屋の主人は父親から受け継いだ商売をさらに大きくしようと奮闘しています。だからまだ幼い自分の息子を、
裏口の戸が勢いよく開きます。男の子が跳びこんできました。
「おかえりなさい、ぼっちゃん」
「ただいま」
じょうちゃんが手足をばたつかせると、ぼっちゃんはそのひたいにキスをしました。
「ちょうどよそったところです。まだスープが温かいですよ」
「うん」
かばんをその場にほうると、ぼっちゃんは席につきました。三人で声をそろえます。
「星と月に感謝を。サルトゥーム」
星と月というのはこの宿屋の神様で、屋号もそこから来ています。そして星と月とは東へ西へ往来するお客のことでもあると、来たばかりの頃習いました。
お祈りが終わるやいなや、ぼっちゃんはがつがつと、頼もしい勢いで皿の中身を空にしていきます。じょうちゃんは少し食べると気を散らして、あれやこれやと話し出します。ほどほどのところで切り上げさせ、時折口までスプーンを運んでやります。合間にぼっちゃんともしゃべります。
「今日は学校でどんなことを習いました?」
「道の距離の計り方。あとで教えてあげるよ。今日はお客さんどうだった?」
「食堂の方はたくさんでしたよ。泊まりの人ももう何件か入ってますし」
「さっき聞いたんだ、あした商隊が町を通るんだって」
「ああそれじゃあ、また客引きに出たらいいですね」
「寒いからいやだな」
「天気次第ですよ」
その内に全員が食べ終わると、また皿をまとめて水場に入れました。
「ぼっちゃん、おかみさんにも休むよう言ってもらえますか。洗い終わったら僕が代わりに前に出ますから」
「わかった!」
元気な返事を聞きながら、せっけんを泡立てます。
週に一度、夜になると雇い人達は上階の主人の部屋を訪れ、一人一人、小さな麻袋を受け取ります。
「レト、今週の給金だ。これからもっと忙しくなるぞ。しっかりな」
ご主人と、おかみさんと、雇い人は四人。住み込んでいるのは一人だけで、他の三人は町に家があります。ご主人とおかみさんのあいだに子供は二人。じょうちゃんはまだ小さいけれど、ぼっちゃんは立派な働き手の一人です。あわせて七人でこの宿屋を切り盛りしています。
「へへっ、また酒を呑みに行けるな。レト、たまにはお前もどうだ」
「それもいいですね……うーん、でもまたにしておきます。仕送りがないと父さん達が困るから」
「お前とちがってレトは孝行息子なんだよ。悪い遊びを教えるんじゃあない」
いつものやりとりに、みんなで声をあげて笑います。
田舎の年をとった両親に、稼いだ金のほとんどを仕送りしてやっている、ことになっていました。実際には彼らは少しの手数料をとって、金を貯めていてくれる――はずです。身元の保証人であるとともに、銀行のようなものでもありました。
なるほど世の中には様々、抜け道があるものです。
麻袋の中身を確認して、自分の棚の奥に入れておきました。明日にはこの袋を返して、一週間後にまた給金を入れてもらいます。町に来てすぐ住み込みの仕事が見つかったのは幸運でした。見習いの期間もそこそこに給金がもらえるようになりました。この宿屋に限らずこの町はどこも、景気が良いようです。
一階に降ります。夜の食堂は、昼ほど忙しくはありません。庶民の暮らしでは、昼に温かいものをたっぷりと食べて、夜は冷たいもので簡単にすますと決まっています。ゆでたジャガイモをつぶして刻みタマネギを入れた一品が作ってあれば上等で、かたいパンとチーズだけでも、たいていの人は文句を言いません。たとえ何か別のものをと注文されても、酒とピクルスで解決できないことなどないようです。昼間のあいだに作っておいた薄切りのパンでチーズやハムの切れはしをはさんだものは、もう売り切れていました。
厨房からは甘いにおいがします。
「おかみさん、何か手伝いましょうか」
おかみさんがジャムを作っていました。新鮮なくだものを出すのがこの宿屋の売りの一つですが、中にはすぐだめになるものもあります。そんなときは砂糖を加えて煮つめ、ジャムにしてしまいます。おかみさんの作るケーキにそえると、また絶品でした。
「いいよ、ほとんど終わったから。あとで味見をして。ああ、せっかくだから香茶を淹れてちょうだい。湯は沸いてるよ」
「喜んで」
戸棚から香草の入った壷を取ります。大鍋から湯を小鍋にすくって――残念ながらポットはありません――香草をスプーン一すくい、入れます。良い香りがふわりと立ちのぼりました。少し待って、木のカップにそそぎます。――ああ、ここに茶こしがあれば。
「できましたよ、おかみさん」
おかみさんはジャムの鍋を火から外すと、食卓につきました。
「ふう、いい香り」
二人で、まだ熱い香茶に息を吹きかけます。おかみさんは朝から晩まで忙しくしていて、ゆっくりできるのはこんな合間の時間くらいです。おかみさんはまだ若くて、早くに亡くなってしまったご主人の両親からご主人と共に宿屋を継いで、五年にもならないそうです。なのに貫禄があると言うのか、けしていばり散らすわけではないけれど、威勢が良くてつい皆が頼りにしてしまいます。
「あの子らはすぐ寝た?」
「ええ、今夜はいい子でしたよ」
子供二人を寝かしつけるのは、もうお手の物でした。宿屋の仕事もさることながら、忙しい夫婦の代わりに子供のお守りをするのがむしろ本業ではないかと思えます。いやな気持ちではありません。
「ぼっちゃんはえらいですね。今日も何を勉強したか聞かせてもらったんです。とてもよく勉強してる。きっと立派な人になりますよ」
手ずれのついた教科書を、毎晩見せてもらっています。一冊一冊とても高価だから、ぼっちゃんは教科書を古物屋でそろえたそうです。今まで様々な人の手に渡ってきた教科書は、不思議と自分の手にもなじむような気がしました。
「あんたがあれこれ聞いて、なんでも感心してみせるからよ。おだてりゃ豚でも木に登るってね。おかげで助かってるわ。成績が上がったらしい」
「よかった」
役に立てたなら幸いです。
「ねえ、レト」
ふとおかみさんは、ランプの灯りの中で居住まいを正しました。
「あの子らから聞いたんだけど、あんた前はお城にいたんだって?」
いつにない、神妙な面持ちです。
「ええと、おかみさん」
困ったな、という顔をします。口元に人差し指を立て、気弱に笑います。
「その……ごめんなさい、そんなつもりはなかったんですけど、あの子達があんまり言うもんだから……おかみさん、まだ他の人に言ってやしないでしょう?」
その仕草におかみさんはさっと見当がついたようでした。
「なんだ、作り話なの? あたしはてっきり」
「お城の出てくるおとぎ話をしたんです。あの子達がそれに、あんまり目を輝かせるものだから……ごめんなさい、つい」
じょうちゃんもぼっちゃんも同じように、不思議なお城の話に前のめりになって聞き入ってくれました。しきりに感心した様子で、最後に、
「レトはそのお城に行ったことあるんだね?」
と聞いてきました。まっすぐな目につい、うなずいてしまいました。
「あした、僕から説明しておきます」
「いいよ、信じさせておけば。子供だもの」
おかみさんは笑いました。手元のカップに目を落とします。
