閉幕

 季節は冬になりました。そろそろ初雪が降るでしょう。空は毎日のように重たい雲に覆われ、青空が見えるのはわずか。厳しい季節です。夜明けはうんと遅くなり、鐘が鳴ったあとしばらく経ってもまだ外は薄闇に包まれています。
 廊下を歩くあいだに手足をにぎったり開いたり、よく動かしておきます。着替えのときに冷たい手をしていると心配されますから。
 ろうそくをかざしながら、銀盆と水差しなんかを持ってお嬢様の寝室に向かいます。さて今日は、どんな髪型にしようかしら。お嬢様の長い髪を結うのは毎日の楽しみでした。鍛錬のときは邪魔にならないよう簡単にくくることが多いのですが。編み込みにしてみましょうか。
 意外なことに――そう言ってしまうと無礼かもしれませんが、少なくともルディは驚きました――女らしい髪型というものを、お嬢様は不服に――と言うよりむしろおそらくは、気恥ずかしく――思っているようでした。生まれてこの方ズボンしか履いたことがないなら、それも仕方のないことかも知れません。
 そうせざるをえなかったという事実に対する、反発心もあるようでした。無理にさせると、だいたい不機嫌になりました。あからさまに当たり散らすわけではなくて、むしろはた目からは非常に機嫌良く笑顔で、裏腹にとんでもない迷惑をまき散らすのです。魔術師の一団があるかどうかも分からない北の山から天にかかる桟橋を探しに行かされそうになったこともあります。
 それはさておいても――本当に機嫌がいいからと言ってまわりに害がないわけでもありませんし――お嬢様を不快にさせるのは本意ではありませんから、ほどほどのところでルディはとどめていました。
 使用人廊下から、表廊下に出ます。寝室の前に立ち、その扉をルディはノックしました。返事がありません。少し待っても、もう一度大きくノックしてもなんの返りもないので、部屋を覗きこみました。暗闇の中から小さなうめき声が聞こえます。目が覚めてはいるようです。
 中に入って、カーテンを開けます。冷気がさっとすべりこみます。空はようやく白み始めていました。まだ星はいくらか居残っています。
 さて、お嬢様もいまだにベッドの中でした。寒いせいではないでしょう。昨夜、久方ぶりの親しいお客様があって、内々ではあるものの酒宴を設け、遅くまで語り合いました。今こうしてぐずぐずしているのは夜ふかしと深酒と、どちらだけのせいとも言えないでしょう。
 ベッドのわきの台に荷物を置いて、話しかけます。
「もうお時間ですよ、お嬢様」
 そりゃあ今この城で一番偉いのはお嬢様ですから、そのお嬢様が「今日は起きたくない」と言ったら城中のカーテンを閉めたままにだってしておけるのが道理というものですが。
「遅くなると、サヒヤさんに怒られますよ」
 どういうわけか、このお城にはお嬢様に意見できる者が何人かいるのでした。お嬢様自身もそれに腹を立てることはなくて、むしろ心地よく受け入れているようです。
 それでも返事はありませんでした。
「どこかお悪いんですか?」
 ベッドのふちに腰かけ、顔を覗きこんでみます。顔色は悪くはありません。しかししばらく見ていても、起きる気配はありません。
 閉じられたままのまぶたをふちどる黒く長いまつげが、朝の光を受けてきらきらしています。
 その寝顔に向かって、ルディは身をかがめました。お互いの顔が間近に迫ったところで目をつむります。
「ん……」
 息を止めて、ふれあった部分の熱を意識します。
 お嬢様は小さく息を呑んだようでした。
 充分と思えるだけ待ってから体を起こし、ひたいをなでます。
 熱はないようです。
 ひょっとして本当に具合が悪いのなら、エヴァを呼ぶべきかと考えたのですが。宿屋のぼっちゃんが夏風邪をひいたときは、もっと燃えるように熱くなっていました。
 迷う内に、お嬢様が目を開けます。いぶかしげにひたいをなでました。
 少し安心して、ルディは笑いかけます。
白湯さゆでもお持ちしましょうか。はちみつと塩を入れて」
 二日酔いにはこの飲み物が効くと、習いました。
「……そうしろ」
 空中に向けて、お嬢様は指をさしました。
「はい、ただいま」
 元気よく答えて、ルディは寝室を出ます。


 厨房には早くから人がいました。薪の燃えるにおいがします。熱い湯を、ポットにそそいでもらって、とっておきのはちみつをひとさじと、塩をひとつまみ入れました。帰る頃には飲める程度の温度になっているでしょう。
 寝室に戻る道のりで、使用人廊下から表廊下に出ようというとき、ふとルディは足を止めました。
 壁に、大きな姿見が立てかけてあります。以前にはなかったものです。だれもが自分の格好を確認できるように、使用人達がお金を出し合って買ったのだそうです。
 それを覗きこみます。さっきかがんだ拍子に髪が崩れていないでしょうか。正面から見える限りには、後頭部の蝶結びはちゃんとまっすぐになっているようです。気をつけておかないと、いつのまにかほどけたり、たてを向いていたりします。
 たまにまとめ髪もします。しかしまだ慣れていません。髪を丁寧にまとめることにも、まとめ髪をした自分にも。しばらくは結い上げたり下ろしたりしてもいいでしょう。お嬢様もまだ、おろし髪のままでいるつもりのようですし。
 服装もさっと確認します。おかしくはありません。足元まであるスカートと肩にふくらみのついた長い袖。前にここで着ていた服のような華やかさはありませんが、ちゃんとしています。
 首回りを見ると、最近そのあたりが筋張ってきたようです。いくぶんか男らしく。えりを高く立てて隠すことを考えます。
 男であることを隠し通すつもりはありませんが――ちぐはぐなのは見苦しいでしょう。お嬢様は男の格好をしても似合っていますから、同じくらい、違和感のないようにしておくべきです。侍女がみっともない格好をして主人に恥をかかせてはいけません。
 首回りをなでて、不意に、首輪がないのが心もとなく思えました。自分を縛り、律していたもの。
 その感触が懐かしいと言ったら、あの人はあきれるでしょうか、笑うでしょうか。もう一度首輪をくれるでしょうか。
 (大丈夫、必要ない)
 鏡の中の不安げな自分に、ルディは笑いかけました。
 ここでの暮らしが地獄のように思えたこともあります。地獄のような痛みも知っています。同じような目に遭うことが、二度とないと保証されているわけではありませんが。ここは天国なように心安らかな場所ではないにしても。
 自分は望んでここにいます。仕方なしにではありません。それはどれほどか幸福なことでしょう。
 さあ急いで寝室に帰らなければ。たぶんもうお嬢様は目を覚まし、ベッドの上に体を起こしているでしょう。
 ポットを持つ手に力をこめて、ルディは鏡の前を立ち去りました。