「あんたを見てると、本当にお城から来たんじゃないかって……そう思えてくるよ。なんだかあたし達とは雰囲気がちがうから。文字が読めるし、色々知ってるし。王様じゃなくてもどこかの貴族の、落としだねだったりしないだろうね」
「おかみさんひょっとして」
その語り口には、ぴんと来るものがありました。
「この前の人形劇を見に行ったんですか?」
つい先日、広場に、めずらしいほど大きな操り人形の舞台が来ました。春のさい先に旅の一座が町を立ち寄ったときで、大忙しの宿屋からはだれも見に行くひまはなかったはずですが。
おかみさんはあわてて顔の前で手を振りました。
「少しだけだよ。あんたもどうして知ってるんだい」
「そういうお話だったって、人から聞きました。いいじゃないですか、おかみさんはいつもよく働くから、少しくらい遊んだって」
苦笑します。
「落としだねだなんてとんでもない。僕は、田舎ものなだけですよ。母さんは田舎の年寄りだから、古い物語をたくさん聞かせてくれました。人とずれて見えるのはそのせいでしょう」
「おかしいってわけじゃないよ。ただ、あんたはふっとどこかに行っちゃいそうだなって思うの。たとえばお城に帰るとか」
おかみさんがいつまでもその話題をやめないので、不安になりました。
「これからもここに置いてもらえますよね?」
実際、帰る田舎などないのだから、ここを解雇されたらまた別の住み込みの仕事を探さなければいけません。
「ごめん、そういう意味じゃないよ。あの人もあんたを気に入ってるし、よく働いてくれる。これからもここで働いておくれよ」
おかみさんはひそやかに声をあげて、笑いました。
今日もうまくいったようだと、宿屋の入口の、カウンターの裏の寝床に入りながら考えます。
食堂から最後の客がいなくなって、あとは真夜中に飛び入りの泊まり客が来たら対応するだけです。扉にはもうかんぬきがかけてあって、どんな客が来てもまずは小窓から覗くようになっているから、安心です。
仕事はだいぶ覚えました。まだ戸惑うことも数多くありますが、それも勉強だと思うといくらか気を楽に構えていられます。気のいい人達ばかりなのは本当に幸運でした。彼らに対して自分の口から出るのが嘘ばかりなのは気が引けましたが、仕方のないことです。
今日も、首尾良くとりつくろうことができました。
仕事のように、最初こそ緊張したでしょうか――――そんな覚えもありません。自分から語りすぎず、聞かれるままに、かいつまんで答えれば、いつの間にかレトという人間ができあがっていました。
田舎に年取った両親を残して、町に出てきた少年。両親のあいだに息子は自分一人で、年の離れた姉が何人か。父さんも母さんも年寄りだから物知りで。田舎の生まれだから世間知らず。
文字が読めることは、隠しておいた方がよかったのかもしれません。でも
なんのことはない、一度死んだ人間だと考えたら、開き直れただけです。失うものがないのだから、堂々とふるまえばいいではないですか。
今までに何度かその場を去るたびに、色々なものを置いてきました。思い出や立場など。今度は人生そのものを。
レトという名前はどこからとったのだったかな、とまどろみ始めた頭で考えます。たぶん、“母さん”のしてくれたお話のどれか――たしか、小人の名前――――勇敢な――――
彼のことを思い出す頃には、寝息をたてていました。
***
週に一度開かれる市場には、他の雇い人と一緒に、ご主人について行きます。野菜やくだもの、肉、薫製にした魚、穀物、粉、その一週間でお客さんに出すのに必要な物をすべてそろえます。相当な量です。
ご主人がこれはと思って買いつけたものを、どんどん荷車に積みます。見る間にいっぱいになった荷車を二人がかりで宿屋まで押して、今度は中に運び入れます。
終わる頃にはみんな、冬でも汗だくでした。今日のような春の日差しの中となるとなおさらです。
しかし休むひまもなく、出て行く泊まり客の応対をします。代金は先に受け取っていますが、客室の確認は立ち会いでしています。床や壁が汚れていないか。作りつけの棚やテーブル、ベッドが壊れていないか。忘れ物がないか。鍵は返してもらったか。円満に客が出て行けば、掃除と片づけをします。すみからすみまではき、家具を整え、ベッドがあまりに汚れているようならシーツを換えます。
それが終われば厨房でおかみさんの手伝いをします。おかみさんは買ってきたばかりの食材で、昼食を山ほどこしらえています。市場のある日は中身が豪勢なのを知って、特に客が多いようです。
「だれか、パン屋からパンをとってきて。そろそろ焼けてるでしょ」
「僕が行ってきましょう」
おかみさんが宙に放り投げた頼みを捕まえます。市場に行く途中、おかみさんがこねたパンを、パン屋まで持って行きました。かまどで焼いてもらうのです。行ってみるとちょうど順番待ちが終わったところで、まだ湯気を立てているパンをかごいっぱいにつめて帰りました。焼きたてのパンの、たまらなくいいにおい。
正午の鐘が鳴る前に、一仕事終えた人々が押しよせてきます。こちら側の人間はだれもかれも、飛び回りました。波が去れば、大勢の人がさんざん飲み食いしたあとを片付けます。皿を下げて、食べこぼしをふき、汁を吸ったかまどの灰をかき集め、壁に刺さったナイフを抜きます。今日は昼食をとるひまさえありませんでした。じょうちゃんはきっと、帰ってきたぼっちゃんが食べさせてくれたでしょう。
「レト、大丈夫か。昨日は遅かっただろう」
ご主人が今夜の泊まり客の応対をするかたわらで、気遣ってくれました。
昨夜は客室で泥棒騒ぎがありました。結局は勘違いだったのですが、そうと分かるまでにずいずんと時間がかかりました。町の衛兵まで呼んだところで真夜中を過ぎていて、とんだ無駄足だったと憤慨する彼らになんとかお引き取り願ったときには、何時だったでしょう。おまけに今日は朝も早くて、ほとんど寝ていません。
「平気ですよ、このくらいなら」
万全とはいかなくとも、今まで目が覚めて、立てなかったことはありません。
「お前さん、ほそっこいのに妙に体力はあるよなあ」
同じ雇い人の、中年を過ぎたあたりの男が感心したような声を出します。
「若いってことだな。うらやましいよ」
「体だけが取り柄ですから」
胸に手をあててみせます。穀物がいっぱいにつまった麻袋を持ち上げる
だからといって、今、妥当な理由なしにそう言いつけられたとして、安んじて受けはしないでしょうけれど。
「レト、ねえねえ」
「ああぼっちゃん。遅くなったけど、おかえりなさい」
あいさつにもほとんどかまわず、ぼっちゃんは声をはずませました。
「すごいこと教えてあげる」
「また商隊ですか?」
思わずそう聞いてしまった先で、ぼっちゃんは頬をふくらませます。
「あいつら、宿屋の息子だからってばかにして」
この前ぼっちゃんが学校で聞いた、商隊が来るという話は嘘でした。
「友達同士の、ちょっとした冗談ですよ」
なぐさめてはみますが、残念ながら、坊ちゃんの感じとる空気は明白なもののようです。単なる町の宿屋の息子が法律家の息子や医者の息子に混じって学校に通うのを、身の丈に合わないことだと考える人がいます。大人にも子供にも。使い古した教科書を笑われたこともあるそうです。
だからといってご主人やぼっちゃんに、あきらめてしまうつもりはないようでした。ぼっちゃんはすぐに気持ちを切り替えると、大げさな手振りで語り出しました。
「ちがうよ僕が聞いたのは、今度、お姫様の一行がこの町を通るんだって」
話を聞きつけた大人達はぼっちゃんを囲んで、口々に言います。
「エミーテ城の姫様かい?」
これはおかみさん。
エミーテ城は、この町を治める小貴族の城です。坊ちゃんと同じくらいの年の姫様がいます。
「ちがうよ、エミーテの姫様なら、この前一緒に鬼ごっこしたばっかりだ。今さら騒ぐもんか」
「まさか王都から?」
と、雇い人の男。
「そいつはすごいな。王太子様の姫様か? どこかへお
ご主人。
ぼっちゃんは大人達にがむしゃらに両腕を振りました。
「ちがうよちがうよ、もう、みんな黙って聞きなよ」
「早く先をお言いよ、この子は」
みんな、ぼっちゃんをはやし立てます。その中で堂々と胸を張ってぼっちゃんは言いました。
「ホーゼンウルズのお姫様だって!」
大人達は、なんとも言えない顔をしました。
「そりゃあ確かにめずらしいな」
「ホーゼンウルズと言ったら……戦争かい? いやだね」
「いや、王宮へ戦勝報告に行くんじゃないか。メチアの内乱へ力を貸したって聞いた」
「うん、ホーゼンウルズから一度王都へ行って、それから帰りに回り道をして、ヘンルミーアによるんだって。ここに来るのはそのあとだよ」
ぼっちゃんはそこらにあるほうきをとって、床の上を次々に指しました。
「こう、王都はここにあって、ホーゼンウルズはその南東の、国のはし、ヘンルミーアはその北の方にあるだろう? そこからホーゼンウルズに帰ろうと思ったら、ちょうどソリヌを通るんだ」
中年の雇い人は首をひねりました。
「ははあ、旦那、ぼっちゃんはずいぶん物知りですね。俺は地図はさっぱり分からねえや」
「おだてたって何も出ねえよ」
ご主人はそう言って鼻を鳴らしながら、まんざらでもなさそうでした。
「何か景気のいいことになるといいですね。あそこの領主は派手好きで、気前がいいって話だから」
「気前よく首をはねられるんじゃないだろうな」
「怖いことを言わないでちょうだい。領主じゃなくて、お姫様が来るんでしょう? ずいぶんべっぴんらしいじゃない。その、変な噂は聞くけど」
待ちかねたように、ぼっちゃんは声を張り上げました。
「知ってる! 男の格好をしてるんだろ?」
「まさか、ただの噂じゃないか」
「いやあ、ほんとだって俺は聞いたね。男のように鎧を着て、剣を振るうそうだ」
「ズボンを履くんでしょ? いくら息子が産まれなかったからって……世も末だね」
「でも噂になってるくらいなら、一目見ようと見物客が集まるぞ。そうしたら稼ぎ時だ」
ご主人は
ご主人が客の入りを算段するのを聞きながら、なんとはなしに銘々、立ち話をやめて、仕事に戻りました。
つめていた息を吐き出します。食堂の、横に倒れたイスを起こしながら、だれからも見えないように胸を押さえます。静かに早鐘を打っていました。
「ねえ、レト」
すそを引っ張る手に、息をのみます。
「はい、なんでしょう」
振り返り方は、おそらくそんなにぎごちなくはなかったでしょう。
ぼっちゃんは小さな声で耳打ちしてきました。
「行列が来たら、こっそり抜け出して、見に行こうよ」
「いいえ……そんなわけにはいきませんよ」
背を向けて、隣のイスに手をかけます。別に、それがゆがんだり傾いたりしていたわけではありませんが。適当に揺り動かして、テーブルに合わせるふりをします。
「いいじゃないか、少しくらい。レトだって、男の格好をしたお姫様、見てみたいだろ?」
ぼっちゃんはあきらめる気がないようです。すそを引き、ゆさぶります。
意を決してぼっちゃんに向き直り、身をかがめました。
「ねえぼっちゃん、そんなに言うなら、おかみさんと行ったらどうです? 僕から頼んでみましょう」
ぼっちゃんが夜、ときどきおかみさんのベッドにもぐり込んでいるのを知っています。
ぼっちゃんは恥ずかしそうに口をとがらせて、そっぽを向きました。
***
二週間のあいだ中ずっと、当日の朝になってもおかみさんはぐずぐず言い続けました。
「やっぱり、あたしが行っちゃみんなに悪いよ」
「たまにはいいんです。みんな、ご主人だっていいって言ったでしょう。ほら、ぼっちゃんはその気ですよ」
ぼっちゃんはおかみさんのすそを引きます。
「母さん、行くって言ったじゃないか」
「行ってみたいとは言ったけど……そうだ、レトと行ったらいいじゃない」
「僕なら平気です。行列のあいだはどうせみんな道に出て、お客さんは来ませんよ。じょうちゃんの面倒は僕が見ますから」
ご主人のねらい通り、まわりの町や村から見物の人が集まっていました。昨日の夜、客室は満室でした。しかし今日はみんなすでに、出払っています。大通りに陣取っているのでしょう。
「ぼっちゃん、悪い人に気をつけてくださいね」
「すりとか? そんなの負けないよ」
「いいえ相手をしちゃいけません。おかみさんをつれてさっと逃げるんです」
ようやく、二人を勝手口まで追いやります。
おかみさんはよそ行きの服を着て、花飾りのついたフードをかぶっていました。
「その花飾り、似合いますよ」
「こんなのつけるの、結婚式以来よ」
おかみさんは頬を赤らめました。
「いってらっしゃい」
その背中を外に向かって押しだします。おかみさんとぼっちゃんは、手をつないで大通りへと歩いて行きました。
一行が町を通るのはちょうど正午の頃ということです。この町は通り過ぎるだけ、今日の内に隣の町まで行って、そこの領主の城に宿泊すると、そういう話でした。少し間があります。
厨房へ戻り、棚の下を覗きこみます。じょうちゃんが、ひざをかかえて座っていました。
「じょうちゃん、僕も留守番です。一緒に遊んでくれませんか」
むくれた顔のまま、じょうちゃんは手をのばしました。抱き上げて、カウンターのイスに座らせます。人混みは、小さいじょうちゃんにはまだ危ないでしょう。手が二つ埋まってしまうとおかみさんも大変です。
「おみやげをくれますよ。約束したから。うんとかわいくして待ってましょう」
じょうちゃんのまだ細い髪を、三つ編みのおさげにしてあげました。
ご主人は上で、昨日の稼ぎを計算しているはずです。他の雇い人達は部屋の支度。
食堂の中はしんとしていました。長居の客一人が、一杯のエールを頼んだきり、うつむいています。居眠りしているようです。入口の反対の壁には大きな振り子時計が置いてあります。この宿屋のちょっとした自慢です。静かな中ではその針の音がやけに響きます。
じょうちゃんのままごと遊びにつきあいながら、帳面の整理をしている内に、ふと時計に目をやると、そろそろ時間。皆、日々の退屈な生活の中で、心を喜ばせるものをいつも求めています。だから今頃通りにはきっと、たくさんの人が出ているでしょう。
見せ物には二つあります。一つは心を浮き立たせる、華やいだもの。もう一つは人々をほくそ笑ませる、不幸なもの。たとえば祭の花車。たとえば絞首刑。
道化などはその両方です。人々は派手な衣装や手振りを楽しみ、芸の巧みさにあっと驚き、最後は拍手喝采します。しかし同時に滑稽で、おどけた、しかし泣くような顔を哀れみ、指をさして笑います。
これはどちらでしょう。
皆、風変わりな姫君を一目見ようと押しかけています。彼らはどのようなまなざしで彼女を迎えるでしょう。
春が来て、年を一つとったでしょうか。
正午の鐘が鳴り響きます。遠くに、人々の歓声が聞こえた気がしました。
その場にうずくまります。カウンターの陰で、だれにも見えないように。耳をふさぎます。のどの奥を閉じます。内から迫り来る衝動を押しこめます。
心の底に、いまだに臆病なままの自分が沈んでいました。それが今、声をあげようとしているのです。水面に手をのばすのを、踏みつけます。彼の上澄みだけをすくってできているのがレトという人間です。うわっつらだけの、嘘で固めた人間です。
どちらもあっけなく
あのときのように“声”が聞こえやしないかと。そうすれば過去は
心は動揺し、激しく波立ちます。渦を巻き始めてはもはや、どこが沈殿で上澄みか分からなくなってしまう。自分が自分を浸食しようとするのをくい止めます。
沈んでしまえ。お前なんか。
頭に小さな手がふれました。髪をすきながらなでさすります。
顔を上げると、じょうちゃんが首を傾げていました。
「……ごめんなさい。なんでもないんです。ちょっと、めまいがしただけ……」
じょうちゃんの手をとり、抱きよせます。じょうちゃんはおそらくはわけも分からないまま、反射的に、こちらの首に腕を回しました。
そのあたたかさに、一度だけ小さく鼻をすすります。
じょうちゃんを抱いたまま、立ち上がります。イスに座らせて、笑いかけます。
「もう大丈夫です」
やっぱりじょうちゃんは、首を傾げていました。
帳面を片付ける内に、おかみさんとぼっちゃんが帰ってきました。思ったより早く、たぶん行列が完全に去って他の人が動き出す前に抜けてきたのでしょう。
「おかえりなさい」
「ただいま」
二人とも声をはずませます。
「ああやれやれ、大変な人だったわ」
「すごかったよ」
手足をばたつかせるじょうちゃんに、ぼっちゃんは棒のついた飴をあげました。赤色のそれを、じょうちゃんはしげしげと眺め、光にかざして、それから口にくわえました。そのあいだにもぼっちゃんは頬を赤くして、腕を大きく振ります。
「あんな馬車見たことない! 銀色の兵士をたくさん連れてさ。格好良かったな」
居眠りをしていた客はその声にはっと目を覚まし、泡の消えたエールを一息で飲み干してから、あわてて立ち去りました。
そのあとを片付けに行きます。
おかみさんもぼっちゃんも興奮冷めやらず、見聞きしたことを口々に言いたてました。
「僕も兵士になりたい」
「まさか。父さんになんて言うの?」
陶器のジョッキ、木の皿を片手に持ち、布巾でテーブルをふきます。様々なしみのついた木のテーブルは、薄黒くなっています。それを、意味もなく強くこすりながら。
「ホーゼンウルズのお姫様が男の格好をしてるのは本当だったんだ。今度エミーテの姫様にも言ってみようかな」
「やめなさいな、城主様が卒倒するよ。ああでも、思っていたほどじゃなかったねえ。髪まで短く切ってるって聞いたけど」
「うん、レトと同じくらいだったよ」
そのとき、だれかが裏の勝手口を開けたのでしょう。食堂の窓から一陣の風が吹きこみました。日差しをいっぱいに浴びた春の風です。うなじでくくった髪を、背中までのびた髪を、さらって行きました。
***
それから、一週間が経った頃。町は目前にひかえた春の祝祭に向けて、再び活気づきました。エミーテ城から馬車が出ます。町を通って森へ。その準備に人々は浮き足立っています。窓に壁に屋根に、緑の旗を飾ります。
昼食の時間が終わって夜までのあいだ、やってきた泊まり客の相手をしている中で、ふとおかみさんは足元に視線を下ろしました。
「レト、ズボンが
「あ……」
見下ろすと確かに、すそからくるぶしが見えています。いつの間に服が短くなったのでしょう。――もちろんそんなわけはなくて、自分が大きくなったのです。
「すそを出してあげる」
「でもおかみさん、忙しいでしょう?」
「それくらいならなんでもないよ。夜になったら持っておいで」
おかみさんは気安く言ってくれました。
その夜、子供達を寝かせてから厨房に降りました。おかみさんはすみの食卓に座っていました。最近いつも遅くまでつくろいものをしています。昨日、じょうちゃんの服ができあがりました。春の祝祭用の、緑色のワンピースです。
昼間に履いていたズボンを渡すと、おかみさんはさっそく縫い糸をとき始めました。
「見ててもいいですか?」
「うん。すぐできるよ」
ろうそくの
気付けば熱心に見入っていて、それをおかみさんは笑いました。
「裁縫に興味があるの?」
男らしい仕事とは言えません。笑い返します。
「一人で、できるようになると便利でしょう?」
こういうときに。おかみさんの手がいつも空いているわけではありませんし――もっと言えば、どんなことでも、何かあったときに、助けてくれるだれかが必ずそばにいるというわけでもないでしょう。
「家では母さんや姉さんがなんでもしてしまったから……今、色々勉強させてもらってます」
「えらいね。でもあんまり気張ることないよ。どうせ人間、一人でなんでもをすることはできないからね。だから一緒になるのさ」
「おかみさんとご主人も?」
「そういうこと。……やあね」
照れたようにおかみさんは頭を振りました。
二人はお互いに忙しくてなかなか同じ時間を持つことができないでいますが、お互いがいない所でも、お互いを頼もしく思っていることは、ちょっとした会話からも知れました。宿屋をもっと大きくしたいと様々に奮闘するご主人を、おかみさんは厨房だけでなく雑々としたことすべてを引き受けて支えていますし、ご主人はそんなおかみさんをとても頼りにしていました。
そんな二人を見ていると、ほほえましいようなまぶしいような、そんな気持ちになります。
自分は一人ですから。
昼間の勢いを失いゆっくりと降り積もっていく空気の中で、おかみさんの手とろうそくの炎だけが、こまやかに動いています。
それが自分のためだと思うと、ほの暗い決意の底から、不安が湧き立ちました。
「どうして……」
「うん?」
「どうして、こんなに親切にしてくれるんですか?」
「あんたがあたし達に親切にしてくれるからさ」
おかみさんは手元に視線を落としたまま答えました。
「ちゃんと仕事をして、文句の一つも言わない。うちの子らにも気に入られてる。あの子らだってばかじゃないんだ、ちゃんと相手を見てる。うちは出入りが多いからね。おっかない人間には近づかないし、親切な相手にはよって行く。あんたも、優しくされたら優しくしたくなるだろう?」
答えることができませんでした。足元から、何かが急に強い輝きを放ったような気になって。おそるおそる見下ろします。足のつかない深い水の底から絡みつき、支えるもの。
自分が与えられたものでできていることを意識します。
知識については、いつも、身にしみて感じていました。あの城で学んだことがここでの生活にどれほど役にたったでしょう。そうではなくて、そのことだけではなくて、何もかも。
血と肉は母から。
臆病さは、あの家の仕打ちで。
人に親切にするのは?
物事の本質を探るのは?
心の内を押し隠して笑ってみせるのは?
ちっぽけなこの胸にあふれる感情は?
「レト」
優しい声が意識を現実に引き戻します。おかみさんは手をとめて、こちらを見ていました。目を合わせて笑います。
「あんたはときどき、そうやって
「あ……ごめんなさい」
「どこか別の所を恋しそうにするから、あたしも旦那も、あんたがいつかいなくなるんじゃないかって心配してる」
おかみさんは寂しそうに言うと、また手の中の作業に目を落としました。それきり、二人とも黙りこみます。針が布地を行進するのを見つめて、ただ見つめて。
気付きの光を手のひらに収めてしまってもなお、答えることができませんでした。
カウンター裏の寝床に横になります。脇に置いた、直してもらったズボンをなでます。おかみさんに言われたことが頭の中を回りました。
ああ確かに、思いとは鎖のように連なっていくもののようです。人から人へ、ときに絡みついて縛るのも同じ。良いことも悪いことも。
胸の中から泉のようにこんこんと湧き出る思いがあって、これがちっぽけな自分のみから生まれ来るはずはありません。
最初にそれを与えてくれたのは母でした。優しいお母様。あたたかく、無限に与えてくれるようでした。心の本当に奥底で自分を支え続けてくれるものです。
その上に臆病さがへどろのように積もりました。いくらかは取り払われたように見えて、しかし深く、およそぬぐいきれないように見えます。
さらに上に降りそそいだもの達。
正しいこと。間違ったこと。誇り高いこと。
そして。
捨て去ったはずのものがすべて心の中に沈んでいました。臆病な自分がかかえ持っています。与えられて来たもの。それらが様々な思いを自分の内から生み出すのです。
あの人が
どうして髪を長くのばしているのか。
自分もあの人も。
尖った耳を隠すのに、都合がいいから。切るのに手間もかかります。それ以外に、何かいいわけがあるとしたら、それは――
頬に絡みつく髪をうしろになでつけて、背中を丸めました。
寝て、目が覚めて、仕事の合間にもし自分の時間が持てたら、手紙を書きましょう。
***
文面を考えつくのに数日かかりました。ぼっちゃんから紙とペンをわけてもらって、書いてみると思ったのと違うようで、書き直すか迷う内にまた数日。結局そのまま出す気になって、信頼のおける配達屋を探し、けして安くはない送料を払って手紙を
打算に満ちた問いかけに答えが来たのは、思い立ってから一ヶ月もあとでした。
その手紙を読んでから数日の内に、行動を起こしました。
「おかみさん、お願いがあるんです」
言い出すのは、勇気のいることでした。何重の嘘を塗り固めたあとでさえ。
***
その門を再び見上げたときには、秋になっていました。特に今のような朝には冷たい風が吹き、冬の気配すら感じさせます。
ここまで来るのにずいぶんと時間がかかりました。ご主人とおかみさんに頼みこんで、あの宿屋で働き続けさせてもらいました。最後の日まで、二人ともよくしてくれました。
別れはつらいものでした。特にぼっちゃんとじょうちゃんとは。互いに涙ぐんで約束しました。
「レト、元気でね」
「落ち着いたら手紙を出します。ぼっちゃんがみんなに読んであげてくださいね」
路銀は片道です。帰りの分はありません。
そんなにかかっても、あきらめる気にならなかったので。別れさえ重しにはならず。片道分さえ貯まってしまえば、居ても立ってもいられなかったので。
ベルスートに向かう馬車に、乗り込みました。
正確には乗り継ぎを三回、途中の町で一泊、ベルスートに着いたのは夜遅くだったので、ここでも宿をとりました。おかげで路銀は跡形もありません。
門番は自分の顔を見て、目を見張りました。覚えがあったのでしょうか。そう言えば彼は、かつて自分がこの門から迷い出たときに見とがめた門番かもしれません。顔を覆う鉄兜の向こうで彼の目が困惑するのが分かって、自分から声をかけました。手紙の相手に取り次いでもらうよう。
ソリヌで返事を受け取ったあと、
「もう少し、手頃になりませんか? この型は少し前の流行じゃありませんか。色は若い娘さん向けだけど、年輩の人が着るには明るすぎますよ。僕は田舎の姉さんにやるつもりだからいいけど。田舎の人なら、少し流行遅れでも気にしないでしょう」
なんとかこう言って、まけてもらいました。それだって、貯めていた金をほとんど使い果たすくらいでした。
おかみさんに、体に合わせて寸法を直す方法を習いました。一応いいわけを付けましたが、おかみさんはたぶん、とても不審に思ったでしょう。
宿でそれに着替えて、城まで来ました。足下まであるワンピースです。髪はうしろに結い、フードをかぶって、それなりにきちんとした格好に見えるでしょう。
少し待たされて、中に通されて、それからまた待ちました。
ようやくやってきた彼女は、戸口から自分の全身を視界に捉えると、口を開きました。
「戻ったのですね」
短い言葉で、しかし彼女にしてみればおそらく最大限に情緒深い一言だったでしょう。
自分の心にも複雑な感慨がわき起こりました。戦争から帰った彼女を迎えたときと同じような、しかしまた違うものをはらんだ感慨です。彼女が臆面もなく嘘をつく――と言うよりは、腹の中に何を隠していようと表に見せることはない、と知っています。今は何を考えているのでしょう。美しい顔からはうかがえません。しかしそれを今さら責める気はありません。
顔なじみだからと言って油断したり、気遣いしたりするような人でもありませんでした。この上なく念入りに体や荷物を検査されました。もっともなことです。外に出ているあいだに何かを吹き込まれ、どこかにナイフを隠し持っていたっておかしくないでしょう。
解放されたときにはとっくに昼を回っていました。
覚えのある廊下を歩きます。使用人廊下の暗がりに吸い込まれる自分の足音を聞く内に、不安がかまくびをもたげました。その感情が自分を放したことはありません。
どうしてあの人は自分を侍女にしたのかしら、と何度も考えたことを、もう一度考えます。
あの夜、あの家の地下で、祖父と同じように死んでいたはずが死ななくて、珍しいと思ったのでしょう。これは間違いなさそうです。
では石と同じように、魔術師達に渡してしまわなかったのは? 本当に魔術に対して何か特別な反応があるなら、魔術師達に渡してしまうべきだったでしょう。それで何か、魔術の役に立ったかもしれません。その気が全くなかったわけではなさそうです。叔父に命じて、自分の出自を探り、母の遺体をとりよせ――
あえて女の格好をさせたのは? 悪趣味な気まぐれだと、言ってしまえばそれまでです。大した意味はないかもしれません。でもたびたび自分は、自分の身とあの人の立場とを重ねて考えていました。もしかするとあの人もそうでしょうか。あの人自身が意識していなくとも。
どうして自分に優しくしたのでしょう。あの人の一言で自分が色を変える様は、いかにも滑稽でした。でも、自分が喜ぶと思ったと、その言葉は嘘ではないだろうなと思います。
ふとあの人は笑うのを忘れるのです。笑ってみせるのを。
それもわざとでしょうか。
日の当たる表廊下に出て、歩く内に次々と目に入る窓からの光がやけにまぶしく、頭の奥に何重にも残像を残しました。
自分が与えられたものでできているように、あの人もまた与えられたものでできているとして。それはどんな色形をしているでしょう。
どうしてあのとき自分を殺そうとしたのか。どうして、殺してしまわなかったのか。
考えつくより先に、執務室の前に立っていました。扉を叩きます。短い返事を待って、扉を開きます。
ちょうど一息つく時間でした。
その人は机に向かっていて、訪問者に顔を上げました。髪がのびていました。窓からの光を受けてつややかに黒くまっすぐ。肩にかかりさらに長く。
それを目にして、聞きたいことも、言いたいことも、あいさつすら、うまく出て来なくなりました。ただあいまいに口元がゆるみます。
うなじから脳天に、手を差し入れられるような感覚。視界が白く、激しく揺れます。
気付けば扉を背に、その場に座りこんでいました。
気付けば、その人の顔がすぐ目の前にありました。
「今度こそ死にに来たのか」
頭が割れるように痛みます。生まれて初めてしゃべるかのように、唇はわななきました。
「死ぬのは、いやです」
死ななかったではありませんか。自分は人より少し丈夫で。
それを知っていたはずです。できなかったとは思いません。何度かの失敗を経て、最後にはこの人の魔術は自分に十分な効果を及ぼしていたように見えます。今だって。
死なないと思って、死ぬほど痛めつけたのはどうして?
問うことはしませんでした。その人が笑っていなかったので。笑うと、冗談とも本気ともとれない口調で、人を惑わせ追いつめます。ときにはたぶん、その人自身さえも。
ひざをついて身をかがめ、自分の顔を正面から見つめています。赤い目を開いて、少し眉をよせ、唇を引き結んで。肖像画の中で見た、子供の頃とも似た表情です。全く同じでないのは、年をとったからでしょう。もう、鈍感な子供とは違います。
「ではどうして戻ってきた」
言葉とともに背骨がきしみました。痛みにこめかみがひきつります。
別に目の前の人は可哀想なお姫様ではありません。むしろゆがんでねじれた
進む道を閉ざして、最後にわざと残した逃げ道に追いつめ、さも最善の、自由な選択をしたのだとほめそやします。
それを許せないと思ったこともありました。許さなくていい、とこの人は言いました。許せとも、許すなとも言いませんでした。許さないままでいることもできました。許すしかないと思ったわけではありません。
許すことに、したのです。
一年前、最後に向き合ったとき、自分の中に一つの切望が満ちあふれていました。その感情のゆえにです。
それは今も同じ。力の入らない手を胸元で握ります。
「どうか、おそばに置いてください。僕をあなたの侍女にしてください」
まだ、いまだに新しい侍女を雇っていないことを、手紙で聞いて知っていたので。
だからここに来ました。
身の回りの世話をする人間がいないと不便でしょう。他の侍女達には別の大切な仕事があります。日常の雑々としたことなど、ただの侍女に任せてしまえばいいのです。体なら丈夫です。
朝起きて、着替えをして、送り届けて、部屋を片付け、午後になったら香茶を
それでこの人が喜ぶといいなと思います。
与えたいのです。自分にあげられるものならなんでも。
この豊かに実る果実のような気持ちが、ちっぽけな自分の大地から枝葉を茂らせる理由を知っています。
「あなたが僕にしてくださったように、僕もあなたにしてさしあげたいのです」
痩せた大地をうるおすように。
笑いかけて、頭をなでてくれました。臆病な自分は、そうされなければ一生、こんな思いにはならなかったでしょう。踏み出すことにも手をのばすことにもおびえていました。
にぎった手に力を込めます。
「あなたを愛しています。あなたがお望みのままに、限りなく差し上げます。あなたが僕にそうしてくださったのだから」
与えられるばかりだった自分の心が今、枝葉をのばし、その木陰にだれかが憩うことを望んでいます。それがこの人であるようにと――この人でなければと、決心しています。
これこそが自分にとっての愛というものです。
かつてリズという名の侍女をその手で引き裂いたとき、どのような気持ちでいたのでしょう。彼女の言葉は、状況は、手ひどい裏切りとなったでしょうか。
もし、追いつめ、奪い尽くすような愛しか知らなかったとしたら? この人がその身に受け続けてきたものです。彼女の言葉はこの人にとってどれほど残酷な宣告になったでしょう。
考えて、みるのです。
リズという侍女を、大事な侍女をねじれた愛憎の末に、はからずも殺してしまったとき、この人は深く傷つき、後悔したのではないか。
自分を見つけたとき、都合がいいと思って、だって魔術では死なないから、城へ連れ帰り、そばに仕える侍女にしたのではないでしょうか。
女の格好をさせたのは、等身大の人形遊びです。幼い自身が男の服を着させられたように。自身の
無知な少年をお仕着せの中に閉じこめたら、死なない侍女を手に入れて、あとは優しく頭をなでて懐かせれば良かったのです。それはこの人にとってそんなに難しいことではなかったでしょう。好きに抱きしめ、好きに突き飛ばします。
誤算だったのは――心というものがたやすく
喜ぶと思ったと、二度言われたことを嘘ではないと信じています。そこにはなんのてらいも策略もなかったと。本心だったと。
自分も同じ気持ちでした。思い、思われていると感じていました。裏切りの内幕を知ったあとでさえ。
心の通じ合った夜がありました。
そして、死んだ侍女と同じように自分がそれを口にしたとき、この人は笑顔の裏に、どんな本心を取りつくろったのでしょう。ひどく動揺したのではないでしょうか。また裏切られることを恐れ、怒り、悲しんだのではないでしょうか。
しかしかつてのような衝動はなりをひそめました。
目をそらし、ありとあらゆるおそらくは豊かな感情と強固な理性の下に本心を押し隠して笑ってみせました。
突き放して、優しくして、そして最後にもう一度強く突き放すことをこの人は選んだのです。
死んでしまえと、思ったならそうすれば良かったのです。できなかったはずはありません。突き飛ばし、遠ざけたのは――――生かすためだったように、思うのです。
すべては……自分の頭の中の出来事です。口に出して問えば、誇大な妄想だと、即座に切り捨てられるかもしれません。
しかし、何もかもが根拠のない確信だとしても、今ここで自分がすでに死んでいないのが、何よりの証明ではないですか。
その人の赤い眼を、見つめ続けました。
「死ぬのはいやです。離れているのもいやです。おそばにおいてください。どうか、僕をあなたの侍女にしてください」
その人はただじっと、自分を見ていました。
聞いて確かめたいことは山のようにあって、しかし問うことはしませんでした。問いつめることは、この人を追いつめることです。それは自分やり方ではありません。
この人の誇り高さと、それがゆえの虚勢とを引き裂いて考えることはできません。無理矢理はがして残るのが、ずたずたになってもはや元の形を失った本心ではなんの意味があるでしょう。
長い沈黙のあと、その人は眼を伏せました。
「あれはいやだ、こうしろああしろと、少し見ないあいだに欲張りになったものだ」
感情を殺した声でした。
しかしおかしく思えて、ゆるむ口で、なるべくはっきりと答えます。
「あなたの、せいです」
少しうわずったかもしれません。
良いことも悪いことも。色々なことをここで学びました。知らなければ苦しくなることも、心を躍らせることもなかったでしょう。
その人の肩が少し揺れた拍子に、のびた髪がさらりとこぼれ落ちます。手をのばしたい衝動に駆られました。
「髪を……のばされたのですね。よくお似合いです」
城にいたとき、髪が同じ長さであることにひそやかな喜びを感じていました。今、同じ喜びが胸に到来しています。離れていた時間を物語るようにお互い長くのびた髪。
同時に影のような不安がよぎります。
「それは、あなたのためですか」
息を吸って、もう一度笑います。
「そうであればいいと思って、僕はここに帰ってきました」
髪を短く切る理由が暴虐な愛のためであるならば、長くのばすのがこの人自身のためであるように。
そう思ったとき、それは何よりも信頼できるもののように感じられました。嘘ばかりつく口も、ひ弱な手足も、臆病な心も信用ならないものです。しかしこの思いだけは確かで、誇らしくさえ感じられます。
どうか傷つけることなくこの人を満たしますように。
この思いが、自分の持ちうる何よりもすばらしいもので、この思いを向けるその人が、この思いをくれた人が、何よりも大切に思えました。
「そうか」
短い相づちが納得してのものかは、分かりません。どこかあきれたようにも、さもなくば観念したようにも聞こえました。
その人は深くうなだれ、自分の胸にひたいをあてました。ふれる部分にあたたかい花が咲きます。
「おかえり、ルディ」
低い声が花のひとひらのように、湖面に落ちていきます。波紋がおだやかに広がり、上澄みも
涙が出そうなのをこらえて、笑いました。
「ただいま帰りました、お嬢様」
その肩に、ルディは手をそえました。
たくさんの壷が並ぶ香茶室が、この上なく頼もしく見えました。ここならなんでも淹れられます。苦いのも甘いのも酸っぱいのも。侍女の帳面は元のように引き出しに入れられていて、そこからなじみの香茶を選びました。突然厨房を訪れたルディに料理番達は面食らったようでしたが、湯をもらうのに支障はありませんでした。薄切りのパンにハムとチシャをはさんだものも作ってもらいました。
はやる気持ちを抑えながら香茶を
ソファに座って、お嬢様は満足げにそれを飲み干しました。
胸がいっぱいになります。こみ上げてくるものに浮かされて、臆面もなく、お嬢様の姿を眺めていました。少し大人びて見えます。尊大さはそのままです。堂々としています。髪が長くなっても、女性らしくなったという感じはあまりなくて、むしろより凛々しくなったようです。
自然にゆるむ口元を、ルディは手で押さえました。小さく息を吸って吐いて、気を落ち着かせます。
自分にも同じような変化が起きていることを願います。背がのびました。今では顔の高さは同じくらい。それだけではなくて、この一年で経験したことが何かこの人の役に立つよう考えなければいけません。レトという人間で得たことを。
かつて欲した決意と覚悟が、ひそやかに胸の内に芽吹いていました。もはやどんな批判も
そばでお仕えできるなら、男の服を着た、ただの召使いでもかまいませんでした。あの気のいいおかみさんでさえ、ルディがワンピースを自分の体にあわせて作りかえるのにひどく不審げな目を向けていました。気分のいいことではありません。
でもこの格好をして、この人と同じものの見方ができるなら、それがいいと思いました。
一人で、笑ったりまじめな顔をしたり、おかしく映ったでしょう。お嬢様はルディに目をとめると笑いました。
「私の元にいないあいだ、いい子にしていたか」
ルディはあいまいに笑い返します。どうでしょう。嘘をたくさんつきました。
「どうした、答えろ」
ふと気付くとその声には耳を奪われるような含みがあって、ルディの頬は熱くなりました。何を聞きたいかは分かっています。しかしあまりこころよく答えたい事柄ではなくて、声をひそめます。
「言えばきっと、お笑いになるでしょう?」
「そうかもしれんな。だがそれを決めるのは私だ」
言いながら、すでに笑みを深くしています。
「私に二度、同じことを言わせるな」
三日月に裂けた赤い唇から白い牙がのぞく、ぞくぞくと背筋が粟立つような笑顔です。期待する心があるのを、否定はできません。する気もありません。
それがここへ帰ってきた理由の
だって今も、この人は黒い期待に目を輝かせているではありませんか。汚れのない清らかなお姫様の元に帰ってきたわけではありません。そして自分もまた、無垢ではありません。
それを強く意識せざるをえなくなった出来事がありました。
宿屋で、ご主人に裸を見られたことがあります。寝坊をして、ご主人が雇い主としての無遠慮さで断りもなく部屋に入ってきたとき、ルディは着替えをしていました。男同士ですから、別にそのこと自体はご主人は気にもとめませんでした。
ルディは大いに気まずく思いました。そういう経験があるので。背を向け、そそくさとズボンを履き、上着も着ようとしました。しかしご主人に呼び止められます。
「レト、どうしたんだ、そのあざは」
「あざ?」
背中に首を回して、しかし見えないのは当然です。鏡もありませんし。
「何かで打ったのか?」
「さあ……」
ここ数日のあいだにそんな覚えはありませんでした。
「きっとなんでもありませんよ」
色々な目に遭ってきましたから、あざの一つや二つ、あってもおかしくないでしょう。そう言えば受けた扱いのわりには大した傷跡が残っていないのは、自分の特質とやらによるものでしょうか。傷の治りが早いと言われました。
「ほら、このあたりだ」
別のことを考えている内にご主人は近づいてきて、ルディの背中に手をのばしました。親指の平で左半身の、骨の出っ張ったあたりを押しました。
雷が体を貫くような感覚がありました。
「痛くないのか?」
心配するご主人に首だけ振り返り、笑ってみせます。
「さあ、別に……大丈夫ですよ。すみません、すぐ行きますから」
ご主人が首をひねりながら部屋を出て行ったあとも、しばらくその場に立ち尽くしていました。覚えのある感覚でした。最後にもっとも自分を痛めつけたもの。その痕が焼きついていたとしても、不思議ではありません。
しかし自分の体に起こった反応こそは全く不条理なものでした。息を殺しながら見下ろします。股間がどうしようもなくいきり立っていました。ズボンを押し上げ、布地を張りつめさせています。
その場はなんとか気をそらして自分を鎮めたのですが、それ以来たびたび熱情が体をさいなむようになりました。とりたててきっかけがなくても、体の芯が燃えるように熱くなるのです。
耐えかねて、ある夜、寝床の中で横になりながら、いきり立つそれにふれました。もうそれを罰する人はいません。唇をなめ、ぎごちなく自分のペニスをなで回します。すぐに物足りなくなって、つかんだり、こすってみたりしました。次第に強く。力をこめて握り、先の丸みを形が変わるほど指で押さえます。
うめき声を呑みこみました。
とめどなく先走りがあふれ、手も
お嬢様と自分とのあいだには十分な距離があるというのに、壁際に追いつめられたような気分で、ルディは目をそらしました。
「自分で、その、してみたことはありますけど……うまくいかなくて」
心臓が熱く脈打ちます。胸を押さえ、逃げ道を探しながら、しかし
「あなたでないと、僕はだめなのですね」
「ははは」
案の定、声を出してその人は笑いました。思ったほど大きな声ではありません。しかしたいへん愉快そうです。
ルディはもじもじと体を揺らしました。とても恥ずかしくて、しかし逃げ出したい気持ちにはなりませんでした。ただ、自分から言い出すつもりもありませんでした。まだ日も高いので。お嬢様には仕事が残っているでしょう。
香茶のポットが
「こちらへおいで」
その声に一応、口答えもしてみました。
「お仕事は?」
「これが
とポットを指します。
なるほどそれならば、むしろ早くすませてしまわなければ――と奇妙に自分に言い聞かせて、ルディはお嬢様の足元にひざをつきました。
熱になかば浮かされながら、スカートをたくしあげます。以前のものと違って足元まであるそれは、腰のまわりでずいぶんもたつきました。ふとももまでさらすのが精一杯です。いくえにも折り重なったスカートの下で、股間の一点はひだの中ですでにふくらみ起き上がっていました。
萎えていればその先端をスカートのすそから覗かせているはずですから――たぶん、勃起しているのはお嬢様にも分かるでしょう。
お嬢様の、革靴を履いた足がスカートの下にもぐりこむのを、ルディは食い入るように見ていました。見たことのない靴です。新品でしょうか。
まっすぐ進んだそれは、ぶら下がった睾丸を小突きます。
「あっ」
体がすくみます。冷たい靴先は無遠慮に睾丸を下から持ち上げ、揺すりました。あまやかな痛みに、頭の中がしびれていきます。
「ああぁっ」
跳ね上げられたときは、たまらないものがありました。睾丸が体に向けてちぢこまる瞬間、つまり射精を促されているようです。
「ひん――」
スカートの中にこもった匂いが、ときおりあふれ出ては鼻の奥をこすります。中は湯気を立てているのではないかと疑うくらい、濃密な匂いです。
睾丸への刺激だけで、ふれられたわけでもないのにペニスはほとんど限界まで立ち上がっていました。睾丸を離れたお嬢様の足が根元から押さえ、組み敷こうとするのにも反発します。
望んだ瞬間だというのに、跳ね回り、だだをこねるようです。同時に革の表面に自身をこすりつけもするので、ルディはうめきました。
「ぅん――っ、あの、あっ、はぅ――――あぁっ!」
無理矢理に踏みつけられます。じゅうたんのかたい毛が表面をかきました。
「ああぁあああっ」
踏みにじられ、汗がどっと吹き出ます。痛みと快感が理性を一気に打ち砕きました。のどを
「は――あっ、あぁっ、あ――あーっあーっ」
手加減されているのは分かります。本当にその気になれば、踏みつぶすことだってできるでしょう。簡単に。喜々として。
それを想像すると、異様なことに、神経はますます高ぶりました。
「お嬢さ――もっと――強く、してくださ――」
気付けば口は勝手に、さらなる責め苦を懇願しています。自身の言葉にあおられてペニスはうちふるえ、そしてすぐさまお嬢様の足がペニスを、敏感な亀頭をじゅうたんの上でねじったので、ルディはあられもない悲鳴をあげました。
「あーっ!!」
靴のかかとが、亀頭を押しつぶしてころがします。先走りが射精のように、勢いよく何度も押し出されました。
「ありがと――ございますっ、きもちいいですっ、きもちい――っ」
声に出して自分を興奮させるすべをあっと言う間に覚えてしまって、ルディの口はほとんど意識することなくやたらに動きました。
「もっと――きもちいいですっ――はぅっ――出そ――出そうですっ」
お嬢様は身を乗り出して、ルディの顔を覗きこみます。
「ずいぶんと口が達者になったな。だれに習った?」
「あっ――ちがいますっ、ぼく、だれにも――ほんとに――っ」
反論しながら、自分がとろけたように笑っていることを自覚します。お嬢様の仕草の一つ一つが、言葉の一節一節が恵みの雨のように降りそそぎます。骨まで溶かす悦楽の雨です。
「僕は、僕には、あなただけです――」
その海におぼれてしまおうと、心をゆだねますが、最後の瞬間はまだ遠いように思えました。昂揚は最高潮を迎え、もっとも甘美な瞬間を切望しているのに、うまくたぐりよせることができません。
「ああ本当に、口が素直に回るようになった」
お嬢様は満足そうです。
「しかし体の方はこの一年でまたこらえ癖がついたか」
「ごめんなさいっ、早く――早く、出してしまわないと――」
かなり久しいせいか、早く終わらせなければというあせりが空回りするのか、それとも――――もっと長く味わいたいと、どこかで考えてしまうのか。
かつて自分を貫いていたピアスが今はないのが悔やまれます。あの無機質な金属の輪が自分の内側をえぐる瞬間を思い出します。首からのびた鎖がいやらしい音をたてるはずです。
そして自分の中のどろどろとした塊を吐き出したあとは――お嬢様の靴が――すでに先走りで汚れたそれを、さらに白く染まるのを思い
舌を出して
お嬢様が優しく笑い、頬をなでます。
「あせる必要はない。私の元にずっといるのだろう?」
「はい――っ」
耳をくすぐる手に頬をよせます。
その喜びの中で、果ててしまおうと意識を高みに押し上げた瞬間。
扉をノックする音が聞こえました。
「入れ」
お嬢様が答えます。
それをさえぎる言葉がどういうわけか浮かびませんでした。見つめる前で執務室の扉が開きます。
「失礼します」
現れたのは、まだ年若い、家臣の一人でした。顔を知っています。この城にいたとき、言葉を交わしたことこそないものの、お互いに見知った相手です。
彼は執務机の方を見て、しかしそこにだれもいないのを認めるとすぐにソファの方へ首を回しました。彼の目は何をどう捉えるべきか、迷ったのでしょう。一瞬ひどく揺れました。
ソファにお嬢様が座っています。その足下に、ルディがひざをついています。たくしあげたスカートのすそから露出したものが、お嬢様の靴の下に踏みにじられ――
目が合います。
その瞬間、お嬢様の足がペニスをいっそう強くねじりました。
「あーっ!!!」
彼の見ている前で、ルディは絶頂しました。白濁が勢いよくほとばしります。じゅうたんに、靴に、ソファにまで。
彼はばっと顔を赤くすると、声もなく部屋を走り出ました。
「あーっ! あー! あーっ、あーっ」
それを横目に、かまう余裕もなく、口を開け放ってあえぎます。体の奥底から熱いものが敏感な内壁をこすって飛び出して行きます。今まで溜めていたものを全部吐き出します。
お嬢様を見上げていました。お嬢様もルディを見ていました。微笑んでいました。
長い射精がようやく終わってからも、荒い息を整えるまでにはしばらくかかりました。体中が汗ばみ、服がまとわりつきます。
どっと体の力が抜けました。浅く拍動するペニスからそっと離れたお嬢様の脚にもたれかかります。ひざにひたいをあてます。
幸せでした。
目をつむって考えます。
まだ昼間です。夜になれば、また時間があります。そうしたら、そばにいないあいだ、お嬢様に何があったか聞けるでしょう。自分が何を見て何を学んだか、話せるでしょう。たくさん聞きたいことと、話したいことがあります。時間はたくさんあります。これから先ずっと。
「ずっと一緒に――おそばにいさせてください」
胸の前で両手を握りしめると、ルディは身をかがめ、その靴に口づけました。